6 バロウズとフーコー(後編その2)ーーデスヴァレー、ザブリスキー・ポイント、1975年春

魔女。箒にまたがって空飛ぶ老婆。大釜で子どもを煮て、その脂肪を取り出す魔法使い。森の奥深くで猥雑の限りを尽くすサバトの集会。こうした魔女にまつわるイメージは、長い時間をかけてヨーロッパの民衆の中で培われてきた。そこには、恐怖と共に畏敬にみちた存在としての魔女の姿が投影されていた。元来、キリスト教と出会う前の魔女信仰には、ケルトやゲルマンの土俗的な母性信仰の名残りがあった。ユングは魔女は元型のひとつであると指摘したが、実際魔女崇拝の神話類型はバビロン、フェニキアなど古代地中海世界の地母神あるいは太母神信仰(ディアナ、アルテミス、キュベレ信仰などを含む)にまで遡ることができる。だが、そうした異教の豊穣神崇拝を拒否するキリスト教がゲルマンやケルトの世界に布教されていく過程で、「原罪」の観念と結び付けられた魔女はそのイメージを歪められ、「悪魔」と契約を交わした悪しき存在として民衆の中で再形成されていく。やがて民衆の不安はマス・ヒステリーを醸成し、それが中世における異端審問と凄惨な魔女狩りの猖獗へと繋がってくこととなる[1]

もちろん魔女狩りを中世特有の現象とするのは単純化のそしりを免れがたいだろう。現に、魔女狩りはおおよそ1490年、すなわちコロンブスがアメリカを発見し、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達するのとほぼ同時期に行われ、ヨーロッパでは18世紀後半、メキシコでは19世紀まで継続した、三〜四世紀にわたる、ルネサンスから近世への転換期におけるほとんど全ヨーロッパにわたる現象であったことは、中井久夫も指摘するとおりである[2]。とはいえ、ヨーロッパにおいて魔女迫害がピークに達したのは大体1560年〜1630年の間であり、また以下で焦点を当てることになる憑依、すなわち悪魔憑きが魔女現象の中で前景化してくるのが17世紀であることを考え合わせると[3]、やはりこの時期を魔女現象におけるひとつのメルクマールとすることに異論はないかと思われる。

それまでの魔女現象が異教信仰と結びついた農村や山間部で起こっていたのと異なり、悪魔憑きは都市、それもとりわけ先進地帯であるフランスの、当時のエスタブリッシュメントが集まっていた修道院の中で起こった。フーコーがコレージュ・ド・フランスで、有名なルーダンの悪魔憑きについて言及しだすのは、1975年2月26日の講義においてである。

ルーダンの悪魔憑きとは、1632年にフランスはルーダン市において発生した悪魔憑き騒動である。ルーダンの主任司祭をつとめるユルバン・グランディエは、良家の少女たちとの恋愛問題、また同市のユルスリーヌ尼僧院の院長ジャンヌ・デ・ザンジュの恋をはねつけるなど、周囲や町の有力者から反感を持たれていた。こうした状況のなかで、ジャンヌの外17名の尼僧たちが激しい集団ヒステリーに陥り、その中で自分たちは悪魔に取り憑かれており、さらにその悪魔を差し向けたのは誰あろうグランディエであり、彼は悪魔と契約を交わしている、と告発したのだった。かくしてグランディエは魔女を支配する悪魔として逮捕され、6千の観衆の前で火刑台へと消えていった[4]。以上がルーダンの悪魔憑きの大雑把なあらましである。

フーコーは、ミシェル・ド・セルトーの著書を参照しながら、それまでの魔女現象と悪魔憑き現象を画然と区別しつつ、悪魔憑きの特異性について以下のように簡潔にまとめる。

魔女の物語がキリスト教の外的な境界に現れるのに対し、悪魔憑きは、キリスト教がその権力と管理のメカニズムをはめ込もうとする地点、言説化の義務をはめ込もうとする地点、すなわち、個人の身体そのものという内的な中心に現れます。悪魔憑きが出現するのは、キリスト教が管理と言説による強制的な個人化のメカニズムを機能させようとする、まさにそのときなのです。[5]

