第八書簡 コロナウィルス禍をめぐって

日本人は、身近な隣人となりつつあるムスリムの論理を理解しているか? そこに西洋文明中心視点の誤ったイスラーム解釈はないか? 世界のイスラームに関連するトピックを題材に、より深いイスラーム理解にたどり着くための往復書簡。イスラーム教徒でイスラーム法学者である中田考、非イスラーム教徒でイスラーム思想研究者の飯山陽、専門を同じくしつつも互いに異なる立場の2人による、火花を散らす対話。  

コロナウィルスとイスラム世界 飯山陽

ウィルスとの「戦争」

米軍空爆によるイラン革命防衛隊ソレイマニ司令官殺害とそれに伴う中東の不安定化で幕を開けた2020年。続けて世界を襲ったのは、新型コロナウィルスでした。

2019年12月に中国の湖南省武漢で最初の症例が確認されて以降、コロナウィルス感染は瞬く間に世界中に拡大し、2020年3月11日にはWHOのテドロス事務局長がパンデミック(世界的大流行)を宣言しました。多くの国々で学校を含む様々な施設が閉鎖され、人々の移動が制限され、国境が封鎖され、出入国が制限され、航空便の往来が停止されるといった強行措置がとられました。

国を挙げてコロナウィルス封じ込めに取り組まざるをえない現状を、アメリカのトランプ大統領やフランスのマクロン大統領は「戦争」と呼びました。コロナウィルスは既に、第二次世界大戦以降最大にして最悪の世界規模の災厄だと言われ始めています。このウィルスとの「戦争」は数年続くとも予測され、人類は新しい生き方、考え方、暮らし方、働き方、学び方、人との付き合い方への適応を余儀なくされています。

中東イスラム地域でコロナ感染の「震源地」となったのはイランでした。AP通信は中東の感染事例の9割はイラン由来だと伝えています。

国内で1月末にはコロナ感染者が確認されていたにもかかわらず、イラン当局が初めて感染を確認したと発表したのは2月19日のことでした。24日にはハリルチ保健副大臣が会見で、イラン当局はコロナ感染の実態を隠蔽してなどいない、都市の封鎖など石器時代のものであり不要だと述べましたが、その翌日には自身の感染が確認され隔離されました。イラン当局はコムを封鎖すべきだというトルコの忠言を退け、都市封鎖も出入国制限も行わず、中国との航空便運行も継続しました。結果的に感染は爆発的に拡大し、イラン国営テレビは3月16日、イランでは350万人がコロナウィルスで死亡する可能性があると報じ、19日には保健省報道官がイランでは1時間に50人が新たにコロナウィルスに感染、10分に1人が死亡しているとツイートしました。

コロナウィルスが露呈させた問題

コロナウィルス流行は、イスラム世界の問題をいくつも露呈させました。

第一に科学より信仰を優先する傾向、第二に陰謀論の流布、第三に異教徒に対する差別です。

イスラム諸国当局は概ね、科学や現代医学に矛盾しないかたちでイスラム教の教義を解釈し、信者を穏当な信仰のあり方へと導く方策を採用しています。

例えば男性イスラム教徒には金曜日の昼の集団礼拝への参加が義務づけられていますが、イスラム諸国の多くは感染拡大を懸念し、それを禁じました。ムスリム世界連盟事務局長ムハンマド・イーサー師はコロナ流行時における集団礼拝禁止はイスラム法的義務だと述べ、エジプトのイスラム学の殿堂アズハルは当局や医師の感染予防ガイドラインへの違反はイスラム法的に禁じられるという法令を出しました。各国のモスクは信者に対し、礼拝の時間を知らせる際に通常「礼拝に来れ」と呼びかけるところを、「家で祈れ」と呼びかけています。

礼拝と同じく信者にとっての義務とされているメッカ大巡礼についても、メッカを擁するサウジアラビア当局は信者に対し、今年は見送ってほしいと要請、大巡礼自体を中止する可能性についても示唆しています。

一方イランでは、当局は集団感染が疑われたコムやマシュハドの聖廟の閉鎖を要請したものの、廟の管理者は「人々は廟への参詣によって病を癒せる」などと主張し閉鎖要請を拒否しました。イランで多数派を占めるイスラム教シーア派信者の中には、預言者ムハンマドの一族の廟に参詣すると病の治癒を含む多くの「ご利益」を得ることができると信じる人が少なくありません。中でも特に人気があるのが、コムのファーティマ・マアスマ廟とマシュハドのイマーム・レザー廟です。

コロナ感染拡大後も信者たちはこれらの廟への参詣を連日欠かさず続け、2月末には複数の男性が「私がウィルスを取り除く」などと言って墓を囲む金属の柵を舌で舐める映像がSNSで拡散しました。男性らはフェイクニュースを広めた容疑などで拘束され、廟は強制的に閉鎖されましたが、それに怒った群衆がマアスマ廟の錠を破って中に突入し、我先にと金属の柵にすがりつき口づけをしました。イマーム・レザー廟の前ではイスラム法学者が「世界の健康などどうでもいい。彼らは不信仰者、ユダヤ人だ。我々は神のみを信じる。ここに集まり続けようではないか」などと群衆に呼びかけました。

感染源となった集団礼拝

韓国では「新天地イエス教会」という新興宗教団体の集団礼拝が集団感染源となったことが知られていますが、東南アジア・南アジアでも伝道と大規模集会の開催で知られるインド発祥のイスラム組織「タブリーギー・ジャマーアト」が類似の事例を引き起こしています。

タブリーギーが2月末からマレーシアのクアラルンプールで開催した伝道集会には、マレーシアだけでなくシンガポールなどの近隣諸国、中国や韓国、カナダやオーストラリアなど世界各地から約1万6000人が参加し、手を握り抱き合って挨拶をしたり、肩を寄せ合って集団礼拝をしたり、食べ物を分け合ったりして4日間寝食を共にしました。3月30日時点で参加者1290人の感染が確認されています。

集団感染発生の事実にもかかわらず、タブリーギーは続けてインドネシアの南スラウェシでも集会を企画、地方当局は集会の延期を要請しましたが主催者はそれを拒否、ロイター通信に対し「我々はウィルスよりも神を恐れる」「人間は誰しも病や死を恐れるが、より重要なのは我々の肉体ではなく我々の魂だ」と述べました。集会は開始直前に延期となりましたが、会場には既に世界各地から約9000人が集まっていました。

タブリーギーはインドのデリーでも3月1日から大集会を実施、参加者は3400人に達し、21日にインドのモディ首相が全土封鎖を宣言した後も居座り続け、26日には指導者の一人がコロナ感染により死亡、28日にはWHOチームが集会に入り感染が明らかな参加者33人を連れ出しました。強制解散させられた参加者はインド各地に散らばり、保健相は「主催者は甚大な罪を犯した」と非難しましたが、タブリーギーは「ルール違反は一切犯していない」と声明を出しました。4月に入り、当局は参加者500人に感染の症状が見られると発表しています。

