第六書簡 ハラール認証について

日本人は、身近な隣人となりつつあるムスリムの論理を理解しているか? そこに西洋文明中心視点の誤ったイスラーム解釈はないか? 世界のイスラームに関連するトピックを題材に、より深いイスラーム理解にたどり着くための往復書簡。イスラーム教徒でイスラーム法学者である中田考、非イスラーム教徒でイスラーム思想研究者の飯山陽、専門を同じくしつつも互いに異なる立場の2人による、火花を散らす対話。  

「ハラール認証」制度などない 飯山陽

ハラールとは「許されたもの」

日本でもハラールという言葉を目にしたり耳にしたりする機会が増えてきました。ハラールとはアラビア語で、イスラム教の戒律において「許されたもの」の意味です。

ハラールは日本では、来日するイスラム教徒の観光客を歓迎する「おもてなし」の主旨や、在日イスラム教徒の利便性のため、あるいはより広く多文化共生の文脈で、「ハラール認証を獲得することはよいことだ」といった具合に、ほぼ常に「認証」とセットで語られます。しかし本来、イスラム教には「ハラール認証」などという制度はありません。

イスラム教徒は神が定めたルールに従って生きなければならないと信じており、飲食物についてもそう考えています。しかし神は「禁じられたもの=ハラーム」を定めたのであり、それ以外は全て「許されたもの=ハラール」だというのがイスラム法の規定です。禁じられたものとは死肉、血、豚、神以外の名のもとに屠られたもの、それから酒だと『コーラン』で明示されています。ですから原則的に、それ以外の飲食物は全てハラールなのです。キリスト教徒やユダヤ教徒の食べ物は食べてもいい、といった規定もあります。

イスラム教徒は自分が口にするものがハラールかどうかをその都度、自分で判断しなければなりません。面倒に聞こえるかもしれませんが、イスラム教徒が多数を占める国においてはほとんど全てのものがハラールなので、あるものがハラールかどうかなどという問題自体がほとんど発生しません。

ところがここ数十年間に、ハラール認証機関なるものが登場しました。これは商品やレストランなどに対し有償でハラール認証を与えることにより、その商品やレストランがハラールであることを保証するという一種のビジネスです。イスラム教の歴史にも伝統にも全くないハラール認証が突如広まったのは、それがイスラム的に正しいからではありません。ビジネスになる、要するに「金になる」からです。

ハラール認証先進国であるマレーシアやインドネシアでは、ハラール認証は国が行うものとして制度化されています。インドネシアは2019年10月、今後国内で流通、取引されるあらゆる製品は全て国のハラール認証を受けていなければならないと発表し、猶予期間内のハラール認証取得を義務化しました。こうなるともう、ハラール認証料はほぼ税金だと言えます。結果として現在、本来ハラールかどうかという問題とは無縁なはずの冷蔵庫や洗濯機にまで、「ハラール冷蔵庫」「ハラール洗濯機」なるものが登場しつつあります。

神の権利の侵害

ハラール認証が広まった諸国では、人々は次第に自分でハラールかどうかを判断するという本来の義務を怠り、認証マークがついたものをハラールだと信じるようになりつつあります。しかし認証マークがついているからといって、それが本当にハラールである保証はどこにもありません。人間には本来、そんなものを保証する権利も能力もないからです。ハラール認証には常に「有効期間」が定められていますが、それにも全く合理性はありません。「有効期間」を定めているのは、定期的に認証料をとるためです。

教義を厳格にとらえるイスラム教徒から見れば、ハラール認証をするという行為は、神の権利の侵害という反イスラム的行為であり重大な罪です。また認証マークを信用するイスラム教徒も、神以外の権威を信じる「多神教崇拝」という重大な罪を犯していることになります。

しかしこうした本質的な議論がされぬまま、ハラール認証取得は商売のためにも、イスラム教徒との共生のためにもいいことなのだ、という主張だけが先行し、近年この問題は給食という公共性を有する領域にまで拡大してきました。

商売に関しては、ハラール認証料を払ってでも元がとれるならばいいのではないか、というのが私の考えです。日本企業がインドネシアで自社製品を売るためにインドネシアのハラール認証を取得する、といったプロセスは今や必要不可欠です。ハラール認証は本来イスラム教にないものですが、実際そのような制度ができた以上、それに対応するのもビジネスです。

何をハラールと考えるかは千差万別

一方で、ハラール認証料が経営上重くのしかかるような場合、例えば個人経営の飲食店などに関しては、無理してハラール認証を取得する必要はないと思います。なぜならハラール認証はそもそもそこで提供される食事がハラールであることを保証するものではありませんし、本来イスラム教徒自身が行わねばならない、ハラールかどうかを判断する義務を代行するものでもないからです。

また下手にハラール認証を掲げることで、たとえばその店でエビを扱っていた場合、「自分はエビを扱っている店の食べ物はハラールとは認めない!騙された!」とイスラム教徒の怒りを買う可能性があります。イスラム教徒の一部は、エビは食べることが禁じられていると信じているからです。「この店はハラール認証を掲げているが、それは私の祖国のマレーシア政府から得た認証なのか」などと確認を求められる可能性もあります。その人の信じる認証と異なっていれば「騙された!」ということになります。「この鶏肉はどこから入手したのか?水もハラール認証されたものを使っているのか?食器はどのように洗っているのか?」などと詰問されるかもしれません。アルコール消毒ですら、ハラールではないと考える人もいます。何をハラールと考えるかは、イスラム教徒によって千差万別です。とても個人で対応しきれるものではありません。

ですから個人の飲食店の場合には、豚不使用を示すために、店先やメニューにNo Porkと掲げておけばいいと思うのです。あるいは逆に、豚の入っているメニューには隣に豚のイラストやマークでも付けておけばいいかもしれません。

そうすれば、「とりあえず豚が入っていなければいいや」と考える程度のイスラム教徒であれば気軽に利用できますし、食材や調理器具のひとつひとつに至るまで細かにハラール性にこだわるイスラム教徒はそもそもやってきません。ハラール認証を掲げて敷居を上げるより、こうした対応のほうがよほど実践的ですし、お金もかかりません。このやり方ならば酒を提供するのも問題ありませんし、日本人客に敬遠されるようなことにもならないでしょう。

イスラム教徒とヒンドゥー教徒、華人らが共生するマレーシアでは、このNo Pork式の店がよく見られます。No Porkと掲げられている中華料理の店では、イスラム教徒の姿も多く見かけます。しかしそもそも中華料理などあり得ないと毛嫌いするイスラム教徒は、このような店にはやってきません。判断は個々人に委ねられているのです。ハラール認証先進国のマレーシアでも、飲食店ではこのような対応が一般的です。

