第16回 第三の匿名性、真空へ

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。伊藤整『火の鳥』の読解を受けての第16回は、ペルソナ的匿名性とノッペラボウ的匿名性を意識的に切り替えながら並走させる、「第三の匿名性」の可能性について。

 

伊藤の比較文学史が実際に正しいかどうか。そもそも、文学とは作家のエゴを表現するもの、という小説観に現在どれほどの説得力が宿るか。疑問はないわけではない。

けれども、そういったことをすべて無視して先に進めば、エミは、ぺルソナに基づく公的領域を必要としない日本社会に対して、いわば仮面淑女として果敢に立ち向かったヒロインとして造形されている。その闘争的な精神は、(西洋人と日本人という)混血性という設定によっても鼓吹されているようにみえる。

ただ、日本の仮面淑女は伊藤文学論からすれば、いささか意想外な結論に導かれる。つまり、仮面を装着した役者として役に徹しようとするエミは、そのために却って日常の舞台化を止められず、いつのまにか自分自身が面の裏側のように没面化していく、ということだ。アイデンティティの編集権を握るためのアクションが、翻って映画監督や新聞紙への権利譲渡に通じてしまう。それは、「空気」を支配しようと躍起になるのにいつの間にか「空気」に服従してしまっている過程と同期している。

仮面淑女は、ペルソナがノッペラボウとが、声が息遣いとが、セットで成り立たねばならない逆説を体現している。

仮面淑女の敗北

仮面淑女こと生島エミはペルソナ的匿名性がノッペラボウ的匿名性へと横滑りしてしまう陥穽にはまってしまった。この状態は小説末尾に至っても決して克服されない。

映画に参加したエミと入れ替わるかのように舞台、とりわけ左翼演劇に没頭して警察にマークされるようになった長沼敬一。薔薇座は自分たちの評判を守るため、彼との密会をエミに禁じる。だが、たまたま訪れた映画のロケ地で長沼の(警官の眼を掻い潜って秘密裏に開催される)政治的演説を観劇するだんになると、エミはその場の空気に流されて「私の内部から、もう一人の私が飛び出そうとするように、押さえがたい衝動」を感じる。

が、その一瞬の興奮が過ぎると、「あれは私を作り、私を動かしているのと同じ組織の力が反対に働いた一つの場面にすぎないのだ。それなのに、局外の、反対の秩序にはめこまれた私が、それに動かされて、自分を失った」と反省するに至る。演劇理論家や映画監督に支配されるのと同じく、「人形」を操る組織の力に屈服するしかない舞台役者の敗北にほかならない。場を支配するための演技が場から支配される格好の隙に転じることで、この小説は幕を閉じる。

「真空」に身を置く

ただ、エミが演技の仮面を外す例外的瞬間が終盤のある一景に描かれていたことは読み逃せない。ロケ地へ赴く直前、つまり薔薇座分裂の危機から脱し、男たちとの騒動にも一応の決着をついた束の間、エミは冬の東京の街を一人で歩きながら「身のまわりに誰もいないシーンとした孤独な人間」になれたことを感じる。

いつからか忘れていた、私だけの、私ひとりの生活が一滴ずつしたたり落ちるように味われた。今の私には、無理に私の心を動かそうと働きかける人もない。相談する人も、争う人もない。真空のような静かな生活のなかに、突然私は生きていた。〔中略〕ものの音が聞え、ものの姿が見える、私というこの静かな存在。私の心のまわりにある静かな空間。私はまた私自身になったのだ。私はひとりだ。私は、この私から、まわりのものを見て判断することができる。(『火の鳥』第八章第一節)

都市の雑踏のなかで孤独な自分を取り戻すという類似シチュエーションは、先行する『鳴海仙吉』のなかで既に描かれていた。東京から故郷である北海道の落谷村に疎開した文芸評論家、そして大学の教員でもある鳴海仙吉は、自分の過去を知り尽くし監視の眼を光らせた閉じた村社会は勿論のこと、衒学的な虚勢の張り合いに終始する大学界にも気疲れを覚える。が、大学からの帰路で通過する「人口二十万の札幌市」の人込みのなかを歩いていると、不思議と「自分自身に帰ったような」一時のオアシスにいやされる。

どうして雑踏のなかで、彼らは自身自身を取り戻すのだろうか。それは、顔見知りばかりいる流動性のない共同体とは違って、都市における不特定多数の面の通過、常なる交代が、他者から要求される役割や物語から離脱する機会を与え、なおかつ、全体=総計に融解することのない何者でもない私を、一種無味乾燥で内容空疎な仕方で回復させるからだ。

ものの音を聞くことは、声に耳を傾けることとは違う。雑踏は他者の声を複数の音の重層という仕方で非人間的に翻訳する。他者から逃れるシェルターの完成。ペルソナの声でもノッペラボウの息遣いでもない、つまりは空気に縛られない「真空」の孤独に身を置く。ここにペルソナとノッペラボウの接面を維持する有効なアイディアがあるのではないか。

