第10回 静かすぎる日々

全感覚祭――GEZANのレーベル十三月が主催するものの価値を再考する野外フェス。GEZAN マヒトゥ・ザ・ピーポーによるオルタナティブな価値の見つけ方。

4月1日、本来ならGEZANの出した『狂 (KLUE)』というアルバムのリキッドルームのレコ発の日で、開催ができるか、この一ヶ月ずっとその可否を探ってきたが、蓋をあければ余裕の余裕で無理だった。もし開催してれば今頃、900人超の頭の上に飛び込んで獣になってたかな。今、小雨が降るどんよりとした雲の下でどんよりしたコラムを書いている。ため息まで灰色。
 日々更新されるニュースにしがみつくのがやっとの毎日の中で大切にしていたものが目の前から溢れていくのを指を咥えることさえもできず、ただマスク越しに立ち尽くしている。
 二日に一回のペースで5時間ずつ入っていた練習スタジオもついにストップしたのはバンドをはじめてからの10年で初めてのことではないか?こんな時はいつだってFUZZを踏んででかい音で叫んで乗り越えてきたのだが、直面する事の重大さが、LINE内で飛び交うコロナ関連のニュースからうかがえる。普段はこのMETALバンドの1stがどうたらこうたらとか、そんな会話しかないバカなGEZANメンバーからも緊張感が伝わってくるのだからそれはもう深刻だ。できれば早くものすごくくだらない会話をして、どうしようもない夜を過ごしたい。
 カップラーメンにお湯を入れ、誰もいない部屋でNetflixを見てる。この食事は、食事ではなく、ただの栄養の補給。番組のコンテンツも正直飽きた。コンロもない部屋、自分のような独り身はこんな状態がいつまでも続いたら普通に寂しくて死ぬ。そんなメンヘラウサギの気持ちがよく理解できる。

エイプリルフール。誰もが思ったはずだ。すべてが嘘だったらいいのにな。なんてことを誰かに直接伝えることもできず、圧倒的な現実は目の前の余白を奪っていく。少し前に季節外れに降った雪が何故かまだ溶けずにうちのベランダに少しだけ積もっていて、室外機からでた汚れた蒸気にあたり、どす黒く変色しているのを見て何度目かのため息がこぼれた。

 

 

もはや、政治を音楽に持ち込むなだとか、そんな生温い議論を許さないほどに自らを取り巻く現実は困窮していた。Twitterにも書いたがベースのカルロスはバンドをやっているという理由で10年ほどやっている介護の職を飛ばされた。無論、体調が悪い訳ではないが、そう選ばざるをえない介護職長の気持ちも理解できると言っていた。ライブハウスやクラブは同じくギリギリの状態で食いつないでいる。この1ヶ月の間、保証はなく、自粛の要請という矛盾した言葉の二つを暴力的に並べる政府の圧に苦しんだ。そして残念ながらこの先もこのプレッシャーは続くだろう。長期戦を覚悟しなければいけない。
 かくいう自分もこれからの最低でも三ヶ月は収入がなくなる。未曾有の事態だと言わざるを得ない。

「だいじょぶだぁ」と言ってくれる人ももういない。今こそ言ってほしい。 「だいじょうぶだぁ」

専門家の話などから察するにこの夏のライブも絶望的なのではないかと覚悟している。この自粛はさらに強まり、緊急事態宣言へと向かっていくわけだが、コロナがピークを迎え、収束にむけてなだらかなカーヴを描き平穏に向かっていくとして、まずは小さなバー形式のクラブなどが営業を再開していくのだろうが、大箱はその営業形態を見直しながら徐々に徐々に再開していく。キャパシティの制限などをしながら徐々に。通常の業務形態で復活できるのはいつの日か?それまで自分の好きなその箱たちの体力が持っているのか心配しかない。

現場の声を聞くところからはじめたいと思い、今一つの映像をまとめている。偏りはあるがライブハウスやクラブに話を聞きにいったものだ。そこにはこの先をサバイブしていくヒントが散らばっている。しかしそれは原石でしかない。その原石を輝かせて、具体的な光に変えていけるかはそれぞれにかかっている。誰も答えなど持っていない。ウイルスのポテンシャルが誰もわからないから。

 

 

