第7回 とぎれとぎれの

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

去年、一昨年と遡ってこの日を覚えている、と言える日といえば誕生日で、それが十年前とかになればさすがにあやふやにもなるけれど、ここ数年であればただ仕事をしていただけの平日でも思いのほか、その一日の断片だとかをけっこうしっかり覚えているもんだ。

今年の誕生日はちょうど日曜日で、休日の誕生日、なんか得した気分になる。朝から車でケーキやサンドイッチを買いに行き、家でアフタヌーンティーをした。ケーキはひとり二個。妹から送られてきた缶にきちっと並んでうつくしい、手作りクッキーなども並べて豪華なテーブルになった。

夫が最近わが家に導入されたアレクサに「誕生日の曲をかけて」と言ってはじめはそれっぽい曲が流れていたのに何曲目からか何語か不明のハッピーバースデーがエンドレスでリピートされるようになって、三回忍んでそれから笑って止めた。「アレクサ、もういいよ」と言えばそれでちゃんと通じるのでアレクサ、たいしたもんである。

ベッドでしっかり昼寝をして、夕方からドライブに連れ出してもらう。毎年自分の誕生日の頃にはすっかり散り終えている金木犀が、今年はまだ咲いているのがうれしい。東京はもう、散り終えているらしいことは妹から聞いていたけれど、見る限りは咲きはじめのようで、花はまだ白っぽい。炎のようなオレンジ色になるまで、時間はかかりそうだ。すこし前からムーミンが「今年はまだ、香りませんね」と言うので気にしていたけれど、やっとここでも香りだした。桜前線みたいに金木犀にも地域によってこんなにタイムラグが生まれるものなのだろうか、とにかく吸いこむのがうれしい匂い、秋! とその場で思いついた変なポーズで空を仰ぎたくなるような短い季節がここにもやってきたのだ。

金木犀の香りが好きなひとはおそらくたくさんいて、こんなに町中に香る花なんてたしかにそんなにない。夏を越えて、吸いこむ空気がすこし冷たくなってきた頃にふと、気づけば香り出している。香る前に存在に気づいて木の目の前で鼻を近づけてみても不思議とそこまで匂わなくて、香りの帯を通り過ぎた後、ふり返ってこんなところにあったんだって気づいたりする。警察署のまわりを囲む金木犀は無造作に剪定されていて、よく見ると花は日が当たるところに多くついている。家の近くの金木犀は大きくて、寝室の窓を開けているだけでこちらまで、その香りがやってくる。ゆっくり吸いこんで、何度呼吸をくり返して、ただそれだけでこんなにも充たされた気持ちになる。

匂いが記憶とむすびついて離れがたく、わたしたちをエモーショナルの渦に否応なく巻きこむことはつねに語り/語られてきたことではあるけれど、文化祭の準備で遅くまで学校に残っていたときのこと、坂道を友だちと自転車を押しながらゆく塾までの道、秋の日のあのシーンをたしかにはっきり呼び起こして、切なくなのかなつかしく、なのかそのたびマーブルな気持ちにわたしは吹かれることになる。

かつて、なぜ匂いは記憶と分かち難くかくも引きあうものなのか、ということを仲間うちでわりと真面目に研究したことがあった。「匂い探検隊」と称してドン・キホーテに連れだって香水を嗅ぎまくったり、ひとりが集めてきた枯葉を囲んでみんなで順番に鼻を近づけたり、キャラメルポップコーンや香水、コーヒー豆などを入れたガチャガチャのカプセルを嗅いでそれがなんの匂いか当て、そこから想起される自分の好きな匂い、その記憶についてひとりずつ話したりもした。

わたしがそのとき持ち出した香水はブルガリプールオムで、それはかつての恋人がつけていたのをこっそり真似して自分でも買って、会えない日にたまに匂いを確かめて満足していたものだった。自分の身体のどこかにつけるにはちょっと強く、恋人だってこんな香水オブ香水ど真ん中、みたいな匂いを急にまとわせはじめてどうしたんだなんなんだ、と思っていたらほどなくして「ほかに好きな人ができたんで」ということでふられた。恋人のその香りにやられた相手がいたのかと思うと、こころがぽっかりした。プールオムとかドン・キホーテに売ってるし、そんなんつけてダッセェの! と今なら一蹴できるけれど、プールオム。「まじでそれは茶番」が口癖で、部屋着はすぬぅぴいと書かれた和柄のスヌーピーTシャツで、お前こそまじで茶番、それで、それで、好きだったなぁ。

たまたま出会ってしまったから、という理由にもならないフィーリングで、けれど導かれるようにたまたま好きになって、好きになったら嫌いになる理由なんてまったくなかったから、今の相手であるわたし以上に「ほかに好きな人」ができて、その選択に自信満々な恋人にそのときはたいそう驚いた。そうなのか。そんなことがあるのかよ。お互いが好きになって、それでゴールじゃないんだなぁと渋谷の和民で恋人がいつもの調子で語るわりかし丁寧な別れ話を聞いて、そのまま田園都市線の改札前で握手をして、別れた。「さようならすぬぅぴぃ、だね」とあのときのわたしの両肩をガッと寄せて笑ってやりたいものだけど、それでもわたしは結構泣いたし、数日は食事もままならなかった。

なんでもない恋の思い出をこれもまたひとつのカプセルに匂いとともに閉じこめて、どこかにもう放ったはずだったのに似た香りがすれば、手元にまたしっかりそのカプセルが握られている。そのたびに手のひらで転がして何度か匂いを嗅いで、大きく振りかぶって窓の外に投げてやる。

映画『パターソン』の主人公、パターソンもまた、手元の青いマッチ箱を見つめていた。パターソンはそのマッチ箱から着想を得て、詩のことばを小さなノートに書きつける。彼にとってそれは自らのなかから泉のように湧き出るものではなく、いつも暮らしのなかに置かれた小さな何かだった。それを手にとって、眺めて、それについて語れば自ずと、自分の愛おしいひとの記憶や声とむすびついて、詩のことばは、次第に愛のことばへと姿を変えてゆく。バスの運転手としての平凡な一週間を、そうやって淡々と見つめながら過ごすパターソンに、静かな親しみと、ゆっくりとたわむ帆のようなあこがれをわたしは抱く。手にしたものを見つめて、それをことばにする。平凡で、そしてそれはこんなにもこうふくなのだとその詩は教えてくれるのだ。

黒田三郎の『現代詩入門』の帯に「幸福な人は詩を書くな」という煽り文句があったことをそうするとなんとなく思い出して、それはともすると逆説的な表現であったのか、しかしどこかで一度や二度、聞いたことのあることばであるのはたしかでもある。すべてに満たされた生活のなかでしんじつの詩は生まれない、わたしはわたし自身につねに飢えていないと芸術はやってこない。あるいは詩人が短命なのはその証左なのである、と言われればとりあえずは肯くけれど、でも。たぶん非凡であって幸福であることも、平凡であって不幸であることもまま、あるのだと思う。

サーモグラフィーのように七色に発光する草原のなかで歌う草野マサムネを見つめながら、何度となく聞いてきたその歌のことばにまた何度でも深く感じ入る。マサムネは七色の草原のなかで「幸せは途切れながらも続くのです」と歌うのだ。

それは息つぎのように、そのとき聞こえる友だちの笑い声のように切れ切れに、寄せて返すと思ったらまた遠のいて、キラキラしている。風だってそうだ。意図もなくこちらにやってきて、髪を、わたしの表面を攫っていく。ずっとじゃない。いつだったか、空港のとなりの公園で夫に写真を撮ってもらおうとしたら風が強すぎて目は開けていられないし狭いおでこは丸出しで全然いい写真は撮れなかった。まず構図が悪い。脚が短く顔が大きく見える。何を残しておきたかったのかわからない写真の数々を、けれどあとから送られて、それでもたまに見返したりする。そこに匂いも色もないけれど。

今覚えていることを、ずっと覚えていたいと思うから、目を開けて息を吸いこんで、この夜風を受け止める。誕生日の夜はずっと食べたかった串カツをこれでもかってたらふく食べて、そしていつぶりだろうか、観覧車に乗った。ちょっと待てば床までスケルトンのゴンドラもありますよ、と言われて面白そうだからそれに乗ったら、ほんとうに椅子や床まで透けていて、とてもこわかった。ふだんホラー映画なんかでこわがるのは夫のほうなので、こわがるわたしが珍しくって面白いのか、夫が立ちあがってゴンドラを揺らす。マジでやめて、と制止して、それから黙って海の向こうにひかる街を眺めた。

誕生日を過ぎた今も、金木犀は香りつづけている。こんなに長く香るものだったっけ。けれどムーミンは外になかなか出ないから、風に乗ってやってくるその香りを嗅ぐことしかかなわない。すこし寒いけれどベランダにつづく大きな窓をおおきく開けて、見えないけれどそこにある、流れる風を通してみる。たまにやってくる金木犀の香りに、きっと満足してくれるから。そして、「散ってしまうのが今から惜しいですね」とほんとうに悲しそうに、言うだろう。そうだね、と返しながらもしかして今このときもあとになればカプセルにちゃんと閉じこめられるひとつの記憶になるのだろうかと思う。

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している  堂園昌彦