第5回 平坦な地獄が待っているだけ

精神疾患、自殺未遂、貧困、機能不全家族など、いくつもの困難を生き抜いてきた著者は、あるとき気がついた。じぶんの生きづらさは、女であることでより深刻化させられてきたのではないか。かつて一ミリも疑ったこともなかった「男女平等」は、すべてまちがいだったのではないか。女であることは、生きにくさにつながるのか? ジェンダーの視点を得ていま語る、体験的エッセイ。

高校生になってすぐに私は美術のアトリエに通おうと思い、見学に行った。子供の頃から絵が好きだった私は幼い頃に美大の存在を知って、将来はそこに通おうと考えていた。美術の成績だけはいつも良かったので、両親も賛成してくれると思っていた。それに、私の兄が将来は建築がやりたいと言って、高校は建築科のある工業高校に通っていたので、私もやりたいことがやらせてもらえると思っていた。

アトリエに通わせてくれとお願いすると父はこう言った。

「エリコは絵が上手いし、美術の成績もいいから行けばいいんじゃないか」

私はホッとして、アトリエのパンフレットを渡す。そこに書かれている金額を見て父は激怒した。

「こんな金、出せるわけないだろう!」

パンフレットを床に叩きつける父。私は驚いてしまって声が出ない。アトリエにかかる費用は年間20万から30万くらいだった。確かに高いかもしれない。けれど、これは遊びのお絵かき教室ではなく、受験のための勉強なのだ。出してくれたっていいじゃないか。それに、兄は好きな建築をやっている。なのに、なぜ私はやりたいことをやらせてもらえないのだ。しかし、父の前で、これ以上強く言い出せなかった。私は自分の部屋に引きこもって悔しくて泣いた。

兄の部屋の前を通ると机の上に立派な製図台があった。あんな高いものを兄には買うのに、私には買ってくれない。私は子供の頃から家でも絵を描いているけれど、画材のお金はおこずかいから自分で出していた。私の絵は一枚も飾ってくれたことがないのに、居間には兄が学校の授業で描いた建築物の絵が飾られていた。兄は勉強ができないし、悪さをして学校を停学処分になったこともある。それに比べたら私の方が良い子供なのではないか。勉強がものすごくできるわけではないけれど、成績は真ん中より上だし、校則を破ったこともない。兄はすでに悪さを覚えて、タバコを吸い、改造した学生服を着ていた。短ランにボンタン、紫の裏地の制服を着て、兄はいきがっていた。

「俺が睨むと、よその高校のやつビビって逃げるんだぜ」

そうやって自慢する兄の方が、欲しいものを与えられていることがおかしく思えた。しかし、私は何となく気がついていた。兄がこの家の長男であり、小林家を継ぐ人間なのだ。だから兄は大事にされるのだ。私はいつか結婚したら他の家の人間になる。だから、教育にお金をかけることは不必要なのかもしれない。それに、結婚して母のように専業主婦になったら、学んだことなど意味をなさないのではないか。家事をし、育児をして一生を終えるのなら学校での勉強は無意味ではないか。女の人生とは何なのだろう。ふと、胸に手をやると少し膨らんでいて、柔らかかった。その柔らかさの分だけ私は悲しかった。

美術への道が諦められないまま高校へ通った。しかし、勉強する気持ちが全く起きない。希望する進路に進めないのに、学校へ行く意味なんてないような気がする。私は心から力がどんどん失せてきて、うっすらと死ぬことを考え始めた。そんな状態でも学校に通っている限りは定期テストがやってくる。留年だけはしたくないと思い、テスト前は必死に勉強した。そして、例のハゲ先生のところにも通った。

私はあんなに大嫌いなハゲ先生の元へ中学を卒業した後も通い続けていた。私は数学だけが死ぬほどできない。もう何をどうすればいいのかわからないのだ。平均点以下でもいいから、赤点だけは免れるように勉強した。それに、ハゲ先生は無料で教えてくれるのだ。アトリエの代金を見て激怒する父が塾に行かせてくれるとも考えにくいし、自分から塾に行きたいとも言えなかった。ハゲ先生のもとで数学を勉強しながら、早く逃げ出したいと考えていた。もう、あの顔を見るのも嫌だった。二年生になって数学が選択制になったので、私は迷わず文系コースを選び、数学から逃げた。数学が必須科目からなくなって、私はハゲ先生の元に通うのをやめた。当たり前だが挨拶も何もしなかった。

