8 あるいはハーシュノイズでいっぱいの未来

ゾンビには意識が存在しない。だが、そのことは彼らに「生活」が、「日常」が存在しない、ということを直ちに意味しない。

ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』(1978)には、ショッピングモールに集うゾンビたちが登場する。彼らが綺羅びやかなショッピングモールに向かうのは、生前の習慣からであり、無意識の領域に降り積もっていく諸々の習慣が彼らの「本能」(instinct)を形づくる。ゾンビに意識はない。それでも、彼らは彼らの日常生活を送ることができるのだ。それが、たとえ見かけの上でしかないとしても。

もうひとつ、ゾンビが人間と異なるのは、ゾンビは非常事態下においても彼らの日常生活=習慣を遂行しようとする点だ。しかも、その非常事態は取りも直さず彼らの日常生活それ自体によって引き起こされている、ときている。ゾンビは革命を起こさないし、いかなる思想も持たない。彼らはいつものようにショッピングモールに向かう。すると、社会が転覆する。

ゾンビは近代的主体のあり方の対極に位置する。ゾンビは善悪の彼岸に位置する。主体の理性や道徳律に訴えかける呼びかけがゾンビたちに届くことはない。ゾンビは自律的な主体ではない。彼らは周囲の状況に対して機械的かつ依存症的=反復強迫的に反応するだけだ。ゾンビに意識はない。ということは当然、自由意志も備わっていない。つまり、彼らの行動に対して「責任」を課すことはできないし、彼らの行動に対して何かしらの道徳的判断を行うこともできない、ということだ(たとえば、諸々の依存症は患者の自己責任である、といった非難は単なる撞着語法でしかない。みずからの意志によって特定の行動を抑制できるうちはそれを依存症とは呼べない)。

ゾンビたちに向かって道徳や倫理を説いたところで、いったい何になるというのか? ゾンビたちに罪という観念を押し付けることに何の意味があるのか?

ロメロがゾンビたちに向ける眼差しはどこまでも優しい。『ゾンビ』の序盤、ライフルで武装した村人たちがゾンビたちを的にして狩りを楽しむ、災害ユートピア(?)を思わせる牧歌的なシーンが展開される。後半にも、モールに侵入したバイカーギャング集団がゾンビたちを殺戮して回る祝祭的なシーンが存在する。これら人間たちの悪徳さとゾンビたちの純粋さは美しいコントラストを成している。

だが、いくら迫害され、虫けらのように虐殺されたとしても、彼らは自身の「生活」をやめようとはしないだろう。彼らは意識を剥奪されることによって、あらゆる体制的なものと人間主義の残滓に抵抗しはじめるのだ。

ゾンビ、それはポストヒューマン、我々の後に来る者たちである。

近所の都道沿いに巨大なパチンコ複合施設がある。私はパチンコユーザーではないが、通りがかりにトイレを借りるために入店することがしばしばあった(そこのトイレは常に清掃が行き届いていて気に入っていた)。トイレを利用するためにはメインホールを横切る必要があるのだが、そのたびに店内に鳴り響く、さながら出来の悪いスカムな轟音ハーシュノイズに度肝を抜かれるのと同時に、脳が麻痺したような(だが必ずしも不快ではない)感覚に襲われるのであった。

高音域を占めるその暴力的なノイズは、たとえばカジノの店内音響と比較すればその特異さがよくわかる。アメリカの音響アーティストAdrian Rewの作品に、アメリカ中西部におけるカジノの店内をフィールドレコーディングした『Slot Machine Music』というシリーズがあり、SoundCloudなどにも上がっているので、一時期作業用BGMとしてよく流していた。この音響インスタレーション作品を聴くと、アメリカのカジノは日本のパチンコ店とはまったく異なり、ノイズではなくむしろアンビエントな音響環境が構築されていることがわかる。スロットのピコピコした柔らかい電子音とリールが回転する音がスティーヴ・ライヒのミニマル作品のように陶然と反復し続け、ギャンブラーに朗報を知らせるベルの音や多幸的なサウンド・エフェクト、コインが流れ落ちる音、そして人々の話し声とざわめきとギャンブラーの嬌声がその上から多層的に被さってひとつのまとまりを持った「空間」を形成していく。

アメリカのカジノが反復する円環状のリズムによって成り立っているとすれば、日本のパチンコ店の直線的なハーシュノイズがもたらすのは円環的な時間ではなく、言ってみれば、てんかん発作的な時間感覚、精神病理学者の木村敏のいう、意識の解体にもとづくイントラ・フェストゥム的な時間感覚であろう。パチンコユーザーは鼓膜に常に暴力的なハーシュノイズを浴び続けることで、見当識が失われたような状態に置かれる。空間感覚も時間感覚も消失し、そこに残るのは過去も未来もない「永遠の現在」である。木村敏は著書『時間と自己』のなかで以下のように記している。

