第1回 NHK (1)






失踪をくり返す父を撮り続けた衝撃の作品『father』を世に問うた若き写真家、金川晋吾さんが、「ひとのわからなさ」「わからないひと」との撮影の日々を描く。
シャッターを切る「まえ」と「あと」で生まれ出る世界とは。

「金川さんはよくわからないものに対して理解したいとか理解しようというのではなく、よくわからないもの、というところでふみとどまっているようで、そこが興味深いと思いました」とそのメールには書かれていた。NHKでディレクターをしている富士本さんという女性からだった。

VICEのインタビュー記事を読み、作品に興味をもったので話を聞かせてもらいたいとのこと。テレビ、しかもNHKという大きなメディアに取り上げられることへの不安を感じながらも、気持ちは上がった。

富士本さんは福祉関係の番組を担当しているらしい。「福祉」という言葉にもまた少し不安を感じたが、自分の作品が「福祉」という領域で語られるのは真っ当であるというか、適切なことでもあるような気がした。富士本さんの私の作品に対する関心の持ち方にも好感をもった。「話したことがすぐに番組になったりどこかに出ることはない」とのこと。テレビで取り上げられるかはまだ決まっていないのだろうか、とりあえず会って話しを聞いてどうするか考えたいということか、などいろいろ考える。

8月18日

新宿で待ち合わせ。富士本さんはまったく業界人っぽくないのんびりとした女性で、名刺交換も私と同じぐらいぎこちなさがあった。年齢は自分よりも少し若いぐらい。二時を過ぎていたが、お昼がまだだったので定食屋に入る。二人とも焼き魚定食を食べていたせいもあるのかもしれないが、富士本さんは私にそれほど質問してこない。黙々とご飯を食べるわけにもいかず、聞かれてもいないのに自分から自分のことを語りだすことになる。

「父は『やっぱり生きていくのが面倒くさい』というメモ書きを残していましたが、あれは死にたいということを言っているわけではなくて、おそらく誰かに向けて書かれたものでもなくて、ただこぼれ落ちたものというか」

「『生きているのが面倒くさい』ではなくて、『生きていくのが面倒くさい』という、このちがいが大きいと僕は思っていて」

「でも、この自撮りの撮影がずっと続いているのを見てもらえばわかると思うのですが、父はただのずぼらな人間かというとまったくそんなことはなくて」

「基本的にはひとあたりもよくて社交的でよく喋る人なんですよ、でもそれは写真からはわからないかもしれないですね、そういうことを伝えるために写真は撮っていないですし」

富士本さんは「なるほど」と言って興味深そうに話を聞いてくれるが、突っ込んで質問してくるわけではない。私は自分が喋った後に生じる空白に戸惑う。と同時に、もっとあのことやこのことも言っておきたくなり、またべらべらと喋り出す。今が何のための時間のなのかちょっとわからなくなる。とりあえず一時間半ほど話をして店を出る。

別れ際、富士本さんは「お話が聞けてとてもよかったです。今後どうすればいいか、ちょっと考えてみますね」と言った。富士本さんが自分の話を面白いと思ってくれたかが気になる。これまでに何度かインタビューを受けたことがあり、調子に乗っていろいろと喋った後には、何とも言えない自己嫌悪というか後悔を感じていたのだが、その一方で実は自分は喋りたがってもいるのだとこのとき気がついた。

数日後、富士本さんから「先日はありがとうございました。もし近々撮影のご予定などがあれば見学させてもらいたいです」というメールが来て、ほっとする。

近々関西に帰る用事があったので、そのときに父の撮影も伯母の撮影もおこなうことにする。富士本さんもそれに合わせて関西に来てくれるとのこと。

9月2日

まず初日は伯母の撮影のために大阪駅で待ち合わせて、電車で伯母がいる病院の最寄り駅まで向かう。伯母は二〇一〇年から大阪の南のほうにある病院に入っている。それまでは行方知れずだった。

伯母が病院に入る際、私は彼女の身元引受人になった。と言っても特別たいしたことをするわけではなく、何かあったときに一言確認の電話がかかってくるだけの形式的なものに過ぎない。私が伯母に最後に会ったのは、私がまだ小学校に入ったばかりのころだったと思う。伯母についての具体的な思い出があるわけではなく、「会ったことがある」ということをなんとなく記憶しているだけだった。なので、20年ぶりに再会をしても懐かしいとは感じなかった。

伯母が病院に入って以来、私は関西に来るついでに伯母の病院に立ち寄って伯母の写真を撮っている。写真を撮ることが彼女に会いに行くための動機になっていると言えるだろう。