エジプトのように飲食物のほとんどがハラールの国では、豚肉を扱っている店で豚入りメニューに豚の印がついているパターンが一般的です。イスラム教徒は豚印以外のものを選んで頼めばいいだけで、豚を扱っていることすら汚らわしいと考えるイスラム教徒はそもそもこのような店には来ません。

日本人の経営する飲食店が、ハラール認証を受けないとイスラム教徒に来てもらえないのではないか、でも費用がかかるしどうしよう…などと気に病む必要などないのです。

不安を煽る情報を発信する「専門家」

日本ではメディアや大学教授などの「専門家」のほとんどが、とにかくハラール認証取得はいいことなのだ、それは多様性のある社会に必要なのだ、と異口同音に主張します。そうした「専門家」は自らハラール認証やハラール利権に関わっている可能性があります。

ハラール認証機関「京都ハラール評議会」の「専門家委員会メンバー」には、紫綬褒章受章者でもある元京都大学大学院教授で現在立命館大学教授の小杉泰氏、京都大学特任准教授の竹田敏之氏などが名を連ねています。

東京大学東洋文化研究所准教授の後藤絵美氏は「ハラール産業の問題点」を指摘しつつ、「ハナーンチョコ・プロジェクト」なるものを立ち上げ、NPO法人日本アジアハラール協会からハラール認証をうけた「ハナーンチョコ」を販売しています。同協会はハラール認証料について、「加工品については、各商品に使用されている原材料、製造ラインによって認証取得の難易度が異なるため、取得までに掛かる作業工程などを考慮した、適切な料金を提示させていただいております」としています。ハラール認証された商品の代金には全てこうしたハラール認証料が上乗せされているので、当然割高となります。

イスラム教の「専門家」であるならば、そして日本社会全体の利益を考えるならば、ハラール認証に過度に神経質になる必要などないのだ、ということをより積極的に発信し、イスラム教徒とよりよい共生を営むための基本的な考え方や工夫について広く周知すべきだ、というのが私の考えです。なぜ彼らは人々を安心させる情報を発信せず、ハラール認証を取得しないとイスラム教徒に敬遠されるとか、多文化共生社会にはハラール認証が必要不可欠だといった、人々の不安を煽るような情報ばかりを発信するのでしょうか。

私は日本で外国人イスラム教徒を外食に連れていく際には、本人に食べたいものや食べたくないもの、食べられないものなどについて確認し、その上で店を選びます。多くの人は、自分が食べるものの中に豚が入っていなければいいという程度のスタンスです。日本という外国に来ているのですから、周囲の人が豚を食べていようと酒を飲んでいようと気にしない場合がほとんどです。

また私は自宅にイスラム教徒を招いて食事を振る舞うこともありますが、そういった場合にも客人に「これはハラールなのか?」と質問されたり、「ハラールなものを出してほしい」とリクエストされたりした経験はただの一度もありません。それは私に対する信頼もあるのでしょうし、そうした猜疑心の強いイスラム教徒は元より異教徒の家で食事に招かれることを受け入れたりはしないでしょう。

「特別扱い」など望んでいない

他方、給食は別問題です。

報道によると、仙台市の一部の学校ではハラール給食の提供を既に開始しているそうです。昨年6月には四日市市が、保育園や幼稚園の給食でハラール対応マニュアルを作成する方針を明らかにしました。12月には静岡市の田辺市長が給食について、来年度中に「宗教上の配慮」をすると発表しました。具体的には豚肉や酒を抜くとのことでしたので、対象は明らかにイスラム教徒です。

静岡市長はこれを多文化共生のための「標準装備」だと説明しています。しかしこれは、イスラム教徒の父母の要請に応じたものなのでしょうか。日本ではイスラム教徒の子供には親がお弁当を持たせている、という話をよく聞きます。学校側がお弁当持参を認めれば済む問題であり、イスラム教徒の多くは「特別扱い」など望んではいないのではないでしょうか。

行政がイスラム教徒に対し「宗教上の配慮」という「特別扱い」をするのは、逆にイスラム教徒の疎外感や孤立感を深め、イスラム教徒以外の大多数の生徒やその父母たちに不平等、不公正感を味合わせ、イスラム教徒への嫉妬や恨みを募らせる悪手となりかねません。それはお弁当持参で対応すべきだと考えているイスラム教徒にとっても、喜ばしいことではないでしょう。

繰り返しになりますが、イスラム教徒は自分が口にするものがハラールかどうかを自分自身でその都度判断しなくてはなりません。子供については監護する親が責任を持たなければなりません。つまり学校や行政に「ハラール給食を出せ」と要請するのは、イスラム教の戒律に反するのです。だから多くの場合、イスラム教徒の父母は自作のお弁当を持たせているのでしょう。

一方、行政や学校が「親切」のつもりでハラール給食を提供したところで、多くの問題が発生することが容易に予想されます。

既述のようにイスラム教徒のハラール基準は千差万別です。その全ての基準を満たすハラール食を提供することなど不可能です。そしてハラールだと掲げることにより超えなければいけないハードルは限りなく上がり、クレームがつく可能性も格段に増加します。

「仕草」や「善意」では立ち行かない現実

ハラール食の提供には余分な手間と人手、費用がかかります。そのために担当者を別に雇い、割高なハラール食材・調味料を別に購入し、調理場や調理器具や清掃用具、食器等も新たに用意するのでしょうか。その場合、それらの経費はイスラム教徒ではない他の生徒たちの父母やその他の納税者が負担することになります。

静岡市の場合、市立小中学校の生徒約4万7千人中、「宗教上の配慮」が必要なのは33人だそうです。その33人のために余分なコストを負担することは、残りの大多数の生徒の父母にとって公平性に欠けると感じられるでしょう。我が子の給食代を支払うのも厳しい状況なのに、なぜ他人の子供にかかるコストまで負担しなければならないのかという問題意識は、「あの人たちはずるい」というイスラム教徒への妬みや敵意に繋がりかねません。

また「宗教上の配慮」の名の下にイスラム教徒に配慮するならば、当然他の宗教や思想信条上の食餌規定にも配慮しなければなりません。ヒンドゥー教徒やヴィーガンにも対応しなければならなくなります。より多くの人が思想信条を理由に特別な配慮を要求するなら、給食制度は破綻するでしょうし、イスラム教徒だけに配慮するならその他の人々は不公平だと感じるでしょう。

さらに、人間の行動には過ちがつきものです。調理担当者がハラールではないものを混入させる可能性もあれば、生徒が間違えてイスラム教徒に豚肉入りのものを配膳してしまう可能性もあります。ハラールを提供すると宣言することは、こうした発生しうるトラブルの責任の全てを負わなければならないことにもなります。

マイノリティなど社会的弱者への配慮は、リベラルな社会の鉄則です。しかし特定のマイノリティだけを特別扱いすることが社会の分断や憎悪といった別の、場合によってはより大きな問題を引き起こすとすれば、本末転倒です。