この晶文社でのコラムは全感覚祭を軸にしたコラムで、物の価値を再考してきた全感覚祭は本来こういった事態にこそ、この未曾有の時期にこそ真価が問われると思った。ライブハウスやクラブの存続の危機の中、その場所がどんな価値だったかを今一度考え、そこに価値をつける必要がある。そんなことをチーム十三月のミーティングで熱弁したわけだが、そもそも集合というすべての根源にあった武器が奪われた状態な訳で、思考は具体的なビジョンにまとまることなく糸はもつれた。今はただ日に日に悪くなっていく、この状況と一緒に落ちていくしかないのか?いや、そんなはずはない。この時間の中でしかでき得ない形が必ずあるはずだ。
 周りを見ていて、自らが持つ力をどうにか使いたいがその方法が見つからずやきもきしている人が多いように思う。#Save Our Spaceに30万以上の署名が集まったのだってその要因の一つにあるはずだ。
 こんな時こそアイデアを出し合えればと思っている。政府に補償を求めることは前提として、それとは別で、その場所や音や人に救われてきた人たちが、その場所や音や人に還元できるようなプラットホームが必要だと思う。そういった自治の感覚が文化を育んできた側面は確実にある。

10年前にGEZANがはじまった難波ベアーズ、あの薄暗いライトの中で山本精一の無観客、無配信ライブが行われたらしい。スタッフも帰ったからその詳細は不明で、意味もだいぶ不明すぎる精一さんの咆哮とハウリングを想像すると懐かしく、 UNDERGROUND RESISTANCEを感じた。 スタッフから聞いた話によると1時間をすぎた頃にLINEにて「終わった。しんどかった」ときたらしい(笑)
 その難波ベアーズはライブハウスではなくライブスペースだ。だからドリンクの販売もない。仮に補償案を勝ち取った時、その補償が受けられるのだろうか。その線引きは危うく、取りこぼされる場所や人は必ず生まれる。そしてコロナによって影響を受け続けるであろう長期間、その補償をし続ける体力が、その心意気がこの国に残っているとは思えない。すでにネット上で上がりはじめた、生活保護に給付金を出すの反対との醜い声。分断は加速する。来るべきその時、アーティストは試されている。はじまったポストパンデミックにどう振る舞うか。世界規模で一斉に始まる新しい時代にどう存在するべきか、オルタナティブは試される。

 

 

わたしが去年書いた小説『銀河で一番静かな革命』という本はちょうどこんな終末を生きる人々について書いている。その本に書かれた願いをここで書くのは野暮かもしれないが、生産性や世の中の価値とは無縁の暮らしの中にある大切な物への光の当て方について書いている。
 今この世界規模の混乱はある一種のチャンスでもある。仲のこじれていた友人同士がコロナの騒動で大きな連帯を前にその関係性が良好なものにうつったという例を近いところでみた。芸能人から国王、セレブ、会社員から子どもまで境界を越えてシームレスに感染するコロナ、その巨大な敵を前に求められている世界レベルでの変革はシステムだけではなく意識にも向けられている。それは震災以降、日本だけでは成し遂げられなかった意識の変革の可能性を持っている。この向き合わざるを得ない静かな時間をどんなものにするべきか、我々はどう変わるべきか問われている。いい時間にしたい。意地でもそう思う。
 この戦いは想像以上に長引くよ。この怒涛の日々に持っていかれて精神が壊れるくらいならスマホの画面からTwitterのアプリを消して情報を制限してもいいと思う。自分の暮らしを守ってほしい。健康でいることはもちろん、あなたが真の意味で生きているのが大前提で、来るべき反撃はそこからしかはじまらない。いつかくるその時に両の眼を開け、世界を見渡し、好きな人や場所を真っ直ぐに愛せるように今は嵐がすぎるのを待つ。正しく怯えて、自分を守ってほしい。

必ず、その時はくる。

 

 

2009年、バンドGEZANを大阪にて結成。作詞作曲をおこないボーカルとして音楽活動開始。うたを軸にしたソロでの活動の他に、青葉市子とのNUUAMMとして複数のアルバムを制作。映画の劇伴やCM音楽も手がけ、また音楽以外の分野では国内外のアーティストを自身のレーベル十三月でリリースや、フリーフェスである「全感覚祭」を主催。中国の写真家Ren Hangのモデルをつとめたりと、独自のレイヤーで時代をまたぎ、カルチャーをつむいでいる。2019年、はじめての小説『銀河で一番静かな革命』(幻冬舎)を出版。GEZANのドキュメンタリー映画「Tribe Called Discord」がSPACE SHOWER FILM配給で全国上映。バンドとしてはFUJI ROCK FESTIVALのWHITE STAGEに出演。2020年、5th ALBUM「狂(KLUE)」をリリース、豊田利晃監督の劇映画「破壊の日」に出演。初のエッセイ集『ひかりぼっち』(イーストプレス)を発売。監督・脚本を務めた映画「i ai」が公開予定。

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