倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
はじめに:「清潔感」と「清潔」
「清潔感」がだいじだ、と人びとは口々に言う。その口ぶりには道徳的なニュアンスがあり、有無を言わさぬ重みがある。清潔感がないということは、だらしなく、周りの人に配慮できていないのだ、と人は非難する。
だが、よく考えるとへんなことを言っている。
「清潔」は衛生的にキレイである、ということを意味する。例えば、料理人には清潔であることが求められる。不潔であると、食中毒を引き起こしかねない。清潔であることは大事であることが多いだろう。
だが、清潔感があることと清潔であることは独立である。清潔感があってもちっとも清潔ではないことは全然ありえる。まっさらなシャツが菌まみれであったり、汚染されていたりすることはふつうにありえる。整えられた髭にはうじゃうじゃ細菌が繁殖しているかもしれない。
だとしたら、清潔感とはいったい何なのだろうか。
美的かつ道徳的な性質を併せ持つ「清潔感」
私は清潔感とは美的性質であると考える。ここで美的性質とは、美的な用語によって指示される特定の性質を指す。「瀟洒である」とか「いきである」とか「引き締まっている」とか「かわいい」などが美的性質だ。
「清潔感」は美的性質だ。清潔感があることは、衛生に関わる性質ではなく、何らかの美的なよさに関わるような性質なのである。それはちょうど「清潔感のある人が好き」という言い方にあるように、美的な好みに関わるような性質だ。
しかし、清潔感は道徳的な判断に用いられているように思われる。「清潔感のない人はだめだね」と人びとは言う。しかし、これは奇妙だ。清潔感が美的性質なのだとして、なぜそれが道徳的な判断にも用いられるのだろうか。「かっこいい人が好き」と言う人はいるけれど、「カッコよくない人は道徳的にちょっとね……」という人を見かけたことはない。かっこいいことは、たんなる美的性質であり、人間の魅力を作り出す一要素だが、道徳的な性質ではないようだ。では、なぜ清潔感のない人は道徳的にだめな人なのだろうか。
「清潔感のない人は他者への配慮に欠けているから悪い」という指摘は日常的な意見でよく見かける。いわく「外見は性格の一番端」などという言葉を耳にする。
清潔感を大事にする人を想像するとこう言うだろう。いわく「他人に配慮している人であれば、自分の匂いや見た目や清潔感に配慮するだろう。それゆえ、それらに配慮していない人は、他者に配慮できない人あり、当然批判して何ら差し支えない」というわけだ。
つまり、清潔感とは、単なる美的性質であるのみならず、同時に、道徳的性質でもあるような興味深い性質なのである。清潔感のある人は美的によい。のみならず、清潔感のある人は道徳的にもよい。もちろん逆も言える。清潔感のない人は美的にわるい。のみならず、清潔感のない人は道徳的にもわるい。
と、ここで、ふむふむ、と頷いてはならないだろう。というのも、清潔感があるとかないとか人に言うことは、直球の「外見差別(ルッキズム)」だからだ。ここで、ルッキズムとは、他者によって知覚・評価されるその人の美しさや外見に起因する不公正な扱いを意味する(Hofmann 2024)。
清潔感に基づいて人の扱いに差をつけることは、まさしく、「その人の美しさや外見に起因する不公正な扱い」である。ルッキズムの何が問題なのか。ルッキズムとは、たんに見た目が美しいか、美しくないか、と判断するだけでは当てはまらない。そうした美的判断が不当に他の判断に影響を与えることを意味する。つまり、見た目の美しさを商品にしているとかいないとかに関わらず、職場やローンなど、見た目の美しさが特に関係ない状況、関係させるべきではない状況でも見た目の美しさが影響してしまう、ということなのだ。
いったんここまでをまとめよう。「清潔感」とは「清潔さ」とは違い、美的性質であった。同時に、道徳的性質でもある。
ここからさらに指摘できるのは、美的性質でもあり、道徳的性質でもある「清潔感」は、文脈において、道徳的性質のみであるフリができる悪さがあるということだ。どういうことか。例えば、「あなたが言う「清潔感」って、結局美的性質じゃないか。だったらそれは人の好みだろう。だから他人に強要することなんかできやしない!」と誰かが発言したとしたら、「いやいや、清潔感は美的性質なんかじゃございません。それは道徳的性質です。他人に対して配慮ができてないことの証左であって、当然非難されて叱るべきなんですよ?」と応答できてしまう。「清潔感」を論じるに当たってこのカメレオン的性質の悪さを念頭に置いておくことは有益だ。
「性格差別」という影の差別
さらに一歩思考をすすめよう。
すぐさま反論が飛んでくるだろう。「いやいや、確かに清潔感は人の見た目に基づいて扱いに差をつけています。でもね、身だしなみを整える、というのは意識すればできることです。それなのに、しわしわの服を着ていたり、悪臭を放っていたりするのは、他人に対する配慮が欠けており、それははっきり言って悪徳なのです。だから、意識すればどうとでもなる見た目や匂いに気を使えていないというのは、そういう他人に対する配慮のなさが外に現れているのであり、非難して当然なのです。清潔感に基づいて人の性格を判断するのはなんら不当ではありません。適切な判断です。肌の色や体型の話なんかをしているわけではありませんよ」と。
なるほど、こう反論するならば、多くの人は納得してしまうだろう。「確かに」と多くの人は言うだろう。「他人に対する配慮が欠けている、というのは、その人の問題である。見た目について不公正な扱いをするのはルッキズムだけれど、他人に配慮していないというその人の問題に基づいて扱いに差をつけるのは悪くないし、特に、他人に配慮できない人を非難するというのは、不公正でもなんでもないじゃないか。よかった、清潔感のない人を非難していこう!」。果たしてそうだろうか?