多文化共生社会は「人権」や「社会的弱者の救済」といった理念や、異文化に理解があるかのような「仕草」だけでは立ち行きません。見当違いな配慮や、コストを負担する側の不満を勘案しない一方的な「善意」は、多文化共生社会に寄与するどころか、容易にそれを破壊するでしょう。

 

 

ハラール認証は瀆神の所業 中田考

今回は飯山さんからのリクエストで、嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で仕方ない「ハラール認証」の話をします。ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

私は、イスラームは分からない、私の目的はイスラームが分からないことを分からせることだ、と常々言っていますが、一口に「分からない」と言っても、「分からない」にもレベルというものがあります。たとえば円周率が1とか10とか言っている人に、円周率が2と4に間にあることがわかってもらえれば満足、というぐらいの解像度の話を普段は目指しています。私自身はといえば、円周率は3ぐらいだ、というぐらいの認識です、私のイスラーム学は。

しかしハラール認証は、円周率が∞(無限大)とかh(プランク定数)とかいう壮大な勘違いを糺す、という話です。これはもう円周率がいくつかを説明すればよい、というようなことではありません。説明すべきは、なぜ「∞(無限大)」とか「h(プランク定数)」などというとんでもない勘違いが生まれるかです。ハラール認証は、実はイスラーム法学だけではなく、イスラーム神学、クルアーン学、ハディース学などのイスラーム諸学だけではなく、キリスト教、ユダヤ教、西欧帝国主義の歴史、東南アジア・イスラーム地域研究、日本の行政、そしてなによりも言語哲学、法理学の基本的な知識がないと理解できない大変やっかいな問題です。しかし私がこの問題に触れるのが嫌で仕方ないのはハラール認証が、単に知識の問題ではなく、なによりも利権の問題であり、この問題を論ずるには、どうしても宗教の名を騙る利権屋どもの汚らわしい言動に言及しなくてはならないからです。

最初に結論を述べておくと、ハラール認証ビジネスは一つの例外もなく全てが詐欺であり、ハラール認証はイスラームの教えに厳格どころか、それを犯せばもはやイスラーム教徒ではなくなる最悪の罪、多神崇拝(シルク)に他ならない、ということです。殆ど理解されないと思いますが、順に話をしていきましょう。

1.多神崇拝

ハラールは、「イスラーム法上許されているもの」と説明されます。一見、正しく見えますが、そもそも「イスラーム法」とか「許されている」という言葉の厳密な意味が解っていなければ誤解を招くだけです。イスラーム学において「イスラーム法」や「許されている」という言葉の正確な意味は拙著『イスラーム法の存立構造』と『イスラーム法とは何か』を参照してもらうとして、簡単に言うと、通常イスラーム法学と訳されるイスラームの行為規範学「フィクフ」は人間の行為を①「行うことで報酬を得、行わないことで罰を受ける行為」義務、②「行うことで報酬を得、行わなくとも罰されることはない行為」推奨、③「行わないことで報酬を得、行うことで罰される行為」禁止、④「行わないことで報酬を得るが、行っても罰されることはない行為」忌避、⑤「行っても報酬を得ず、行わなくとも罰されることはない行為」合法、の5つの範疇に分類します。「ハラール」とは法学の専門用語としては⑤の「合法」を意味し、「ハラーム」は③の「禁止」を意味します。しかし、ここで言う罰と報酬はこの世での刑罰や褒賞金のようなものではなく、死後の火獄と楽園であり、それは復活の後の全知全能のアッラーの最後の審判の裁きによるものです。

イスラーム法の立法者はアッラーただ一人であり、国家のような架空の法人は言うまでもなく、カリフ、スルタンでさえ、ただイスラーム法の行為規範の順守義務を課される責任能力者(ムカッラフ)でしかありません。しかし、イスラーム法では窃盗の手首の切断のような刑法があり、カリフやスルタンはその刑罰を科す者だと思われるかもしれません。そのように日本的な理解にも一面の真理は含まれますが、実は本質的に間違っています。クルアーンに書かれているのは「男の盗人と女の盗人は両者の手を互い違いに切り落とせ。・・・」(クルアーン5章38節)です。これは本来は預言者ムハンマドとその代官たちに対する神の命令です。窃盗はアッラーが禁じたことですが、イスラーム法上のその刑罰は来世における獄火による懲罰であって、手首の切断ではありません。この窃盗の手首切断刑の啓示は、預言者の後継者カリフとその代官たちへの命令であり、窃盗の手首を切断せよ、との命令に背いたカリフとその代官たちは最後の審判でその罪を問われ、有罪と決まれば獄火の刑罰に処されるのです。

イスラーム法は、義務は力に応じる、を基本理念とします。それゆえ政治力、経済力、学力、知力、胆力、体力にすぐれたカリフやスルタンなどの為政者は、礼拝やラマダーン月の斎戒断食などの義務や飲酒の姦通の禁止など一般のイスラーム教徒が守るべき規定に加えて、権力者だけにしかできないために凡俗にはない特別な「政治的義務」が課されます。窃盗の手首切断などのいわゆる「イスラーム刑法」の施行もその一つですが、異教徒に対するジハード(正戦)やジズヤ(人頭税)徴税などもそうです。

立法権を神にしか認めないイスラームには西欧型の三権分立は存在しません。しかしアメリカの大統領令のように、カリフは天啓法(シャリーア)の施行細則としての行政命令を発することはできますので、一種の立法権を持ちます。またカリフは、天啓法を施行するにあたって解釈しなくてはならないので、カリフには行政権と司法権があります。ただイスラーム教徒の数が十数億にもなると行政も司法もカリフ一人ではこなせないので、実際には司法は「カーディー」と呼ばれるイスラーム法裁判官に委嘱することになります。

クルアーンの聖句「それゆえ人々を慴れず、われ(アッラー)を慴れよ。そして、われの徴とひきかえにわずかな代価を得てはならない。アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者たちである。」(5章44節)や「三人のカーディーがいる。そのうち二人は地獄に落ち、一人だけが天国に入る。真実を知っているにもかかわらずそれに背く判決を下す者は地獄に落ちる。人々の間を無知によって裁く者も地獄に落ちる。真実を知りかつそれに従って裁く者だけが天国に入る」とのハディース(預言者ムハンマドの言葉)にあるような、我々が行政、司法と考えるカリフやカーディーの行為も、イスラーム法上は、それにおいてむしろアッラーの命令に従うか背くかが最後の審判で厳しく問われ裁かれる行為にすぎません。

