『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。
家に猫がやってきて1年が経った。猫の名前はチャコリという。チャコリはスペインとフランスの国境にかけて広がるバスク地方でよく飲まれているワインの名称だ。食前酒として親しまれているそうで、2年ほど前にその地を旅した際、バルで現地の人々がこのお酒を飲んでから(少し高いところからグラスに注ぎ、香りを開かせるのがおいしい飲み方とされる)、その後大いに食べて語らう様子を目にし、これからたくさん食べて大きくなってほしいと思ってそう名付けた。
最初は人間も猫も互いにおそるおそるという調子だったが、名前の通りによく食べてすっかり大きくなったチャコリは、今では家の中でもっとも床暖房の効きがよい場所を見つけ、毎日お腹を出してゴロゴロしている。毛糸玉を見つければ狂喜乱舞して追いかけ回し、ミルクやバターがたっぷりのお菓子があるとすぐに嗅ぎつけてやってくる。
人間の方も日に日に慣れ、目下困るシーンといえば動物病院やペット保険の会社などに電話をした際に「お名前は?」と聞かれ、猫の名前と人間の名前のどちらを答えるべきか考えるときくらいだ。あれは毎回賭けである。「チャコリです!」と元気よく答えて「お電話口さまのお名前を教えてください」と冷静に言われるときはとても恥ずかしいし、逆の場合も猫の代わりに人間が出しゃばってしまったようで恥ずかしい。
しかし最近、チャコリと人間の間で攻防戦が繰り広げられている。通称「ニャウニャウウェーブ」だ。わたしが小説を書いている部屋にチャコリがやってきては「ニャーーウ」「ムゥニャー」と何かを主張する。抱き上げて撫でているうちにやがて喉をゴロゴロと鳴らして落ち着き、しかし離すとまたすぐにやってきて鳴き始める。その波状の主張が誇張ではなく最短2分おきにやってくる。その都度撫でていると仕事にならないので放っておくが、今度は廊下の虚空に向かってか細く鳴き出すのでかわいそうになる。しかしそこで構うとまた絶え間ない「ニャーーウ」の波がやってくる。
最初はお腹が空いているのかと思った。ブリーダーさんに相談すると、鳴き始める少し前のタイミングで軽くごはんをあげるとよいというので試してみる。確かにごはんの袋を開けた瞬間に飛んできて、すぐに食べ出す。よしよし、これで大丈夫かと小説を書こうと戻る。しかし「ニャーーウ」はまたすぐにやってくる。ごはんを食べたせいかさっきよりも声量がパワーアップしている。ついでに「ムルルルルル!」と勢いよく走り回り、壁にぶつかっては「ミュアーー!」と絶叫する。
遊んでほしいのだろうか、と次に考える。そうだよね、まだ小さいんだからねとリボンやちょうちょのおもちゃを片手に遊んでみる。しばらく遊ぶ。次第に飽きてきた様子なので書斎に戻る。スリープモードにしていたPCを再び立ち上げ、数文字打つ。しかし小さな足がカーペットを踏みしめる。「ニャーーウ」
一連のウェーブは、わたしが小説を書くのを切り上げるころに終わる。午後に入り、そろそろ会社の仕事をしようとダイニングテーブルに向かうときにはチャコリはこちらのことなどまるで忘れたかのようにゴロゴロと寝ころび、木のおもちゃのボールを気だるそうにつついている。そうなるともう、いくらこちらが遊ぼうとリボンをちらつかせてもチャコリは迷惑そうな顔をするだけで、あまりしつこいとカーテンの向こうに隠れてしまう。しかしわたしが会社の仕事を終え、再び書斎に向かうと「ニャーーウ」とやってくる。これは困る。ただでさえ遅い小説の進みがどんどん遅くなっていく。逆ならまだいいのだ。メールを送る、チャットを確認する、PDFをダウンロードするといった細かなタスクに分かれている会社の仕事の方が、まだ中断されても戻りやすい。
けれど、と同時に考える。こうしたわたしのタイミングなど、チャコリには知ったことではないのだ。鳴きたい、食べたい、走りたい。だから鳴いたり食べたり走ったりしているだけなのだろう。
それに、と思う。きっとタイミングなんてないのだ。わたしが書きたいだけ小説を書いて一区切りついた、なんて思ったときにはきっとこの温かさは失われているのだろう。
わたしは寝ぼけた顔のチャコリを抱き上げる。白に混じったミルクティー色のふわふわの毛、温かく湿ったお腹、自分ではその美しさに無頓着そうなガラス玉みたいなブルーの両目、わたしが疲れたり落ち込んだりしてソファに横になっているとなぜか毛づくろいをしてくれる薄い舌、たまにトイレの砂のにおいがするけど甘い香り。全部が全部愛おしくて、でもその愛おしさには最初から悲しみが少し混ざっている。どうしてわたしは時限爆弾付きの愛の塊のような存在を迎えたんだろうと思う。後悔はしていないけれど。
チャコリは毎日ロイヤルカナンのカリカリを食べている。それはチャコリを譲渡してくれたブリーダーさんがロイヤルカナンをあげていたからで、チャコリの両親や親戚も代々みなロイヤルカナンをずっと食べているらしく、チャコリの細胞のエネルギー源はほぼロイヤルカナンだ。わたしは猫の遺伝子とロイヤルカナンが組み合わさってできたこの生き物を愛しており、来月分のロイヤルカナンを買うためにも、またニャウニャウウェーブを浴びながら小説を書き続ける。