悪魔憑きはフーコーの語彙を使用すれば規律権力と深く関わってくる、とさしあたりは言ってよい。悪魔との「契約」が基底にある魔女現象と異なり、悪魔憑きは個人の身体、その只中において発現する。そして、そのときに立ち現れるのがまさしく「肉の痙攣」というテーマなのである。

憑かれた女の身体、それは、一つの劇場です。この身体において、さまざまな支配力と、そうした支配力同士の対決が表面化します。(中略)それは、結局のところ、包囲されたり攻囲されたりする、要塞としての身体です。それは城塞としての身体であり、また、戦場としての身体でもあります。悪魔と、それに抵抗する憑かれた女との戦い。

(中略)

痙攣とはいったい何でしょうか。痙攣とは、憑かれた女の身体における戦いが、形をとり目に見えるようになったもののことです。硬直、引き攣り、衝撃に対する無感覚などといった面において、痙攣の現象には、悪魔の全能の力、その物理的効果が見いだされます。また、やはり痙攣の現象には――戦いの単なる力学的な効果として、つまり、いわば互いに対決する力によってもたらされる衝撃として――動揺、震えなども見られます。さらにそこには、意志的ではないとはいえ意味を持つような一連の身振りも見いだされます。すなわち、抵抗したり、吐き出したり、否定的態度をとったり、猥雑で反宗教的で冒瀆的な言葉を発したりという身振りが、常に自動的なやり方で行われるということです。[6]

痙攣する肉とその身体――それは(前回確認したように)告白のメカニズムの内部に組み込まれ、他者による徹底した解釈の対象とされ、そのために一つの秘密、すなわち主体にとっての真理=知を産出することを義務付けられているような、従属化された身体であると同時に、そうした権力の身体の包囲と身体への侵入に対し苛立ち、抵抗を起こすような身体である。かくして、界面(=介入の表面)としての身体の皮膚はひとつの戦場を構成し、そして肉が震えだす。

痙攣する肉、それは、究明の権利によって貫かれた身体であり、徹底的な告白の義務に従う身体であり、そうした究明の権利や徹底的な告白の義務に苛立つ身体です。それは、余すところなく語るという規則に、無言あるいは叫びを対置する身体です。それはまた、指導に対する従順という規則に、意志的ならざる大きな動揺もしくはひそかな満悦による小さな裏切りを対置する身体です。痙攣する身体は、十六世紀におけるキリスト教化の新たな波が組織した身体の包囲のメカニズムによって最終的にもたらされたものであると同時に、そうしたメカニズムの転換点でもあります。痙攣する身体、それは、個人の身体のレヴェルにおける、キリスト教化に対する抵抗の帰結なのです。[7]

ここには、フーコーの権力論の核心があると同時に、そうした権力に抗うための抵抗のモメントが描写されている。さらに、その際の抵抗というのが、権力に貫かれた身体のどこまでも不随意的な、自動的な運動――肉の痙攣にこそ賭けられている、という点に、このテクストが孕む一種異様な佇まいを感じざるを得ないのである。

フーコーのよく知られた抵抗の戦略については、本連載04「バロウズとフーコー(中編)──デスバレー、1975年」においても、やや詳しく検討したので覚えておられる向きもあるかと思う。念の為、再度確認しておくならば、それは一言で要約すれば「逆向きの言説」とでも呼ぶべき戦略であった。フーコーは『知への意志』のなかで、「権力に対する絶対的外部というものはない」と宣言する。だが同時に、それゆえに「権力のある所には抵抗があること」を認める[8]。「逆向きの言説」は、まさに権力の戦略的場の只中において作動する。たとえば同性愛をめぐる性解放の運動では、権力側の言説である「同性愛」という同じ言葉を用いて「自分自身について語り始め、その正当性あるいは「自然性」を主張し始めた」のである[9]。権力側の言説のコードを異化させ転倒させることで奪取してしまうこと。こうした戦略は、初期クィア理論でも顕著であった。