あなたは先程の議論に納得したかもしれない。「他人に配慮していない人を非難することの何が悪いのか。なんら悪くないだろう」と。
私はこうは思わない。なぜなら、見た目について気を使うことが「意識すればできること」かどうかは人によって大幅に異なり、見た目を意識できる能力を備えているかどうかはかなりの程度生まれつきでその人がどうにかできるわけではなく、その人に責任がないからだ。そうしたその人が変えられない性質に基づいてその人を不利益な仕方で扱うのは差別である、と主張する。つまり、人の清潔感を云々する人は差別を行っている人なのである。清潔にしていないことから人の能力を判断して差をつけるのはルッキズムの一つである。それは特定の人種である、という見た目から、その人が暴力的だと推論するような悪さと共通する悪さを持っている。
清潔であることや身だしなみを整えることは、しばしば前提として、これらを実現する物的・時間的余裕があることが求められる。しかし、貧困や不安定な住居状況、慢性的な過労などの理由で十分な洗濯や入浴の機会を確保できない人々も存在する。こうした社会的・経済的背景を無視した上で、清潔感の欠如を「努力不足」や「怠慢」とみなすことは、社会構造的な不平等を見過ごし、人々の現実を矮小化することにつながる。人が清潔感を保てるかどうかには、精神的・身体的な健康状態が深く関わっている。たとえば、うつ病などの精神疾患、発達障害、あるいは身体障害によって、日常的な身だしなみを整える行為そのものが困難である場合がある。こうした困難を抱える人々にとって、清潔感を欠くことは必ずしも他者への配慮不足から生じているわけではない。むしろ、彼らは清潔を保つための行為それ自体が障壁となることに苦しんでいるのであり、その困難を軽視することは不当な差別を助長する。
「わかった」とあなたは納得してくれるかもしれない。「たしかに、様々な苦境にある人に清潔感を作り出せ、と強要することは差別的である」。しかし、続けて、こう言うかもしれない。「でも、経済的に安定していたり、健常である人が清潔感を作り出さないことは、他人への配慮が欠けている。それゆえ、そういう人には非難してよいはずだ」と。「つまり、清潔感を作り出さないことは、他人への配慮が欠けている、という意味で「性格が悪い」。性格が悪い人を非難して何が悪いのか?」。
実のところ、私がもっとも気になっていたのは、性格の非難だ。人びとは、性格ならばいくら非難してもよい、と思っているように思われる。
日常美学を牽引するサイトウ・ユリコは、美的なものと倫理的なものが重なり合っている事例として、自分の見た目を取り上げている(Saito 2007)。「私たちや私たちの所有物の見かけは、私たちの美的センスだけでなく、おそらくより重要な私たちの性格を他人が評価する上で重要な役割を果たす」とサイトウは指摘する。「身だしなみ、服装、家のインテリア、外装によって、私たちはしばしば、几帳面で、隣人思いで、市民意識が高く、責任感があり、勤勉で、働き者であると判断され、あるいは無責任で、だらしなく、思いやりがなく、怠け者だと判断される」のだ(Saito 2007, 160)。
だが、性格で人を非難してよいのだろうか。清潔感がないことは、「無責任で、だらしなく、思いやりがなく、怠け者だ」と判断してよいのだろうか。ここで議論のために、清潔感がないことは、確かに、「無責任で、だらしなく、思いやりがなく、怠け者だ」ということを正確に表示しているとしよう。では、こうした性格を持つ人を非難してよいのだろうか。
私は、倫理的な観点からみるならば、非難してはならない、と考える。
清潔感があることが特定の(良い)性格のしるしだとして(逆に、清潔感がないことが特定の悪い性格のしるしだとして)、それを私たちは評価すべきではない。なぜならそれは性格差別だからだ。清潔感のない人に対する差別で発生しているのは、外見差別だけではない。同時に発生しているのは、性格差別(キャラクタリズム)である。性格差別とは、他者によって知覚・評価されるその人の性格の美しさや性格に起因する不公正な扱いだ。
