「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
1「上昇婚批判」と「女をあてがえ」論は、何故生まれるのか
「男性性」による競争社会から降りられるか?
さて、ここまでの三回で、ネットでよく話題になる「男のつらさ」「男性の被害者性」を示すと思われるネットでの俗語である、「弱者男性」や「オタク(差別)」という言葉を検討してきた。
今回は、少し話を戻し、男性学で多く議論になる話題である「男のつらさ」の原因を考え、それが何故生まれるのか、降りられるのか否かを考えていきたい。
「男のつらさ」が生まれる原因は、男性の競争的な性質、覇権を争ってしまう性質、新自由主義や家父長制のせいであると議論されることもある。そして、「弱者男性」は、「強者男性」たちに立ち向かい、男のつらさを生み出すこのシステムそのものの打倒を目指すべきだという意見がある。
筆者はそれに共感する。一方で、男性の当事者として、それが簡単ではないことも、よく分かる。男性学やフェミニズムがそのような結論を出すこと自体に対する反発も、ネット上では多く見る。反発する男性たちは、降りられない理由は女性の側にもあると指摘し反発する。その考え方は、ネットで頻繁に見かける「上昇婚批判」に顕著に現れている。
まずは、この「上昇婚批判」や、それに関連する「女をあてがえ」論や、デートの食事を割り勘にするべきかなど、ネットでよくある主張と、それに対する反論のパターンを確認するところから、今回の議論を始めたい。
「上昇婚批判」と「女をあてがえ」
「上昇婚批判」のロジックは、極めて簡単である。女性が経済的・社会的地位を向上させ、男性と平等に近づく一方、女性が自分よりも地位の高い男性を伴侶に求めたり性的魅力を感じる傾向がそのままであるならば、男性がより余ることになるということである。
経験的にも、お金や社会的地位が「モテ」と関係していることは言えるが、統計で見ても、生涯未婚率は年収と強く相関している。『2022年就業構造基本調査』を元に記した荒川和久の記事「2022年版『男女年収別生涯未婚率』公開/率だけではわからない生涯未婚人口のボリューム層」によると、年収250万円未満の男性の生涯独身率は50%近くであり、そこから年収が上がるに連れて未婚率は低下し、年収1000万円を超える辺りでは5%近くである。社会の中で覇権的地位であることの指標であるお金が、伴侶の獲得や生殖の成功に非常に強く関わっていることは、疑い得ない。
恋愛し、結婚し、家庭を持ち、子供を残すためには、過酷な競争で勝ち抜き、覇権的立場に立つ必要があるというのが、統計的な傾向として言える。たとえばお金がなく「弱者男性」であっても、伴侶を得られるならば、このような競争はしなくて良いし、男性性から降りられるのだが、実際にはそうではないので降りられない、だから、この構造を作り上げている責任は男性だけではなく、女性にもあるというのが、ネットでの論調である。
男女平等が近づいたなら「上昇婚を辞めるべきだ」という説には、一理あると思う。社人研2024年推計「日本の世帯数の将来推計(全国推計)」によると、2020年の男性の生涯未婚率は28.3%で三割近く、共同体の再生産が危機に陥っている状況にあるのは確かである。より一般的に言い換えるなら、社会的地位や経済が平等に近づく一方、エロティック・キャピタルやアテンションエコノミーや性愛の領域などは不平等なままであることへの意義申し立てだと言えるだろう。デートや婚活などの食事代を公平に負担するべきである、という意見も、そのバリエーションの一つだと思われる。そのような「平等」の再検討は、議論していく価値のあることだろう。
とはいえ、「上昇婚批判」の極端なケースとして、女性の人権を無視して「女をあてがえ」という議論になってしまうと、問題がある。「女をあてがえ」とは、極端な場合、皆婚時代のように、「弱者男性」「非モテ男性」でも結婚できるように、女性の意志や人権を剥奪してしまえということを意味する。マイルドな場合は、見合い結婚などをしやすくするべきだという意見である。
筆者は、女性の自由や人権を無視し、結婚や恋愛をしやすくするために女性の経済的・社会的地位を下降させ、従属的地位に貶め続ける構造を維持しようとする意見には、反対である。昔の映画や小説などを読めば明らかであるが、貧しい時代には女性は生きていくために身体を売ったり、不本意ながら結婚し従属し、生きていくために奴隷的な境遇にすら甘んじなければいけなかったのであり、そんな境遇を一方的に女性に強いるなどというのはあってはならないし、その点では上野千鶴子の主張に筆者は共感する。共同体のために個人を犠牲にしていいわけではない。国家が女性の性と生殖を管理しているディストピアを描く小説群に典型的に示されている怒りを参照するまでもなく、そのような共同体は、存続する必要がないのだと、犠牲にされた者たちは判断し、破壊と転覆を目指すだろう。――ここには、共同体と個人を巡る価値観の争いが潜在的にあるのだが、それは今は置いておき、「男がつらい」原因から降りられるかどうかに話を戻す。
ありていに言えば、男性性を否定し、競争から降りても惨めな人生が待っているだけであり、恋愛も結婚もできず、家庭もなく、孤独に、馬鹿にされて生きていくことになる、というのが、反発している男性のリアリティである。たとえば、地方で、高卒で、肉体労働の仕事などをしている人たちを想像したときに、そのリアリティを否定することは、筆者には難しい。そして、男たちがつらい仕事を一生懸命頑張る動機にも、そうなってしまうことの恐怖があるのではないか。