だが一方で、フーコーはこうした「逆向きの言説」戦略に限界も感じていたという。この点について、ここでは深く立ち入るつもりはないが、フーコーはやがてセクシャリティそのものからの解放を志向するようになる[10]。そして、それはあの『快楽の活用』序文の一節に含まれた「自分自身からの離脱」というフレーズへと繋がっていくことだろう。

だが、話を急いで戻せば、フーコーが悪魔憑きとともに語った肉の痙攣という抵抗は、『性の歴史』において語られていた「逆向きの言説」による抵抗とまったく性質を異にするものだ、とだけは言っておく必要があるだろう。まず「逆向きの言説」がどこまでも言説、記号、テクストを抵抗の拠点としていたのに対し、肉の痙攣はその名の通り身体を抵抗の拠点としている。また、「逆向きの言説」は、言説や記号に対する操作可能性(ハッキング、異化、転用、脱コード化、盗用、等々)を前提としているのに対し、肉の痙攣はどこまでも非意志的な、コントロール不能な自動性に貫かれた痙攣する身体=物質を前提としている。つまり、ここにはまったく相異なる二つの交わることのない(?)抵抗の形が存在している、と言わなければならない。

あるいは、身体としてのテクスト、またはテクストとしての身体? たとえば、1977年に発表されたフーコーのテクスト――一般施療院からバスティーユ監獄にいたる、閉じ込めの古文書記録のアンソロジーの序文「汚辱に塗れた人々の生」からは、テクストを一種の「肉の震え」として看取するフーコーの姿勢が見て取れる。すなわち、「もっとも卑小な生が権力と交わす短く金切り越えのように鋭い言葉たち」を、一種の押花標本のようにして集めること。特異な生、その生きられた生のアンソロジー。

権力という可視性、その光のもとに補足された卑小な生はテクスト=古文書の内に凝結される。その生の蠢き、その震えは、長い時間を経て我々の元へと届けられるのだが、そもそも権力に包囲されることがなければ、その残酷な閃光に照らし出されることがなければ、その取るに足らない無名の生――粒子――は歴史の堆砂の奥底に沈んでいたままであったことだろう。だが、その無数の匿名的な汚辱の生、その戦いの蠢きが時空の隔たりを越えて我々の目の前に現前するのは、まさしくそうした生と権力が交叉し衝突する地点においてなのだ。テクスト、それは言葉と生が触れ合う界面であり、読むこととはその一瞬の震えを触知することに他ならない。

それらの粒子の何ものかが私たちに届くためには、しかし、少なくともほんの一瞬、それらを輝かせる光の束がやって来なければならなかった。別の場所からやって来る光。それがなければ、彼らは夜の中に潜み続けていることが出来たろうし、おそらくつねにその中にとどまっていることが彼らの定めでもあったはずの夜から彼らを引き離す光、つまりは権力という光との遭遇である。権力との衝突がなければ、おそらくそれらの束の間の軌跡を呼び起こす如何なる言葉も書かれることはなかったに違いない。彼らの生を狙い、追跡し、ほんの一瞬に過ぎないにしても、その呻き声や卑小なざわめきに注意を差し向けた権力、そして彼らの生に引っかき傷の一撃を記した権力、それこそが、私たちに残されたいくつかの言葉を励起したのである。[11]

しかし、このことはひとつのアポリアを生むだろう。すなわち、彼らの卑小な生の痕跡は、権力によって貫かれ、どこまでも浸透された形としてしか我々に残されえないのではないか、というアポリア。「自由な状態」においてそうであったかもしれない、ありのままのそれ自身の姿において捉え直すことの不可能性。だから、フーコーが直ちに次のような半ば自問自答のような問いかけを発するのは必然であった。

こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやってくる言葉(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ、権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか?[12]

ドゥルーズはまさにここにこそフーコーの思考の「危機」を見て取ったのだ(『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体化)」参照)。もちろん、ドゥルーズによれば「危機」とは思考が新たに開始される契機でもある。その思考は必然的に「外」からやってくる思考――思考しえない思考でなければならない。だから問題は、いかに「線を越える」か、外の力としての生に到達するか、となるだろう。

