第5回 おくびょうな恐竜

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

もうこれ新しい季節「死」だろ、というツイートが流れてくる。たしかにそのくらい、ここ数日はとくに暑い。夏、本気だな。スマホをつるつると動かしながら、しばらくぼうっと扇風機の風に当たっていた。夫はもう起き出しているらしい。

いつもダイニングの定位置にいるはずのムーミンが今朝はいない。読みかけの本だけが伏せてある。ふりかえると、本棚の隅にペタンと座っていた。なんでそんなところに? と聞くと「夫さんがひょいとどかしたんです、それでそのままここに」というではないか。本棚の角におさまるムーミンは、いつもより小さく見える。そしてちょっと、かなしそうだ。抱き抱えて、いつもの位置に座らせる。もちろん、自分の意思でそうすることもできるのだけど。ありがとうございます、とムーミンは言ってふたたび本を読みはじめた。『炎上CMでよみとくジェンダー論』、ついこの前夫が読んでいたものだ。色んなことに興味があるんだな。

金曜の朝。いや土曜だったか。長いお盆休みのさなかにいて、曜日感覚がなくなっている。ムーミンが既に読んだあとの新聞をめくっていると、シャワーを浴びていた夫がバスタオルを首からマントみたいにして掛けて出てきた。ソファに座ってバスタオルで髪をわしゃわしゃやったあと、さてとと言ってテレビをつける。お、あれだな。

パネルでポン、というゲームがある。スーパーファミコンのパズルゲームだ。けっこう地味なゲームだけど、有名なんだろうか。一昨年の冬、発売以来話題になっていたミニスーファミをいいじゃんいいじゃんと勢いにまかせて買った。ゲームなんか普段しないのに。よっぽど暇だったに違いない。なかには予め21種のスーパーファミコンのゲームが内蔵されている。子どもの頃もとくにゲームっ子ではなかったので、どのタイトルも馴染みはないけれど、そのなかの「ヨッシーアイランド」だけはものすごく、なつかしかった。

小学生の夏休み、クーラーをがんがんに効かせた叔父の部屋で寝転びながら、いとこがおしゃぶりをくわえた赤ちゃんマリオを背負うヨッシーを山へ谷へと自在に動かすのをずっと見ていた。クレヨンのようなタッチの画面に、ほわんほわんしたやさしいゲーム音楽。いつまでもいつまでも、ヨッシーは赤ちゃんマリオを背負って地獄へ空へ、駆けるのに忙しい。あの頃はそれにしても一日が長かったなと思う。お昼に下の台所で祖母が茹でたそうめんを食べてから、どのくらい経ったんだっけ。小学生の頃は昼を食べたあとで眠くなって寝てしまうことも、今みたいにはなかった。今が午後の二時なのか三時なのか、ずっといとこのコントローラーをいじる手元と、そしてテレビ画面を見ていた。叔父は「うちのタマ知りませんか?」が当時好きだったようで、本棚や机の上に動かなくなって置き物と化したタマの時計や、ほこりをかぶったぬいぐるみなんかが飾ってあったことを思い出す。あなたんちのタマ、どこにいったんですか。どこかにいってしまったんですか。思えばなんだ、不思議なタイトルだな。

ぴこぴことした楽しげな音が流れはじめて、いつものように夫がパネルでポンをやっている。すでに前のめりだ。

ミニスーファミがうちにやってきてから、夫とわたしはパネルでポンにどっぷりはまった。というよりわたしがこれまでそれなりにゲームに興じてきた夫と対等に戦えるゲームがこれしかなかった、のだけど。マリオカートでハンドルを握ればたちまち元気に逆走してしまうし、カービィは空気をめいっぱい口に溜めこんでゲップを出させることしかできない。たまたまやってみて、なぜか同じくらいのレベルで楽しめたのがこのパネルでポンだったのだ。星やハートや三角など、同じブロックを左右上下に重ねて消してゆく。そして消したものが相手に邪魔なブロックとなって、お見舞いされる。画面が経過とともにせり上がり、先にいっぱいいっぱいになって天井についてしまった方が負けだ。負けても勝ってもわーっと声が出る。いや~とか頭を掻いたりする。愉快なゲームなのだ。

以来、かくして食後のひとときに、土曜日の朝に、日曜日の夕方に、われわれはパネルでポンでしのぎを削った。「パネポンやる?」が合図である。お互いに誘われたら断ることはしないのが暗黙のルールだ。そうしてしばらくやりつづけるうちに、ただ漫然とやるだけじゃあつまらない、ということで途中から「賭け」がはじまった。それは勝った回数に応じて、寝る前にマッサージをしてもらえるというもの。わたしたちは就寝前のマッサージ権を賭けてほぼ毎日、パネルでポンにいそしんだ。

ただただ、真剣勝負である。普段おだやかなわれわれも、このときばかりは画面越しに相手を煽り、けしかけ、口を極めて冷罵する。「まじで弱いな」「ねえ、いつから本気出すの?」「今日は全勝しちゃうな~」そう言い合ってそのたびに言われたほうは「はあ?」とか「そう言ってられるのも今のうちだと思いますけど」とか返すのだ。
不思議とどちらか一方が強くなるということはなく、今日負けたと思ったら次の日には勝つ。しかし勝ちがつづくことはない。均衡のとれた戦いが今もつづいている。

しかし今夫がやっているのはひとりパネポンである。このお盆休みを使って、夫は一人対戦のノーミスクリアを目指していた。戦う相手は花や水や炎などの妖精たち。倒すと仲間になってくれる。仲間になった妖精たちを引き連れて挑むのはドラゴン、魔王、そして最後に待っているのは女神である。お互いに協力し合いながら、あるいは夫一人で、苦戦しながらもこのエンディングに辿りついたことはこれまでにあるものの、一度もだれにも倒されずにクリアしたことはまだない。昨日はたしかドラゴンに負けた。今日はどうだろう。

それとなく画面を眺めていたムーミンが、「今日はついに達成できるような気がします」とつぶやく。そうかなあ、と言いながら、夫はどんどん妖精を倒し、ドラゴンをぺしゃんこにし、ついに最後の敵、女神コーデリアにノーミスで辿りついた。おお。わたしとムーミンも思わず前のめりになる。熱戦の末、しかし夫はコーデリアに負けた。主人公の花の妖精は「わたしは むりょく」と言っていた。夫が「もー!!」と叫ぶ。

眠る前、今日の奮闘を労って夫の背中をマッサージしていると「あと五年で死ぬとしたらどうする?」といきなり聞かれる。いきなりなんだなんだ、と思いながら「えー、別にふつうに過ごすかなぁ」とあまり考えずに答える。
「死にたくないな」と夫が言う。うつぶせになって、わたしにお尻を揉まれながら。

「明日死ぬかもしれないのにこんなことしてていいのかなあって思う。おいしいもん食べて、だらだら夜まで昼寝して。ぎゃーぎゃー言いながらパネポンやって。どんだけ長く人生つづくと思ってんのかよって。こんな弛緩したままでいいのかよって」そう夫はつづけた。わたしはマッサージには飽きて無言でずっと夫の尻のあたりをもやもやとさする。

人はいずれ死ぬという真理に気づいた者を世界は放ってはおかない。その真理に気づいた者は、正気ではいられないし、そんな者はこの世界に邪魔なのだという。言うと見つかってしまうから。世界はすべて、聞いているから。夫はそう矢継ぎ早に言って、今度はお返しにわたしの背中を押しはじめた。ぐっぐっといつもより力強い。う、あ、と声が出る。

そうなのかな。どうなのかな。背中をぐいぐい押されながら、高校生のころ、まだ暑い夕方と夜のあわいを友だちと帰りながら、膝から崩れ落ちるくらいただひたすらおかしくて笑っていたことをふっと思い出す。何についてそんなに笑っていたのか、わからない。息ができなくなるくらい笑い合って、暗やみになりかけの坂道をふらつきながら駆けていた。世界の全部を飲みこんで、だから全部が自分になってしまうくらいに大げさな、声と感情。戻りたい、というよりまたああなりたい。立ってられなくなるくらい、笑いたい。いや、泣くんでもいい。怒るんでもいい。そこに立ってられなくなるくらいの、大きなわたし。そういうのは、もうなくなってしまったなあと思う。それはすこし、寂しい。そういう気持ちとは、ちょっと違うだろうか。

「こんなに考えてるのにこうして考えてる主体がいつか消えてなくなるなんてわかんなすぎる…わかんなすぎる!」と言って夫はわたしのふくらはぎをバシバシ叩く。

そうだねえ。ちょっと痛いよ、と言いながら頭はまだあんまり夫の話についていけていない。パネルでポンでだらだら何度も勝ったり負けたり、安いお酒を気持ち悪くなるまで飲んで後悔して、暑い、かゆいって頭を掻きむしって。いいじゃないそれで。一葦にすぎないわれわれの、だれも見ていない毎日の暮らし。いいのかなあ。いいんだよ。でも感情がなあ。感情? 感情がだめだなあ。もっと深く息を吸いたい。自分がすべてになるくらい、世界を感じたい。それは、今のわたしたちには無理なのかな。さあねえ。どうだろうねえ。でもわたしたちは、一緒でうれしいね。そうだね。そうだよね。たぶんね。多分だけどね。とか言ってのほほんとしちゃうからいけないんだよ! そう言って夫はくるりと向きを変えて、寝てしまった。明日も暑いのかなあ。そうつぶやいて、けれど返事はかえってこなかった。明日こそは、夫は女神コーデリアを倒せるだろうか。倒せても、倒せなくてもまあどっちでもいいや。そう思って、夫につづいて目を閉じる。なんもない、一日だったなあ。わたしは今日の日を、いつまで覚えていられるだろうか。夫がコーデリアに負けた日を。暑くてアイスを二個食べた日を。考えているうちに、ようやく眠くなってきた。隣からは、すでに夫の健康な寝息がきこえてくる。波みたいだな。おだやかな、夫の寝息。

炎吐くことをためらう臆病な恐竜みたいな寝息に眠る