バングラデシュでも当局によって集会への参加自粛が要請されていたにもかかわらず、国内初のコロナによる死者が報告されたのを受け、3月18日にはウィルスからの解放を祈り『コーラン』章句を唱える大規模集会がライプールで開催され、主催者によると2万5000人以上が参加しました。

『コーラン』第10章57節や第17章82節には、『コーラン』は信者にとっての癒しにして導きであり、慈悲であると記されています。ゆえにイスラム教徒は、『コーラン』の一言一句に信者の苦しみや病に対する治癒が含まれていると信じているのです。

神以外のいかなるものをも恐れない

人は一般に、不快な事実より心地よい虚偽を好む傾向にあると言われます。

加えてイスラム教の場合には、信者は神のみを恐れ、それ以外はいかなるものをも恐れない、というのが正統な教義です。イスラム教は因果律を認めないため、ウィルス感染に関しても、ウィルスが主体的に感染を引き起こすわけではなく、あくまでも神の意思によって感染が生じると考えます。

しかしその一方で、イスラム教の預言者ムハンマドは「他者に害を与えてはならない」と言ったと伝えられています。彼の言行録ハディースは『コーラン』に次ぐ権威が認められており、他にも手洗いを推奨するものや、感染症に罹患した者はその場を離れてはならず罹患していない者は流行地に立ち入ってはならないと指示するものなどもあります。

神や聖者がウィルスから守ってくれると強く信じて聖廟に口づけしたり、タブリーギーの集会に参加したりしているイスラム教徒は、彼ら自身が高い確率で感染の危険に晒されるだけでなく、感染を広める源にもなりえます。それが現代の科学的知見です。

インドネシア保健相は2月24日、インドネシアにコロナ感染者がいないのは神と我々の祈りのおかげだと述べ、祈りによって感染を食い止めようと国民に呼びかけましたが、3月2日に初の感染者が報告された後は症例が急増し、コロナによる死者数は東南アジアで最多となりました。

パレスチナ自治区ガザでは3月20日、ジャミール・ムタワ師がコロナウィルスは神が遣わした「神の戦士」なので、アメリカやイスラエルは甚大な被害を受けるがパレスチナは被害を受けないと金曜礼拝で説教し、その翌日にガザ地区で初めての感染者が確認されました。

科学に矛盾しない形で教義を解釈し信者の命を守ることができるかどうか、当局やイスラム法学者など宗教指導者の真価が問われる局面です。

流布する陰謀論

イスラム世界では陰謀論の流布も顕著です。

コロナ発生当初は「コロナはウイグル人ムスリムを迫害している中国に対する神罰だ」という説が広まりましたが、感染がイスラム世界にも拡大すると、「コロナは生物兵器だ」という説が盛んに唱えられるようになりました。

3月3日にはイランのイスラム革命防衛隊のジャラーリー司令官が、コロナはイランと中国に向け敵から送り込まれた生物兵器だと主張し、5日には同サラミ司令官がコロナ生物兵器説を唱え、「それはおそらくアメリカ産だ」と述べました。10日には元イラン大統領のアフマディネジャド氏が、コロナという生物兵器を製造し拡散した研究所を特定するよう要請する書簡をWHOに送ったとツイートしました。

3月12日には中国外務省の報道官が、新型コロナウィルスは米軍が中国に持ち込んだ可能性があるとツイートし、翌日にはイラン最高指導者ハメネイ師が「これ(コロナウィルス)が生物兵器である可能性を示す証拠がある」とツイートしました。

3月21日にはイランが支援するイエメンのフーシー族指導者アブダッラー・フーシーがコロナウィルスについて、「アメリカ人やイスラエル人の武器」であり、アメリカがそれを拡散し、利用しているとテレビで演説しました。

コロナウィルスに関するこうした陰謀論は、単なる政治的プロパガンダの枠を超え、人命を危険に晒す危険性もあります。

イラクのシーア派指導者ムクタダ・サドル師は3月11日、「トランプよ、コロナウィルスを世界に拡散したのはお前とお前の仲間だ」と名指しで非難し、「我々はお前たちのもたらす治療など欲しくはない」とツイートしました。サドル師はイラク第一党の指導者でもあり、政治的にも多大な影響力を持っています。

ハメネイ師も22日のテレビ演説で、「我々の第一の敵はアメリカだ。アメリカは最も邪悪で不吉なイランの敵であり、その指導者はテロリストで嘘つきだ」と述べ、「ウィルスを製造したのはあなた方だと非難されている。それがどの程度真実かはわからないが、そのような疑いがあるのに賢者があなた方を信用できるはずがあるまい」「あなた方はイランでウィルスをさらに拡散、残留させる医薬品を送ってくる可能性がある」などと述べてアメリカからの支援の申し出を拒絶しました。

AP通信はこの演説について「根拠のない陰謀論」と批判、ツイッターではハメネイ師こそイラン国民を苦しめる諸悪の根源だという主旨で「ハメネイ・ウィルス」というハッシュタグが1日に50万回以上ツイートされました。

アメリカのポンペイオ国務長官は「ハメネイ師の作り話は危険でイランや世界の人々をより大きな脅威にさらす」と述べ、イランのマハン航空がテヘランと中国の間で少なくとも55便を運行しイラン国民のウィルス感染拡大をもたらした、少なくとも5カ国で確認されたウィルス感染の最初の症例はイラン由来、イラン当局は少なくとも9日間最初の死亡例を隠蔽しただけでなく現在も感染数と死者数を実態よりもはるかに少なく発表し続けている、といった「事実」を提示しました。

国家の最高指導者や最有力者が陰謀論や反米イデオロギーに執着して偽情報を広めるにとどまらず、アメリカの開発したワクチンや薬の使用を拒否するとなると、イランやイラクの市民の命がさらなる危険に晒される可能性があります。

3月24日、イラン当局はコロナ感染者対応の支援のためイラン入りしていた「国境なき医師団(MSF)」に退去を要請、ポンペイオ国務長官はイラン政権の最大の犠牲者はイラン国民だとツイートしました。ハメネイ師は22日の演説で「悪魔と敵」が共謀してイランを攻撃していると述べ、イランのメディアでは「国境なき医師団」はフランスのスパイだとまことしやかに語られました。

異教徒嫌悪や差別も噴出

コロナウィルス流行はイスラム世界で、反ユダヤ主義などの異教徒嫌悪や差別を噴出させてもいます。

トルコのイスラム主義政党である新福祉党のファティフ・エルバカン党首は3月6日、「シオニズムは5000年来人々を苦しめるバクテリア」であり、「確かな証拠はない」と留保しつつも、コロナウィルスは「人口を減らすというシオニズムの目的に寄与する」と述べました。エルバカン氏はトルコのエルドアン大統領と深いつながりがあることで知られています。