先ず、イスラーム法においては、権威は神だけであり、大雑把に言えば──本当は言いたくないのですが言わないと話が先に進まないので仕方ないので言います──国家元首にあたるカリフ、スルタンも裁判官にあたるカーディーも、大人が子供より責任、義務が重いように、大きな力を持つが故に他の者より責任、義務が重いだけで、ただの責任能力者(ムカッラフ)でしかないことをしっかり肝に銘じてください。国家であれ、政府であれ、立法府、司法府、行政府などというもっともらしい区分も含めて、何の権威も持たない、むしろイスラーム法に従っているかどうかを厳しく問われる存在であることを理解しないとハラール認証の話は入り口にも立てません。本当は、そもそも法人などというものの存在、というか存在するという幻想がイスラームに反する、という話は今回は禁欲しあやふやなままに先に行きましょう。

通常のイスラーム法、というかフィクフの本を読むと──と言っても、読者の中にはアラビア語で書かれたフィクフの本を読んで暮らしている人は殆どいないでしょうが──人間の行為を上記の5つの範疇に分類する、と書いてあります。それはフィクフがムスリム、それもイスラーム法の基本を学んでいるイスラーム学徒を読者として想定しているからで、イスラーム学にとっては言うまでもない当然の前提が省略されており、実のところ、人間の行為範疇は6つ、つまり、「義務」、「推奨」、「合法」、「忌避」、「禁止」、「不信仰」になります。但し、「不信仰」は、他の5つの範疇とは質が違います。他の5つの行為範疇が単独の行為に帰属し、ひとつひとつの行為の総計の清算によってその人が楽園の永遠の至福に与るか、火獄の懲罰に晒されるかが決まるのに対し不信仰は、それによって火獄での永遠の懲罰が必定となり、他の全ての善行の楽園の報奨が無効になってしまいます。火獄での永遠の懲罰に値する不信仰とは、クルアーンが「アッラーは多神崇拝は決して赦されないが、それ以外のことはお望みの者には赦し給う」(4章48節)と述べているようにイスラーム法システムは、来世での獄火の懲罰と楽園の報奨によって構造化されていますので、来世での楽園の報奨が機能しなくなる不信仰に陥った者はイスラーム法の行為主体、責任能力者(ムカッラフ)ではなくなる、ということです。

ですから、イスラーム教徒が本当に問題にすべきは「ハラールかハラーム」かではなく、まず「イスラームか不信仰(クフル)か」、あるいは「唯一神崇拝(タウヒード)か多神崇拝(シルク)か」です。そしてハラール認証は不信仰(クフル)の最悪の形態、多神崇拝(シルク)であり、更に多神崇拝の中でも最悪のファラオの業である、というのが私の言いたいこと──多神教であるだけでなく、「ビドア(異端)」で、「ズルム(不正)」で、詐欺で……といくらでも悪口が続くのですが──なのですが、なぜその話に入る前に、延々とイスラーム法の話をしたかと言うと、「ハラール認証が多神崇拝である」との私の言明の意味が、イスラーム教徒でない日本人が考えるそれとは全く違うからです。イスラーム教徒でない日本人だけではなく、イスラーム教徒を自称する現代の十数億人の大半にも私の言葉が通じないのがなんとも悩ましいのですが、それはまた別の問題です。

少しだけ──少ししか分からないでしょうが──分かるように説明すると、先ず「ハラール認証が多神崇拝である」とは、「ハラール認証」というカテゴリーが「多神崇拝」というカテゴリーに該当する、と学問的に判断できる、ということであり、「ハラール認証」というカテゴリーに属する行為を行っている個々の人間、あるいは法人の陰にいる自然人が多神教徒である、という裁定を下しているわけではない、ことです。私はカリフの代官でもカーディーでもないので、人を裁くのは私の権限ではないからです。「自分に関係ないことは放っておくことはイスラームの美点です。」と預言者ムハンマドも言われています。ハラール認証に関わるような汚らわしい輩とは同じ空気を吸うのも嫌、というか考えるのも嫌ですので、できるだけ近づかないようにしています。ハラール認証が多神崇拝であっても、それに近づく人間は、どうしようもなく無知蒙昧でそれが多神崇拝であると知らなかったのか、あるいは正常な理性を失い妄想に取りつかれた狂人か、救いがたい魯鈍でいくら説明されてもそれが多神崇拝と理解できないのかもしれず、そうであればアッラーは許されるかもしれません。私には関りのないことです。

日本の法律でも、人を殺した人間が全て殺人罪で有罪になるとは限りません。それには先ず殺人罪の構成要件を満たしている必要があり、その上に違法性阻却事由がなく、裁判で、場合によっては最高裁で確定しなければなりません。死刑が確定しても法務大臣が承認しなければ死刑は執行されませんし、その間に再審請求が通って判決が覆されることさえあります。イスラームでは人を裁くのは世界におけるすべての事象を知悉するばかりか、自分でも分からない人間の本当の気持ちまで全てを見通し決して間違った判断を下さないアッラーの仕事です。それゆえ自分に関係ない他人について、間違うかもしれないこの世の暫定的な判断で裁きを下すのは、カリフの代官やカーディーたちのようなアッラーの啓示法シャリーアで世事の管理を託され権限を与えられた者(ワリー・アルアムル)だけの仕事なのです。私がハラール認証に関わらないのもそのためです。しかしハラール認証というカテゴリーについては、イスラームについて、特にイスラーム学の完成期──おおよそ西暦11‐14世紀──に存在しなかった現在の事象について判断するのは古典学者としての私の職務ですし、昨今ではハラールを銘打った事物が私の生活圏にも侵入してきたため、否応なく対応しなくてはならなくなったわけです。

2.瀆神の所業

というわけで、やっと「ハラール認証が多神崇拝である」という本題に入るわけですが、まず分かり易い話をしましょう。多神崇拝は既に日本語にもなっていますので、イスラームの「シルク」とも共通する大雑把な概念は理解できるでしょう。たとえば太陽を神として崇め、アッラーと並べて拝めば多神崇拝です。太陽の化身、天照大御神でも同じでしょう。聖書では「パロ」、クルアーンでは「フィルアウン」と呼ばれる古代エジプトの帝王「ファラオ」も天空神ファルスの化身で太陽神ラーの子供とも言われていますので同じようなものでしょう。クルアーンにも古代エジプト人はモーセとイスラエルの民を迫害する悪の多神教徒として登場します。クルアーンには多くの多神教徒の悪人が登場しますが、圧倒的なラスボス感を漂わしているのが、エジプト人たちに「我はお前たちの主である」と言い放ったファラオです。つまり、アッラー以外のものをアッラーに並べて拝む多神教徒たちの中でも、自分自身を神としてアッラーに並べ自分だけでなく人にもその崇拝を強要することこそ、イスラームにおいて決して赦されない最悪の罪である多神崇拝の中でも最も重い罪だと言うことです。