『知への意志』を出版したのちの長期間の沈黙を経て、「自分自身からの離脱」を宣言したフーコーは、外の力としての生を、古代ギリシア―ローマにおける生の営みの中に遂に見出すに至ったのだろうか。フーコーが陥った「危機」とそこから脱するための「外」を巡る格闘が、古代ギリシアへの回帰という長い旅路を必要としたことは疑いえない。だが、そこに単なるユートピアとしての夢のギリシアをしか読み取らないのであれば、フーコーの戦いの蠢きを、肉の痙攣を聴き逃がすことになる。だから、我々はもう一度「肉の震え」について立ち止まって思考しなければならない。

唐突にフーコーの議論に水を差すようなことを言えば、「肉の痙攣」はたとえ魔女現象に限定したとしても悪魔憑きに固有に見られるものでは決してなかった。それは悪魔憑き以前の魔女現象にもありふれて見られる現象であった。ただし、痙攣を起こしたのは、魔女とされた側ではなく、魔女によって妖術(ウィッチクラフト)をかけられたとされた側であったのだが。

さらに言えば、そもそもが痙攣とは集団的な現象であった。フーコーは痙攣における集団的な側面を強調していないが、これは痙攣という現象にとって本質的な要素と思われる。あるいは、こうも言えるだろう。すなわち、痙攣は「感染」する。

魔女現象における痙攣は感染性の病原体の発現として現れる。これは比喩ではない。たとえば、『食物中毒と集団幻想』の中で著者のメアリー・ギルバーン・マトシアンは、魔女現象の原因には麦角中毒があったという仮説を立て、それを疫学と人口統計学の観点から論証している。

麦角菌はライ麦、小麦、大麦などの穀物に寄生するマイコトキシン(カビの毒)である。菌核は黒い角状で、「雄鶏のけずめ」をあらわすフランス語から取られた「エルゴット」(ergot 麦角)と呼ばれる。この菌核には四種類のアルカロイド(食物塩基)が含まれる。こうした化合物が、寄生した食物を通して体内に摂取されると、心臓血管組織だけでなく、神経組織も影響を受ける。麦角に汚染された食物を一定量摂取すると、「麦角中毒症」と呼ばれる病気を引き起こす。たとえばパンに2パーセントの麦角が含まれていれば、共同体規模の麦角中毒のパンデミックが起こる可能性がある[13]

麦角中毒症は深刻なケースでは二つの症状を引き起こす。一つは壊疽性麦角中毒症であり、指、つま先、そして四肢を乾燥壊疽のために失う可能性があり、この壊疽は麦角菌類が生み出した血管を収縮させるアルカロイド・エルゴタミンなどの化学物質を原因とする。もう一つは痙攣性麦角中毒症である。その特徴は神経的機能不全――筋失調症(ジストニー)――である。たとえば、身悶え、震え、斜頸であり、これは過去においては「痙攣」や「ひきつけ」として報告されていた。また、いくらかの麦角アルカロイドは、脳内のドーパミンのはたらきに干渉し、混乱・妄想・幻覚だけでなく、筋肉の痙攣を引き起こすことが知られている。こうした麦角中毒による症状は、ヨーロッパ中世では「聖アントニウスの火」とも呼ばれ恐れられてきた[14]

また、麦角アルカロイドの中には、一時的ないし永続的な精神異常――妄想、幻覚、恐慌など――を引き起こすアルカロイド、すなわちエルギン、エルゴノヴィン、リゼルグ酸、ヒドロキシエチルアミドがあるが、このうちリゼルグ酸から誘導体であるリゼルグ酸ジエチルアミド(LSD)を抽出したのが、スイス人化学者のアルバート・ホフマンであった。彼がはじめてLSD-25を合成したのが1938年、それの知られざる「効果」を発見したのが1943年のことであり、以来、「サイケデリクス」という称号を冠されたこのインドール環に宿る神は、カウンターカルチャーの担い手たちによって崇められてきた。