それに対し、では、女性をケア要員やパートナーにせずとも、男同士でケアしたり、シェアハウスに住んで疑似家族を形成したりして、結婚や子供がいなくても、「おひとりさま」でなんとかやっていけばいいではないか、降りて生きる道もあるではないか、という提案がなされることもある。筆者は論理的に賛成するし、そのような実践の試みにも興味を抱いているが、実際には難しいのではないかとも思われる。トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』などで、男性は関係性を構築し維持するのが下手であると論じられている。それがどうしてなのか、変えることが出来るのかなどは、後に検討する。
それらの意見に対し、「本能」を持ち出して反論する男性たちもいる。恋愛や子孫を作りたいというのは、生物としての本能であり、それが満たされないことは実存に(社会構築的なものではないような)ダメージを与えるのだと。さらに、親密性や愛着を求める本能が存在し、その飢餓は精神に大きな問題を引き起こすのだ、と。
「オタク差別」の中で、フィクトセクシャルとしてのオタクの話をしたが、その中には、現実の競争から降り、恋愛からも降り、二次元や三次元の推しなどに精神的に依存し、愛着や親密性を感じて生きている者がいるのだと推測される。表現規制をしようとするタイプのフェミニズムと衝突している者たちの中には、二次元の存在を奪うことは、恋愛や競争から降りようとしている自分たちの生き方への否定であり、男性性や恋愛から降りることを勧めるタイプのフェミニズムと矛盾しているのではないか、という意見が根強く存在している(フェミニズムと言っても、色々な派閥や主張があるので、それらを一枚岩だと錯覚しているが故の反発ではないかとも思われるのだが)。
そのように、本能と進化が、男女を巡るネットの議論では、出てきやすい。
本能か社会構築か
とはいえ、この意見を聞いて女性が「はいそうですか、社会の持続のために、上昇婚を辞めて、弱者男性と結婚します」とはなりにくいだろう(一応当事者として言っておくが、筆者の妻は結婚したときに妻の年収の方が遥かに多かった。そういうケースもある)。なぜ、「弱者男性」みたいな男たちと付き合ったり結婚して人生を犠牲にしなければいけないのか、という反発を多く見る。
女性はなぜ「上昇婚」志向であり、「下方婚」せず、弱者男性たちを嫌悪するのかを説明する際に持ち出されるのが、本能である。進化の結果として遺伝子によって身体に刻み込まれた本能の性質によって、女性たちは、地位の上の存在に性的・恋愛的に興奮するのだ、という説明がなされる。それは、通俗的な恋愛指南書やナンパ術の説明でも多く見られるもので、男がモテるためには「余裕」「格上感」が重要だとされる(それは覇権性の指標である)。女性は強く優秀なオスの遺伝子を欲するし、かつて人類やその祖先が過ごしていた過酷な自然環境や群れの中においては、生命力と社会的地位の高いオスに気に入られることが生存に直結していたからである、というのが、ネットで良く見る進化心理学的な説明である。
それに関連して、「負の性欲」という言葉も、ネットではよく使われている。それは、女性から見て魅力を感じない男性たちから興味を向けられたときに女性が感じる拒否感・嫌悪感などのこと、端的に言えば「キモい」「生理的に無理」と感じる感情のことを指す。ネットでの「非モテ」「弱者男性」を自認する者たちは、自分たちへの女性からの批判や嫌悪を「負の性欲」だとして、本能由来のものと理解している。
御田寺圭「「負の性欲」はなぜバズったのか? そのヤバすぎる「本当の意味」」(『現代ビジネス』)は、そのようなネットにおける男女論的な説明に、進化論と本能、性淘汰を用いる議論の典型なので、引用してみよう。性淘汰とは、ここでは、女性はより良い遺伝子を求めるので、多くの場合はオスは子孫を残すために競争し勝ったりアピールしなければいけないということである(性淘汰で勝つ者は、必ずしも生存の観点で適しているわけではないこともある)。
「人類社会においては概ね、『負の性欲』とこれに起因する一夫多妻制(そして、それがもたらす強烈な性淘汰)は、コミュニティの安定的な存続のためにある程度抑制されていた」のだと御田寺圭は言い、こう警鐘を鳴らす。「現代社会はふたたび『一夫多妻制』への道を歩もうとしているのかもしれない。『キモい』存在は排除してもよいという『先進的な倫理観』に基礎付けられた、新たな一夫多妻制──すなわち、一生のあいだに多数の女性と性的関係をもつ男性たちと、一生生殖の機会が得られない男性たちに分かれる『非同期型一夫多妻制』の実現へと。/社会は激しい動揺を見せるだろう。そのような社会に協力しない、異性獲得競争から降りたMGTOWと呼ばれる男たちや、女性の人権を擁護する一方で弱者男性の淘汰を是認する社会への反撃を企てるINCELと呼ばれる男たちは、動揺の端緒なのかもしれない。/人類の歴史という『攻略本』をひも解けば、そこには『敗れた男』を多く抱える社会は存続できなかった、と記されている。『勝者総取り』の社会においては、社会を維持するための協力を敗者から引き出すことがきわめて困難になるばかりか、彼らには社会を破壊するインセンティブさえ生まれてしまうからだ」
恋愛も結婚も経済も「勝者総取り」になっており、インセルや弱者男性たちが、そのような社会を破壊するインセンティヴを持ち始めているという問題意識においては、筆者も同意する。
だが、このような進化論的な説明は、本当に正しいのだろうか?