クルアーン9章31節は,「律法学者や司祭たちをアッラーを差し置いて主としている…」とユダヤ教徒とキリスト教徒を多神崇拝の咎で譴責していますが、伝承学者タバリー(923年没)のクルアーン注釈はこの節の啓示の契機を以下のように伝えています。

預言者ムハンマドは金の十字架を掛けていた(キリスト教から改宗した教友)アディー・ブン・ハータムに「その偶像を首から取り外しなさい」と言って「律法学者や司祭たちをアッラーを差し置いて主としている…」の節を読み上げました。そこで(アディーが)「私たちは彼ら(司祭たち)を崇めていたわけではありませんではないですか」と言うと(預言者は)「アッラーがハラールとされた(許された)ものを彼ら(律法学者や司祭たち)がハラームとする(禁じる)とあなたがたはそれをハラームとし、アッラーがハラームとした(禁じられた)ものを彼らがハラールとするとあなたがたもそれをハラールとするではありませんか」と言われた。そこで(アディーが)「確かにそうです」と言うと(預言者は)「それが彼ら(司祭たち)を崇拝するということです」と言われました。

キリスト教徒であった新入信者のアディーがキリスト教的に「崇拝」を有難がって拝むことと考えていたのに対し、預言者ムハンマドは、崇拝とは何よりもハラールとハラームの問題であると教えたのです。つまり唯一神崇拝とは、神の啓典の教え、ムスリムであればクルアーン、キリスト教徒であればモーセの律法(トーラー)とイエスの福音書の教えを守ることであり、多神崇拝とは啓典の教えに背いて人間が決まりに従うことであると教えたのです。既に述べたクルアーンの句「われの徴とひきかえにわずかな代価を得てはならない。」(5章44節)もタバリーによると、もともとモーセの律法(トーラー)の教えを歪曲して人々を騙して役得を得たユダヤ教の律法学者のことを多神崇拝を犯す不信仰者として非難するものです。

ユダヤ教の律法学者(ラビ)たちは、モーセの律法にない様々な清浄な食物(コシェル)の規定を作り上げましたが、アメリカのユダヤ教徒正統派が1898年に設立した正統派協会(Orthodox Union)が1924年に初めてコシェル証明(ヘフシェル)発行機関を設立し、現在では世界中に千以上のコシェル証明会社が存在すると言われています。このユダヤ教のコシェル証明は、ラビが監督し手数料を取って証明を発行するもので、まさにクルアーン5章44節の言う神の印を売り払う所業に他なりません。

実は、現行のハラール認証ビジネスは、ラビの代わりにイスラーム学者が監督し、コシェルの代わりにハラールのマークを売るだけで、啓典にない様々な規定を作り上げてそれを口実に検査が必要と称して手数料を取る手口もこのコシェル証明とまるっきり同じ、ユダヤ教徒の猿真似です。そもそもイスラームの歴史を少しでも勉強すれば分かることですが、預言者ムハンマドも正統カリフも、スンナ派4大法学祖も、またイスラーム文明の完成期のアッバース朝のカリフたちも、オスマン帝国のカリフたちも敢えてしなかったことです。

イスラームの初期世代に存在しなかった新奇な儀礼や教義をビドアと呼びます。「新奇な事柄を警戒せよ。新奇な事柄はすべてビドアであり、全てのビドアは誤りであり、全ての誤りは獄火に落ちる」との預言者ムハンマドの言葉により、新奇な思い付きでイスラームを改変することはビドアと呼ばれ、イスラームでは忌むべき逸脱として禁じられています。また「ある民の真似をする者は、それらの民の仲間である」との預言者ムハンマドの言葉によって、異教徒の真似をしてイスラームの教えにないことを行うことは、背教ともみなされかねない大罪です。

ハラール認証ビジネスとは、預言者ムハンマドとその後継者のカリフや大学者たちのような正真正銘のイスラームにおける「権威」が決しておこなわなかった宗教の押し売りを、宗教を売り物にするユダヤ教徒のラビたちの真似をして始めた瀆神の所業です。

アッラーは、神の名を騙って他人を支配しようとする詐欺師たちから人間を解放するために、誰もが自分でハラール、ハラームの判断を下す指針とすることができるように明白な「啓典(キターブ・ムビーン)」クルアーンを下されました。

預言者ムハンマドは「アッラーがその書の中でハラールとされたものこそがハラール、アッラーがその書の中でハラームとされたものこそがハラームであり、言及されなかったものはお目こぼし(アーフィヤ)です。それゆえアッラーからのお目こぼしを戴きなさい。なぜならアッラーは何物もお忘れになることはないからです。」と言われ「汝の主は忘却者ではあらせられない」(クルアーン19章64節)の節を読み上げられた、と伝えられています。

ハラール認証ビジネスの利権屋たちがよく引用する預言者ムハンマドの言葉に「ハラールは明白であり、ハラームも明白であるが、その間には多くの人が知らないさまざまな曖昧な事柄がある。曖昧な事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉を護るが、それに足を踏み入れる者はハラームに陥る。それは禁猟区のまわりで動物を飼う牧童が、家畜がその禁猟区の中で草を食んでしまう危険を冒すようなものである」があります。ここでもハラールとハラームは明白であり、その間に曖昧なことがあると断言されています。ハラームではなくとも気付かずにハラームを犯してしまわないように曖昧なことを避けることは、法学的なハラームやハラールの範疇とは別で、イスラーム学では篤信(ワラウ)と呼ばれ、お説教ではよく取り上げられるテーマです。しかし篤信(ワラウ)を求めることは、イスラーム学を修めた学究には意味があっても、アラビア語も分からず、明白なはずのハラールとハラームも分からない無知な凡俗(ジャーヒル、アーンミー)には、自分が篤信であるとの傲慢な勘違いを生むだけで、有害無益でしかありません。自分でクルアーンを読んで、書かれていなくて分からないことがあれば、無知を恥じつつそれは神さまからの「お目こぼし(アーフィヤ)」として有難く押し頂くのが正しい態度でしょう。

たとえば、食肉に関して、「またアッラーの御名が唱えられなかったものを食べてはならない」(6章121節)を根拠に、ムスリムの屠殺人が「ビスミッラー(アッラーの御名によって)」と唱えて正式な手続きに従って屠った肉以外はハラームだ、とよく書かれています。イスラーム法上、屠殺の作法としては、アッラーの御名を唱えて鋭利な刃物で脊髄を切断しないように頸動脈を素早く切る、などの作法が定められていますが、法学的にはアッラーの御名を唱えることは義務とはなっていません。その根拠は、アーイシャが「イスラームに入信したばかりの部族が、アッラーの御名を唱えたかどうか知らない肉を持ってきました」と預言者ムハンマドに尋ねた時に、「あなたがたでアッラーの御名を唱えて食べなさい」と答えらえた、との伝承です。クルアーンには「アッラーの御名が唱えられたもの」とは書かれていても、いつ唱えるかについては語られていないからです。それについては各自が自分の知識に応じて判断すればよいのであり、屠殺の時点で神の御名が唱えられているかどうか分からなくても、食べる時に唱えることもできる、と預言者ムハンマドはアーイシャに教えられました。詳しくは次の3.「利権屋たち」のクフタロー師のファトワーを参照してください。