我々は今や、デスバレーにおけるフーコーのLSD体験というテーマに、奇妙な足取りとともに最接近しつつあることを知るだろう。だが、先を急ぎすぎることはない。

寒冷な時期が続くことの多かった中世ヨーロッパは、不可避的に麦角菌が蔓延する土壌を形成するに至り、しばしば共同体には大量死がもたらされた。だが麦角中毒は、(たとえばペストなどと異なり)人々に死だけではなく、恐慌、「宗教的」陶酔、痙攣などの、「魔法にかけられた」かのような奇妙な行動をも引き起こした。そして、妖術の告発と魔女騒動はまさにそのようなときに起こったのだった。前出の著書『食物中毒と集団幻想』のマトシアンは、中世後期における気温と出生数のトレンド、そして妖術の告発率との相関関係を統計学の知見から検討しながら、魔女現象と麦角中毒を関係づけることを試みている。ここではその論証の過程を逐一追うことは避けたいが、たとえば魔女現象としては比較的近年の事例に数えられるアメリカ植民地期ニューイングランドにおけるセイラムの魔女騒動もこの射程から読み解くことができるという。同書によれば、マサチューセッツ州エセックス郡では、1692年「魔法にかけられた」30人の被害者のうち24名が、「痙攣」にかかり、つねられ、刺され、あるいは噛まれる感じがしたという。これらは麦角中毒症に共通した徴候である。また他にも、一時的に目が見えなくなること、耳がきこえなくなること、焼けるような感じ、「火の玉」ないし「白くキラキラ輝く服をまとった、多数の者たち」の幻を視ること、「身体からぬけて」空中を非行する感じ、等々が裁判記録では言及されているが、これらもまた麦角中毒症に特徴的なものである[15]

同様の検証を著者は、18世紀半ばに最初のピークを迎えた信仰復興運動である「大覚醒」に対しても行っている。1741年秋、ニューイングランドで、数千人の住民が、痙攣、失神、幻視、そして宗教的な恍惚を経験した。1741年と1742年に報告された徴候の目録には次のものが含まれた。筋肉の収縮と痙攣。昏迷。そして幻覚体験。たとえば「身体離脱」、「夜におおきな光」を視ること、天国と地獄を訪れること、もだえるような熱さとひどい寒さの感じ。震えとひきつり。無感覚。発話困難と言語能力の喪失、嘔吐と下痢、喜び・絶望・空虚感という気分、等々……[16]

つまりはこうである。この時期、ニューイングランドの住民たちは、ある種のLSD体験にも似た集団的なトリップ(あるいはバッドトリップ)の最中にあったのではないか、と(同時期、ニューイングランドのいくつかの地域では、性質のわからない流行性の病気が突発していたことが記録されている。また、ライ麦は植民地ニューイングランドで広範にわたり必需食糧穀物となっており、さらに1740年から1741年にかけての冬は極端に寒く、麦角病感染にうってつけの天候であった、等々[17])。

世界史を横断して間欠的に現れる「肉の痙攣」の背後に、ひとつの抗いがたい自動症的な「力」の存在を措定してみること。それは「外」からやってきて取り憑く。麦角病、それは権力とは位相を異とする「外」の力である。同時にそれは感染、パンデミックの力であり、ここにおいてこそ再びフーコーとバロウズは出会うであろう(バロウズは言語を宇宙から飛来したウィルスとみなしていた)。かくして、「肉の痙攣」はホラー(!)の位相をくぐりぬけることで「外」の力と接触する。

どこまでも非意志的で自動症的な「痙攣」という病=力、この「外」からやってくる力は、しかし決して野放しにされることはなく、歴史の中で常に(ときには権力という形をとって)超コード化されてきた。異端審問官によって、シャルコーによって、巡回伝道者によって、ティモシー・リアリーによって、等々……。もちろん麦角病の行動原理(?)は、自身の感染を通じた、それ自体が利己的な遺伝子の作動であるところの盲目的な自己保存と再生産であり、そこには人間にとってのいかなる「意味」も「目的」も介在しえない(そこには「自然」しか存在しない)。だが、その麦角菌が引き起こす「痙攣」というノマド的戦争機械は、あらゆる機会に再領土化され、超コード化されうる。魔女裁判が開かれ、宗教セクトが結成される。精神医学が「痙攣」を包囲する。