これはへんな主張だろうか。私たちは、性格に基づいて人びとの扱いを変えることをおかしなことだとふつうは思わない。しかし、それはもっとも広く行き渡った差別である、と私は主張する。もし差別を避けたいと思うのならば、人びとの性格が悪いからと言ってそれに基づいて人びとに対する扱いを変えてはならない。それは人びとの見た目に基づいて扱いを変えるようなものだから。
差別とは、社会的に顕著な集団属性に基づく不利な扱いである(Lippert-Rasmussen 2006)。社会的に顕著とは、多くの文脈でその属性が人との関わり方に大きな影響を与えることを意味する。「性格」は多様な場面で人間関係を左右しうるため、性格は十分に社会的に顕著といえるだろう。よって、性格に基づく不利な扱いは、法的にはほとんどの場合議論になっていないが、概念的には差別とみなせる。性格は遺伝要因が寄与すると言われ、かなりの部分が本人の意思では変えにくいとされる(Bouchard & McGue 2003)。あるいは、本人が選んだわけではない環境要因によっても強く影響を受けるだろう。そうした変えにくいものによって構造的に差別を受けている人びとが存在するのだ。
ここで反論があろう。「見た目は仕事や生活とは関わりないが、性格は、例えばずるがしこい性格や約束を守らない性格に関しては、それを非難したり軽蔑することは、実践的に重要である。これは実質的な区別であり、悪い差別ではない。あなたは性格の悪い人びととともに生きたいと言うのか。性格の悪い人と一緒に働きたいのか?」と。確かに、社会的に「悪い性格」と呼ばれる人びととともに暮らすことは多くの人びとにとって不利益になるだろう。例えば、悪い性格には、マキャベリズム、ナルシシズム、サディズム、サイコパシー、スパイトなどがある(小塩 2024)。誰かを支配したり(マキャベリズム)、自分が周りよりも価値があると思い上がったり(ナルシシズム)、人が傷つくところを楽しんだり(サディズム)、他人に対する共感がなかったり(サイコパシー)、自分が損をしてでも他人に嫌な思いをさせることを愛好したり(スパイト)。この説明をみるだけで、確かに、あまりかかわらないほうがよさそうに見える。私たちが悪い性格を避けるのには実質的で合理的な理由があり、それゆえ、そうした差別は許されうるのだ、と。
だが、性格が悪いことによってその人が不利益を被るような社会になっていることは、性格が悪いとされる人への抑圧である。ずるがしこくても、約束を守らなくても、支配的でも、他者を傷つけることに喜びを感じていても、他人を見下し自分にだけ価値があると思い上がっていたり、他人に共感がなくとも、他人を不幸の道連れにすることを愛好していたりしても、もし私たちが真に差別撤廃を目指すのならば、その人が幸福に生きられる社会にしなければならない。
異常な主張に聞こえるだろうか。だが、次の例をパラレルに考えてみよう。例えば、白人をレストランの店員に採用することで、外国客からの人気が高まる社会があったとする。白人をレストランの店員に採用することには合理的な理由がある。だが、白人をレストランの店員に採用することで人気が高まる、という社会自体に何らかの偏見があることは間違いない。私たちは、白人をレストランの店員に採用することには合理的だと言えるが、それを合理的にしている社会自体に問題がある、と指摘できるだろう。同様に、性格が悪い人を排除することは合理的であると認めたとしても、それを合理的にしている社会自体に問題があることは指摘できる。
ここで次のような応答があるかもしれない。「異常な主張だが、受け入れよう。確かに、性格差別は存在する、と。だが、そうした性格差別は、就労の場面などで考慮すべきものに過ぎない。外見差別が問題になるのは、第一には就労の場面やローン組み、あるいは裁判の現場などであり、日常生活においてどんな外見を好むのかは問題にならないはずだ。同様に、日常生活においてはどんな性格を好むのかは私たちのプライベートな話であり、問題にならない」と。
確かに、「どんな人を好むか」という個人的な選好が法的規制や公的介入の対象になるべきだとしたら、かなり恐ろしい話だ。恋愛や友愛的関係においては相手を選ぶ自由があるし、友人関係では気が合う合わないを軸にして誰と付き合うかを自分の裁量で決定できることが、私たちのプライベートな尊厳や生き方を守るために必要不可欠だと考えられているだろう。ゆえに、親密な領域における選好については、反差別の義務などを問う必要などない、とふつう思われる。