ここで重要なのは、預言者ムハンマドは、無知な新入信者が持ってきた誰がどのように屠ったか分からない肉をどうすべきかを尋ねられて、その肉を誰がどのように屠殺したかを詮索しろとは命じられず、また素性が怪しい肉は食べるな、とも命じられず、自分で神の御名を唱えて食べるように命じられたことです。また今後はイスラームに入信した部族に検査官を送り屠殺の現場を調べさせ手数料を払ってハラール証明書を取得した部族の肉だけを市場で売ることを認める、などとも指示されませんでした。

預言者ムハンマドとその弟子たちは人類の中で最も神を畏れる篤信のムスリムでした。その彼らがしなかった検査官の派遣による屠殺の方法の詮索と証明の押し付けなどは、敬虔でも篤信でもなく、イスラーム法を厳格に守るどころか、預言者の教えに反するばかりか、預言者より自分たちの方が厳格だとの思い上がり、預言者への侮辱に他ならないのです。

3.利権屋たち

ではハラールな食べ物を求める、とはどういうことでしょうか。スンナ派イスラーム学で参照される最も標準的な古典ガザーリー著(1111年没)『宗教諸学の再生』には「ハラールとハラーム」章があり、篤信者の逸話が数多く取り上げられていますが、その中には、他人の屠殺の仕方や不浄な混入物を詮索したり自分の基準を押し付けるような話は一つもありません。篤信者たちが気にかけていたのは、不正な方法で手に入れたり、自分に権利がない食べ物を食べないことです。初代正統カリフ・アブー・バクルは、自分の召使いが禁じられた占いの対価にもらった乳を吐き出し、第二代正統カリフ・ウマルも国庫に納められた浄財の乳を自分のものと間違えて飲んだ時にやはりそれを吐き出しました。また正統カリフの時代が去り不正なカリフたちの時代に生きたビシュル・ハーフィー(禁欲者、スーフィー、841年没)などの篤信者の中には、不正に財をなした統治者が掘った運河から引いた水を飲まず、その水をやったブドウの実は食べなかった者もいる、と、伝えられています。一方でカリフ・ウマルは、不浄物が混入した異教徒の水瓶の水で身体を浄めていたのであり、その飲用も許されることになります。

もし食品がハラールかどうかを気にするなら、その食品の材料を買う契約がイスラーム法に適っていたのか、その食材を買ったお金が利子などイスラームが禁ずるハラームな金が混ざっていなかったか、などを調べるべきでしょう。現代経済システムでは資本主義、社会主義の区別なく、もちろん、ムスリム国家であっても、政府が通用を強制する法に定められた通貨を管理する中央銀行の発行する紙幣が、法定金利で民間銀行に貸し出されていますので、全ての取引はハラームな利子で汚染されています。ちなみに日本の場合、民間銀行が日本銀行に無利子で預けることが義務付けられている法定準備金は10兆円程度であり有利子の超過準備金は250兆円程度です。日本で取り引きされている以上、ハラールな食品など存在するはずがありません。利子だけが問題ではありません。不正な為政者との関りもないことも重要です。そもそもイスラーム法上合法な為政者はカリフだけであり、現在のムスリム諸国の支配者たちは例外なく不正、という「そもそも論」は書きたいですが、書き始めるときりがないのでやめておきましょう。

ムスリム諸国で最もハラール認証が盛んな国はマレーシアです。ところが知る人は知る事実ですが、マレーシアは法的に先住民族(ブミプトラ)に多くの利権を認め、マレー人が華人やインド人を不正に搾取する構造的な汚職国家であり、ハラール認証ビジネスもそうした利権の一つです。なかなかこういう話はマレーシアに馴染みのない日本の読者には理解できないと思いますので、分かり易い話をしましょう。2019年12月、米証券取引委員会(SEC)は「マレーシアの政府系ファンド1MDB(ワン・マレーシア・デベロップメント)から約27億ドル(約2950億円)の資金が不正に流用され、その一部がマレーシアのナジブ前首相らに賄賂や見返りとして配られた」と発表しました。詳しく知りたい人はネットでもたくさんの記事が読めますので自分で調べてみてください。この汚職にはUAE(アラブ首長国連邦)も関わっていた疑いが濃厚なことも調べて行けばすぐに分かります。この記事だけでも数百万円の賄賂でも騒ぎになる日本とは桁違いの腐った国なのは想像がつくかと思います。この事件もナジブ政権のあまりの腐敗に利権体制の受益者のマレー人さえも愛想をつかし2018年の選挙で与党UMNOが破れナジブ政権が崩壊し、ナジブも逮捕されたため明らかになったことであり、政府ぐるみの巨大な不正の氷山の一角に過ぎません。実はナジブは副首相だった2006年に側近と護衛がモンゴル人モデルを爆殺した件への関与の疑いもかかっています。きりがないのでもうやめましょう。日本のハラール認証ビジネスの利権屋どもが、マレーシアやUAEなどから公認を受けているなどと誇らしそうに謳っているのも、語るに落ちる、と言うべきでしょう。

またハラール認証の利権屋たちが隠していることですが、「啓典の民の食物は汝らに許されている」(5章5節)に基づき、キリスト教徒とユダヤ教徒の屠殺肉は合法であることは全てのイスラーム法学派のコンセンサスです。現代の法学者でもトルコ語、マレー語、ウルドゥー語、ペルシャ語にも翻訳されている最も権威ある法学書『イスラーム法学とその典拠(al-Fiqh al-Islāmī wa Adillatu-hu))』(全8巻)の著者ワフバ・ズハイリー師(2015年没)もキリスト教国からの輸入肉はたとえ屠殺時にアッラーの御名が唱えられていなくても食用が許される」と明言しています。ちなみにワフバ・ズハイリー師は私が監訳した『日亜対訳クルアーン』(作品社)に推薦文を寄せてくれています。またこのズハイリー師の見解については、私は師事していたシリアの共和国最高ムフティー(諮問官)アフマド・クフタロー師(2004年没)にアメリカやオーストラリアからの輸入肉を食べて良いかと質問し、問題ないとの公式な回答(ファトワー)をもらっています。