つまりは、こう問わなければならない。すなわち、「外」の力、その非人間的かつ非人称的な力を、コード化されてないありのままの形で襞のように内側に折り返すことはいかにして可能なのか、と。主体にとって非意志的な痙攣、感染を引き受け、歓待すること。さらに、ここからもうひとつの問いが導かれる。それは、そうした内に折り返された「外」の力に内在するような共同体のあり方を思考することは可能なのか、という問いである。

それはさながら自壊と同義であるような、それ自体が撞着語法であるような共同体であるに違いない。あらかじめ消滅が宿命付けられた、そこではいかなる未来も消尽してしまうような、非存続として、解体のプロセスとしてしか示し得ない(非―)共同体? あるいは、パンデミックとしての、バッドトリップとしてのアシッド・コミュニズム?

ここでは、それらの問いに対して拙速な回答を提示することはあえて控えたい。とはいえ、いくつかの補助線を引いておくことは無駄ではないと思われる。たとえば、クィア理論家レオ・ベルサーニが著書『親密性』第二章「恥を知れ」の中で示した、ベアバッキングと呼ばれる、HIVに感染することすら厭わず性行為を行うゲイたちによる過激な自己破壊的行為の中に、上で示唆された共同体への可能性が内包されているように思えるのだ。

生き残るもの――生きるもの――は、何人かの男の病気と死の行為者(エージェント)である。ネコは、乱交騒ぎのさなかに彼を犯している人々からも、またアナルに注がれる精液の廃棄用容器に精液を提供してきたすべての人々からも精液をうけとる。だがそれだけではない。そこにまたある種のコミュニケーションが生じてくるのである。それは、心理学的にも生理学的にも明確化できないであろうが、彼がセックスした男性にウイルスを与えた男性たちとのコミュニケーションであり、同様に、律儀にもタッパーの容器に精液を集めた男性たちとのコミュニケーションであり、かつ、これらの「親しい」感染者にウイルスを与えた感染者とのコミュニケーションなのである。さらにそれは、HIV感染者の系譜の最初の感染者からひきつづく前世代のすべての人間とのコミュニケーションであるかもしれない。[18]

死の欲動と未分化となったエクスタシー=陶酔の只中において、死のミームを伝え合い、共有し合う、匿名的で非人称的な他者たちによる「親密性」の領野が開かれる。そこでは自己同一性は解体され、親族関係とも無関係な、死のウイルスを媒介とする無名の生者と死者たちによる系譜が形成される。ベルサーニは次のようにも述べている。「つまり、異性愛的な文化が、関係性に関する至上の価値をカップルに与えるのに対し、ここでは非人称的な親密性という、ひとつのコミューン・モデルへと向かう可能性がみいだされてくるからである。」[19]

周知のように、フーコーもまたエイズで命を落としている(彼がエイズの診断を医師から下されたのは1983年か1984年の年明け頃だったとされる)。フーコーの評伝『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』の中で、著者のジェイムズ・ミラーは、エイズが社会的なスキャンダルとなったあとも晩年のフーコーは変わらずサンフランシスコのバスハウスに通い、そこで乱痴気騒ぎに加わっていたという証言を拾ってきた上で、次のようにコメントしている。

しかし、なぜフーコーはそこにいたのか。彼がおそらく自分でも疑っていたように、もしすでにウィルスを保有しているなら、パートナーのだれかを危険に陥れることもあるのだ。そして、ありそうなことだが、もしパートナーのだれかがウイルスを保有していたら、そのときは彼が自分自身の命を賭けることになる。これはもしかしたら彼が故意に選んだ神格化、彼独特の「≪情熱=受苦≫(パッション)」の経験だったのだろうか。[20]

フーコーと匿名的な他者たちとの間に開かれる「親密性」の系譜を想像してみること? 付言しておけば、フーコーの中では「死」と「恍惚=エクスタシー」が混じり合う限界経験が一貫して重要なテーマであり続けたことは疑いえない。フーコーは晩年のインタビュー記事「スティーヴン・リギンズによるミシェル・フーコーへのインタビュー」の中で次のような発言をしている。「私が真のものだとみなすような種類の快楽は極めて深遠、強烈で、完全に私をおし包むようなものであって、私はそれを生きて通り越すことはできないだろう、と思うからです。私は死んでしまうかもしれません。」[21]

