第8回 大きな窓から

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

いい家にはたいてい大きな窓がある。部屋の広さや築年数ではなく、ただその家にたっぷりと陽の光が差し込む大きな窓があれば、そこで何度でも深呼吸して朝を迎え、ベランダいっぱいにシーツを干し、傾くオリオン座をのぞき見てから夜を閉じることができる。家を選ぶときの条件は、大きな窓があること。そうやって選んだこの部屋に住んで三年半になる。

こまめにシーツを干すことも、オリオン座をゆっくりと眺めることもそれほどないけれど、どんな気分の朝にも等しく明るい陽ざしが差し込んで、そこにやっぱりよろこびを感じながら一日を招き入れることができる。しっかり日光を浴びたいから、つねにカーテンは全開だ。

午後二時、十二月にしてはあたたかい一日の真ん中に、わたしは生まれたばかりの子を抱いている。まだ形のはっきりあらわれない産毛のような眉毛、うすくて血管の透けたまぶた、そのまぶたに埋もれた細いまつげ。なかからのぞく瞳はわたしをまだ認識しない。喉をならして母乳を飲んで、その瞳の横目、伏し目、わたしを透過して見つめる一点は、どこなのだろう。

わたしの赤ちゃんは今、こんなにも小さい。小さくて、そして息をしている。瞬きをくり返して呼吸が徐々に深くなり、それでもがんばって目を開けようとする。たまにニヤリとする。口をもぐもぐさせる。

背後の日差しが子の顔や頭に編みかけのように揺れてまぶしい、そう、まぶしいような顔を一瞬する。頬の産毛は桃に生えたそれのようでとても豊か。両手はさっきまで必死に空を掴むように舞っていたけど今は脱力してゆるく握られている。ちいさな爪。ちいさすぎる爪。一つひとつを指で撫でて確かめる。わたしや夫よりも長く整ったミニチュアの爪。夫の親指の爪はとても短くて、わたしはその爪がなんだかとても好きなのだけど、それとは全く形の違う爪。生まれてくるときに一番に確認したのが子の親指の爪だった。夫の爪と同じ形だったら素敵だったな。でもそんな風に自分たちに似ているところより、似ていない一つひとつをこそ、愛でてゆきたい。だれにも似ていない、すっと整った爪。古い皮膚が薄くめくれて糸のように伸びている。じっと見つめて、そうしてなんでこんなに泣きたくなってくるんだろう。

そうっと持ち上げてベッドに置いてひと息、と思いきや母音のすべてをあわせたような、わたしたちには到底出せない声を上げ次第に呼吸が荒くなり、とたん頭まで真っ赤にして泣きはじめる。もう一度抱きあげて、哺乳瓶にすこし残った母乳を含ませて、そうしてまたうとうと。膝のうえに置いて揺らしてやると安心するようですんなり眠ってくれる。この午後ずっと聞いているクリスマスソングに合わせて膝を揺らして、すると気持ちよさそう。

臨月に入ってもそれほど大きくならないお腹をさすりながら不安で泣いて、そんなときも聞いていたクリスマスソング。小学生のときに友だち三人で好きな人の話をしながら居座ったケンタッキーに流れていた「すてきなホリデイ」、仕事を終えて読書するつもりでやってきたスタバでぼんやり聞いていた「Wonderful Christmastime」、家族で囲んだクリスマスには何が流れていたっけ。どれもポピュラーな曲だけれど、それがいい。一曲ずつスマホで流しながら、この子は生まれてくるだろうか。息をして。わたしはこの子をちゃんと産めるんだろうか。そのちゃんとが指すのがなんなのか、自分でも分からず、だから怖くて泣いていた。

妊娠後期に入ってすぐ、赤ちゃんの成長が止まっていると告げられて、すぐさま大学病院に転院になった。詳しく超音波検査をしても原因は特定できず、「まあお腹のなかでは一応元気なようなので慎重に経過を見ていきましょう」と言われ、不安だけを抱えてわたしはそれからを過ごすことになったのだった。

無事に生まれて産むことができて、そのときにまたクリスマスソングを、今度は楽しい気持ちで聞く未来はあるだろうかと、そんな想像もできないまま成長曲線から外れてゆく数字の点々を眺めていた。

それでもわたしの不安な気持ちを知ってか知らずか、不意にドコンとお腹を蹴って、子はその存在をたびたびわたしに教えてくれた。とくに夜、夫とファミコンのパネルでポンをやっているときに胎動はいっそう激しく、だから子はお腹のなかにいる時分から、パネルでポンのオーディエンスとして毎夜われわれの試合を見守っていた。パネポンの子だねえ、とそのたびふたりでにやにやした。いつか一緒に対戦できるといいね。手加減はしないから、泣かせてしまうかもしれないね。かつてのわたしが両親に勝つまで泣きながらやってもらい続けた七並べみたいに、この子はわたしたちに怒りながら何度でもパネルでポンの対戦を挑むだろうか。それならば子が飽きるまで、その戦いに付き合おうと思う。

十月、誕生日の夜に乗った観覧車のてっぺんで夫は「これまでこの子をお腹のなかで大事に育ててくれてありがとう」と言った。

すこし先の未来については不安ばかりで、自分でこれまでのことをそういう風に労ったことはなく、けれどたしかにこの毎日の積み重ねのその先に、この子が無事に生まれてくる未来を信じてもいいのかもしれないとそのときはじめて思えたのだった。下を見るのが怖かったスケルトンの丸い箱のなかで、そんな風に思って、そのときはけれど泣かずに唾を飲み込んだ。

生きてさえいれば 無人の円卓のラスクのざらめがはなさぬ光 武田穂佳

以前から愛誦してきたこの歌の、「生きてさえいれば」の主体はつねに自分だった。なんとか生きてさえいれば。つづく言葉をその都度さがしながら、何度でも自分を勇気づけるためにこの短歌をこころのなかでつぶやいてきた。追い詰められたときにこそうつくしく映るそのざらめの光を息をつめて、いつまでもじっと見ていた。

その主体が子どもになったのはその後で、生きてさえいてくれればと思いながら、その小さな指を握れる日はやってくるんだろうかと、ずっと不安を抱いて、不安にまるごと抱かれていた。

この世に生まれてきた子、生まれてこなかった子、すべての命のことを思って、いやそんなの到底無理で、行きつ戻りつ、まだらな不安の渦を凝視しながら、ずっと薄暗い廊下に立ち尽くすようなここちで過ごした八ヶ月だった。そうして今、わたしはこの一ヶ月でやっと涙が出るようになった目の前の子を見つめる。見つめるとしか言えない。泣き疲れてまだ頬が赤い。うっすら滲む涙をガーゼで拭いてやる。何が違うのだろう。何も違わない。生まれてくることができた。ただ。意味も理由もなにもなく、ただこの子は生まれてくることができた。だからこの子に会うことができた。

生まれた日のことは、どんな風に記したらいいだろう。その痛みもしんどさも、この状況下で立ち会いもできず乗り越えた苦労は忘れないだろうし、その日を迎えるまでずっとあこがれていた、はじめて赤ちゃんの声を聞いたときのその感情の揺れさえ、痛みに放心して覚えてすらいないのだから、もちろん出産ってどんな風? と聞かれれば身を乗り出してべらべらと話す用意はあるけれど、それよりもその日の天気すらわたしは知らずに過ぎたこと、看護師さんが朝食時にお茶をなみなみ注いできてくれたこと、空腹に耐えかねて陣痛のさなかスニッカーズをすごい速さで齧ったこと(登山より何より今ほどエネルギーの必要なタイミングってないのでは…と白目を剥きながら口をもぐもぐさせていた)、そういう細部ばかり浮かんでくる。生まれたその夜に夫と電話で話したことさえおぼろげで、このままだとわたしの出産の記憶はスニッカーズに占拠されてしまいそうだ。

それでも退院の日のことはよく覚えている。

小さく生まれた子もなんとか同じ日に退院できることになり、すぐに駆けつけてくれた夫を迎えた病院のナースセンターの前の角。丸一週間ぶりに目を合わせて抱き合った夫から普段は感じることのない匂いがして、離れていたから夫の匂いが分かるんだと気づいて不思議だった。母から贈ってもらったあたらしいロンパースとおくるみに包まれたわたしたちの赤ちゃんをさっそく夫に抱かせ、わたしは自分の入院の荷物を担いでエレベーターに乗った。夫はいいの? と驚いていたけれど、ずっと赤ちゃんに会えるのを楽しみにしていたんだから、いいに決まっている。うれしいとひと知れず鼻の穴の大きく膨らむ夫のその顔を久しぶりに見ることができて、その横を歩くのがわたしもうれしかったこと。

子の名前には窓、という漢字が使われている。提案したのは夫だ。「窓〜?!」とはじめは相手にしなかったけれど、今ではすごく気に入っている。

大きな窓、ちいさな窓、朝目が覚めてまぶしさに目をこすりながら窓に手を伸ばす。窓を開ければ風が入るし、そこには光が溶けこんでいる。風の匂いを大きく吸いこんで、そうして手を伸ばしてほしい。窓の外にはきみの世界が広がっている。きみの窓、きみの世界。わたしには見えないあたらしい世界に恐るおそるその手で触れて、どんなものが見えたのか、しばらくはわたしたちに教えてくれるだろうか。そしていつかはもっと遠くへ行ってしまってほしい。目の前のその窓から、たくさんのきみの世界に触れてほしい。近くから遠くから、見ているから。

そして今はまだ、寝息のきみ。その目にこれから何を映すんだろう。どんなものを好きで、どんなことに目を見ひらくんだろう。泣いてもまだほんのすこしの涙しか出ないしわしわの顔、いっぱいの表情を見つめながら、そう遠くない未来のことが今はこころから楽しみに思える。ところどころ皮膚の剥がれかけてきた額に指を這わせて、鼻のあたまには小さな皮脂がもう溜まっている。生きている。生きていくんだな。半開きの、小山のような色のいい唇。浅く小さな、呼吸。ずっと見ていても飽きない命のまるごと、そしてその一つひとつ、こんなにもうれしくて、どうしようと思う。生まれたときだって泣かなかったのに、そういう細部を眺めていると、泣きそうになるから不思議だ。