クフタロー師のファトワー

クフタロー師のファトワーの翻訳

マレーシアにしろ、他のどこの国にしろ、そもそも自称、他称のムスリムたちが本当にムスリムかどうかは疑わしいですが、既に書いたようにそれを詮索することは私の仕事ではありません。ムスリムが多数の国で売られている肉であれば、誰が屠殺したのか、ムスリムと言われているとしてそれが本当にムスリムか否か、どういう風に屠殺したのかを特に詮索せず食べるのが今も昔もイスラーム学者たちの生き方です。キリスト教徒が多数の国で売られている肉であれば、屠殺した者が本当にキリスト教徒かどうか、どのように屠殺したのかなど詮索せずに食用が許されている啓典の民の食べ物と考えるのも同じで、キリスト教国からの輸入肉であれば、特に詮索せずに、合法と判断するのが、イスラーム学を修めた学識あるイスラーム法学者の思考です。

ハラールな肉が欲しければ、日本人の無知につけ込み勝手な基準を設けてハラール認証を押し付ける利権屋たちのハラール・マークのついた肉など買う必要はなく、ズハイリー師やクフタロー師の法判断に従い「啓典の民」の国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ブラジルなどからの輸入肉を買えばよいのです。

ちなみにゼラチンについても国際イスラーム学者連盟会長のユースフ・カラダーウィー師が「豚の骨由来のゼラチンのような豚に由来する多くのものは既に変質しており不浄ではなく禁じられた豚肉とは看做されない」と述べています。これもイブン・タイミーヤ(1328年没)などの古典イスラーム法学の大学者の学説に基づいています。

また酒についても、アルコールが少しでも入っていればハラームだ、とハラール認証ビジネスの利権屋たちは騒ぎ立てますが、そもそもアルコールなどという概念はシャリーアにはありません。ちなみに「アルコール」は中世アラビア科学の「al-kaḥl」の語からの借用語ですが、「al-kaḥl」アンチモンであり、「アルコール」とは無関係です。少量の酒の禁止の典拠は、「大量で酔わせる物は少量でもハラームである」との預言者の言葉ですが、これも「少量」の意味を現代風に化学的成分分析で検出されるようなものと考えるのはイスラームへの無知の所産です。預言者の言葉の意味はクルアーンや別の預言者の言葉に照らして解釈しなければなりません。これに関しては、アフマド・ブン・ハンバルやティルミズィー、アブー・ダーウードが「1f-r-q飲んで酔うものは掌一杯でもハラームである」との預言者の言葉を伝えています。ハナフィー派の大法学者アリー・ブン・スルターン(1606年没)によるとf-r-qには第二語根を母音アでfaraqと読む写本と第二語根を母音無しでfarqと読む写本があり、ファラクは16ラトル、ファルクは120ラトルです。ラトルは重量と容積の両方に使う単位で地方と時代により内実が異なるのですが、大雑把に言えば、12ムッドであり、1ムッドは両掌に1杯分であり、およそ450mlと言われます。

つまり「1f-r-q飲んで酔う物は掌一杯でもハラームである」との預言者の言葉の意味は「86.4リットル、あるいは648リットル飲んで酔う物は225mlでもハラームです」となります。アリー・ブン・スルターンはファルクの読みを採りますが、いずれにしても誇張だと言います。人間が飲める量はせいぜい数リットルでしょうから、この言葉は「数リットル飲んではじめて酔うような薄い酒であっても、わずかコップ一杯ほどの量でさえもハラームである」といった意味になります。預言者ムハンマドは組成の化学的分析ができる測定器などなくても誰でもハラームとハラールを判断できるように、「酔わせるもの」とか「掌一杯」などの誰にでも分かる判定基準を示されました。「少量」とは誇張して「掌一杯」になるぐらいの常識的な飲酒量であることがわかりましたが、そもそも「酔わせる」とはどういう意味でしょうか。クウェイトの出版する『イスラーム法学辞典』は「酔い」を、譫言を言い、自分の服や靴と他人の服や靴を取り違え、天地、男女の区別がつかなくなる状態と定義しています。これらのイスラーム学の古典を紐解けば、ハラール認証ビジネスの利権屋たちにだまされることなく、アッラーの啓示クルアーンと預言者ムハンマドの言葉に則って自分でハラールとハラームを判断することが出来るようになります。

4.ただ牧童が知るのみ

ここまでよく分らなかったと思いますが、長々とイスラーム学の細かい話をしましたが、ここからは分かり易い、ハラール認証ビジネスの実務的な手続きの話をしましょう。ハラール認証ビジネスは、手数料、認証代を巻き上げるために自分たちで勝手なハラールの基準を設け、認証を受けようとする工場、厨房などに検査官を派遣し、食品の製造過程が自分たちのハラールの基準であると認定すればハラール認証を行い、金を払った人間にだけ彼らのハラール・マークのロゴの使用を認めます。通常ハラール認証団体が発行する認証には1年なり2年なりといった有効期限が設けられています。

具体的な架空の単純化したケースを考えてみましょう。不正な政府やハラームな取引を避けて、無主の深山で野生のヤギを捕まえ飼いならして、その乳を飲んで暮らしていたイスラーム学者の牧童がある日、その山羊の一頭をイスラーム法の定める正しい手順に則って屠って食べて、残りの肉を山で掘り出した岩塩と共に、麓に住んでいる旧友のイスラーム学者の農夫のところに持っていき、野菜と交換してもらいました。農夫は家の井戸の水で山羊の肉と野菜を岩塩で煮てシチューを作って屋台で街に出て売ろうと思いました。ところがそこにハラール認証屋がやってきて、そのシチューは食材の素性と製造工程が不明なのでハラールとは呼べないので、我々の検査を得てハラール認証を受けるように、と言いました。

さて、そのシチューの食材の山羊と岩塩が不正な取引でなく合法に手に入れ、山羊がイスラーム法に則って屠られたことは、そのイスラーム学者の牧童だけが知っており、その牧童の言うことが信用できることは、同じイスラーム学者で彼を個人的によく知っている旧友のイスラーム学者の農夫だけが知っています。またその山羊肉と岩塩を自分の野菜を対価としてイスラーム法の定めに従い合法的に交換したことはその牧童と農夫だけが知っています。つまりそのシチューがハラールであると言うことが出来る人間はその農夫だけであり、何も知らないハラール認証屋には口を出す資格も権利もない、ということです。そのシチューに関してはハラール認証屋は何もできません。もし彼らがその農夫に聞き取り調査をした上でハラールと判断したとすれば、それは農夫が言うことが正しいということであり、それは彼がイスラーム法的に信頼できる公正な証人だということです。その場合もそのシチューがハラールであると言うことが出来、望むならハラールの看板を掲げる権利があるのはやはりその農夫であって、ハラール認証屋ではありません。