しかし、近年の議論では、恋愛やデート、友情といった親密な関係においても、弱いながらも反差別的な道徳的義務がありうるという見解が提示されている。ソマー・デグンとミットガード(Sommer Degn & Midtgaard 2024)によれば、外見差別について恋愛など私的な領域では差別をしても構わないという、これまで比較的受容されがちだった非対称的な見方を再検討すべきであるという。議論の一部を取り上げると、ざっと次のような理由からだ。
私的な選好が集積すれば、たとえ各個人の行為が小さな行為であっても、社会全体で見れば有害な差別的パターンを再生産してしまうおそれがある。たとえば、出会い系アプリなどを想定すると、ある人種や容姿をもつ人はプロフィールを見ただけで一括して無視され、拒否される。それらは一回一回は個人の選択に過ぎないようにみえる。しかし、それが積み重なると、就労の場面での外見差別と同様、否、それ以上に深刻な心理的ダメージや社会的排除感をもたらす可能性がある。同様に、性格差別も特定の性格を持つ人が差別される、という差別的パターンを再生産させることで、社会的な差別が維持されてしまうことになる。
それゆえ、外見差別をしない、という弱い反差別義務が私たちに存在しうる。だが、この弱い反差別義務は、実践レベルではそこまで過度な負担を課すものではないかもしれない。デグンらの論文でも繰り返し強調されるように、彼らが主張しているのは法的な強制力をもって、デートで誰かと付き合うように命令すべきだという形の議論ではない。むしろ私たちが交際相手を選ぶときに、差別的なステレオタイプや抑圧的構造を自覚的に省みる必要があるという、熟慮や反省を再度促すような義務であり、それは個人の選好や魅力観に根源的に介入するものではない。
ソマー・デグンとミットガードの議論が示唆しているのは、外見差別といった「個人的な好み」の問題であっても、それが社会における有害な差別構造の再生産に繋がるおそれがある以上、私的な領域でも一定の反差別的な配慮が求められうるということだ。
性格差別に関しても同様に、悪しき性格だと感じてもそれを再考する弱い義務はありうるだろう。もしあなたがあらゆる差別をしたくないのなら、私的領域においても「性格が悪い」とみなされる人びとに不利益な扱いをしてはならないはずだ。
とはいえ、現時点で「悪い性格」としてリストアップされている性格が人類の主流の性格になったり、何らかの制裁が与えられずに野放図に拡大していくとしたら、私たちの重視する社会的な信頼が損なわれ、経済活動や生活がままならなくなるのはおそらく確かだろう。人びとがみな裏切り者ばかりになったら、まともな市場経済は崩壊していきそうだ。人びとがみな自分のことだけを一番に考えるようになったり、相互扶助的制度は消え去るだろう。他人に利益をもたらすくらいなら自分が損をしてでも道連れにする性格が主流になったら、壊滅的な戦争や紛争が多発するかも知れない。そして、そもそも、身近な関係において、相手がマキャベリズム的性格であることを分かったうえで友人としてその人を心から愛する、ということが人類に可能なのか、私にはよくわからない。自分がつねに犠牲者になる可能性を認識しながらその人を愛するというのは相当な慈愛の強さが求められるように思われる。
悪い性格を生きる人びとに何の制裁もない社会では、おそらく人類は衰退していくだろうし、私たちの福利はどんどん下がっていくだろう。その意味で、悪い性格に対する差別は、人類が衰退しないための合理的な理由がある、と言ってよいかもしれない。しかし、それだけでは、悪い性格を差別することの十分な理由にはならないかもしれない。悪い性格を持つ人を差別しなくても人類が衰退しない方法を私たちは考えなければならないだろう[1]。
人類が人類である限り性格差別から逃れられないとしても、やるべきことはまだまだある