電車には一時間近く乗っていたが、そのあいだも富士本さんは私に積極的に質問をしてくるわけではなかった。代わりに私が富士本さんのことをいろいろと尋ねる。実家は高槻だということ、高校は四天王寺に通っていたこと、SFが好きで小説では筒井康隆、映画ではエイリアンシリーズが好きだということ、「エイリアン4」が特にお気に入りでラスト(シガニー・ウィーバーとエイリアンとの親子対決)が泣けるということ、等々。

仕事のことも聞く。テレビの仕事はやっぱり忙しいのか尋ねると、富士本さんは「忙しいと言えば忙しいですが、仕事とそうでないことの区別があいまいで、こうやって取材をしたり実際に撮影をしたりするのは面白いですし、ずっと好きなことをやっているとも言えますね」と言った。

「ちなみに今日は土曜日ですけど、これも仕事として扱われるのですか? つまり取材の経費とかって出るのかどうか」と聞いてみると、「もちろん取材ではあるのですが、まだ企画書を書いてもいない段階なので、会社からは仕事としてカウントされないというか、とりあえず今日は休みを利用して里帰りのついでに撮影の見学をさせてもらっています」と言った。私の知り合いのテレビ関係で働いている人の多くは心身ともに疲弊しているが、富士本さんはそういう人たちとはちがうようだと思った。

最寄り駅からタクシーで伯母のいる病院へ。伯母が富士本さんを見て「この人は誰?」と聞いてきたので、「友達」と答えた。「奥さんじゃないのか」と聞いてくるかと思ったが、それ以上何も聞いてこなかった。伯母はこの人が誰なのか、どういう人なのかということに興味をもつことがもうできないのかもしれない。

 

伯母は私のことも「まことちゃん」と呼ぶ。「まことちゃん」というのが誰なのかはわからない。私の親類には「まこと」という人はいない。訂正すれば、私が甥の「金川晋吾」だということはわかるようなのだが、次に訪れたときにはまた「まことちゃん」に戻っているのだった。最近では訂正するのが面倒なので、「まことちゃん」のままでいることもある。

この日もいつもと同じようにプリンやゼリーなどのお菓子を伯母さんに食べさせた後、病院内で撮影をした。富士本さんは伯母に話しかけたりしない。「全然知らない人のお見舞いについて来た人」として、ただそこにいるのだった。私は富士本さんにビデオカメラを渡して、自分と伯母の様子を適当に撮影してもらうことにした。

富士本さんはいきなりのお願いにもかかわらず、たんたんと撮影をしてくれた。せっかくなのでペンタックス67も渡して自分と伯母のツーショットの写真も撮ってもらう。日がだいぶ落ちてきたので、場所を変えてさらに自分と伯母のツーショットを何枚も撮ってもらった。

病院から帰りの電車内でも、富士本さんは今日の撮影の感想などを語るわけではなかった。今日のことに思いを馳せているのか、まったく別のことを考えているのか、あるいは何も考えていないのか、富士本さんの顔を見ても(当たり前だが)よくわからなかった。思うところはあってもべらべら喋らないのがこの人のやり方なのだと思うことにした。

大阪駅に着くとちょうどいい時間だったので、一緒に晩御飯を食べることにした。梅田の食堂街をうろうろして、洋食屋に入りハンバーグを食べる。ビールを飲んでほっとする。富士本さんはお酒は何でも好きらしい。明日も今日と同じようにあらたまって取材をするというのではなくて、とりあえず父の家に行って撮影の様子を見てもらって、そのあとは父と一緒にお酒でも飲むというラフな感じで、ということになる。

9月3日

翌日、富士本さんと大山崎駅で待ち合わせ。タクシーで父の家へ。父は今日の趣旨がよくわかっていなかったらしく、若い女性が一人でカメラももたず手ぶらで来たのを見て拍子抜けしたというか、ほっとした様子。父は笑顔で富士本さんを出迎えて、「遠路はるばるごくろうさんです」と言った。

とりあえず自分が父の写真を撮っているところを富士本さんに見てもらうことにする。が、いざ撮影しようとすると、自分で父を撮ることへのモチベーションがほとんどないことに気づかされる。これはもうここ数年続いていることだ。父が自撮りを続けてくれているので、あれで十分と思っているのだろうか。とりあえず今日は父と自分のツーショットを中心に撮ることにする(これなら撮るモチベーションが少しは湧いた)。まずは屋外で三脚を立てて撮る。その後、家に戻って「父が自撮りをしているところを私が見ている場面」をいろいろとセットアップして撮る。このセットアップはこれまでもくり返し撮っている。富士本さんにも画面のなかに入ってもらう。この日も富士本さんにビデオとペンタックス67で撮影してもらった。