われわれは、分裂病者の未知なる未来との親近性を、「祭の前」を意味する「アンテ・フェストゥム」の概念で捉え、一方鬱病者における既存の役割的秩序との親近性を、「祭の後」を意味する「ポスト・フェストゥム」の概念で理解してきた。この「祭(フェストゥム)」という語は、特別な意図もなく、いわば偶然に見出された表現であったけれども、ここで第三の狂気の本質的な特徴を「祝祭的な現在の優位」という形で取り出してみると、われわれはそこに、もはや偶然では済まされない一つの符号を見出すことになる。われわれはこの第三の狂気に、「祭のさなか」を意味する「イントラ・フェストゥム」の形容を与えようと思う。イントラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いうまでもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である。(強調原文)[1]

木村によれば、この「永遠の現在」の現前にもとづくイントラ・フェストゥム的意識は、必ずしも病的なものではなく、「人生の大半を理性的な日常性の中で過ごしているどんな健康人のもとにもときどき訪れる非理性の瞬間として、愛の恍惚、死との直面、自然との一体感、宗教や芸術の世界における超越性の体験、災害や旅における日常的秩序からの離脱、呪術的な感応などの形で出現しうるもの」[2]であり、これら多種多様な様相を呈するイントラ・フェストゥムの特徴をひとことで言えば、それは「日常性を保証する理性的意識の座としての意識の解体としてまとめることができる」(強調原文)[3]という。

パチンコ店が形成する空間性は、いわばこの「日常的秩序からの離脱」の「日常化」とでもいうべき性質を持っているのではないだろうか。「非理性の瞬間」の「恒常化」。そこでの意識は、解体されたまま決して再構築されることなく宙吊りの状態に留め置かれる。

こうした「時間」意識は、もちろん現代における社会秩序の中では往々にして異常なものとして看取されうるだろう。だが木村に従えば、個別的自我が発生する以前の原始社会においては、イントラ・フェストゥム的契機はむしろ人間にとって唯一の「時間」であった。

個別的自我が自然との和解において復帰する永遠の現在は、個別的自我の誕生以前には、つまり自然と自己との完全な一体性が保存されていた原始的な状態においては、人間にとっての唯一の「時間」であったはずである。そのような時間は、以前と以後の方向も、過去と未来の区別も、時間の不可逆性の観念も知らぬような時間、万物がいまあるままの姿で無限に反復される永劫回帰の純粋持続であっただろう。個人が自己の一回限りの生と死を集団全体の生と死から区別することを学び、名前と職分を与えられて個人間の差異が自覚されるようになったとき、そこに未来と過去の観念が生まれ、以前と以後との不可逆な方向づけが始まる。こうして時間は、こと的なありかたの透明な混沌から、もの的な対象性をもつ不透明な秩序体へと「進化」する。(原文強調)[4]

木村によれば、西欧型個人主義文明に汚染されていない自然の中に住む原住民たちの時間意識は、現在の圧倒的支配下にあるということを、人類学者たちの報告のなかに認めることができるというが[5]、人類学者は日本のパチンコ店もフィールドワークに訪れるべきであっただろう。

他方、パチンコ店で経験されうるイントラ・フェストゥム的時間構造がもたらす意識の解体と消失の恒常化が、同様に原始社会においても経験されていた可能性があることは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』の記述が示唆するところでもある。

ジェインズは本書のなかで、意識が人類の間に誕生したのはわずか3000年前のことであるという大胆な仮説を提唱している。それより以前は、人間は意識、ジェインズの語彙を借りれば、内観する内面の<心の空間>を持っていなかった。代わりに彼らは<二分心>を持っていた。<二分心>のもとでは、意志も立案も決定もすべてが無意識下においてまとめられ、そして権力者や「神」を表す視覚的オーラとともに、またあるときは声だけで各人にアウトプットを「告げられ」た[6]。つまり、彼らの行動は、明確に意識された計画や理由や意志に基づいてではなく、無意識の深層から呼びかけられる神々の「声」によって開始されたのだ[7]。生理学的には、神々の「声」はウェルニッケ野に相当する右半球の領域で瞬間的にまとめられ、それが前交連を通り、左側頭葉の聴覚野がその「声」を幻聴という形で聞き取っていた(統合失調症に見られる幻聴はこの<二分心>の名残りではないかとジェインズは述べている)[8]。だが、度重なる政治的動乱や大災害、文字の隆盛に伴う「神=声」の権威の弱体化などが原因で、およそ3000年前にこの<二分心>という左半球と右半球との分業体制が崩壊し始め、脳半球同士がよりスムーズにやりとりする必要性が出てくると、内観を行う認知プロセスであるところの「意識」が発達するようになった、という。「<二分心>崩壊の直接かつ突発的な原因――神々と人間の間、つまり幻覚の声と自動人形のような行動の間に意識という楔が打ち込まれた原因――は、社会的混乱の中で、神々が人に何をすべきか告げられなかったことにある。」[9]

