第1回 躁転したマーク・フィッシャーとしてのオルタナライト

左翼が本来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」[1]とマーク・フィッシャーは書いた。

いまや資本主義だけが唯一可能な政治・経済的制度だとみなされ、それに代わるオルタナティブは想像することすらできない。そのために深刻な無力感と文化・政治的な不毛さが広がり、わたしたちは「再帰的無能感」[2]に襲われている。うつ病をはじめとしたメンタルヘルスの蔓延は、資本主義が本質的に機能不全であることの証しである。左翼は資本主義そのものを撃たなければならない、というのが『資本主義リアリズム』で書かれたことだった。

しかし、「歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない」[3]と語ったフィッシャーだったが、フィッシャーじしんもうつ病を患っており、2017年に自殺してしまった。フィッシャーが自殺した事実によって、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という言葉がふたたび確かめられてしまった。再帰的無能感……。

『資本主義リアリズム』の翻訳は昨年刊行された。論壇時評でもあつかったが、実はそれほど感心はしなかった。しばしば指摘されるが、フィッシャーの主張の多くがスラヴォイ・ジジェクと重なっていたからである。とはいえ、自分よりやや年下のひとたちがつくった雑誌『Rhetorica#04』で『資本主義リアリズム』が大きく扱われていて[4]、ある種の時代の「気分」はつかんでいた、と思い直した。つい先日も、ミュージシャンで小説家の中原昌也が「泣いたよ。この居ごこちの悪さを、ここまで冷静に分析できる著者が、何故自殺せねばならなかったのか…」とツイートしているのが目に入った[5]

『資本主義リアリズム』はリーマンショック直後の2009年に刊行されている。しかし、西周研究者の石井雅巳が指摘するように[6]、リアルタイムで翻訳されたとしても、それほど反響はなかっただろう。日本も年越し派遣村など世界的な不況の影響を受けていたが、民主党の政権交代によって希望めいたものが語られていた時期だったからだ。政権交代を「革命」と呼んだ人もいたが、その結果は惨憺たるものだった。再帰的無能感……。

ところで、資本主義のオルタナティブを想像すらできないという無能感が、トランプ大統領を誕生させたのだとしたら、どうだろうか?

トランプ大統領の誕生でオルタナライトと呼ばれる集団に注目が集まったが、オルタナライトに影響をあたえた思想家にニック・ランドがいる。『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の木澤佐登志はランドの「加速主義」について次のように紹介している。「加速主義」とは「資本主義のプロセスを際限なく加速させることで、あらゆる既存の体制や価値観を転倒させる技術的特異点=シンギュラリティを志向する思想」[7]である。しかし、シンギラリティ=特異点にいたったとしても、なにが起こるかは誰にもわからない。ランドによれば、「特異点の向こう側の「外部(outside)」から到来する「全き未知のもの」、それをただ受け容れ、歓待することしか我々にはできないのだ」[8]という。

資本主義の果てに黙示録的世界を待望するランドにたいして、フィッシャーは「際立って楽天的なものを提示している」[9]と批判している。フィッシャーの批判を敷衍すると次のようになるだろう。

ランドの思想はドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を下敷きにしている。ドゥルーズ=ガタリは現代資本主義において「脱領土化」という「解体」のプロセスと、「再領土化」という「統合」のプロセスを指摘したが、「加速主義は、前者の脱領土化のプロセスのみを徹底的――「特異点」――に至るまで推し進めようとする」[10]

しかし、とフィッシャーはいう。ランドが想定する「脱領土化」だけの「「純粋」な資本主義」など存在するのだろうか[11]。ドゥルーズ=ガタリも脱領土化と再領土化の区別は不可能であり、同じひとつのプロセスの裏表のようなものなのである、と言っていたはずだ。ランドは資本主義によって国家など「反生産の装置」を解体しようとしているが、しかし、資本主義は国家とワンセットではじめて成立するシステムではなかったか、と。フィッシャーのランド批判はおおむね正しいように思う。

ところで「加速主義」は左翼にとっておなじみのものだ。たとえば、マルクスの『資本論』の次の一節は有名である。マルクスの勢いある筆致が翻訳でも感じられると思うので、少し長いが引用しよう。

この集中とならんで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される[12]