 

私が一緒に映っている写真を見ると、父の写真の映り方はやはり特異なのだと改めて思う。私にはどうしたってカメラを意識した何かがつきまとう。写真のなかの父にはそういうものが感じられない。父がカメラをまったく意識していないかというと、そういうわけではない。父はカメラを見ていて、その存在は意識している。カメラを意識するかどうかという問題だけではないのだろう。

一体どういうことが起こっていて、父はあのように写真に映るのか。写真集「father」を見て「この人は演技をしているのではないか」と言う人がいる。「演技」をしているかしていないかのちがいはとても曖昧で二つを区別することは簡単にできることではないが、父は何かに「なろう」とはしていないと私には思われるので、「演技」という言葉は父にはあてはまらないような気がする。

また、ある人が「この人は実はナルシストなのではないか」と言ったことがあった。私はこの意見に驚き、「そもそも撮られた写真のほとんどをこの人は見ていないのであり、そういうものから遠いところにいるのがこの人だと思う。そうでなければこういう写真にはならない」と反論した。だが、その人は「いや、これだけ自分の姿を撮らせる(撮る)ということ、それはやっぱり自分のことを『いい男』だと思っているからじゃないのか」と言った。

たしかに父は自分が醜男だとは思っていなくて、だからこそ写真を撮られることを拒否しないということはあると思う。ただ、父が写真を撮られることを許容するのは、自分のイメージを見たいという欲望からではなく、「どっちでもいい」という興味のなさ、あるいは「どうでもいい」というあきらめに近い何かによるものじゃないかと私は思っている。あとは、私に頼まれるということ、写真を撮られるぐらいたいしたことじゃないので、それで喜ぶのならばやってやろうという親切心。

 

撮影もひと段落したので、飲むことに。

父が冷蔵庫のなかからつまみを数品だしてくれる。そのなかには父自身が漬けたというぬか漬けがあった。富士本さんが「よく漬物とかされるんですか?」と聞くと、「よくするわけではないんやけれどね」と言って、ぬか床を毎日さわらないといけないのが面倒だということを嬉々として話していた。

父の意外にまめな側面を富士本さんにさらに見せるために、父がつけている家計簿の話を持ち出す。「見せてもらってもいい?」と聞くと、父はすんなり了承し、七、八冊のノートの束を取り出した。現在のアパートに移り住んだ二〇〇九年から、中断をくり返しながらも父は家計簿をつけ続けている。何色ものマーカーペンが使い分けられていて、「生きているのが面倒くさい」という言葉を書いた人の手によるものとは思えないハイクオリティな家計簿になっている。

私も見せてもらうのは久しぶりだったのだが、見るとここ一年ほどの間に、家計簿には日記のようなものがときおり添えられていることに気がついた。父が日記をつけているということ、これは父に対する私のこれまでの認識とは相容れないものだった。日記をつけるというような内省的な行為に父はまったく興味がないというか、そういうものから逃避するのが彼の生き方だと思っていた。

二〇〇九年四月以降、私が依頼したフィルムカメラによる自撮りの撮影を父は毎日続けくれているが(当然忘れることもたびたびあるが)、それは内省を必要としない写真だからこそ(しかも何を撮るかを選ばなくてよい、フレーミングも必要ない自撮りだからこそ)続けることが可能になっているのであって、わが身を省みないといけない「日記」というものを継続することは、父には不可能だろうと思っていた。

だが、その父が誰にたのまれたわけでもなく、自発的に日記をつけている。

私は驚いた。

父のなかで何かが変化しているのだろうか。あるいは、父はそもそもはそういう人間だったのだろうか。よくはわからないが、この日記も続けてくれればと思った。父が書いているのは、日記といっても自分の思いをつらつらと書くようなものではなく、その日にしたことや誰に会ったということが、装飾のない言葉で端的に書かれた素気のないものだった。そして、私はその素気のなさがとてもいいと思った。

ごくたまに父の思いというか、その日の感想のようなものも書きつけられているのだが、それも短く簡潔なもので、私はそこもいいと思った。たとえばテレビ大阪の取材を受けた二〇一六年七月二五日(月)の日記。

  朝9:30から大阪TVが来て、晋吾のインタビューを二人でうけた。今日の晋吾なぜかテンパってしまって歯切れが悪かった。

こうやって「実は父はまめなところもあるんです」ということをアピールすると、「なるほど。お父さんは真面目過ぎるから蒸発をしてしまったのかもしれませんね」なんてことを言う人もいる。が、富士本さんはそんなことは口にしない。「こういうことはできはるんですね」と感心するだけだった。

富士本さんの酒の飲み方は、お付き合いのためにとりあえず口をつけるというのではなく、お酒がおいしい、そして楽しいということがこちらにも伝わってくる気持ちのいい飲み方だった。

はじめは私もそういう富士本さんを好ましく見ていた。それぞれの身の上話や作品の話などが入り混じりながらとても楽しく飲んでいた。だが、飲み始めて一時間ほど経ったころ、富士本さんと父は突然もうひと盛り上がりし始めた。富士本さんは父のことを「先輩」と呼び、父は富士本さんのことを「ふじもっちゃん」と呼び、ウォッカを互いに酌み交わしだした。なんだかよくわからないが二人は握手をしたりして、飲み屋でたまたま知り合った女の子とおっさんが特に内容もなく大いに盛り上がっている感じだった。私はちょっと鬱陶しいなあと思うようになっていたが、その盛り上がりはそれほど長くは続かず、数十分後には富士本さんは完全に酔っ払って机につっぷしてしまった。

「富士本さん大丈夫?」と声をかけると、「大丈夫です」と答えていたが、しばらくすると立ち上がりトイレに駆け込んだ。トイレからは胃の中のものが逆流する音と嗚咽が聞こえてきた。私は心配しつつ困惑していたが、父はなんだか楽しそうだった。

トイレから出てきた富士本さんは嘔吐したことですっきりしたのか、「眠い」とくり返しつぶやいていた。私としてはそんなに父の家に長居するつもりはなかったのだが、仕方がないのでとりあえず富士本さんに父がいつも寝ているベッドで寝てもらうことにした。私は富士本さんにかなり戸惑っていたが、父は富士本さんのことが気に入ったようだった。お酒につきあってくれたのがうれしかったのだろう。富士本さんが小さな寝ゲロを吐いても「かまへんかまへん」とうれしそうだった。

富士本さんが目覚めるまで、することもなくぼんやりとテレビを見ている私を見て、父は「お前は忙しいやろうから、先に帰ってもいいぞ。わしがタクシーで送るから」と何度か言ってきた。私は父の言葉に甘えてしまおうかと思ったが、思い直して自分も待つことにした。

二時間ほどして、富士本さんは目を覚ました。もし自分が富士本さんの立場だったらいたたまれない気持ちになるだろうと思うが、富士本さんが何を思っているのかはよくわからない。まだ酔いが残っているのか、事態が把握できていないのか、心のなかでは「やってしまった」と思っているがそれを表には出さないようにしているのか、よくわからないが富士本さんは自分が酔いつぶれたことにはまったく言及せずにゆったりと帰り支度をおこなっていた。その姿には堂々としたところがあった。

タクシーが来たので、父の家を出る。去り際、富士本さんが父に「今日は本当にどうもありがとうございました」と言うと、父は「またぜひ来てください」と言った。富士本さんは寝ゲロには言及しなかったので、本人は気づいていないんだろうと思った。

 

私はよくわからない気持ちになっていた。

富士本さんは休みを返上して来てくれているのであり、ここまで付き合ってくれたことに対してありがたいという気持ちはあった。だが、どうして取材対象の家に初めて訪れたときに酔いつぶれることになってしまうのか。どういうつもりで酔いつぶれるまで飲んだのか(どういうつもりも何もないのか。ただ飲み過ぎてしまっただけなのか)。自分の場合に置き換えてみると、それはちょっと考えられないことのような気がした。

だが、結果的に父は富士本さんのことが気に入り、私もこれまで自分のことを取材してくれた人たちとは異なる感情を富士本さんにもつようになっていた。もちろん、そんなことを狙って富士本さんは酔いつぶれるまで飲んだわけではないだろうが。

駅に着くまでのあいだもずっと酔いがさめきっていないような状態だったが、富士本さんは私に丁寧にお礼を言って実家の高槻へと帰っていった。

 

1981年、京都府生まれ。2006年、神戸大学発達科学部人間発達科学科卒業。2015年、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞。著書に写真集『father』(青幻舎)。近年の主な展覧会「悪い予感のかけらもないさ展」あざみ野市民ギャラリー(2016年)、「STANCE or DSTANCE?わたしと世界をつなぐ『距離』」熊本市現代美術館(2015年)など。
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