トルコの日刊紙イェニ・アキトも3月10日、イスラエルによるコロナ・ワクチン開発は、ゲイやレズビアンを増やし、伝統的な家族を破壊し、不妊を促進するなどして世界人口を減らすというイスラエルの目的の一環であるというコラムを掲載しました。

イスラエルのハアレツ紙はこうした状況について、トルコでコロナウィルスをめぐり反ユダヤ主義が広まっていると懸念を表明しています。

日本人も差別被害と無縁ではありません。3月1日にはパレスチナ自治区ラマラで日本人女性二人がパレスチナ人女性二人から「コロナ、コロナ」としつこくからかわれ、スマートフォンを取り出して撮影するふりをしたところ、一人が逆上して日本人につかみかかり髪の毛などを引っ張ったとNHKなどが伝えました。

在イラン日本国大使館は3月3日、在留邦人がテヘラン市内の有名高級レストランで入店拒否された、個人商店でイラン人の買い物客1名が「コロナ、コロナ」と騒ぎ立てながらあからさまに距離を取った、路上でイラン人に「新型コロナウィルスを撒き散らしているのはお前たちだ」と厳しい口調で詰め寄られたといった「邦人に対する差別的被害事案」が発生していると注意を呼びかけました。同大使館によると、テヘランでは信号待ちやバス乗車中に死角から頭を叩かれる等の事案も発生したとのことです。

インドネシアやヨルダンでも類似事案が報告された他、イタリア紙ラ・レプッブリカは3月1日にトリノで日本人女性がモロッコ人2人、イタリア人2人の男4人に「コロナウィルス降りろ!」などとバスの中で攻撃されたと報道、お笑いタレントのぜんじろう氏も3月9日、ドイツのフランクフルトで「中東系の方に『おい!チャイナ!コロナ持ってくるな!』と、車から叫ばれました」とツイートしました。

パンデミックを前にした分岐点

日本人など東洋人に対する差別的攻撃はイスラム教徒に限ったものではありません。しかし伝えられた事案の中では、イスラム教徒による悪質な差別的攻撃が目立ちます。特に気になるのは、イランで報告された「死角から頭を叩く」という奇妙な事案です。

イスラム世界には歴史的に、人頭税を支払うことによってイスラム統治下に暮らすことを認められたズィンミーと呼ばれる異教徒が存在しており、イスラム教徒がズィンミーの頭を叩くという「慣行」があったことが知られています。ズィンミーにはイスラム教徒と見分けがつくよう特別な衣服の着用が義務づけられており、ズィンミーを見つけた時にその頭を叩くのはイスラム教徒にとっての「楽しい儀式」だった、とチュニジア出身のユダヤ教徒である作家アルベール・メンミは記しています。

イスラム法においてズィンミーは、唯一の正しい宗教であるイスラム教信仰を拒絶する愚かで劣った存在であり、差別され屈辱的な扱いを受けるべきだと規定されています。ズィンミーに対しては投石するという「慣行」もよく知られており、現在でもイスラム世界では子供らが異教徒に投石するケースが頻繁に発生します。イランで報告された「死角から頭を叩く」事案も、イスラム教の異教徒差別と関係している可能性があります。感染を避けるために人同士の接触を避けよと呼びかけられる中、わざわざ異教徒に接近して頭を叩くという行為は、いわゆる「人種差別」では説明できません。第三書簡で中田先生が記しているように、イスラム教は人種差別を否定しますが、宗教による差別は否定しません。

大禍の時ほど信者にとって信仰の重要性が増すのは想像に難くありません。イスラム教徒に対しては、啓示を否定するような指導はどんな際にも説得力を持ちません。しかしイスラム法には、どんな義務の履行よりも命の保全を最優先させるべきだという解釈理論もあります。

パンデミックという危機を前にして、その危機や科学的知見に背を向けてひたすら信仰や陰謀論、差別に向かうか、それとも啓示にもパンデミックにも背を向けることなく、危機の時代に最適な信仰のあり方を模索するか。

全人類に新しい生き方への適応が要請される「コロナ後の時代」に向けて、イスラム教徒の信仰のあり方はどのように変化するのか、あるいは変化しないのか。インターネット普及によって相対的に影響力を失いつつある宗教指導者は、信者を新たな時代への適応へと導くのか、それともより一層原理主義化する道へと突き進むのか。

イスラム世界は今、大きな分岐点に差し掛かっています。

 

中東と東アジア、あるいは差別の概念 中田考

序.

2020年3月2日、NHKなどが報じるところでは、パレスチナ暫定自治区の主要都市ラーマッラーの路上で1日昼すぎ、現地で支援活動を行うNGOの日本人女性2人が、通りがかりのパレスチナ人2人から「コロナ、コロナ」としつこくからかわれました。

やめてほしいとスマートフォンを取り出して相手側を撮影するふりをしたところ、1人が逆上してつかみかかり髪の毛などを引っ張られました。パレスチナの当局は1日夜、日本人の女性につかみかかったパレスチナ人1人を暴行の疑いで逮捕し、「事件は例外的であり、客人をもてなすパレスチナの伝統とモラルに反する行為だ」として、同様のからかい行為には厳しく対処する姿勢を示しました。現地の日本大使館によると、新型コロナウイルスに関連して日本人がからかわれるなどの嫌がらせを受けたという被害の連絡はそれまでに10件余り寄せられており、大使館はイスラエルとパレスチナ双方に適切に対応するよう申し入れる方針だといいます。

1.新しい黄禍論とオリエンタリズム

コロナウィルス肺炎は中国の武漢で発生しました。私たち東アジア人自身でさえ見かけだけでは中国人、台湾人、韓国人、北朝鮮人、日本人を区別できませんので、東アジア人以外に東アジア人がみな同じに見えるのは当然です。コロナウィルス肺炎が伝染病であるため、東アジア人が保菌者と疑われ伝染を恐れて嫌がらせを受ける、という事件が世界各地に頻発しています。そのうち世界全域に蔓延すれば東アジア人に対する嫌がらせは減っていくでしょうが、現時点では、トランプ米大統領がコロナウイルスを中国ウィルスと呼ぶなど東アジア人への風当たりはおさまる様子はありません。