ジェインズが、意識の起源を混乱の時代に求めていることはとりわけ示唆的に思える。<二分心>時代には、同じ都市が崇める神に属してた人々は、さながら自動人形のように(あるいはゾンビのように?)、多かれ少なかれ似たような行動を取っていた。だが秩序が崩壊し、異なる神や民族が入り乱れるようになると、言い換えれば生活に「変化」が訪れると、脳はそうした変化に対して柔軟に反応できるようなまったく別のシステムを構築する必要に迫られた。意識は人間が「変化」に対処するため、言い換えれば目の前に提示された無数の選択肢の中から適切なものを選び出す(自由意志にもとづく意識的な選択決定)ために生み出された認知プログラムであると言えるだろう。

パチンコ店はまるで失われた神々が復権したかのような世界である。だが、人々の脳に語りかけるのはもはや神ではない。太古の神の座は、今や操作可能な物理的環境――すなわちアーキテクチャ――によって占められている。

もちろん、アーキテクチャは太古の神々のように主体の脳に直接呼びかけることはしない。代わりに、それは意識ではなく無意識を介して主体を制御する。アーキテクチャは何らかの主体の行為を制約すると同時に、可能にする超越論的地平である。たとえば、主体を可能な限りパチンコ台に向かわせるためのアーキテクチャは、ゲームのルールを創造し定義する「構成的ルール」と、主体のインセンティブをコントロールし、特定の方向に行為を誘導する諸々のアーキテクチャの組み合わせとしてあるだろう。注意すべきは、アーキテクチャが主体の無意識に作用するという性質を持っている限り、特定の空間に存在するアーキテクチャの外延をすべて記述し尽くす試みはおよそ不可能である、ということだ。たとえば、メインホールに存在するすべての「雑音」の総和であると同時にその剰余としての、言い換えれば結果として半ば偶然現れてしまうハーシュノイズを果たしてアーキテクチャに含めることが可能であるかどうか判断するための明確な指標は存在しない。とはいえ、ホールに存在する人々は、そのノイズに意識を向けることはないだろうが、それでもそこに「やすらぎ」を見出しているのである。

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」のなかに、大衆芸術における集団による同時的受容の例として映画館を挙げている箇所がある。

観客ひとりひとりの反応の総和が、観客のかたまり的(マッシヴ)な反応を形成するわけだが、映画館においてはひとりひとりの反応が、直後に生じるかたまり(マス)化によってあらかじめ制約されており、このことがこれほど明確に証明される場所はほかにない。[10]

観客のひとりひとりが受けとる反応は、直後に発生する反応の総和であり剰余としての「かたまり(マス)化」によってあらかじめ制約されているのだが、この部分と集合との再帰的な関係それ自体がひとつの無意識的なアーキテクチャ環境を形成しているかのようでもある(ベンヤミンならそれを「集団的な夢」と形容するであろうが)。また、ベンヤミンが同テクストの別の箇所で、大衆による建築物(アーキテクチャ)の受容の仕方として、触覚的受容と視覚的受容の二つを挙げたうえで、そのどちらも「注意力の集中」という手段によってではなく、「習慣」という手段によって行われる、と指摘している点は私たちにとって示唆的である[11]

歴史の転換点において人間の知覚器官が直面する課題を、たんなる視覚、つまり観想という手段によって解決することはまったく不可能なのである。それらの課題は、触覚的受容の導きによって、慣れを通して、少しずつ克服されてゆく。[12]

触覚的受容を特徴とするのは、意識的な「観想」ではなく、無意識的かつ生理学的な「慣れ」のプロセスである。「習慣」と「意識」はそれぞれまったく別の回路を形成している。自転車に乗るとき、私たちは身体の動きを意識しようとはしない。ピアニストがピアノを弾くとき、鍵盤の上を滑る指の動きを意識することがない。それらの動きは「習慣」という無意識下の回路を通じて精緻に制御されているので、意識的に制御しようとすればかえって悲惨な結果を招く、ということを私たちは知っている。

言うまでもなく、無意識的な誘導を特徴とするアーキテクチャは、パチンコ店だけでなくいたるところに遍在している。法学者のキャス・サンスティーンは、人間の認知バイアスなど、行動経済学の知見を用いて、当人の福利を向上させる方向に選択を誘導させる「選択アーキテクチャ」を「ナッジ」(かるく後押し)と定義した上で、こうした「ナッジ」の遍在を指摘する。彼が挙げている例のひとつに、健康に良い食べ物を個人が選択しやすいよう、食べ物の配列があらかじめデザインされたビュッフェ方式のレストランがある[13]