産業構造と支配・ヒエラルキーの変動
彼が引用しているWIREDの記事「新石器時代に生殖できた男性は『極度に少なかった』」には、このような記述がある。「この時期に生殖を行った女性17人に対して、自身のDNAを伝えることができた男性はたったの1人」という男性が子孫を残せず淘汰される過酷な状況は、新石器時代における農耕革命で、富の蓄積と社会的ヒエラルキーの形成によって生じたと推測されている。「これらの文化的な変化が、男性に対してより競争の激しい環境をつくり出した可能性があるという。つまり、この新しい社会では、一部の男性が他の男性よりも著しく大きな富を手にした可能性が高いというのだ。また、車輪や馬、ラクダによってもたらされた移動手段の向上も、男性主導による他共同体の征服などにつながり、特定の地域における男性間の生殖競争を激化させたかもしれないと考えられている」。
つまり、男性が遺伝子を残せず「一人勝ち」になったのは、「本能」でも進化論的な自然淘汰でもなく、社会システムの変化なのである。この記事を信じるなら、むしろ、狩猟採集時代のような「原始的」で「本能的」で、自然淘汰が著しい時代の方が、男性の競争や選別は過酷ではなかったのだ。
そして、御田寺の言う「人類の歴史という『攻略本』をひも解けば、そこには『敗れた男』を多く抱える社会は存続できなかった」も、誤りであることが分かる。狩猟採集時代の方が「敗れた男」は少なかったが、現在存続し繫栄しているのは、農耕革命以降の、ヒエラルキーと不平等のある社会なのである。階級制や奴隷制などを想定すればわかるが、「敗れた男」が大量にいても維持できる社会制度はいくらでもありうるし、実際そうなってきた。おそらく「皆婚」に近い状態こそが、二〇世紀の平和と繁栄を謳歌できた一時期の例外なのだろうと思われる。
IT革命以降の産業構造
このような進化論を用いた説明は、おそらくは科学的・客観的な事実ではない可能性が高い。進化論を用いた説明には、特有の罠があるのだ。進化論や進化論的説明の科学的正しさとは別に、現代の社会の価値観やあり方を説明し納得するための「物語」として、つまり「神話」や「宗教」や「哲学」に変わる、「こうなっていること」を説明し納得し正当化するための心理的装置として機能している部分があるのだ。
進化論を使った説明は納得しやすいが、人類が別の社会システムや価値観を採用している場合に説明が出来ないという反証が存在する。進化論的な説明自体が、新自由主義時代の「物語」として流行しており、客観的な事実とはズレのある可能性が高いのだ。もちろん、「競争」や「選別」の過酷さが、本能や自然の厳しさによる部分も確かにある。しかし、農耕革命前後のことを考えると、明らかにそれだけで説明可能ではない。むしろ、産業構造や生産体制の変動に随伴する社会構造の変化の方が、大きくそこに影響していないだろうか。
では、ネットでの男性たちが求める「皆婚時代」はどのような時代で、今はそれとどう違うのか。『男女共同参画白書 平成25年版』によると、1950年の生涯未婚率は1.5%であり、1990年頃に5%近くになり、その後急上昇している。これが2022年だと、生涯未婚率は、男性28.3%、女性17.8%にまで急上昇している。その背景にはバブル崩壊と、インターネットの普及、そしてIT産業の発展がある。つまり、産業構造の大きな変化と、それに対応する政治経済システムの変容が存在していたのだ。
井上智洋は『純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落』で、IT・AI時代においては、財がコピー可能であるから、「一人勝ち」現象が起こり、「IT・AIによる中間所得層の没落」(下、p48)が起こると述べている。車だったら、作るのに工員をたくさん正社員などで雇う必要があったが、ソフトウェアやプラットフォームではそれが必要がない。だから、Googleなどのエンジニアが信じがたい年収を得ており、一方ラストベルトなどでは工業に従事していた人間たちが失業しているのを思い起こせばよい。
井上は、AI時代に起こる産業革命(第四次産業革命と呼ばれている)を、農耕革命と対比する。「実際には狩猟社会から農耕社会への転換の過程で、一部の人間だけをエンパワーして支配者として君臨させ、膨大な数の貧しい被支配者を生み出した」(p xi)と述べている。この「支配」が、配偶者を得て子孫を生ませる能力と結びついていることは、言うまでもない。生殖を含む「競争」の強弱は、生産技術・産業体制・権力構造の変動と随伴していると考えるのが自然だろう。
だとすると、過酷な競争を生み出し、「男のつらさ」を生み出しているのは、必ずしも進化や本能によるものではないことになる。そして、同時に、上昇婚志向を持つ女性がこの構造を創り出しているわけではないとも言えるのではないか。むしろそれは、「一人勝ち」を生み出す、IT時代の産業構造によるものであり、それと随伴している政治・経済体制である新自由主義の生み出しているものではないかと思われる(竹中平蔵の書籍などを読むと、知識や情報が産業の中心に移行する時代を見越して社会を変化させ、経済の仕組みなどを変えようとしていたことがよく分かる)。
男性が「淘汰」され、パートナーを見つけられなくなる「つらさ」の背景にあるのは、ITが産業の中心になり、「一人勝ち」が加速していくこの産業構造と、それを推進する新自由主義の政治・経済思想が存在しているのだと推測される。
2 IT・AI時代の覇権──「男性性」とは何か
競争・規則・法を重視する「男性性」と、協調・ケア・共感を重視する「女性性」?