異民族、特に見かけがちがう者に対する嫌がらせは古今東西どこにでもあることですので特に取り立てて言うほどのことではありません。しかし文明論的に重要なのは、「人類は平等」との現代のイデオロギーによって封印されていた「黄色人種差別」が欧米において現代の「黄禍論」として蘇ったことです。もちろん、これはまだ極少数の人間に限られた話ですが、衰えたとは言え今なお世界最大の覇権国であるアメリカで、「悪はすべて中国からやって来る」「アジア人を町から追放せよ」「アジア人は本国に強制送還せよ」などの書き込みがネットにあふれている状況は、トランプ政権が白人優越主義者を取り込むことで人気を得てきたポピュリスト政権であるため、アメリカと中国の関係が悪化すると、政治的に利用され、一気に力を得る可能性もあり、予断を許しません。特に同時並行的に世界中でポピュリズム、ナショナリズム(民族主義、国家主義)、排外主義が高まり、特にナチスの台頭を許したことへの反省から「人権」重視の建前を護ってきたドイツでさえ、ネオナチの活発化が報告されている現在、新たな「黄禍論」は軽視できません。

他人事ではありません。他者から見れば十把一絡げに黄色人種、中国人扱いされる私たち日本人の間でも「嫌中」「嫌韓」が政権党の中でさえ公然と語られています。マルクスは、支配階級の思想が支配的思想になる、と言っています。「脱亜入欧」を掲げて西欧列強の仲間入りしたと錯覚して第二次世界大戦で叩き潰された日本でしたが、戦後アメリカの属国として「奇跡の経済復興」を遂げ「名誉白人」扱いされ、またぞろ勘違いし、支配者である西洋人・白人目線でアジアを蔑視するようになりました。エドウィン・ライシャワー『ザ・ジャパニーズ(The Japanese)』 (1979年),エズラ・ボーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One: Lessons for America)』(1979年発行)を読み、日本経済の「黄金期」、あるいは「バブル期(1986-1991年)」を日本と中東で学生生活を送った日本人として、私にとって日本はまぎれもない経済大国、アジア唯一の先進国でした。ですから、なんで日本がこんなに落ちぶれてしまったのか、きっと中国や韓国の陰謀があったにちがいない、という中年以上の日本人の気持ちは私にはよく分かります。気持ちは分かりますが、事実は単に私たちとその少し上の世代が日本が豊かだった時代に思い上がり調子にのって愚かな生き方をしてきた、というだけのことです。しかし自分が愚かだったことを認めるより他人のせいにする方が気持ちがよいのでそう考える人が一定数出てくるのも無理もありません。ただ私はあまり心配していません。二十代の若者にはそもそも日本がアジアの中で特別な国という錯覚がなく、自然体で中国語や韓国語を学び東アジアの音楽やファッションを楽しんでいますから。「嫌中」「嫌韓」の流行は今だけの仇花で、私たちの世代がこの世を去ると共にそのうち消えていくものと思っています。

被支配者が支配者の価値観を内面化し支配者の目線で同じ被支配者を批判することは、イスラーム、中東地域研究の場でも、E.サイードの『オリエンタリズム』をめぐってお馴染みの議論です。中東、特に地中海のムスリム諸国の人々はもともと地理、歴史的にヨーロッパの一部であり、文化的にもヘレニズムとヘブライニズムをキリスト教西欧と共有しており、みかけでもヨーロッパ人でも浅黒く黒髪のラテン系のヨーロッパ人とは私たち東アジア人から見ると区別できませんし、レバノンやトルコには金髪碧眼でいかにもアーリア人という見かけの男女もそう珍しくはありません。上流階級には家庭内でヨーロッパ語を使っている人さえもいます。彼らが西欧人・白人へのコンプレックスの裏返しとして、見かけからして違う「平たい顔の」東アジア人を見下すのは、名誉白人を気取った日本人による韓国人、中国人蔑視よりははるかに理に適っている、と私は思います。

2.パレスチナとイスラエル

パレスチナでの日本人の事件のケースに戻りましょう。私はヨルダン、シリアまでは行ったことがありますがパレスチナには足を踏み入れたことがないので、パレスチナ人の生態にはあまり詳しくありません。私が調べた限りではアラビア語の記事でも英語の記事でも逮捕されたパレスチナ人女性がキリスト教徒かイスラーム教徒かは分かりませんでした。しかし映像を見る限り髪を覆っていませんのでイスラーム教徒だとしてもイスラーム法に則って生きているわけではなさそうなので、イスラームの規定から説明するのが無理筋なのは確かです。また報道によると、同様な被害は中国人や韓国人からも報告されているようですから特に日本人が狙われたわけでもありません。逮捕したパレスチナ当局の言葉にあるように「事件は例外的であり、客人をもてなすパレスチナの伝統とモラルに反する行為」というのが妥当な見方だと思います。客人をもてなすのは、キリスト教徒とイスラーム教徒に共通する中東の特徴、というかヘブライ語聖書を読めば分かる通り、アブラハム、イサク、ヤコブら族長時代にさかのぼる遊牧民のモラルです。現地のSNSでもこのパレスチナ人女性への非難が相次いだことも、この逮捕されたパレスチナ女性の行為がパレスチナの良識に照らしても非難されるべきものであったことを示しています。

今回の事件が、他者である外国人は「客人」にほかならず、「客人」は歓待すべき、との中東の慣習、倫理に悖ることが事実であるとしても、中東地域研究者としては他にいくつか述べておきたいことがあります。今回の事件では「コロナ」という言葉が使われていますが、ビデオの様子だと「コロナ」の語に特に意味はなく、問題は「嫌がらせ(harassment)」だったようです。「嫌がらせ」になるのは、「日本人」蔑視だと感じるからのようです。あるアラブ世界在住の日本人のツイートによるとこの事件はアラブ人のツイートでは「人種差別(ウンスリーヤ)」ではなく「いじめ(タナンムル)」と呼ばれていることが多いそうです。

事実、中東地域研究、国際政治学の池内恵先生も、この問題について、「アラブ世界の街中では『中国人を(彼らの耳に聞こえる中国語の音真似をしながら)馬鹿にする)』→『中国人と似ているアジアっぽい人間を馬鹿にする』ことが頻繁にあるので、『中国人だろお前チンチョンチン』と言われたら『日本人だ。お前らそんなことも分からないのか💢』と反撃しないといけない。」とツイートしています。池内先生と私では年齢が一回り違いますが、「チンチョンチン」という呼びかけは私の留学当時からあり、日本人留学生たちは池内先生と同じ反応が多かったように思います。私はそもそも日本にいても外国においても同じですが、他人から何を言われようとあまり気にならない上に、出来るだけ誰とも話をしたいと思わない性格なので、「チンチョンチン」と声をかけられても全く気になりませんでしたし、ましてや反応しようなどとは思いませんでした。勿論、池内先生が「中東のどの国でも空港歩いていると『中国人なのか日本人なのか』と空港職員がざわめいているので『日本人だよ💢』と言いながら通る。中国人だと結構足止めされそうだ。」と述べているように、通関のように中国人だと間違えられると実害が予想されて正す必要がある場合は別ですが。

