第4回 真夜中のお茶

 
「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」

 近ごろ毎晩眠れない。眠りが浅い、というより眠りにうまく入っていくことができない。

毎日朝から出勤して一日働いているのでそれなりに身体は疲れてはいるはずなのに、夜布団に入っても目は冴えたまま。すぐに隣からは夫のおだやかな寝息が聞こえてくる。しばらくその寝息を聞きながら、でもやっぱり反比例するようにわたしの目はどんどん冴えて、目指していた眠りの島から小舟がみるみる遠ざかっていくのがわかる。もうこうなると、眠れる状態というのがどんなものだったのか、忘れてしまう。うとうとしたと思っても、ふっと揺り戻されるようにして目が覚める。

眠りのなかへ入っていくときのあの、やわらかな水に両手を重ねて浸していくような、抵抗感のない水のあたたかさに難なく潜りこんでしまえるような、疲れとともにだからその分癒される、わたしの眠りの世界はいったいどこへ消えてしまったのか。その水は、今こんなにかたい。いつのまにか凍ってしまってそこへ入っていくことなんてとうてい、かなわない。

何度もそこへ入ろうと試みて閉ざされる、その途切れとぎれのこま切れの一回また一回に時計を確認するもんだから、毎晩こんなにも夜が長い。目を閉じれば次の瞬間に朝がやってきていた頃、あのときはほんとうに夜から朝へはたったひと跨ぎだったのに。

なんて考え出したらもうどうにも仕方ないので諦めてもぞもぞと起き出して、ダイニングに向かう。何時だろうと電気はついていて、ムーミンは必ず起きている。こちらに気がついて、「おや、また眠れないのですか」と声をかける。

そして席についたわたしに、「今日はこんなお話をしてあげましょう」と言うのだ。

水たまりが、ただの水たまりに見えないときがあるでしょう。

雨が止んで、しばらく経って道路が乾きだした頃の、その水たまりはなんだかタツノオトシゴのように見える。いえ、そのように見えるんじゃない、それはもう水たまりではなくタツノオトシゴなのです。

そんな風にして考えることがあるのです。しばしば。それは何を意味しているのか。

「それは、なんというか…生きていることのかけがえのなさ、みたいなこと?」

いえ、かけがえのなさと言ってしまえばそこからはため息のように洩れてゆく何か、と言ったほうがむしろ正しいかもしれません。

「じゃあそれは、他者に共有されることが奇跡みたいな、とても個人的なできごと、のこと?」

もしかすると、あるいはそうとも言えるかもしれません。そういうことが世界にはたしかに存在しているということに、目を見ひらいて息が止まってしまうような驚きを覚えることがまま、あるように思うのです。

ムーミンはそう言って、お茶を一口飲んだ。そしてわたしにもあたたかいお茶を注いでくれる。

ムーミンは真夜中のダイニングテーブルで、こんな突拍子もない話をわたしに聞かせることがある。それに対して何も返さなくても、ムーミンは黙ってお茶を飲んでいる。わたしの発言を待っているようでは、ない。そうしてお互いにお茶をすすりながら、それぞれの思考の水辺へと、身体を浸してゆく。今ふれようとするその水は、わたしにこんなにもやわらかい。

たとえば昨日の出勤時に車内から見た信号待ちの自転車のおばあさんの、片足を地面につけていたそのななめの傾き。おばあさんの頭上には、イチョウの緑の葉の一枚一枚が揺れている。でも一枚の動きなんて見ている瞬間でさえ記憶することは、できない。その動き、揺れの全体。信号がやがて青になっておばあさんが渡ろうと自転車を漕ぎだした先の横断歩道の、白いペンキの掠れ。そのすぐ傍の電柱にもたれかかった、もうひとつの電柱。そういうなんでもない、車内から見えた一瞬の景色のこと。

こんな風にして、見たものをぜったいにいつか忘れてしまうことがかなしい。いつか、なんて先ではない、ほんとうは明日には必ず忘れてしまう。その事実に絶望することに、いつまでたっても慣れることはない。

あるいはまた、こんなこと。

勤め先の学校内には生徒会の計らいで七夕に向けて大きな笹と、そこに生徒たちが自由に書いた願いごとの短冊がつるしてある。あまりゆっくり見る余裕もなく七夕は過ぎてしまったが、今もその大きな笹は姿を消すことなく、廊下の中央に展示されたままなので、授業終わりに通りがかったときに気まぐれに立ち止まってそのいくつかを見たりする。

個人的なお願いごとをおいて、コロナの収束を祈るもの、ワクチンの開発を願うものなどが生徒の直筆で書かれてあると、なんだか寄る方ないここちになってくる。だからそのなかで「彼氏ができますよーに」という個人の欲望にしたがった短冊を見つけると、すこしホッとしたりもする。

でもなんだか、思うのだ。ひとりの生徒の「彼氏ができますよーに」はしんじつ、たったひとりの生徒が自分の願いごととして書いたことであるのに、ひとたびこうしてわたしが文字にしてみれば、たちまちそのリアリティは消え失せる。もちろん誰がどんなシチュエーションでその短冊を書いたのか、わたしは知らない。知らないけれど、それを知らない他者がひとりのリアルを奪いとって自分の物語に回収してしまったような、なんだか股下に吹く寒いほどの風を、ただ感じるような。それがありふれた、短冊のお願いごとランキングベスト3に入るようなものだからなのか、しかしその背後にはひとりの、あるいはそのひとりと他者の、文脈があったはずなのだ。わたしはそれを、知らない。知らないで、こうして書いている。「彼氏ができますよーに」ってね、校内の短冊に書いてあったんですよ、って誰かに伝えても伝わらずに「ふーん」で終わってしまう、その色も匂いもない空気のような、なにか。つかむことのできない、だれかの息づかい。

わたしたちは、そういう些細な、とるに足らない、ムーミンの言うところのため息のような、小さなできごとのひとつをそれでもときに、なんとかジップロックに大事にしまって、たとえば家に帰って家族に聞かせたりするかもしれない。でも取り出してみればそれは空気だったのだから、そのときの匂いも風も、ほとんどなかったもののように、それがそのまま、相手に伝わることはどうしたって難しい。

書くということは、そうしてそれを残して伝えようとすることは、なんと意味のなく、それでいてこんなに可笑しなポオズなのだろう、とだからしばしば思う。そういうひとつのポーズをわたしは、とっているにすぎないのだ。そういうポーズをとる自分を、どこかさめた目で見るもうひとりの、自分がたしかにいる。

たまに自分が書いた文章の感想をもらうことがあるが、そのなかで目にする「こんな先生が、自分が生徒だったときにいてくれたらよかったのに」という言葉にわたしはそのたび、ウッとなってしまう。ほめられている。うれしいのだ。でもほんとはそんないいもんじゃない、という気持ちが何倍にも膨れてそれはすべて、たどれば後ろめたさという太い一本の縄につながっている。いい人に思われたくて、書いている。そのことを、バレないように慎重に隠しながら、書いている。ほんとうは、そうなのに。いや、そうじゃないのに。

さっきのムーミンの話の文脈からはずれた思考をめぐらせながら、
「ほんとうはいい人じゃないのになあ」
とつぶやくと、

「そうだとしてもそれはもしかすると、ちゃんと伝わっているのかもしれませんよ」とムーミンは言う。もしかして今のわたしのあたまのなかのこと、聞こえていた…?

そしてそれは、ほんとうにほんとうなのだろうか。

人に親切にできない。自分が一番大切。そのことをなんとか隠して、人に見せられるような、ちょっといいものだけを拾いあつめて書いている気がする。それも含めて読む人には、伝わる何かがあるのだろうか。
だとしたら、書くことは、書いて読まれることは、わたしにとって、いったいどんなものなのだろう。

そんなことを考えているうちに、空がだんだん白んでくる。バイクの音が聞こえて、ああ新聞配達がやってきた。

しらじらと明けはじめる空の一刻を眺めていると、「あさぼらけ」ではじまる和歌を思い出す。

あさぼらけ、とは夜がほのぼのと明けはじめる頃のこと。わたしはなぜだか坂上是則の

   あさぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

という歌が昔から好きで、カルタをするときにはこの札を絶対取ると決めていた。もっと華やかで美しい、花の色は〜とか天つ風〜などの人気の歌ではない。言えば地味な一首。

ふと、ムーミンに「好きな和歌はある?」と聞くと、すこし考えた素ぶりを見せてからこちらを向き、

   この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

と朗々とした声で言うもんだから、ちょっと笑ってしまった。

冗談ですよ、とムーミンが重ねる。

届いた新聞の天気予報に目をやると、今日は久しぶりに、晴れるらしい。

   明け方の鳥の羽ばたきサイダーの蓋をはずしたように聞こえる 花山周子