しかし、そのような「新自由主義」こそが、男性性の産物ではないか、男のせいではないか、という意見もあるだろう。第2節では、「男性性」と「新自由主義」や「戦争」などを結びつける言説について、検討してみよう。
たとえばファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理』でこう書いている。「ネオリベラリズムは、男性的と言える寡占支配による金融世界の展開だけにとどまらない。それは、拡張主義であり、政治的戦術であって、容赦のない市場合理性に、権威主義的な国家主義が一体となって付け加えられる」「アメリカを起点とする現在の世界政治は、グローバルで全体主義的な市場合理主義によって構築される。それは、あらゆる領域、経済だけでなく、政治、社会、そして親密性の領域にも影響を及ぼす」(p89)。
そのような合理性が個人に内面化され親密性の領域まで侵した結果が、婚活やマッチングアプリ関連の悲喜交々ではないかと思われる。そして注目したいのは、新自由主義、支配、拡張、合理性、権威主義などが「男性的」と呼ばれていることだ。それに対比される「女性的」ものとは、共感や親密性に関連する「ケア」である(★1)。
たとえば、それはこのように言及される。「彼女たちの行動は、公的な場や個人の成功という価値を実現しないが、主体のあいだの社会的絆、感情をともなう相互援助の絆の形成にとって重要である。ギリガンによれば、男性が想像力を個人の成功に集中し、女性が愛着、子供の世話、教育に専念するのは、それが性別化されたアイデンティティに結びついているからだ。男性は、いっそう、自分を個人として構築することに関心がある。男性は、競争、規則、法を重視する関係を形成し、他者との関係における感情に距離をとろうとする。社会学的には、男性は、個人の自律や感情における独立を重視する行動をとる。他方、女性は、他者と結びつく関係にみずからを見出す。女性は、既定のコンテクストにおいて他者の立場になる力がある。(……)女性は、権利ではなく責任をめぐる対立を経験する。男性は、正義の原則によって非人格的で論理的な解決を追求する」(p37)
「男性性」について、コンネルの『マスキュリニティーズ』における意見も参照してみよう。こちらは、男性性と新自由主義を結びつけるよりも遥かに激越な事象との関連を主張する。コンネルは「(覇権的)男性性」を、戦争、軍隊、科学、植民地主義、帝国主義、制度、秩序などと結びつけているのだ。少し長いが、引用してみよう。
「ヘゲモニックな男性性が支配している制度的秩序の内に長期的傾向として存在しているのだ。これらの傾向は、世界的規模での軍事技術による危険性の増大(少なからぬ核兵器の拡散)、長期間にわたる環境の破壊、そして経済的不平等の拡大を生み出しているのである。競争的で優越志向の男性性を成功裏に維持するということは、世界秩序の中心的な制度において、ここに例示したようなそれぞれの危機傾向をより危険なものにし、よい方向への転換をさらに困難にしているのである」(p295)「暴力は、今日では、合理性と結びついてきたのである。それは、組織をめぐる官僚的な技術と、兵器・輸送分野での絶え間のない技術的進歩をともなっている」「武器のとんでもないほどの暴力性と官僚的に合理化された暴力を集団的に用いることにより、十九世紀の植民地戦争において、ヨーロッパの国家と入植者はほとんど無敵の存在になった」(p264-265)「二十世紀の半ばより人間社会が直面している最も緊急な問題は、核戦争の再発の防止である。これまで核戦争の事例はただ一度だけ、一九四五年に日本に投下された原子爆弾である。その時、核兵器の殺傷能力は、大編成の空軍による危機以上のものではなかった。今では、核兵器の蓄積は、人間を絶滅させるまでにいたっている。しかもその核兵器は、戦争でしか使われる見込みはない」(p350)
というように、植民地支配や戦争、軍事的エスカレーション、核戦争による人類絶滅の危機に「男性性」は深く結びついているとされる。しかし、なぜこの性質が「男性」と結びつけられているのだろうか。それは、ジェンダーステレオタイプではないのだろうか。どうして、これらが「男性」の罪となるのだろうか。このコンネルの意見を読んだ男性の中には、男性性が「原罪」であるかのように感じ、自尊心や自己肯定感を失い、罪悪感や加害者意識で憂鬱になる者もいるだろう。
男女の脳の性差は存在しているのか
そもそも、どうしてこれが「男性」と結びつくのだろうか。ここで挙げられている「男性」の性質は、どうして存在しているのだろうか。それは、生得的・生物学的な由来を持つのか、それとも社会的に構築されたもので文化や教育によって変え得るものなのだろうか。
