第2回 詩の女神と薄皮一枚

テンション高めでこの連載の第1回を開始してから、早くも半年になってしまった。
 「こっちはね、大学で同じ内容の講義をやってんだから、週1ペースでアップしてやりますよ!余裕ですよ」と豪語していた気もするが、その春学期の講義もとっくに終わって、早くも秋学期の中盤を迎えてしまった。
 途中までは担当編集者氏からなんとなく催促の雰囲気もあったのだけど、それも今ではまったく消えてしまった。
 糸の切れた凧が、ネットの大洋にプカリプカリと漂っている。それがこの連載「生き延びるための美学」の現状だ。

事情があるのだ。
 実は一度、幻の第2回を書いてはいたのだ。6月のことだ。
 そう、書いたんですよ。赤穂浪士並みの義理堅さだと思いませんか。
 だけど、これが本当にひどいシロモノだった。
 ちょっとだけ、中身を引用すると、こんな感じ。

「オ~~フロイデ、ニヒトディ~~ゼ~テ~ン♪」
 やばいっすね。パイセンのバリトン、激ヤバっすよ!すごいっす。え?うるさい?黙って聞いてろ?え?なんすか、俺を見ろ?自分に親指向けて、なんなんすか?意味わかんないっす。あ、歌詞が出てきた、始まるっす。
 「フロ~~~イデ!フロイデ!フロイデ!」
 わかったっす!フロイデとフロイトかけてんすね!それでこの曲選んだんすね、すごいっす。パイセン、マジ凄いっす、やばいっす。マジっす。

もう意味わからないでしょ?
 一応説明しておく。僕と精神分析の祖であるフロイト先生が、同じ部活(当時流行ってたアメフト部ね)の先輩後輩になったという設定だ。そして、先輩であるフロイトが僕をカラオケに連れていって、ベートーベンの「歓喜の歌」を延々と聞かせるという絵空事を書いていたのだ。
 なぜそんな意味のないことを思いついてしまったのか、もう覚えていないのだけど、書いているときは、シュールな設定が面白過ぎると思って、二人でカラオケしているシーンだけで4000字も書いてしまった。喫茶店で一人、大笑いしながら書いているのだから、どうかしてる。
 だけど、気づいてもいた。「なんかおかしいな、大丈夫なのかな、これ」とときおり不吉な気持ちになっていた。そこで友人に読んでもらったところ、「正直、何が面白いか全くわからないです、つまんないよ、これ」と真顔で言われてしまったのだった。
 玉手箱を開けた瞬間の浦島太郎級の目覚めだ。討ち入りを終えた後の赤穂浪士級の大後悔だ。あるいは千年の恋が冷めて、大量のリボ払いが残っていたときの心境だった。
 「俺は一体、何をやってるんだ、どうかしてる!」
 そう言われてから読み直すと、全然面白くなくて、ただのバカに見えるから不思議だ。
 そういう事情で、すっかり心が折れてしまった。それで、この連載のことは忘却することにしたのだ。

 

薄皮一枚

そもそも私はネットにまとまった文章を書くのが、どうも苦手だ。
 フロイトが「フロイデ!」とシャウトしているような謎のカラオケ場面に夢中になってしまうように、私の場合、文章を書いていると、ちょっとおかしくなってしまうときがある(普段は完璧な小市民として生きているのに)。
 そういうものが、そのままワールドワイドウェブに放り出されて、不特定多数の人に読まれてしまうと、裸で大通りに放り出されているような気持ちになってしまう。
 ほら、炎上とかって、裸だと気づかずに裸で歩行者天国に出ちゃうようなものじゃないですか?
 ネット怖いよ。

その点、本や論文などの実際に紙媒体で出版されるものはいい。
 出版されるまでに時間がかかるので、その間にクールダウンができるし、書いたものには編集者のチェックが入るからだ。
 「すいません、言いにくいんすけど、チャックがほんのり空いたり空いてなかったりしてるし、お尻のところもちょいと破れてるような気もしないではないような・・・あと、鼻毛もね、春の新芽みたいっすよ、いやこれも季節ものみたいで俳味があるっちゃあ、あるんですけどね、へへへ」と編集者氏が傷つかないように言ってくれる。
 すると、私もチャックを閉めて、鼻毛を切って、ズボンに薄皮一枚をパッチワークすることができる。みっともないことにならないように、自分を取り繕うことができる。

そう、薄皮一枚って、本当に大事なのだ。
 私たちの生きている世界は、自分を偽らないこと、「ありのままの私」であること、自然体であることが良きことで、仮面をかぶらず、素顔のままでいることが推奨されがちだ。
 自己啓発本なんか読むと、自分の中に潜んでいる「本当の私」を発見して、本当にやりたいことに正直に生きられると、元気が出てくると盛んに語られている。
 「ユー、その薄皮一枚、脱いじゃいなよ」って、このデスペラートな新自由主義社会は言ってくる。