「コロナ」や「チンチョンチン」に東洋人への蔑視や悪意が込められている蓋然性は私も認めますが、実は必ずしもそうとばかりは言えません。というのはエジプトの話になりますが、私も「チンチョンチン」とも声をかけられましたが、それよりも「アッロー(ハロー)」と見知らぬ子供たちから意味もなく笑顔で声をかけられることの方が遥かに多かったからです。つまり、東洋人が珍しいのでたいして意味はないけれどともかく声をかけてみたい、ということで、それはそういう文化だということです。日本では特に都市部では見知らぬ人に用もなく声をかけることはまずありませんが、アラブでは見知らぬ人同士でも気軽に声をかけるのはそう不自然ではありません。勿論個人差はありますし、国民性もあり──サウジ人はそうでもありませんが──アラブ人は一般的に用もなく他人に声をかけがちです。しかし外国人なので、声の掛け方が分からないので、相手の関心を引こうとして、相手の知ってそうな言葉を言ってみた、と考えることもできます。

客人をもてなすのは族長時代にさかのぼる遊牧民のモラルと言いましたが、地理的には中東に位置し族長アブラハムの正嫡を自称するユダヤ教徒の国イスラエルはそうでもないようです。3月16日付『The Jewish Press』紙が報ずるところ、イスラエルのティベリアでインドから移住してきたユダヤ人「ブネイ・メナシェ」のメンバーが、「中国人、コロナ」と罵られ、殴る蹴るの激しい暴行を被り胸と肺を傷め入院する重傷を負っています。被害者は「自分は中国人ではなく、ブネイ・メナシェのユダヤ人だ」と抗議しましたが、加害者はかまわず「コロナ」と叫んで暴行を続けました。ティベリアは1948年にシオニストの軍事組織ハガナーの襲撃によってアラブ人が難民化したためユダヤ人の町になっていますので、被害者が「自分はユダヤ人だ」と抗議したことから、加害者もユダヤ人だと考えられます。しかし、シオニスト国家イスラエルは、地理的には中東でありながら、実質は西洋の植民地であり、そのイデオロギーは古代イスラエルの宗教でもユダヤ教でもなく、西欧の人種主義シオニズムです。ブネイ・メナシェはインドからの移民ですが、チベット・ビルマ系と言われており、映像を見ると確かに東洋系の風貌に見えます。イスラエルはユダヤ人の国家ですが、アラブ人の上にいるユダヤ人の中にも、(1)ヨーロッパ(白人)系のアシュケナジーム、(2)イベリア半島からの移民セファルディーム、(3)アラブ系のミズラヒームという人種のヒエラルキーがあり、更にその下に(4)エチオピア系のファラシャがいますが、新参の(5)東洋系のブネイ・メナシュは更にその下に位置づけられるということでしょう。ユダヤ教徒か否かさえ重要でなく、東洋風の見かけであるというだけで、殺しかねない物理的な暴力を加えることを厭わない。これが中東における西洋の飛び地、人種主義的イデオロギーであるシオニズムに基づき建国された植民地国家イスラエルにおける「人種主義」による暴力です。そしてイスラエルではこうした暴力に対して、それが客人をもてなすアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)ら族長のモラルに反する、という非難の声は聞こえません。

今回のケースでは映像を見ると、加害者のパレスチナ人女性とその娘は、通り過ぎようとしていたところを日本人女性がスマートフォンで撮影していたのを、力づくで阻止しようとしたようですから、好奇心から好意的に声をかけた、とは思いませんが、「コロナ」と呼んだだけであり、コロナウイルス罹患者の疑いがあるのでしつこく嫌がらせを続けて相手を国外追放にしようとする、といった実害を及ぼしたわけではないことは確かです。

その点では、このパレスチナ人の東洋人に対する嫌がらせは、加計学園岡山理科大学獣医学部獣医学科推薦入試で、筆記試験のトップを含む上位20人中5名の韓国人受験生が日本語コミュニケーション能力が不足であるとして面接点0点をつけられ不合格となった事件(志願者69名、韓国人受験者8名、合格者2名)に明らかになった、実害を伴う悪意ある陰湿な一部の日本人による韓国人蔑視のふるまいとは明らかに性格を異にしています。ちなみにこの0点を付けられた韓国人受験者の一人は、昨年9月の加計学園杯国際日本語弁論大会の優勝者だったそうです。パレスチナでは当局が加害者の女性を非難し逮捕にまで至っているのに対して、加計学園問題では大学教授たちという知識人までもが総理大臣に近い理事長の承認の下にこのような行動をとっており、現時点では日本政府は何のコメントもしておらず、はるかに根深く深刻な問題です。

パレスチナの女性は、日本では通りすがりに暴行により逮捕、と報じられていますが、私には、娘がスマホで撮影されそうになったのを阻止しようとしただけに見え、「暴行」とは思えませんでした。私自身はイスラーム法にない肖像権といった概念には極めて懐疑的ですが、加害者のパレスチナ人女性の行為は、娘にスマホを向け肖像権を侵害しようとしたことへの正当防衛と言うこともできそうです。私にはよく理解できませんが、今の日本人の多くの価値観では、この日本人女性の行動は、「差別」を見過ごさず勇敢に声をあげた行為、として肯定的に評価されているのでしょう。──あまり興味がありませんので詳しくはフォローしていませんが、中東問題はそれなりに現れる私のツイッターのタイムラインでも「炎上」していませんでしたので──しかし私には違和感があります。少し脱線しますが──私の話はいつも脱線ばかりしているように見えるかもしれませんが気のせいです──違和感の理由を説明しましょう。

3.構造的暴力

「構造的暴力」という言葉があります。もともとは国際政治学の用語で、直接的物理的暴力の対義語で、行為者の特定が困難な複雑な構造を有する権力抑圧現象を指すものでしたが、今では拡大解釈されて、さまざまな「不公平」や「差別」が「構造的暴力」と呼ばれています。「コロナ」問題も、東アジア人差別という糾弾すべき「構造的暴力」ということになります。しかし客観的に確定できる物理的暴力を客観的に確定できない主観的事象を区別するのは、法学の基本であり、「構造的暴力」概念は、乱用されれば法と国家の土台を掘り崩す危険があります。特に「法」の理解が決定的に欠けている日本人にとってはそうです。なぜ日本人に「法」の理解が欠けているか、について知りたい方は、拙著『イスラーム法とは何か』(作品社)をお読みください。