そのまま、フーコーは自身が車にはねられた際の特異な経験について語りだす(ちなみに前出の伝記作家ミラーによれば、このときフーコーはアヘンを吸っていた直後のことだったという(『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』323頁)。

かつて私は街頭で車にはねられたことがあります。私は立ち上がって歩きました。そしておそらく二秒ほどのあいだ、私は死んでいくのだという感じを抱きました。そして、私は本当に、とても、とても激しい快楽を感じたのです。それは目眩めき時間でした。ある夏の七時頃でした。太陽は沈みはじめていました。空は素晴らしい青でした。今日も、これは私の最も素晴らしい記憶の一つでありつづけています。[22]

1975年、春。デスヴァレー、ザブリスキー・ポイント。砂漠の大気に包まれたフーコーは、麦角アルカロイドの誘導体であるLSDを摂取しながら、星空を見上げていた。やがてフーコーは笑みを浮かべ、そして星に向かって手を伸ばしてこう言ったという。「空が炸裂した、そして星がぼくのからだに雨のように降り注いでくる。これは真実じゃないとぼくにはわかっている、けれどやはりそれは≪真実=真理≫なんだ。」[23]

フーコーは砂漠からの帰り際、「今ではもう、自分の性的欲望(セクシュアリティ)が理解できる……」と言ったという[24]

ウォルター・ベンヤミンは、『一方通行路』の最後に収められた断章「プラネタリウムへ」の中で、古代においては宇宙との交感は、ドラッグやエクスタシーに比した陶酔の経験によってのみ行われた、と書いている。

古代における宇宙との交わりは、それ[近代:引用者註]とは違ったかたちで、すなわち陶酔のなかで、行われたのである。というのも、陶酔という経験においてこそ、私たちは最も近いものと最も遠いものとを、どちらか片方だけということは決してなく、確保するのだから。だが、これが意味するところは、人間は共同体のなかでのみ、宇宙と陶酔的にコミュニケーションできる、ということだ。[25]

【了】

[1] 『魔女とキリスト教』(講談社学術文庫)上山安敏、10頁

[2] 『西欧精神医学背景史』中井久夫、24〜25頁

[3] 前掲書、上山、246頁

[4] 前掲書、上山、248頁

[5] 『ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75)』ミシェル・フーコー、慎改 康之 (翻訳)、226頁

[6] 前掲書、フーコー、232頁〜234頁

[7] 前掲書、フーコー、234頁

[8] 『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー、渡辺守章訳、123頁

[9] 同上、131頁

[10] 『フーコーの言説』 (筑摩選書)、慎改康之、215〜216頁

[11] 「汚辱に塗れた人々の生」ミシェル・フーコー、丹生谷貴志訳(『フーコー・コレクション6』ちくま学芸文庫、209頁)

[12] 同上、210頁

[13] 『食物中毒と集団幻想』メアリー・ギルバーン・マトシアン、荒木正純・氏家理恵(訳)、26頁

[14] 同上、28〜29頁

[15] 同上、176〜177頁

[16] 同上、192〜193頁

[17] 同上、200〜201頁

[18] 『親密性』レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス、檜垣立哉 (翻訳)、宮澤由歌 (翻訳)、89頁

[19] 同上、79頁

[20] 『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』ジェイムズ・ミラー、 田村 俶 (翻訳), 西山 けい子 (翻訳), 雲 和子 (翻訳), 浅井 千晶 (翻訳)、26頁

[21] 『ミシェル・フーコー思考集成〈9〉自己・統治性・快楽』436頁

[22] 同上、437頁

[23] 前掲書、ミラー、261〜262頁

[24] 同上、263頁

[25] 『ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅』 (ちくま学芸文庫)ヴァルター・ベンヤミン、浅井 健二郎 (翻訳), 久保 哲司 (翻訳)、138頁