それを考えるために、比較的最近刊行された、京都大学大学院准教授である森口佑介の『つくられる子どもの性差』を参照してみよう。本書では、世界の様々な研究をメタ分析し、性差は生得なのか社会的に作られているのかを丹念に検証している。男女の脳の差は非常に小さく、男女差よりも個体差が大きく、統計的に優位な能力差があるところも限られている。脳梁の太さが違うから、脳の大きさがちがうから、右脳優位左脳優位、みたいな説明を私たちはたくさん聞いてきたが、自然科学的な研究結果からすると、そうは言えないらしい。
ただ、わずかな性差が見られるものも確かにある。結論を先に言えば、このわずかな「性差」が男女の差異の「徴」となり、上記の性質が「男性性」と結びつけられたのだと推測される。差異が優位に存在するのは「空間認知、言語、攻撃性、学力」(p11)である。この「差がある」ところが、先に述べたような「男/女」の性質の差、もしくは、その差をジェンダーと対応させようとする社会的通念に関係しているのだと思われる(★2)。
科学的にしっかりとしたエビデンスがあると言える男性の方が得意な能力は、空間認知、特に心的回転の能力と、数学である。逆に、女性の方が得意な能力は、言語である。その差を生み出す理由のひとつ、生物学的な根拠として「男性ホルモン」、特に「テストステロン」(p79、80)の影響がある。テストステロン濃度は、心的回転の能力と相関している。そして「生後間もないころのテストステロン濃度が高いと、コミュニケーション能力の発達や言語発達が遅いという報告がなされてい」る一方、「女性ホルモンの濃度は、それらの発達を促進する可能性が指摘されてい」(p102)る。胎内において、男児の場合は、男性ホルモンのシャワーを浴び、その結果として脳の発達の仕方のパターンが変わるというのだ(だから、染色体や生殖器が女性であっても、胎内においてテストステロンに多く晒された場合、男性的な脳になる)。
プランクスレートではない――子育ての経験から
森口の議論を参照すると、個人個人での差が、ジェンダー差よりも大きいという大前提で、あくまで統計的な傾向の差として、男女の性差はあるようである。極端なジェンダー論者の中には、男女の差は生殖器の差だけだ、という者もいるが、それはおそらく実情に反している。
たとえば、おもちゃの好みの違いがある。男児は乗り物を、女児は人形などで遊ぶのを好むというのだ。それは社会的に構築されたものではないか、という可能性を森口は丁寧に検証し、どうも生得的な好みの差があるのではないかと論じている。
それは、筆者も子供を育てていて驚いたことで、一歳か二歳ごろの、おそらく自我や自己認識や「男らしさ」や自分への社会的期待などをそれほど意識していない筈の時期に、息子が電車やバス、恐竜などに強い興味を示し、保育園の行き帰りに踏切で何度も電車を見るハメになった。電車の図鑑も好きで、恐竜の名前もたくさん覚え、動物や恐竜の人形をたくさん欲しがり、集めることとなった。
筆者も妻も「男らしさ」「女らしさ」を押し付ける教育はしないように気を付けていたし、バレエを習わせたりもしていた。それなのに、鉄道や乗り物に興味を示し、恐竜のコレクションを集めて、戦わせ、『最強図鑑』などに興味を持ち、どれが一番強いかを競わせるようになった。そして、後には、ゲームのプラットフォームである『ロブロックス』で戦闘シミュレーションを行うようになり、五歳からは撃ち合いをするバトルロワイヤルのゲームにハマっていった(ゲームは、心的回転の能力と結びつきが多いので男性の方がハマりやすいのではないかと森口は推測している)。
子どもはプランクスレート(空白の石板)であり、教育によりそこに色々なものを書き込むことができるという説があるが、それは事実ではないのだろうと思えた。生得的な、発達の方向性・種のようなものは、あらかじめ埋め込まれているように感じた。様々な本を読んで調べても――教育における遺伝と環境の影響についての研究など――その考えは裏付けられることが多かった。
男性型の脳=「システム脳」──男性脳仮説
さて、ここで、筆者は仮説を提示したい。「男性性」と世間で呼ばれているものは、このような男性に統計的に多い脳の特徴の部分を「徴」として社会的に共有されたステレオタイプのようなものであり、統計的には生物学的な根拠もあるのだと。ただし、生物学的な男性が皆このタイプの脳ではなく、女性にもこのタイプの脳の人はたくさんいる。このラインで考えることが、新自由主義や支配や科学や戦争と、「男性性」を結びつけるひとつの根拠であると思われるからだ。
ケンブリッジ大学発達精神病理学科教授のサイモン・バロン=コーエンは『共感する女脳、システム化する男脳』で、アスペルガー症候群は極端な男性脳であるという仮説を述べている。
