第7回 バナナの教え

誰でも「できる」ことと「できない」ことがある。「できる/できない」の間で迷ったり、不安を感じたり、無力感を持ったりしながら生きている。レビー小体病という「誤作動する脳」を抱え、できなくなったことと工夫によってできるようになったことを自己観察してきた著者が、「できる/できない」の間を自在に旅するエッセイ。

初対面の人が、車いすユーザーというときがある。話すときは、なるべくかがんで、目の高さが同じになるようにと思っているが、できない場合もある。自分が見下ろされながら挨拶されたら好い感じはしないのに、人を見下ろして挨拶している。

「見下ろす」でも「見上げる」でもなく水平な関係が大切だと、人を支えたりケアする場面ではよく言われる。「私は世話してあげる人。あなたは世話される人」という不動の上下関係にはめこまれたら、ケアを受ける側は、心も体も固くなる。まだある大切な能力も気力もしぼんでしまう。認知症のある人だってまったく同じだ。水平で温かい人間関係は、薬以上に効果を発揮する。

最近は、認知症を診る精神科の医師からも「患者との対等な関係」という言葉を聞いたり読んだりすることが増えてきた。それは新鮮だし、とてもうれしい。

とはいえ上下関係を取っ払って、人として対等になるということは、想像するよりもはるかに難しいことだと思い知らされたことがある。

ある夏、1歳だった孫の面倒をみることになった。遠方に住んでいるので、会う機会は少なく、入院した母親の代理人として突然やってきた私が何者かを彼は知らない。

食事の時間。抱え上げて手を洗い、ベビーチェアに座らせ、食事用エプロン(大きなよだれ掛け)をつける。手を合わせて「いただきます」とお辞儀をすると、彼も白い小さなお饅頭みたいな手を合わせる。

「さあ、食べよう。おいしいよ〜」

幼児用スプーンですくって口元に運んだとき、彼は、急に口を尖らせ、毅然と言い放った。

「ななな!」

視線の先にはバナナがあった。大好物だとは聞いていた。

「ああ…。バナナは、ご飯の後だよ。まずご飯ね」

すると彼は顔を赤くし、バナナを指して堂々と主張した。

「ななな!!」

人生で聞いた最も雄弁な3文字だった。

「私は、まずバナナを食べて、それからご飯を食べます。なぜその順番ではいけないのですか。あなたは、どういう権利があって私の意見を無視するのですか。私の食事の順番にあなたが指図する権利などないでしょ。食べるのは私なんですから。毎回ちゃんと全部残さず食べているのに!」

言葉という武器を持っていないから3文字になったが、私のなかでは、はっきりとそう同時通訳された。

確かにもっともな主張だと素直に思った。同時に面倒くさいなとも思った。だから彼の演説は聞かなかったことにして、「ご飯の後ね」と、バナナを隠してしまった。

しかし、そこで妥協するほど彼の意志は軟弱ではなかった。ギャ〜という叫びが狭い家中に響き渡ると、「ななな!」の連呼とともに反り返って激しく泣いた。ベビーチェアから転げ落ちそうな勢いだ。

おばあちゃんは、孫に弱い。完敗だ。でも私が甘やかしたせいで、後でお母さんに余計な苦労を掛けるのは、もっとまずい。歌ったり踊ったり、必死で気をそらせて、やっとのことでご飯を食べさせた。完食しプックリ膨れたお腹で、彼はしあわせそうにバナナを頬張っていた。

このとき、初めてわかった。1歳児の目には、私と彼は対等なのだ。上下関係なんて存在していない。でも私には、その発想が最初からなかった。

まったく同じことを、私は、認知症の進んだ高齢者にもしてきた。食事もトイレも行く場所も、なんでもこちら側の都合で決める。遠方に住む家族に会いたいという願いも、兄弟のお葬式に出たいという願いも「ちょっと無理だよね」と簡単に却下してしまうだろう。

認知症で介護されている人の願いが聞き入れられることは限りなく少ない。彼らのささやかな願いは、幼児のバナナのように取り上げられる。

なにかの障害があって、ただ言葉が出にくいだけの人に対しても、知的障害がある人に対しても、私は、気づかないうちにそう接したかもしれない。

怖い。そんなこと、自分がされたらたまらない。

まずいことをするたびにブザーが鳴って、目の前にイエローカードやレッドカードが現れない限り、私は、いつだって気付かないうちにひどいことをしでかす存在なのだと、バナナを見ながら思った。

 

以前、ジャーナリストの大熊由紀子さん主催の「えにしの会」というシンポジウムに登壇させて頂いたことがあった。由紀子さんの主義で、この会では「先生」「教授」など、肩書きで呼ぶことは固く禁じられている。その前年に知り合って、「U先生」と呼んできた医師を急に「さん付け」で呼ばなければいけないことになった。

その違和感と抵抗感。「Uさん」なんて言葉は、意地でも口から出まいと喉にしがみつくので、私はもがき苦しんでいた。でも、七転八倒の末に「先生」と呼ぶのを止めたとき、変化が起こった。自分が、水平な関係で話していると感じたのだ。変わったのは呼び方だけなのに、関係が明らかに変わったことを感じて驚いた。

「先生」と呼ぶとき、人は、自動的に相手を立てている。どんなに親しく話していても、そこには見えない1本の線があり、「先生」は常に線の向こうの一段上の位置にいる。それはもう、体のなかに組み込まれたものだ。だから歩くのと同じように、意識にも上らないまま、自動的にそう振る舞っている。

どんなに低姿勢で心優しい医師であっても、「先生」と呼ばれる限り、周囲からは気を使われ、立ててもらっている。そのつもりはなくても「先生」は常に「先生」で、周囲の誰とも決して対等ではない。

(もちろん「先生」と呼ぶのを止めて「さん付け」に、なんて話ではない。)

だから、診察室という密室のなかで、医師と患者が、「対等な関係」で話ができるかといえば、どうがんばっても、それは、構造上無理なのかもしれない。

医師と他のスタッフ(看護師、心理職、リハビリ職、薬剤師、介護職員など)が、チームの1員として対等な関係で話すという理想像も、相当な覚悟とさまざまな工夫がなければ難しいんだろうなと想像する。上下関係があるなかでのコミュニケーションは、理想通りにはいかない。

在宅介護だって育児だって同じだ。力関係が水平でない2人の人間が、常に密室にいる状態は、愛情ある親子でも、かなり危ない。愛情があればあるだけ振り回され、疲れ、知らないうちに追い詰められてしまう。

一食食べてもらうだけでもヘトヘトになる大仕事なのだ。相手は、決して自分の思い通りには動いてくれない。機械じゃないのだから、それが当たり前なのだが、余裕がないと怒りが生まれる。孤独な介護や育児の末に起きた悲劇をニュースで知るたびに、どうしたらいいのだろうと考え込んでしまう。他人事とはとても思えない。

先日、「文学紹介者」の頭木弘樹さんが、オンライン対談で驚きのエピソードを紹介されていた。頭木さんの住む宮古島(沖縄の離島)で、車いすに乗った高齢者を自動車で病院に連れてきた家族が、置き去りにして帰ってしまったという。診察が終わったら、待合室にいる誰かが連れて帰ってきてくれるだろうというのだ。一瞬、「それは日本の話なのか?」と思ってしまった。

島では、「迷惑を掛ける」という発想がないようで、お互いに迷惑(世話)を掛け合うのが当たり前という社会になっているらしい。だから人に助けてもらったときでも「このたびは大変ご迷惑をおかけしまして」とペコペコ謝ることも、大仰にお礼を言うこともないという。

都市に暮らす私たちにとって、「人の助け」はお金で買うものになっている。病院の付き添いが難しければ、ヘルパーさんにお願いしたり、介護タクシーを手配したりするだろう。

でも、そんなサービスも限られている小さな島のなかでは、必要なときに、素人がお互いに手を貸し合う以外になく、それが自然に身についているのだろうか。

以前、フルタイムで仕事をしながら認知症のあるお母さんの介護をたった一人でしているという九州の方とお話ししたことがある。どうしてそんなことが可能なのかと聞くと「近所中の人が、みんな手伝ってくれますから」と言う。

自分が帰宅するより早くお母さんがデイサービスから帰ってきた日は、近所の人が「一緒にお茶でもどう?」とお母さんを誘ってくれるそうだ。ことさらに「あの親子を支援しよう!」というのではなく、何十年間も続いてきた親しい近所付き合いが、そのまま続いている感じで、自然なのだ。認知症であろうとなかろうと、お母さんは以前となにも変わらずにご近所さんに慕われている。

私は田舎育ちなので、そんな「おたがいさま」感覚や「おせっかいなおばさん」根性は、古い記憶として自分の中に残っている。だから困っているように見える人がいれば、とりあえず声は掛ける。

昔、近所の小さな子どもが、緊急の用事で遠くまで歩いて行かないといけないと言うので、車で送ってあげた。後でそのお母さんがケーキを持ってお礼に来たので飛び上がった。自分には、そんな些細なことでケーキまで買うという発想がまるっきりなかったからだ。それは田舎者の非常識だったのかと自分にぞっとした。

でも今、気がつけば集合住宅での近所付き合いは、ほとんどなくなってしまった。会えば立ち話しをしたご近所さんも、引っ越したりしていなくなった。「洗濯機が壊れたから、使わせて」と洗濯物を抱えて我が家にやってきたおばあさんも知らない間に亡くなって、随分経つ。

田舎の実家に毎年お節の黒豆を作っては持って来てくれたお隣さんもとうに亡くなり、古い家は立派な植木とともに取り壊され、今は有料駐車場になっている。

「地域社会」というけれど、今、「地域」って、どこにあるのだろう? 故郷を離れ、都市に移り住んだ人間は、「地域」を作っていくしかない。

「今から子どもを30分預かって」「転んだ父を病院に連れてって」「買い物に一緒に行って」とスマホに書き込めば、「あ、ちょうど時間があるし、やってもいいですよ」と返事が来るウーバーイーツ式で、無料の仕組みがあったら…と空想してみる。ちょっとなら人のお手伝いをしてもいいと思っている60代70代は、割と多いんじゃないだろうか。

「もしなにかあったら誰が責任を取る?」と言い出せば、どんなアイデアもすべて一瞬で消えてしまう。それは悔しい。そこを乗り越えて、新しい「地域」を作る方法をなんとか知恵を寄せ合い、絞り出せないものだろうか。「明日は我が身」の「明日」は、結構な高率で、ある日突然来るのだから。

 

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間があった。
多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状などもあるが、思考力は保たれ執筆活動を続けている。
『私の脳で起こったこと』(ブックマン社。2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞受賞)。最新刊『誤作動する脳』(医学書院 シリーズケアをひらく)。