だけど、実際のところ、薄皮一枚をきちんと羽織っていることができなくなると、私たちはとても傷つきやすくなってしまう。
 ありふれた心理療法家としては、どうしてもそう思ってしまう。
 心理療法の仕事をしていると、その薄皮一枚がどうしても手に入らなくて、苦しんでいる人に出会うからだ。
 自分からひどい臭いが漏れ出しているのではないかと不安になったり、周囲から考えを見抜かれているように感じてしまったり、つい大切な人に剥き出しの悪意をぶつけてしまったり。
 自分のことをうまく取り繕えなくて、薄皮一枚をうまく羽織っていられないことで、人は傷ついてしまう。
 当然だ。裸で道に放り出されたら、誰だって怖い。
 そういう人が、どうにかこうにかして薄皮一枚を手に入れるお手伝いをするのも、心理療法家の大事な仕事なのだ。

心理療法というと、もしかしたら服を脱がすイメージがあるかもしれない。
 お医者さんに行ったら、服を脱いでもらって、体の診察と治療をするわけだけど、同じように心理療法は普段着込んでいる心の衣や鎧を脱ぐところだというイメージがある。
 それはそれで間違ってはいなくて、そういう場合もあるのだけど、それだけじゃないのもまた事実だ。
 服を着るためのお手伝いをするのも、心理療法なのだ。

 

詩の女神は隠す

生き延びるための美学とは、この薄皮についての心理学だ。

ラ・フォンテーヌという作家の「寓話集」という作品に、真実の女神と詩の女神を描いた挿絵がある。
 その絵の中で、真実の女神は裸だ。そして、その裸を見せつけようとしている。「ワタシを見てチョーダイ」と言わんばかりに、ガバーっと自分を晒している。
 だけど、面白いことに、詩の女神は、そんな真実の女神の陰部に、布をかけようとしている。恥ずかしいところを、後ろから隠してあげようとしているのだ。

そう、詩の女神、つまり美の神様とは隠す女神なのだ。モザイクをかけ、マエバリで大切なところを隠す。剥き出しで、傷つきやすい部分に、薄皮一枚をかぶせてあげて、見えないようにしてあげる。生々しいものをオブラートに包む。
 美とはこの薄皮のことだ。心は生々しくて、傷つきやすい。だからこそ、心は薄皮一枚を必要とする。美はそのようにして、心を覆い、守る。

だから、友人にどうしても言わなきゃいけないけど、言ったら傷つけてしまうかもしれない事柄について、伝わるための言葉を入念に選んで「その鼻毛、春っぽいよ、生命力感じるなぁ」と婉曲に伝えるとき、あなたは生き延びるための美学の中にいる。
 あるいは、職場で恥ずかしい大失敗をしちゃった次の日に、本当は同僚に顔を合わせることができないと思っているのに、それでもなんとか普通を装って出勤しようとしているとき、あなたは生き延びるための美学の中にいる。
 Facebookで楽しそうな日常だけをアップしているリア充が、そうやってつらい自分やみじめな自分をキラキラしたもので覆っているとき、リア充は生き延びる美学の中にいる。

私だって同じだ。
 おかしな文章を書いてしまったことを教えてもらって、原稿をなかったことにしているとき、そして今のようにボロだらけの原稿を必死に推敲して読めるものにしているとき、私もまた生き延びるための美学の中にいる。

取り繕うこと、装うこと、隠すこと、猫を被ること、きれいに見せかけること、そういう薄皮一枚は私たちが生き延びるために不可欠なものなのだ。

それじゃあ、その薄皮は何によって可能になるのか?
 その問いへの答えは、「裏方と時間」ということになるのだけど、その詳細は次回以降に譲ろう。
 あるいは、その薄皮の正体とは何か?
 自我だ。と言いたいのだけれども、やはりその詳細は次回以降に譲ろう。

生き延びるための美学は、まだまだイントロダクションなのだ。
 長い長いイントロダクションで、本編をデコレートする。薄皮一枚を張り巡らす。
 そうやって、生々しいものを覆う。それは、心の健康のために、とても大切なものなのだ。
 だから、ボロを出す前に、薄皮一枚をうまくかぶれているうちに、この文章も終わってしまおう。

それでは皆様、ごきげんよう。
 お次はまた半年後!
 にならないといいなぁ。

 

 

1983年カナダ生まれ。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、現在、十文字学園女子大学専任講師。博士(教育学)・臨床心理士。2017年3月、「白金高輪カウンセリングルーム」を開業。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か』(誠信書房2015)、『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房2017)、そして翻訳書に「心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるのか」がある。

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