ノッペラボウにスライドしてしまう

ペルソナは、公人と公人が対面するための舞台に一役買った(正しく、役をつくることで)。しかし、ここで考えてみなければならないのはペルソナとノッペラボウの接触面、あえて単純化していえば公人と私人が出会う公共空間である。

こう言い換えてもいい。〈インターフェイスがある匿名性〉と〈インターフェイスがない匿名性〉のインターフェイスを考えねばならない、と。間と塊の間を考えねばならない、と。

このように目的を修正してみたとき、第一に警戒するべきは、ペルソナとノッペラボウの切り替え感覚を欠いたスライドであるように思われる。丸山眞男が好んだ言い方をすれば「ズルズルべったり」な横滑りだ。

この困難はアレントと和辻との親和性を読んだときに既に予告されていたものだ。アレントの社会的役割分担を介した公共性概念は、和辻の間柄論とセットで読んでみたとき、その対他的性格から確固たる責任主体を立ち上げる困難を依然として内に秘めているように思われた。

実際、その役割=間柄が固定化することで、言語的コミュニケーションが圧殺、つまりはすべてが阿吽の呼吸で決定されるのではないか。その高文脈的なノッペリとした統治形態こそ「空気の支配」にほかならなかった。

声が息に反転する

同調圧力という無言のプレッシャーは、アクションに開かれていたはずの社会的役割を他者を顧みないルーティン的なお役所仕事に堕落させる。その膠着した役割をユニークネスを喪失した「歯車」と呼んでもいい。

宇都宮芳明や湯浅泰雄は、和辻倫理学を批判して、和辻のいう「間柄」は元来は人と人の間を指していたにも拘らず、論が展開していくにつれ間という差異を無くした統合された「全体性」に置き換えられてしまう、と指摘する。この困難は間柄が日常化して硬直すれば、コミュニケーションが自動運動化して対面の緊張を維持できないという事態に通じている。対面しているはずなのに全然こちらを見てくれない……アア、ウン、ソレ、アレ、ですべてが進む。ちょっと、あなたは誰と喋っているの? よくあることだ。

ここにおいて、複数の他者との対峙のなかで現れるはずのは消え失せ、公共空間が私的空間に反転してしまっている。ペルソナがつないだ誰でもないを行き来する連絡線が途切れ、端に誰でもないのノッペラボウ的深淵にみな滑り落ちてしまっている。

驚くなかれ。声の政治だったものが、いつの間にか、息遣いの政治に取って代わられているのだ。どの時点でこんなことになってしまったのか!

スライドを止めるスイッチ

問題なのは、公でも私でもなく、この無自覚なスライド的交代にある。スライド自体は極めて自然なことだ。それは声というものが、空気とともに、声にならない息遣いとともに発せられることの一つの必然だ。

けれども、その無自覚を放置すれば、ペルソナを過信し、割り当てられた役割に盲従することによって寧ろ逆説的に公共性を裏切ってしまう放置された私人たちが群れをなすだろう。ユニークネスのない集塊が帯びる傾向性から逆算して、暴力的でないスマートな統治形態を発見することに期待をかけるとしても、その場合であれ、ノッペラボウとの対峙は不可避だ。

無自覚な横滑りを自覚することで、よりマシなペルソナとノッペラボウの並走を期待することができる。「ズルズルべったり」を一律に禁止するのではなく、できる限りズルズルやベタベタの粘度を測定し、ペルソナがノッペラボウに絡めとられてしまう瞬間を敏感に感知せねばならない。

スライドではなくスイッチのような切り替え感覚を身につけること。責任と無責任の間のメタ責任とでもいおうか。これを手にする限り、ペルソナは、あたかも他のペルソナに対するかのようにノッペラボウと対面することができる。対面しようとすること、その姿勢自体がノッペラボウに対して既存の全体性に屈さない新しい特徴を提供し、また、ペルソナの方はに還るという自らの本分を思い出す。

二つの匿名性を暴走させずに、生産的で有意義なものとして活用していくためには、両匿名性の中間にあって、その間的位置の自覚を呼び覚まそうとする思考のカラクリが求められる。

これを私たちは「真空」の政治、第三の匿名性として考えてみたい。

参考文献

  • 伊藤整『鳴海仙吉』、『伊藤整全集』第五巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、八四―八五頁。もとの単行本は、細川書店、一九五〇年。
  • 伊藤整『火の鳥』、『伊藤整全集』第五巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、四三七頁、四三八頁、四五八頁。もとの単行本は、光文社、一九五三年。
  • 宇都宮芳明「人間の『間』と倫理」、佐藤俊夫編、『倫理学のすすめ』、筑摩書房、一九七〇年。とりわけ、一三五頁。
  • 丸山眞男『日本の思想』、岩波新書、一九六一年。とりわけ、一一頁。
  • 湯浅泰雄『和辻哲郎――近代日本哲学の運命』、ちくま学芸文庫、一九九五年。とりわけ、三五〇頁。もとの単行本は、ミネルヴァ書房、一九八一年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo