第7回 呉智英の徳倫理と「すべからく」論争

左翼が本来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。

アーキテクチャー論も当事者研究も、それほど賢くもなく、強くもない、傷つきやすく弱い人間を前提としていた。社会学者の稲葉振一郎が指摘するとおり、「現実の人間はともすれば弱く傷つきやすく、十分な「徳」を備えてはいない、かといって全く「徳」を欠いているわけでもない、そのようなあいまいな存在なのだ、という問題」[1]に関心が集まっているといえる。稲葉によれば、従来の近代的な市民像=男性・白人・健常者から周辺化されてきた、性的マイノリティ、障害者、高齢者、そして動物に近年注目が集まったのがその理由だという。

たとえば、その典型例として政治哲学者のアラスデア・マッキンタイアが挙げられる。アリストテレスなどの徳倫理を再評価しつつ、「礼節と知的・道徳的生活を内部で支えられる地域的形態の共同体を建設すること」[2]を掲げたマッキンキンタイアは、近年の「ケア」への注目を受けて「依存」のための「徳」を強調するに至っている。マッキンタイアは、男性的な徳を称揚し、女性や奴隷を重視しなかったアリストテレスを批判しつつ、傷つきやすく、他者に依存せざるをえないのが人間なのであり、自律的な個人になるためにも、他者に気前よく与え、そして気兼ねなく受け取る、といった「依存」のための「徳」を身につけなければならない、と述べている。

ここで注目すべきは、アリストテレスが人間を「ポリス的動物」としてとらえ、「人間本性」から「善」を考察したように、マッキンタイアも人間を一種の動物とみなそうとしている点である。「生まれた直後の、人生の最も初期の段階にあるヒトの子供は、同じ段階にある非常に幼いイルカと同じように、身体に感じられた欲求〔…〕が即座に満たされることを目指して行動している」[3]。人間とイルカやチンパンジーといった知的動物のあいだには「ただ一本の境界線が引かれている」のではなく、両者はともに「連続的なスケールないしスペクトル」のうえに位置している[4]

ところで、稲葉振一郎はこのような徳倫理の復興に次のような懸念を示している。

しかしながら、以上のような、近代の達成を踏まえた上で、それが取りこぼしたものを拾うためのアリストテレスやその他古典的な発想の復興が目指されている一方で、その陰で、あからさまに人間を序列付ける発想の密輸入もまた、知らず知らずのうちに進行しているのではないでしょうか。人間と動物の連続性と対等性を強調するその返す刀で、人間と動物の間に存する差異と本質的には同様の(ただ程度において小さいだけの)差異を、人間同士の中に発見しようとする視線が、形成されつつあるのではないでしょうか?(稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』)

かつての近代的なヒューマニズム=人間中心主義において、白人、男性、健常者といった人間像が前提とされた。たいして、フェミニズム、障害者運動、反差別運動、エコロジー運動などは、近代的な市民から周辺化されたマイノリティによる権利回復のための運動だった。かつての人間像が前提とされなくなった「ポストヒューマン」な状況においてこそ、新たな差別が忍び込んでいるのではないか、というわけである。アリストテレスが「徳」をもって人間を格付けしたように。

人間と動物を「連続的なスケール」で捉える視点として、進化心理学をあげることができよう。「平等」や「自由」といった理念は、人間が小さな集団で生活するという進化の過程で獲得された「道徳感情」が基盤となっている[5]。著述家の橘玲は、チンパンジーといった群れで生活する動物にも「平等」や「自由」を重んじる「道徳」が見られることを挙げて、このような「進化論的な基礎づけ」のある「正義」は「チンパンジーの正義」に過ぎない、と述べている[6]。橘玲は「リベラル」の価値観を覆しかねない科学的研究を「言ってはいけない真実」として紹介しているわけだが、オルタナライトや新反動主義においては「人種」や「性別」をめぐって「人間と動物の間に存する差異と本質的には同様の〔…〕差異を、人間同士の中に発見しようとする視線」が形成されつつある。

オルタナライトは男女間の性差といった「人間本性」といった生物学的な事実に注目する。にもかかわらず、生まれながらにケアを必要とするという「人間本性」には目を向けず、自律的で強い主体を前提とするリバタリアン思想に共鳴するのはなぜなのか。その理由のひとつに「市場」があると思われる。ケアという関係は非対称的であり、ケアを受けるものが「負い目」を感じ、抑圧的な関係に陥ることは知られている。その「負い目」を解消するには、ケアを商品化し、その対価としてお金を支払えばよい。市場化することによって、ケアを受けるもの、与えるものはあたかも「対等」な関係であるように擬装できる。たとえば、社会学者の上野千鶴子も「ケアの有償性」は「構造的に弱者の立場に置かれるケアの受け手が、対等性を確保するためのしくみ」である、と述べている[7]。ケアはつながりやコミュニティといった持続的な関係をつくりだすし、必要とするが、金銭を支払うことはそのような関係を断ち切ってしまう。断ち切るが、ひとびとをしがらみから自由にさせる。当事者研究やフェミニズムが「自律/依存」から「依存先の多さ/少なさ」へと価値転倒を目指したとしても、その効果がやはり限定的にとどまるのは「市場」が存在するからである。「市場」があるからこそ、ケアというしがらみやつながりから「Exit=脱出」する自由をオルタナライトやリバタリアンは主張するのである。

稲葉振一郎によれば、個人の生き方や目指すべき人間像を自己決定に任せることを原則にした「リベラリズム」の欺瞞を突くものとして「徳倫理学の流行」はあらわれた。マッキンタイアをはじめとした「コミュニタリアン」だけではなく、リベラリズムにおいても「規律-訓練」という「徳の陶冶」が機能することを指摘したミシェル・フーコーの権力批判もまた、その潮流にふくまれる[8]

ところで、「徳倫理学の流行」と聞いて、私より年長世代の人間がすべからく思い出すのは呉智英ではないだろうか。デビュー作である『封建主義、その論理と情熱』(その後『封建主義者かく語りき』に改題)はマッキンタイア『美徳なき時代』と同年の1981年に出版されたが、そこには次のように書かれている。

封建主義においては、徳と政治が分離化していなかった。だから、封建主義下の法律には、徳に関連したものが多い。一方、民主主義では、徳は個人の思想であり、個人の思想は自由なのである、という理由で、徳と政治と分離した、というより、そのつもりになった。そこで、法律の中のどこを見ても、徳に関連したものはなくなった、というより、そのつもりになった。ところが実際は、きわめて曖昧なかたちで徳がしのびこんでいたり、別の言葉で代用されていたりしている。(呉智英『封建主義者かく語りき』)[9]

呉は「封建主義」を唱えて、身分制や世襲を肯定しているわけではない。儒教的な「徳倫理」を用いて「民主主義」や「人権思想」を批判している。

呉智英は「誤用」の指摘を得意としたが、その代表例が「すべからく」である。「すべからく」を「すべて」の意味で用いるのは誤りである。漢字で書けば「須く」であり、漢文で「須」は「すべからく…べし」と訓読されるように、「当然」「是非とも」という意味が正しい。

呉智英によれば、「すべからく」の誤用は「民主主義的人間主体の醜悪さ」と「民主主義的社会条件」に由来するのだという[10]。知的権威を否定し、みんなにわかりやすいという目的で漢字の使用を制限し、「すべからく」とひらがなで表記するようになったため、「すべて」の高級な表現と勘違いされるようになった(社会条件)。いっぽうで、「叡智の道を歩むことなく、裏口からでも叡智の王国へ入りたいという姑息な欲望や上昇志向だけは人一倍強い」[11]人間たちが「誤用」するようになった、というわけである(人間主体の醜悪さ)。呉智英は「誤用」する者の「徳」のなさを「さもしい、いやしい、汚れた、くさい、民主心」と批判している。

そして、「すべからく」を「すべて」の意味で「誤用」するのは、川本三郎、上野昻志、唐十郎、鈴木志郎康といった「反権威」「反秩序」を掲げるひとびとである。「権威主義的な雅語・文語を批判しているつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかいこなせない妬みがとぐろを巻いている」のであり、彼らが「戦後批判をするのは、自分が権威から疎外されているからにすぎない」[12]。「単純な無知無学よりねじれている分だけ卑し」く、「反権威を大義名分にする権威亡者の跳梁」[13]を許すのが、民主主義なのである、と。

ちなみに「すべからく」の誤用をめぐって、呉智英は批判対象だった上野昻志と論争(というか言い争い)をおこなっている。上野の批判は次のようなものだ。呉智英は「ことばの選択」を「心理主義的」にしか見ていない。書くという行為には「書き手の心理的要因」だけでなく「書かれつつあることばそのものを律していく統辞法的な力を初めとする、もろもろの力」が働くはずであり、「書くという場の力学」を理解していない、と[14]。のちに「ポモ」と揶揄されるような立場から上野は反論している、といえるだろう。

呉智英は徳倫理の裏表を体現する人物である。「民主主義」には「徳」が欠けている、という批判は正しい。しかし、いっぽうで「民主盲目的」に「デメクラティック」[15]とルビを振ってしまうように、差別や格付けの視線が紛れ込んでいる。とはいえ、彼を儒教的な徳倫理を信奉する差別主義者と簡単に片付けてしまっては、現在の日本の言論状況を理解する術がなくなると思う。

呉智英は1965年に早稲田大学に入学しているが、第一次早大闘争に参加し、刑事訴追され、執行猶予付きの判決を受けている[16]。新左翼が反差別運動にコミットしていく端緒となった「華青闘告発」で知られる評論家の津村喬を激しく批判しているが、「華青闘」のリーダーの一人とは生涯にわたって友人であったような人物である[17]。そして、私より年長世代はすべからく漫画家の小林よしのりとともに呉智英を想起するようだ。たしかに権威を嘲笑うシニカルさ、リベラリズムへの嫌悪は「ネット右翼」の言説にも陰に陽に影響を与えたはずだが、たぶん呉智英っぽさを現在最も受け継いでいるのは橘玲であるように思う。ちなみに橘玲は呉智英がしばしば執筆した宝島社の元編集者である。

(この項続く)

[1] 稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』講談社、2019年、電子書籍版参照のため頁数は割愛

[2] アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』篠崎栄訳、みすず書房、1993年

[3] アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物――ヒトにはなぜ徳が必要か』高島和哉訳、法政大学出版局、2018年、p.91

[4] マッキンタイア、前掲書、p.77

[5] ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』高橋洋訳、紀伊國屋書店、2014年

[6] 橘玲「序説 これからのリバタリアニズム」『不道徳な経済学――転売屋は社会に役立つ』早川書房、2020年、電子書籍版参照のため頁数割愛

[7] 上野千鶴子『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ』太田出版、2015年、電子書籍版参照のため頁数は割愛

[8] 稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』ナカニシヤ出版、2016年、p.168

[9] 呉智英『封建主義者かく語りき』双葉社、1996年、p.51

[10] 呉、前掲書、p.141

[11] 呉、前掲書、p.144

[12] 呉智英『バカにつける薬』双葉社、1988年、p.68

[13] 呉、前掲書、p.69

[14] 呉、前掲書、p.65

[15] 呉智英『封建主義者かく語りき』p.166

[16] 呉智英『サルの正義』双葉社、1993年、p.99

[17] 絓秀実『反原発の思想史』筑摩書房、2012年、pp.140-141

批評家。1988年生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)「原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)など。その他、『週刊読書人』や『現代ビジネス』などに寄稿。新刊『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が発売中。twitter