だが、とりわけインターネット空間のアーキテクチャ(=法としてのコード)は、ビッグデータやアルゴリズムによる選択環境の構築と変更が現実空間と比べてはるかに容易(可塑的)であるため、こうした「ナッジ」が孕む可能性を先鋭化した形で私たちに突きつけている。

ひとつは、選択環境の「個人化」(パーソナライゼーション)である。たとえば、プロファイリングによって個人の過去の行動記録から導き出された選択を「ナッジ」として誘導することで、当人の福利を向上させることがそこでは目指される。だが、サンスティーンも指摘するように、こうした個人に最適化されたデフォルト環境の構築は、過去の選択と矛盾しない結果となるように促すことによって、視野を広げるよりはむしろ狭める可能性がある[14]。個人化されたデフォルト環境は「学習」を促さない。能動的選択は「学習」を促し、したがって選好、価値観、嗜好の変化や発達を促すが、偶然性やエラーを徹底して排した個別化したデフォル環境は、逆に「習慣」への順応を促し、結果的に人を既知に取り囲まれた「共鳴室」(エコーチェンバー)に閉じ込める可能性がある。デフォルトに基づく受動的選択は、主体から能動性を奪う。デフォルト環境に欠けているのはセレンディピティ、すなわち偶然的な未知との出会いである。

アーキテクチャの遍在によって、主体の選択や行為はアルゴリズムに先回りされる形であらかじめ決定されている可能性がある。当然、こうした主体の無意識を介して行動を制御するアーキテクチャは、功利主義的な統治手段としては有用である[15]。そこにおいては、「人民の自己統治原理」や「遵法責務」といった近代国家のセントラル・ドグマを前提とする必要はない。行為者の自由意志に当て込んだ、一定のサンクションによって特定の行動を避けさせるという法や規範のシステムと異なり、アーキテクチャは選択自体をコントロールすることで、特定の行為を禁止させる統制手段の自動化が図られる[16]。アーキテクチャによる統治のもとでは、人間の「自由意志」は、さらに言えば「意識」すら必要ない。言い換えれば、未来時点に対する予期を前提とする諸々の威嚇的サンクションと、その担い手としての自律的な個人は端的に言って無用となる。

かくして、間延びした「永遠の現在」のもとで、イントラ・フェストゥム的な個人はさながらピアニストがピアノを奏でるように生きることになるだろう。習慣と無意識に統御された人々は、惑星規模の巨大なパチンコ店の内部で自動化された生を生きる。私たちが考えるべきは、果たしてそこにおいても「抵抗」の可能性は未だありえるだろうか、という問いである。もちろん、アーキテクチャによって抵抗はあらかじめ封じられている。なので、それは「抵抗なき抵抗」にしかなりえないだろう。ゾンビたちによる反乱、ゾンビ・アポカリプスはどのようにすれば起こりうるのか?

だが少なくとも、アーキテクチャによる統治と規範による統治が混在している状況においては、すなわちアーキテクチャと規範が対峙しているような状況においては、まさにアーキテクチャによるコントロールが規範によるコントロールをコントロール不能な状況にまで追いやるかもしれない。社会規範によって課されるサンクションは、未来に対する予期を行うことが可能な、義務を負う責任主体としての自律的な個人、言い換えれば規律訓練された近代的個人を前提としているのだった。だが、「永遠の現在」を生きるゾンビたちに、そのような規範が通用するだろうか。彼らはいつもどおり、今日もショッピングモールに通い、そして人間たちの社会秩序を危機に追いやるだろう。

【了】

 

[1] 『時間と自己』(中公新書)木村敏、158〜159頁

[2] 同上、134頁

[3] 同上、135頁

[4] 同上、168〜169頁

[5] 同上、169頁

[6] 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ、柴田裕之 (翻訳)、99頁

[7] 同上、96頁

[8] 同上、133頁

[9] 同上、249頁

[10] 『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』ヴォルター・ベンヤミン、浅井健二郎 (編訳)、617頁

[11] 同上、625頁

[12] 同上、625頁

[13] 「個人化される環境――「超個人主義」の逆説?」山本龍彦(『アーキテクチャと法―法学のアーキテクチュアルな転回?』松尾陽(編)所収、73頁)

[14]『選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち』 キャス・サンスティーン、伊達尚美 (翻訳)、186頁

[15] 『統治と功利』安藤馨

[16] 『自由か、さもなくば幸福か?:二十一世紀の<あり得べき社会>を問う』(ちくま選書)大屋雄裕、76頁