そのハラール認証屋がそのシチューをハラールと認証する資格も権限もないのは理解できたと思いますが、仮にその農夫がハラール認証屋に認証を頼んだ場合何が起こるのでしょうか。まずハラール認証屋が調査官を派遣してきます。もちろん、調査官の交通費、日給は農夫が払わされます。では調査官は何をするのでしょうか。まず厨房で豚や酒が使われていないことを確認します。「厳密」が売り物のハラール認証屋なら、水と岩塩も、アルコール分と豚成分がないか、検査が必要、と言うかもしれません。そうなると認証屋は自分がつるんでいるラボに水と岩塩の成分検査を依頼することになります。もちろん、その成分検査の費用も農夫に請求されます。次いで山羊肉の検査になりますが、牧童が自分で屠った肉ですからハラール認証屋のハラール・マークが貼られた包装などありません。山羊の屠殺の現場を調べる必要がありますが、牧童は世を厭って深山に住んでいますので、会いに行くにも日を改めて一日仕事になります。スマホなど持っていませんし、そもそも圏外なのでつながりませんので行っても会えるとは限りませんが取りあえず一日で検査は済むということにしましょう。そこで屠殺の仕方を調べますが、せっかく遠路はるばる山を登って来たので、飼料でも調べるかもしれません。といっても放牧なので野草しか食べていませんが。本当は山羊や野草の所有者が誰でその入手法が合法かも調べないといけないのですが、既述の通り、ハラール認証屋はそれは調べません。農夫の厨房の調理器具などの入手法も同じです。それだけのために一日がつぶれるのでまた調査員の一日分の必要経費と日当が農夫に請求されます。ひょっとすると認証屋は、農夫の食堂に貼るハラール・マークのロゴとは別に、牧童の牧場──といっても放し飼いですが──にも別途ハラール・マークを売りつけようとするかもしれません。農夫よりイスラーム法に厳しく、不正で汚れた商売には一切近づかない牧童が汚らわしいハラール認証屋と取引などするとは思えませんが。

5.なぜハラール認証に期限が有るのか

ここまで詳しく書けば、ハラール認証の検査官が出来ることは、自分が現場に行ったその日に見たものについてハラールかそうでないかを言うことだけであるのが分かるでしょう。ところが既に述べたようにハラール認証制度では、1年とか2年とかの期限があり、検査官が現場で検査をするのは最初の一回というのが原則です。時々抜き打ち検査をするにしても本質は同じで、検査に立ち会った日以外は自分が見てもいないものをハラールだと言っているのです。厳格どころか詐欺でしかないことが分かるでしょう。ハラール認証制度は、検査官は1日立ち会っただけで、それと同じことをその店、あるいは工場が認証期限中はずっと行っている、という前提で、認証料を取って、自分が見てもいないものをハラールだと言う制度なのです。本当に製品がハラールなら、それはその店の人間が信頼できるからです。そして信頼に足る人間であれば、一度ハラール認証を出せば、そのままの営業を続ける限り、ずっとその店のものはハラールなはずです。そうではなくて認証が必要なら、検査官はそれらのレストラン、工場、屠殺場に常駐し、全ての製品について、毎日チェックしなければなりません。勿論、その費用をハラール利権屋に払うことになります。そんな余計な人件費を払うと小さな店は潰れてしまいます。金づるを潰してしまっては元も子もありませんから、生かさず殺さずに搾取する手段が期限を決めて一回の検査をしただけでその手数料とは別に認証料の名目で金を取る認証ビジネスなのです。

その店の人間が信頼に足る人間であれば、ハラール認証屋などから認証を受けなくても、その認証屋の言うハラール基準であれ、他の認証屋の基準であれ、あるいは自分たちが信頼するイスラーム法学者に聞いたり本やネットで学んで自分たちが考えた基準であれ、それに基づいて自分たちがハラールであると判断すれば、望むなら自分でハラールのマークを付ければよいのです。そもそもハラール・マークのロゴ、といっても、ただアラビア語でハラールと書いてあるだけですから、ロゴにすること自体がおかしいのです。

既に述べた通り、ムスリムは各自がクルアーンとスンナに従って正しく生きる義務があります。それをアラビア語ではイジュティハードと呼びます。イジュティハードとはイスラーム法の専門用語としては資格のある法学者がクルアーンとスンナから法規範を演繹する行為を意味します。しかしもともとはイスラーム法でも、礼拝をする時にマッカの方向がどちらかを太陽や星の位置から判断するような、自分が何をすべきか判断することもイジュティハードと言います。「クルアーンとハディースに従ってイジュティハードすることが、各人の義務である」と大法学者イブン・タイミーヤ(1328年)が述べているのもこの意味です。イジュティハードについては、預言者ムハンマドが、「法判断を下す者がイジュティハードを行えば正しければ二つの報奨、間違っていても一つの報奨を得る」と言われています。つまり自分自身のことについては、たとえ結果的に間違えようとも自分自身で判断することが許されるばかりか義務になるのです。それがアッラーではなく、つまりクルアーンとスンナではなく、人間が決めた規則に従うことを偶像崇拝、多神崇拝として拒否するイスラームの教えです。揺り籠から墓場まで、あらゆることに国家の許認可がなければ安心できない、国家に飼いならされて心身ともに国家の奴隷となりながらそのことに気が付かない日本人、というより、ムスリム諸国の人々を含む現代人が、ハラール認証を食品衛生基準の認可のようなものと考えているのとは違うのです。ちなみに許認可制度と言えば、私自身もイベント・バー・エデンの食品衛生管理責任者などやっていますが、それが末法というものです。

結語

なによりも呪わしいのは、ムスリム諸国、特にマレーシア、インドネシアのような国家崇拝の反イスラーム国家のハラール認証屋どもが、2020年の東京オリンピックでムスリム諸国からの観光客の誘致を餌に、日本の政府や地方自治体に食い込んで巨額の利権を得ようとしていることです。そもそもハラール認証のような「宗教行為」に「政教分離」を謳う日本の公的機関が予算をつけて財政的な支援をすることが許されるのか、は、「政教分離」という西欧起源の法原則の「いかがわしさ」を明らかにする大問題ですが、それは別途また論じることができれれば、と思います。

中田考(なかた・こう)
1960年生まれ。イスラーム法学者。灘中学校、灘高等学校卒業。早稲田大学政治経済学部中退。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(Ph.D)。1983年にイスラーム入信、ムスリム名ハサン。現職は同志社大学一神教学際研究センター客員フェロー。『イスラーム国訪問記』『みんなちがって、みんなダメ』『カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』『13歳からの世界征服』など著作多数。最新刊『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』(サイゾー)。

飯山陽(いいやま・あかり)
1976年生まれ。イスラーム思想研究者。アラビア語通訳。上智大学文学部史学科卒。東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻イスラム学専門分野単位取得退学。博士(東京大学)。現在はメディア向けに中東情勢やイスラムに関係する世界情勢のモニタリング、リサーチなどを請け負いつつ、調査・研究を続けている。著書に『イスラム教の論理』(新潮新書)、最新刊『イスラム2.0』(河出新書)。