私見によると「構造的暴力」の概念はそれを用いる者の意図とは逆に、「暴力」の概念を曖昧にすることで、かえって生(なま)の物理的暴力による抑圧の凶悪さを隠蔽することがしばしばあります。このケースでは──記事自体が「構造的暴力」の語を使っているわけではありませんが──「コロナ」と言われて差別されたと感じた日本人がそれを糾弾するために加害者のパレスチナ人を撮影し──報道によると「写真を撮るふりをした」となっており、糾弾のために、というのは私の推測ですが──それに対してそれを阻止しようとしたパレスチナ人女性を訴え、その結果パレスチナ人は防犯カメラで特定され逮捕されたわけですが、「コロナ発言」が構造的暴力、「逮捕」が隠蔽された生(なま)の物理的暴力です。

自民党の石破茂元防衛大臣が、後になって「(仙谷由人さんが民主党政権の)官房長官の時に『自衛隊という暴力装置』なんてことを言って、結構騒ぎになりました。私は自民党政調会長だったんで『暴力装置とはなんだ』みたいなことを言ったんだけれども、その時に『あ、この仙谷さんという人はちゃんとマックス・ウェーバー(の本を)読んでるんだ』と思って、内心すごく尊敬をしたことを覚えております。『職業としての政治』の中に『国家とは何か。それは警察と軍隊という暴力装置を合法的に独占する。それが国家なのだ』というくだりがあります。」と告白している通り、日本は防衛大臣のような権力を有する地位にある政治家でさえ、軍隊を暴力装置と呼ぶことが憚れるような社会科学の客観的認識の意味が全く理解されていない国ですので、「逮捕」というのは警察という軍と並ぶ暴力装置による生(なま)の暴力の行使による拉致、誘拐、拘禁だということが意識されませんが、逮捕は高強度の物理的暴力です。ただの言葉「コロナ」に対して逮捕という物理的暴力による対応は不均衡に思えます。もちろん、物理的暴力でなくても、謂れのない差別によって、不合格になる、契約が破談になる、飛行機に乗れない、などの実害が生じる場合には、それなりの対応はあるべきですが、それは民事です。

大陸法とも欧米法とも概念構成が全く違うので、正確には対応しませんが、イスラーム法にもおおまかに民事、刑事の区別はあります。ありますが、大きな違いとして、殺人傷害は、公権力ではなく、被害者に刑罰を決める権限がある、という意味でイスラーム法では民事になります。刑罰を決める、と言っても、イスラーム法の規定自体は神が決めたものですから、正確に言うと神の定めた複数の選択肢から一つを選ぶ権限が被害者に与えられている、という意味です。「目には目を歯には歯を」とはヘブライ語聖書「申命記」にもあり、ハンムラビ法典にまで遡るタリオ(同害報復法)であり、イスラーム法も基本的にこの原則を受け入れていることは、イスラーム法の専門家以外にもそれなりに知られていると思います。しかしイスラーム法では「目には目を」の同害報復(キサース)を認めながら、無償の赦しを最善とし、同害報復の代わりに血讐金(ディーヤ)を取ることも認めています。詳細はイスラーム法学書を見てもらうとして、血讐金は殺人には駱駝100頭、傷害は片目駱駝50頭が基本です。実はイスラーム法の概説書でもあまり書かれていないのですが、イスラーム法学では悪口雑言も補論としてですが同害報復(キサース)章の中で論じられます。

殺人や傷害のような客観的に確定できる物理的暴力と違って、悪口雑言はただの言葉でしかないため、定額の血讐金(ディーヤ)がなく、殺傷罪の同害報復の規定から逸脱し、血讐金がないがゆえに一般にイスラーム法の同害報復刑の中では扱われませんが、一般的な指針は示しています。殺傷の場合と同じく、赦すのが最善ですが、悪口雑言を言われた場合には、同じことを言い返すことが許されます。但し、嘘は禁じられていますので、嘘で誹謗中傷された場合でも相手を嘘で誹謗中傷し返すことは赦されません。それが真実であれば、同じことを相手に言い返しても構わないということです。

たとえばパレスチナ人に「やーい、有色人種(非白人)」と言われて、「やーい、有色人種(非白人)」と言い返すのは事実なので許されますが、「やーい、中国人」と間違ったことを言われた場合──「やーい、中国人」を悪口と感じること自体が問題ですがそのことには本稿では深入りしません──パレスチナ人に「やーい、中国人」とは事実と違うので言ってはならず、「やーい、ユダヤ人」とか「やーい、イラン人」とかも言ってはいけません。「コロナ」の場合は、そもそも何が言いたいのかよく分かりませんが、「コロナウィルス肺炎が流行っている土地から来た東洋人め」とかいう意味なら、事実と言えば事実ですので、パレスチナでもコロナウィルス肺炎が流行っていれば、「コロナ」と言い返してもよいですが、2020年3月の現時点ではまだそれほど流行っていないようのですので言い返してはいけなさそうです。私は、このイスラームの同害報復(キサース)で済ますのが、東アジア人に対する嫌がらせに対する最も理性的な対応だと思います。あまり共感されないかもしれませんが。

事件の後、パレスチナ当局は直ちに日本人女性に事件がパレスチナのモラルに反する異例な出来事であと謝罪し、活動への感謝を述べ、加害者のパレスチナ女性を逮捕しました。それらの言葉が嘘であるとは言いませんが、その裏に、イスラエルの封鎖と抑圧によって苦境にあり、外国の援助に頼ってしか生きられないパレスチナ人の苦悩が透けて見える気がします。「構造的暴力」の概念がもし役に立つとすれば、そういう見方ができるようになることにしかない、と私は思います。

4.差別の認識論

中東のムスリム諸国の人々の間に東アジア人蔑視があることは既に述べました。勿論、全員がそうではありませんが、一部の人間にあるのは事実です。それはイスラーム教徒も同じです。イスラーム教徒の東アジア人蔑視がムスリム諸国を植民地化した宗主国の西欧人・白人の東アジア人・有色人種に対する人種主義的「差別」意識を内面化したものなのか、それともそれ以前からのものなのかについては、最後に論じたいと思いますが、その前に「差別」という語の問題性を明らかにしておく必要があります。

本稿ではここまで「差別」という語を用いず、使う場合も括弧付きの「差別」の形で使ってきました。それは「差別」が誤解を生み、判断停止を生む有害な概念だからです。『広辞苑』では「差別」について、「①差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」、②「区別すること。けじめ」と定義しています。私は小学校の頃、「区別は良いが差別はいけない」と教えられ、「差別と区別をどう区別するのか」と胡散臭く思って以来、「差別」という言葉を使う人間を疑うようになりました。「差別」を①の意味で使うなら、「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」との定義によって「不当」であることが前提されていますから、「差別はいけない」とわざわざ言うことに意味はありません。「不当」であれば、不当な区別であれ、不当な取り扱いであれ、不当な利益であれ、不当な解雇であれ、不当な鑑定であれ、「いけない」に決まっているからです。問題は「なぜその取り扱いが不当か」であるのに、価値判断を前提した「差別」の語を使うと、肝心の不当性についての認識について判断停止に陥ってしまうからです。

そして「差別」概念を論ずるには、まず人間の認識が個物ではなくカテゴリーからなることを知らねばなりません。個物は無限に複雑であり、人間の情報処理能力は個物を認識できません。視野に入る空間には、文字通り無数の素粒子があります。素粒子は目に入りませんが、それらが集まって目に入る塊になり、それらが集まって世界が構築されます、たとえば今の私の視野にはパソコン、窓、カーテン、本棚、本、テーブル、椅子、衣服、扉、玄関などがあります。さらにたとえばパソコンをとってみても、モニターやキーボードなどの部品からなっており、モニターやキーボードなどもまた無数の部品からなっています。モニターにはワードの文章が表示されていますが、それはモニターの液晶パネル上の黒と白の点の集まりです。私たち人間は白黒の点の一つ一つを見るのではなく、それらの集積を文字と背景というカテゴリーとして認識することで、ワード上で文章が生成されます。文章を書いたり、読んだりしている時は、視野に入っていても、パソコン、窓、カーテン、本棚、本、テーブル、椅子、衣服、扉、玄関などは通常は背景として意識に上りません。モニター上の黒の点の集積のみが文字として認識され、文字の大きさやフォントも無視し同一の文字とみなされます。

私たちは「あ」という文字を、一つのカテゴリーとして認識します。それは「あ」を数百の黒点の一つ一つの無関係な集まりではなく、その全体のパターンとしてみることであり、また大きさやフォントが違う、そして紙に印刷された、あるいは声で発音された「あ」のような、「あ」の様々な属性の違いを捨象して同一の「あ」と認識することです。

私たちの情報処理能力は視野に入る個物をその全体性において把握するには足りませんが、脳に入力された情報を単純化、抽象化された一般的なカテゴリーの集積として縮減することで認識します。人間だけではありません。生物はそれぞれ、丸山圭三郎が「身分け」と呼んだそれぞれの種に固有のカテゴリー認識の仕組みを備えており、その上に人間はそれらのカテゴリーを文字のような記号に対応させる「言分け」が可能となり、それらの記号を操作する能力によって、五感を超えた世界の認識が可能となり、「世界内存在」として実存するように創造されています。「創造」を信じないなら、「進化してきました」と読み替えてもらって構いません。

それでは東アジア人「差別」の話に戻りましょう。モノをカテゴリーによって区別するのは一義的には、人間の創造の必然であり、善悪の問題ではありません。そして人間のカテゴリー認識も動物と同じく「身分け」を基礎とし、人間の場合「身分け」とはまず「見分け」です。ですからカテゴリー分類がまず「見かけ」によるのは自然です。しかしオタマジャクシとカエルとナマズを見せられれば、「オタマジャクシはカエルの子、ナマズの孫ではないわいな。それがなにより証拠には後で手が出る足が出る。」と教えられていなければオタマジャクシとナマズを同じ「水の中を泳ぐもの≒魚」のカテゴリーに纏めるのが普通でしょう。むしろオタマジャクシがカエルだと思いつく方が変です。分類がまず「見かけ」によるとしても、後に修正されることもあります。とは言え、カテゴリカリー分類の妥当性の基準は必ずしも一つではありません。現代の生物学の基準ではオタマジャクシもカエルも同じ両生類です。しかし一般人にとっては、厳密性は欠いてもオタマジャクシは魚と同じく分かりやすい「水の中を泳ぐもの」というカテゴリーに分類し、水槽に水と水草を入れて時々茹で卵かイトミミズでも餌にやっている方が、中途半端な両生類の知識で湿った土と苔を入れてハエをやるよりも役に立ちます。手と足が生えてくれば、それはその時に考えればよいことです。

「両生類」が西洋の生物学の概念であり、生物学で「両生類」と並べられる「魚類」と、古今東西のさまざまな言葉で日本語の魚(さかな)と訳されるものとの間にはズレがあります。「人種(race)」と「人種主義(racism)」は西洋近代に生まれた概念ですから、それを他の文明圏の過去の文献に読み込むのは間違いです。しかし近代西欧の「人種」に近い概念が、他の文明圏にも存在するのも確かであり、その微妙な差異を分析するのが、異文化理解の学としてのオリエンタリストの仕事です。

5.古典イスラーム学と人種差別

預言者ムハンマドの有名な言葉があります。「人々よ、あなた方の主は唯一(アッラー)であり、あなた方の父は一人(アダム)である。どのアラブ人にも外人(アジャム)に対する優越はなく、どの外人にもアラブ人に対する優越はなく、どの赤色(褐色)人にも黒人に対する優越はなく、どの黒人にも赤色人に対する優越はない。ただ神を畏れる想い(タクワー)による以外は。」アラブ人と外人(アジャム)の区別は男系出自による区別であり、黒人と赤色人は肌の色、見かけによる区別、おおまかに言えば人種です。つまりこの言葉は人間の価値は神を畏れる想いの多寡によって決まるのであり、出自や肌の色がそれだけで意味を持つことはない、と人種による人間の優劣を明白に否定している、と言えそうです。

アメリカの黒人差別に対して反白人・黒人優越を教義とするネーション・オブ・イスラームのメンバーだったマルコムXが、マッカに巡礼し神の前に肌の色、人種の違いなく平等に跪くイスラーム教徒の姿を見て感動してイスラームに入信した話は有名です。イスラームは人類の平等を説く、と言いたくなりますが、必ずしもそうではありません。「人種主義」が近代西欧のイデオロギーであったように「平等」も近代西欧のイデオロギーであるなら、前近代の非西欧には「人種主義」が存在しないように「平等」主義も存在しないからです。

人間の価値は信仰によって決まるのであり、出自や肌の色それ自体には意味がないのは事実だとしても、信仰と、現在の私たちなら「民族」と呼ぶものの間に、コンティンジェント(contingent)な結びつきがあることまではイスラームは否定しません。クルアーンは多くの箇所でイスラエルの民をどの民よりも優先したと述べています(たとえば2章47節)。またクルアーンがアラビア語で下されたこと、預言者がアラブ人であることから、アラブの重要性も教義のうちです。更にムスリムの『正伝集』によると預言者ムハンマドは「アッラーはイスマーイール(イシュマエル)の子孫(アラブ人)の中からキナーナを選び、キナーナの子孫の中からクライシュ族を選び、クライシュ族の中からハーシム家を選び、ハーシム家の中から私を選んだ」と言われており、アラブの中でも特定の部族の格式の高さを認めています。これらはイスラーム法にも反映されています。クライシュ族の出自はカリフの条件になっており、夫の選択には家柄が考慮され、ハーシム家の者は浄財の支給を受けることができません。