ハゲ先生からしたら、長い間教えていた生徒が挨拶もなく来なくなるのは、不愉快だったかもしれない。しかし、加害者というのは自分がした罪の重さを理解できていないのだ。自分がしていることは犯罪だと思わないから、行動に起こせる。私や他の女生徒の胸を触っていたことはハゲ先生にとってはただのスキンシップだと思っていたのだろう。どれだけ私たちが嫌だったか理解できないから行っていたのだ。それに、私たちはハゲ先生が胸を触ってきたとき、怒ったり怒鳴ったりしなかった。

私は一度、本気で怒ったが、他の子達は笑っていた。それは私たち女の優しさだ。男である彼の性欲をいなして、罪に咎めないであげていたのだ。でも、そうやって笑いあっていたことで、ハゲ先生は私たちが喜んでいたと考えていたかもしれない。普通に考えれば、男性が女性の胸をなんの断りもなく触ることなどおかしいのだ。けれど、その普通が男女間では通用しない。男と女の圧倒的な力の差、社会的な立場を考えると、どうしても女は男の暴力を許すしかないのだ。

高校生活は黙々と過ぎていった。高校三年生になって進路指導が始まったが、私は自分の進路を書けなかった。行きたい美大はたくさんあるけれど、他の大学には全く興味がなかった。美大にしか行きたくなかったが、アトリエに通っていないので、受験で落ちるのは目に見えていた。進路の紙を白紙で出し続け、とうとう三者面談が行われた。

行きたい大学がないという私に向かって担任は「四大に行ったらどうだ」と言ってきた。アトリエにすら通わせてもらえないのに、四年間も学費を出してもらえるのだろうかとぼんやり思った。だいたい、行きたくもない大学に行って時間を潰すのはとても勿体無いのではないか。それに、学校が大嫌いなので、学校と名のつくところにこれ以上行きたくなかった。家に帰ると、家族会議が始まった。父と母と兄が私を囲んで進路の話をし始めた。みんなが大学へ行けと言った。私は行きたくない理由を言えず、ただ、進学する気は無いと言うしかなかった。

「大学くらい、行けよエリコ。お前、俺より勉強できるじゃないか」

兄が口を開くと、母も呼応した。

「そうよ、エリちゃん、大学行きなさいよ!」

父も頷いている。

私は断れなくなって、大学に行くことを約束した。ただ、四大には行きたくないので、短大にさせてくれと言った。

学校案内を開くと、短大は女子大しかなかった。思えば、短大ってなんなんだろう。ただ、女性が箔をつけるだけの大学の気がする。女性は男性より学歴が高いと嫌われる傾向がある。その点では短大は女性が通う大学として最適な気がする。高卒だと通りが悪いけど、短大なら外聞も悪くない。それに、男より上に立つことは決してない。私は不本意ながら短大に通うことにした。短大に受かっても少しも嬉しくなくて、ただ、この先も平坦な地獄が待っているのだなと予感した。

短大の入学式は爽やかに晴れていた。私は黒のスーツを着て短大の校門をくぐった。女の子たちはみんな髪の毛を長くして、綺麗に茶色く染めていた。金ボタンのついたスーツを着ている子もいて、まるで水商売の女の人みたいだった。私は高校ではあまり勉強をしなかったのと、短大ならどこでもいいという理由で、絶対に受かるめちゃくちゃ偏差値の低い短大に入学を決めたので、周りの子もそんな子ばかりなのは当然だった。私は絶対にこの短大ではうまくやれないだろうなと思った。みんなブランドのバッグを手に提げていて、化粧を綺麗にしている。それに引き換え私は男の子のような短髪に、ノーメイクでノーブランドの地味なバックを下げていた。

入学式が済んで校門を出て駅に向かう途中、他の大学の男子生徒がチラシを配っていた。どうやらサークルの勧誘のようだった。みんな目の前にチラシを渡されて、もらいすぎて困っていた。しかし、そのたくさんの勧誘の男子から私は一枚もチラシをもらえなかった。もらいたかったわけではないけれど、少し傷つく。私はこの時にようやく、自分がジャッジされる側なのだと気がついた。別に私はコンクールのステージに希望して立っているわけではないのに、勝手にランクをつけられていたのだ。私は人間の美しさは内面で決まると思っていた。そうして、なるべく良い行いをしようとしていたし、たくさん本を読んだりしていた。だけど、そんなことは一ミリも関係ないのだ。男のような風貌をして、顔に粉ものせない女は男から求められることはない。もちろん、私もそんな男は願い下げだと思っていた。しかし、私はまだ誰のことも好きになったことがなかった。

 

1977年生まれ。茨城県出身。短大卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職、のちに精神障害者手帳を取得。現在は通院を続けながら、NPO法人で事務員として働く。ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。著書に『この地獄を生きるのだ』『生きながら十代に葬られ』(共にイースト・プレス)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社)、最新刊『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房)が5月10日より発売。

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