資本主義を加速させれば、資本主義は終わることになる。ゴーン、と鐘が鳴るわけだ。マルクスの資本に対するアンビヴァレントな態度はドゥルーズ=ガタリにも受け継がれている。ドゥルーズ=ガタリもニーチェに倣って「過程を加速すること」[13]と述べていたし、ふたりの思想を紹介した浅田彰も「加速する資本主義への、鮮やかな褒め殺し」[14]をせざるをえなかった。しかし、マルクスが予言したように鐘は鳴らなかった。次に来たのは帝国主義の時代だった。国家をエージェントとすることで資本主義は延命したわけである。その意味で、ランドにたいして国家の問題を指摘したフィッシャーの批判は正しい。

だが、フィッシャーの批判にもかかわらず、最終的に自殺してしまったフィッシャーと、楽天的にアポカリプスを待望するランドは、同じコインの両面のように見える。フィッシャーはランドの教えを受けていたそうだが、資本主義に対する無能感が両者には共有されている。つまり、「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方がたやすい」とフィッシャーは述べるが、「ならば、資本主義によって世界を終わらせてしまえ」というのが、ニック・ランドではないだろうか。加速主義のイケイケドンドン感は「再帰的無能感」ならぬ「再帰的万能感」なのであり、ニック・ランドとは躁転したマーク・フィッシャーなのである。一時期はアンフェタミン中毒だったというランドは、思想的にもハイなのだ。しかし、「資本主義の最期を告げる鐘が鳴る」ことを信じられないランド的加速主義は、「世界の最期を告げる鐘が鳴る」ことを待望してしまう。オルタナライトには資本主義のオルタナティブを想像できない無能感が隠されているわけだ。

しかし、ランドが待望した「外部」は「脱出」として「矮小化」されているようだ[15]。ランドの影響を受けたとされるオルタナライトは世界が終わるまえにせっせと「脱出」を図っているらしい。PayPalの創業者のピーター・ティールは50万ドルを出資して、南太平洋に「シーステッド」という海上自治都市を構想する研究所をつくったという。2020年までに約1億6700万ドルをかけて300人分の住居やホテル、オフィスなどを建設する計画で、2050年頃までに独自の統治モデルを掲げるシーステッドを1000島ほどつくることを目指しているようだ[16]。しかもその研究所の所長は、新自由主義の経済学者として知られるミルトン・フリードマンの孫であるらしい。

「自由と民主主義はもはや両立しない」[17]というピーター・ティールの言葉ほど、オルタナライトの立場を象徴するものはないだろう。しかし、戦後民主主義(リベラル・デモクラシー)の夢を捨てきれず、「デフレ脱却手当」として月一万円をばらまーくというリベラルよりは[18]、オルタナライトの開き直った階級的な態度のほうが、左翼にとって学ぶべきことが多いのではないか。新反動主義者のカーティス・ヤーヴィンが言うように、「自由にとって民主主義は悪である」[19]ならば、その悪役を買って出るのが左翼というものだ。しょせん、オルタナライトがいう「自由」なんて富める者の「自由」でしかない。どうせ世界が終わっても貧乏人は「脱出」できはしないのだ。それがオルタナレフトとして正しい態度ではないか。もちろん、それは万能感と無能感から遠く離れて、である。

[1]マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイほか訳、堀之内出版、2018年、p.10
[2]フィッシャー、前掲書、p.30
[3]フィッシャー、前掲書、p.198
[4]瀬下翔太ほか「生き延び(サバイブ)ってしまった一〇年」『Rhetorica#04 棲家 ver.0.0』、team:Rhetorica、2018年
[5]https://twitter.com/sexybboy_re/status/1092157273139363840
[6]石井雅巳、松本友也「私家版一〇年代文学部小史」『Rhetorica#04 棲家 ver.0.0』、pp.30-31
[7]木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』イーストプレス、2019年、p.184
[8]木澤、前掲書、p.185
[9]フィッシャー、前掲書、pp.117
[10]木澤、前掲書、p.185
[11]フィッシャー、前掲書、pp.118
[12]カール・マルクス『資本論 第3巻』向坂逸郎訳、岩波文庫、1969年、pp.414-415
[13]ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳、河出書房新社、1986年、P.287
[14]千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出書房新社、2013年、p.17
[15]木澤、前掲書、p.217
[16]渡辺靖『リバタリアニズム』中公新書、2019年、pp.24-29
[17]木澤、前掲書、p.197
[18]https://rosemark.jp/wp-content/uploads/2019/01/manifesto2019ver.1a.pdf
[19]木澤、前掲書、p.197

批評家。1988年生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。その他、『週刊読書人』や『現代ビジネス』などに寄稿。新刊『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が発売中。twitter