アラブの優越について、イブン・タイミーヤ(1328年没)は「イスラーム学者の大多数によるとアラブ人種(ジンス)はそれ以外より優れている。(-中略―)しかし(アラブ人の)総体が(異民族)総体に対して優越しているからといって、かならずしも(アラブ人個々人の)全員が(異民族)全員より優れている、ということにはならない。アラブ人以外にもアラブの大半よりも優れた人たちがたくさんいる」と一般論を述べています。つまり、イスラームは人間の形式的、絶対的平等を説きませんが、かといって教条的な人種主義も取らず、個々の問題にケースバイケースで対応する現実主義を取るということです。今回の例で言うなら、東洋人のコロナ罹患者の割合が多いとしても、全ての東洋人をコロナ罹患者扱いするのは正しくない、という常識的な結論になるでしょう。

たとえば──仮にの話ですが──ヨーロッパにおけるイスラーム教徒移民の失業率、犯罪率が高いとしても、それは本質的属性ではなく、植民地支配によって搾取された本国で貧しい生活を余儀なくされ移民を強いられたことによる経済資本、社会資本におけるハンディキャップばかりでなく、マジョリティーの「白人」キリスト教徒に比べて文化資本においても劣っているため職が見つけにくく犯罪に手を染めざるを得ないことが多い、というコンティンジェントな属性であるなら、個々の移民毎にケースバイケースで犯罪者は犯罪者、そうでない者はそうでない者として扱えばよいのか、それとも本人の責任でない失業、犯罪の原因となる経済、社会、文化資本のハンディキャップを取り除くことが正しいのか、は簡単には答えられません。ある集団の属性がコンティンジェントな場合については、欧米の社会科学でも、アファーマティブアクション(affirmative action)の是非をめぐる問題として議論が積み重ねられていますが未だに結論は出ていません。古典イスラーム学にも通説となるような回答があるわけではありません。

6.イスラームと東アジア人差別

イスラームには近代西欧的な人種差別はありませんが、古典アラブ人文学の伝統の中で黒人(ザンジュ)には「頑健」、「純朴」、「勇敢」、「気前が良い」などの美徳と共に「知性を欠く」、「不品行」などの悪徳も帰されており、概してネガティブな扱いを受けています。歴史的にも黒人奴隷(ザンジュ)は白人奴隷(マムルーク)に比べ社会的地位が低かったのも事実です。また大航海時代以降、西欧で人種主義的な黒人奴隷の売買が盛んに行われた時期に、アラブの奴隷商人がそれに加わっていたこともよく知られています。礼拝の義務や飲酒の禁止といった誰もが知るイスラーム法の規定ですら「現実」にはいくらでも破られているのですから、人種差別において「現実」とイスラームの理念に乖離があるのは言うまでもなく当然で、取り立てて言うまでもない、と言えばそれまでですが。

今回は詳しく論じられませんが、黒人「差別」がないはずの、イスラーム文明にも、それなりに深刻な──欧米に比べれば無いに等しい、とも言えますが──「黒人差別」が存在してきたのに比べて、東アジア人に対しては実は取り立てて言うべきことは殆どありません。

クルアーンのレベルでは、聖書に書かれた終末の民ゴグとマゴグがクルアーンにもアラビア語でヤージュージュとマージュージュとなって現れますが、この民が一説では中国の万里の長城の彼方の民であると言われていますが、通説ではありません。預言者ムハンマドの言葉としては「知識を求めよ。たとえ中国にあっても」──有名ながら信憑性が疑わしい伝承ですが──の中で「中国」の名が出てくるだけです。いずれも具体性が乏しいので東アジア人像を形成していません。

一般に中東のムスリムの間では東アジアに対する関心は低く、歴史的に中国、日本、朝鮮については殆ど研究はありませんでした。17世紀には日本では回儒と呼ばれている朱子学教養を身に着けたムスリム学者たちが独自の中国イスラーム思想を展開しますが、今日に至るまで中東では殆ど知られていません。

殆ど唯一の例外が日露戦争における日本の勝利で、初めてヨーロッパ列強の一国であるロシアをアジア人が打ち破ったことは植民地支配に苦しむムスリム諸民族、オスマン帝国に大きな希望を与えました。しかし脱亜入欧を旗印にアジアの諸民族の植民地支配からの解放よりも帝国主義列強の一角に入ることを目指していた当時の日本がムスリム世界に興味を持っていなかったため人的交流が進むことはなく、日本についてはヨーロッパとは違う独自の近代化のモデル、という虚像だけが独り歩きし、実質的な理解は広まりませんでした。中東では、西洋と異なりムスリムを植民地支配しなかった日本とは仲良くできる、といった言説をよく耳にします。しかしそこには、日本が世界最大のムスリム国インドネシアを植民地支配し、ムスリムに宮城遙拝を強要した事実がすっぽり抜け落ちており、そのこと自体が日本とインドネシアを含む東アジアへの中東のムスリムの蔑視、というより東アジアが中東のムスリムの眼中にないことを何よりも雄弁に示している、と私は思います。既述のように私は日本経済の「黄金期」に中東で学生生活を送りましたので、中東に車や家電などの日本製品があふれ、日本の製品がどれだけ信頼され憧れられていたかをこの目で見ており、今もよく覚えています。しかしそこに生身の日本人は不在で、中東で尊敬され第一線で活躍する日本人の姿はなく、もちろん私もまともに相手にされませんでした。尊敬を集めていた日本人は「おしん」ぐらいのものでした。

結語

いつものように纏まりのない話になりましたが、パレスチナで日本人が「コロナ」と呼ばれて暴行を被った、といった報道の問題点の一端は理解してもらえたかと思います。

私たちの世代は日本が世界の中で名誉ある地位を占めることができた歴史上おそらく唯一無二のチャンスを愚行を重ねてみすみすつぶしてしまいました。拙論を読んでくれた若い人たちには、私たちの過ちを繰り返すことなく、世界の中での自分たちのあるべき立ち位置を見出してほしいと切に願います。

 

中田考(なかた・こう)
1960年生まれ。イスラーム法学者。灘中学校、灘高等学校卒業。早稲田大学政治経済学部中退。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(Ph.D)。1983年にイスラーム入信、ムスリム名ハサン。現職は同志社大学一神教学際研究センター客員フェロー。『イスラーム国訪問記』『みんなちがって、みんなダメ』『カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』『13歳からの世界征服』など著作多数。最新刊『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』(サイゾー)。

飯山陽(いいやま・あかり)
1976年生まれ。イスラーム思想研究者。アラビア語通訳。上智大学文学部史学科卒。東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻イスラム学専門分野単位取得退学。博士(東京大学)。現在はメディア向けに中東情勢やイスラムに関係する世界情勢のモニタリング、リサーチなどを請け負いつつ、調査・研究を続けている。著書に『イスラム教の論理』(新潮新書)、最新刊『イスラム2.0』(河出新書)。