性格差別は差別のなかの差別である。なぜなら、人間は他の人間をその性格に基づいて判断することを重視しているように思われるからだ。しばしば「顔や身体目的で誰かと性愛関係になるのは浅薄だ」という非難がなされがちである。確かに、長期間の付き合いにあたっては、顔や身体の特徴だけではなく、性格の方が重要になってくると考えるのは変ではない。それゆえ、性格に基づいてパートナー選びをすることはむしろ賞賛される。だが、性格もまた、顔や身体的特徴と同じく、それほど本人が選べるものでもないように思われる。したがって、人間がより称賛する性格への愛好は、性格差別の源泉そのものだ。「カラダ目的」は道徳的に悪いと非難されがちだが「ココロ目的」も同様に道徳的に悪いようだ。
性格差別とは、人間本性に基づいた差別である。性格差別をしない人を想定することは難しい。人間が人間を性格差別しない日が来たとしたら、それは人類が終わる日だろう。それはもはや人類ではなく、「人類2(じんるいツー)」であるように思われる。性格差別は差別のなかの差別。もっとも究極の差別であり、おそらくは他のすべての差別の解消の後にはじめてまじめに問題になる差別であろう。
だが、これをもって「差別撤廃などは無理難題であり、差別などという概念は無意味だ!」という主張が正しいということには全然ならない。差別の撤廃はよいことである。しかし、確かに性格差別で突き当たる。とはいえ、性格差別を解消するまでに、私たちが差別を撤廃するためにすべきことは無数にあるだろう。とりわけ私が本連載で関心を持っているのは、美的なものと倫理的なものが癒着することで生まれる差別や抑圧であるが、そうしたものはこの後の連載で扱うように、まだまだ分析し、批判し、改善し、撤廃すべきことが大量にある。コミュニケーションの差別だとか、愛し方の差別だとか、病への差別だとか。性格差別の撤廃の課題が現れるまでに私たちが取り組まなければならない差別は山程ある。だから、私たちにとって性格差別の撤廃がいかに難しくとも、それだけで差別の撤廃を諦めることにはならない。私たちはできる限り、差別に向き合い、その出現を食い止めなければならないだろう。
ずっと遠い未来、性格差別についての撤廃が検討されるときに、あらためて本稿が役立つことを私は期待する。性格差別が問題になるのは、100年後か、300年後か、おそらくは1000年後くらいではないだろうか。そのときにまた私のこの文章が引用されるだろう、と私は予測する。
以上の議論を踏まえると、私は「あらゆる差別を撤廃する」と声高に言うことに自信がなくなってきた。私は他人を性格に基づいて差別したいように思われる。性格差別が、他人に対する美的な魅力の源泉にもなっているように思われるからだ。性格差別撤廃の難しさ、それは技術的な困難はもちろん、私たち人間が価値を見出す生き物であるがゆえに感じる原理的な困難さであるのだろう。
私たちは性格差別をする。それは私たちが人間を味わっているからこそ起きるのだろう。美徳の称揚は、差別につながる。だとして、 性格の美醜をキャンセルして知覚できなくする技術が開発されるとどうなるのであろうか。人は互いの有用性や快楽性によってのみつながることができるようになるのだろう。それはそれでベタな差別が起きるであろう。もはや、「性格が悪いから嫌いなのだ。これは差別ではない」はもはや成立しない。
とはいえ、私は、他の差別を撤廃するために、性格差別をしていくことになるだろう。おそらくこれを読んでいるあなたも同じく。他人の性格を差別する私たちはみな少なからず差別をする者たちである。私たちはその罪を背負って生きていかねばならない。
さて、本稿は、常識的な意味では「性格の悪い文章」になったかもしれない。あなたがしている性格差別について指摘することで、あなたに不愉快な思いをさせ、さらには、性格差別について特段解決方法がなさそうだ、私たちはみな差別主義者だ、と言ってあなたに不満を感じさせたかもしれない。
しかし、これまでの議論に基づけば、気をつけた方がよい。なぜなら、この文章の書き手である私を「性格が悪い」と評するあなたは性格差別を行っていることになるからだ。そして、差別はよくない。
次回は、コミュニケーションの美学について考える。本稿のように、対話相手である誰か(今回はあなただ)に対して不満を覚えさせるようなコミュニケーションは良いコミュニケーションなのだろうか。そもそも、コミュニケーションのよしあしはどう計られるのだろうか。コミュニケーションをめぐる哲学的考察に取り組みたい。