サイモン・バロン=コーエンは、男性の方に統計的に「システム脳」が多いことと、自閉症に男性が多いという統計的な事実を根拠に、「自閉症は極度な男性型脳(EMB : extreme male brain)」仮説を提示した。前掲書は、刊行が二〇〇三年と古いが、男女の脳のエビデンスのある性差については、森口の著作と大きく矛盾していないように思われる。
「システム化」とは、「システムを分析、検討し、システムのパターンを支配する隠れた規則を探り出そうとする衝動や、システムを構築しようとする傾向を指す。システム化がよくできる人は物事がどのように機能しているのか、どのような規則に従ってシステムが動いているのかを直感的に見抜くことができる。そしてそれによってシステムに対する理解を深め、次の展開を予測し、あるいは新しいシステムを作り出す」(p13)のだという。
一方、「共感」とは「ほかの誰かが何を感じ、何を考えているかを知り、さらにそれに反応して適切な感情を催す傾向である。相手が考えていることや感じていることをただ機械的に推測すること(これはマインドリーディングと呼ばれることがある)を共感とはいわない。推測するだけの能力ならサイコパス(反社会的な人格障害)と呼ばれる人々にもある。他人の感情が引き金になって自分の中にも何らかの感情が生じたとき、初めて共感するに至ったといえる。そしてそれは他人を理解したい、その行動を予測したい、相手と感情的な結びつきを持ちたいという動機で起きる感情的な反応である」(p11)と言う。
誤解が起きると困るので言い添えておくと、サイモンは、生物学的に男性・女性であるからと言って、このような性質があると言っているわけではなく、あくまで統計的な傾向である(★3)。
サイモンは「男性型の脳」の極端な形態が、自閉症(古い言い方におけるアスペルガー症候群を含む)なのだという仮説を提示する。彼らは「著しく低い共感能力と、平均的または特別すぐれたシステム化能力を持つ」のだが、「ほとんどが男性で、他人とは仕事をしているときしか話すことはなく、話をしても仕事に必要なことしか話さない。ほしいものを手に入れるためにものを言う、あるいは事実に基づく情報を伝えるほかはめったに口をきかない。(……)相手がどんなことを考えているのかを自分から考えることがない」「他愛ないおしゃべりに何の意味があるのか理解できない」「どんな問題でも自分で解決しようとする。いつも頭の中は目の前にある物やシステムでいっぱい」「システムを示されると、その根底にある規則性を見つけ出そうとする」「夢中になり、システムの細部に注意を集中させるあまり、まわりのことが何も目に入らなくなってしまう」(p232-233)。
筆者の父親は、大手の電機メーカーで働いていたエンジニアであり、ここに記されているような性質をまさに体現している。そして、妻によると、筆者もこのような性質を持っていると見做されている。東工大の学生にも、このタイプは少なくないだろう。
「男性性」=「システム化脳」の功罪
既に述べた、ファビエンヌやコンネルの考える「男性的」なものは、「システム」的な性質を持つのではないだろうか。科学は言うまでもなく、軍隊の階層性、法、統治のシステム、それから農耕、コンピュータなどもそうであろう。
マイケル・フィッツジェラルド『天才の秘密 アスペルガー症候群と芸術的独創性』、ジュリー・ブラウン『作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響』、岩波明『天才と発達障害』などによると、自閉症スペクトラム(あるいはアスペルガー症候群)を持っていた「天才」として、カント、ヴィトゲンシュタイン、アインシュタインなどが挙げられている。彼らがシステム脳的な性質を持っていることは、著作からも明らかである。電力システムを普及させたエジソンも発達障害であったと言われている。コンピュータの発明に深く寄与した、チャールズ・バベッジ、ジョン・フォン・ノイマン、アラン・チューリングもそうだろう。最近では、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクがそうである。
これは筆者の推測だが、法律、農耕革命以降の位階制や分業、貨幣経済などの社会システムも、システム脳的な持ち主によって発明され、発展してきたのではないだろうか。あるいは、価値の上下や序列のようなシステムもまた、そうなのではないだろうか。
もし仮に「男性性」「男らしさ」が「システム脳」的な性質のことを指すのだとしたら、それを完全に除去するのは難しいことになるし、「有害な男らしさ」だけを切り分け、恩恵だけを享受することも難しいのかもしれない。
というのも、この意味での「男性性」=「システム脳」の産物は、実際に人々をより多く生かし、幸福にし、支持されてきたのだと思われるのだ。それは決して、家父長制による洗脳だけではなく、生存や幸福という支持の基盤が存在していたように思われるのだ。狩猟採集から農耕時代になり、不平等は増したが、生産性が増え、生きられる人々は増えた。法などの支配は、部族などの争いを減らし、貨幣経済は交易を促進しただろう。電気は我々を冬の寒さから守り、夜を明るく照らしてくれる。
その同じ力が、おそらく、人類を核戦争の危機に陥れ、終わることなき戦争を繰り返しさせている。新自由主義の競争も止むことはない。科学・技術・生産力に裏打ちされた兵器の力こそが、戦争の勝敗を決するから、科学技術やイノベーションを促進するために、労働や日常も組織されていく。
自然環境から我々を守り安心して生存できるようにしたのと同じ力が、自然を支配し環境を破壊し、我々を環境危機に陥れている。外敵から集団を守ってくれて、日常を豊かにしてくれる同じ力が、全面核戦争の危機を引き起こしている。アインシュタインは原爆を作り、コンピュータも戦争の暗号解読や核兵器の弾道計算のために開発されたものである。
このシステム脳的な「男らしさ」と、「有害な男らしさ」を切り分けることは可能なのだろうか。仮にもし可能なのだとすると、戦争、暴力、破壊、過度な競争、共感性のなさなどを除去すべきであるというのは、多くの人が望むことであろう。
システム脳──その覇権性と従属性
この「システム脳」的な意味での「男性性」こそが、男性の力と権力、覇権性の源泉であると同時に、つらさや弱者性の原因ともなる。トーマス・ジョイナーは『男はなぜ孤独死するのか 男たちの成功の代償』で、男性が女性と違い、友人関係を構築し維持する努力を苦手とするが故に心身の健康を損ないやすいと言っているが、それは共感や関係づくりが苦手な脳の性質と関係しているように思われる。
前回書いた通り、「オタク」という言葉が、その始めに「理系」「科学」「勉強」「SF」などの性質と、コミュニケーションの不得手さという性質の両方を持つ人々の人格類型を指していたことを思い出してほしい。その意味でのオタク――「シリコンバレーでの適者としてのオタク」については、「システム脳」の性質だと言っていいのではないか。その「オタク」の用語法は、前回の註に記した、栗本薫=中島梓の用語法とも重なっている。中島は「オタク」を男性に限定したが、その理由は、同じコミケに集まっている人々であっても、女性は他者を意識し、コミュニケーションや関係性を大事にする傾向があったからである(★4)。その性質は、覇権性(強者性)と同時に、従属性(弱者性)にも結びつくのである。伊藤昌亮の解釈する「弱者男性」問題も、ここに関わるだろう。
そのようなシステム脳の持ち主たちが、コンピュータやスマホやフェイスブックなどのSNSを発明し普及させていった結果として、産業構造や権力体制、それに随伴する価値観の大変動が起こっており、その中で恋愛や結婚、生殖や親密性のあり方が再編成されているというのが現在だと理解するべきではないのだろうか。
システム脳的な性質を持った者が産業的には覇権を取れるような社会になっている。そして、それは「勝者総取り」の性質をますます強くしている(経済の格差は拡大する一方である)。しかし、システム脳の持ち主は共感性に乏しい部分があり、貧しい者や恵まれない者たちの苦境を放置し、「自己責任」「淘汰」などと正当化する傾向があるのではないか。そのような、システム脳に有利な環境が整備され、価値観が普及していくことに対する抵抗が、おそらくはケアの倫理や、一部のフェミニズムにはあるのだと思われる。
これを、生物学あるいはジェンダー的な「男性/女性」の対立とのみ理解してはいけないのだろう。何度も書いているように、共感脳的な男性も、システム脳的な女性もたくさんいるからである。そこを生物学的な性別に過剰に紐づけることが、おそらく不必要に攻撃を受け、自己肯定感を失い鬱になり反動で攻撃する者を生み出すことになる。
「男/女」ではなく、「システム脳」的な原理と、「共感脳」的な原理の対立と相克として理解するならば解釈が容易になるものもたくさんある。ネットで定型となっているような、「エビデンス」「お気持ち」「共感」「理系」などを巡る論争や、それに付随する自負心や軽蔑などを思い起こせばいい。SNSで「共感」をベースに広がるフェミニズムに対する反発も、「かわいそうランキング」や「KKO(キモくて金のないおじさん)」などの、アテンション・エコノミーにおける共感を得る能力の不公平さを問題にする議論が盛り上がるのも、女性への嫌悪も、おそらくはそこに関係があるのではないだろうか。
「男性性」と「生物学的男性」はイコールか?
「男性性」を、以上のように新自由主義の競争や戦争の原因として批判する場合、具体的な生物学的男性を範囲攻撃で巻き込んでしまうことは、おそらく反発を生むのだろう。ITが主要な産業となり、新自由主義の政治経済体制となった現代の過酷な競争と淘汰のシステムは、今日本でネットをしているような具体的な個々の男性が作り上げたわけではない可能性の方が高いだろう。むしろ、システムの犠牲になっている生物学的な男性も多いはずである。システムに適応できなかった「弱者男性」だけではなく、適応できたものや、勝者たる「強者男性」であってすら、人生を犠牲にし過酷な状況で自身に鞭打った犠牲者的な主観を持っていることもありうる。若い時に必死に勉強し快や幸福を犠牲にして来たという自負が強いほど、他者にもそれを求め、代償として同じ目を誰かに遭わせたくなるのではないか。
自身が過酷なこの環境の中で必死につらい適応の努力をしているからこそ、そうではなく、甘えて楽して依存的で、配慮され優しくされているように見える「女性」のイメージに嫉妬し、羨望し、その反動として怒りや憎悪が湧いて、ミソジニー的な感情に囚われるというメカニズムがあるのだと思われる。これは、生活保護や、福祉を「食い物にする」とイメージされる移民・難民への敵意が増大する「福祉ショービニズム」と同じ心理的機序であろう。
フェミニスト、弱者男性、強者男性、皆で協力し、このシステムや体制自体を改善し、皆が生きやすい社会を作るという方向の提案が、論理的に正しくても、そうなりにくいのは、このようなメカニズムがあるからだろう。
この過酷な競争と淘汰から「降りる」ことは、不可能ではないが、実際のところ、難しい。その難しさは、このサバイバルの中で苦しんでいる「強者女性」だって、同様に理解しているのではないかと思う。降りたいと思っている男性も多いだろう。だから、「女性は楽でいいよな」「体を売ればいい」「専業主婦になれる」みたいな意見が出るのだろう。彼らが一様に言うのは、降りた後の人生を、「降りろ」と言う者たちは保証しないだろう、ということである。それはそうだろう。ミクロなレベルで、幸福な人生を目指す合理的な判断として、残念ながら現在はそうなっていない。
ただ、競争と淘汰は、どんどん熾烈になってきており、アメリカ大統領選などを見るに、それに対する反発も非常に大きな現象になっている。もう社会がひっくり返ってくれること、ぶっ壊れてくれることにしか期待できないほど、今の社会や秩序が不公平で絶望的だと感じている者たちは多いのではないか。
しかし、この競争と淘汰の絶望的な状態は、おそらく進化論的な生物の宿命ではない。あくまで社会システムの問題である。そうであるならば、人間が人工的に修正していくことが出来る。それが出来る仕組みとして民主主義もある。「男/女」の偽りの対立にエネルギーを浪費するのではなく、もっと皆が安心し幸福に満足して生きられ、互いに敬意と協調と優しさのある社会に変えていくように力を合わせた方が良いのだろうと思われる。
★1 公平に言っておくならば、「ケアの倫理」を提唱したギリガンは、この二つを、生物学的な男女に割り振らないようにしている。『もうひとつの声で』「一九九三年、読者への書簡」参照)
★2 実際の性差はわずかであるが、「差異」の部分を、人類はそれぞれの性の特徴だと認識しやすい傾向を持っている。だから、生物学的な男性に統計的に多い性質を「男性性」と、生物学的な女性に統計的に多い性質を「女性性」と感じ、そう認識してしまいやすくなったのではないか。神話や民話における「男性性」「女性性」「父性」「母性」のあり方を見ていると、そのように想像させられる。
人間は概念や言語を実体化してしまいやすい認知上の癖を持っており、脳などを直接調べることが困難だった時代には、それを「規範」や「本質」と誤認してしまったのだろう。森口は、わずかな性差が、成長に伴い拡大していく現象を指摘しているが、同じことは人類の歴史の中でも起こっていたのだろう。
筆者は、繰り返し述べている通り、男女の二項で考えることも、そこに本質的な性質があると考えることにも否定的である。個々人の性質を細やかに見て判断することが望ましいだろう。
★3 もちろん、システム脳・理系脳・電車好きの女性もたくさんいるし、共感性が高く関係性を重視する男性もたくさんいる。さらに、一人の中にたくさんの男性的・女性的性質がモザイクにあるという複雑で細やかな理解を阻害することがその問題なのである。
サイモン・バロン=コーエンは生物学的な性別に、五つの分け方があると言っている。「遺伝子型に基づく性別」「生殖腺に基づく性別」「生殖器に基づく性別」「脳のタイプに基づく性別」「特徴的な行動に基づく性別」である。たとえば、遺伝子が男性でも、生殖器が女性の場合がある。生殖器が女性でも、胎内で男性ホルモンを多く浴びると男性型の脳になる。これらそれぞれを二つに分けられるとしても、36種類の組み合わせが存在している。
★4 「オタク」は女性に使われる機会が少なかった、だから女性が排除されていたのだ、差別ではないか、という議論があるのが、単にオタクカルチャーを愛好するのではない意味での「オタク」の用語法は、その偏りを理解する手助けになるのではないか。そもそも「オタク」という呼称が不名誉なものであったことも、考慮に入れるべきだろう。
そして、もちろん女性のアスペルガー症候群もいる。だが統計的には、男性と女性において、4:1の割合の差があると言われている。その理由については様々に議論がある。
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- 第4回 「上昇婚批判」と「女をあてがえ」──男社会から降りることは可能なのか?
- 第3回 「オタク差別」とは何か?──「オタク」概念を整理する
- 第2回 「オタク差別」は存在するか?――「覇権的男性性」と「従属的男性性」
- 第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか