モヤモヤの日々

第34回 カレーは辛え

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

カレーは辛え。ついに宮崎がおかしくなったかと思った人は、「カレーは辛え」ことの大切さにまだ気付いていない。カレーは辛えことによって、世の中の安定が保たれている側面がある事実を知らないのだ。キーマ、マッサマン、ココナッツ。種類はなんでもいいのだが、程度に違いこそあるものの、カレーは基本的に辛い。甘口カレーも特別に辛いわけではないだけで、やたら甘ったるくはない。

先日、たまには贅沢をしようとUber Eats(宅配のようなもの。念のため)を利用してみた。なるべく健康にいいものをと、僕はあるお店を見つけ、「燻製カモのヘルシー弁当」なるメニューを頼んだ。そこまで待たずに配達された弁当は、いかにも栄養のバランスがとれ、健康によさそうだった。しかも美味しい。ところが、メインの燻製カモの横、弁当箱の隅に添えてあった卵焼きを食べた瞬間、僕はなんとも言えない違和感に襲われた。甘いのだ。いや、甘い卵焼きもあるのだが、それにしても甘い。それは卵焼きではなく、チーズケーキだった。注文したページをよくよく見てみると、「デザート付き」と書いてある。なるほど、これがデザートか。ケーキも美味しかったのだけど、卵焼きと思って食べたものが甘かったことで舌が混乱し、チーズの味が曖昧なまま胃袋に入ってしまった。

印象に残っているのが、はじめてアボカドを食べた時のことである。いつのことだったのか記憶は曖昧だが、少なくとも僕がまだ未成年だった頃、母がスーパーでアボカドを買ってきた。はじめて見る食材だった。母もよくわかっていなかったらしく、「醤油とワサビで食べると美味しいらしいのよね」と首をひねっていた。この南国フルーツみたいな食材に醤油とワサビ? 僕は混乱しながらも、まずはなにも付けずに食べてみた。頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かんで、しばし呆然としてしまった。「どんな味なの?」と聞いてくる母に、「わからない」と僕は答えた。今となっては当たり前の食材だが、あの時は面食らい過ぎて、本当にどんな味なのかすらわからなかったのだ。

もうひとつ、僕は食べられないほどの好き嫌いがほとんどないのだけど、唯一これは絶対に無理という料理に、魚のすり身の加工食品がある。練り物の食感が苦手なのである。代表的なものに、ちくわ、はんぺんがあるが、問題なのはおでんは大好きなのに、食べられる具が少ないということだった。そして、僕は関東のおでんによく入っている「ちくわぶ」も、その名前や見た目から毛嫌いしていた。しかし、ある時、友人が「ちくわとはまったく違うから食べてみろ」と言うので、恐る恐る一口だけ齧ってみた。「うん。これはちくわというよりは、ほうとうに近いね」と納得し、食べられるようになった。

つまり、「カレーは辛え」という事実は、世の中の安定にとって、とても大切なことなのである。カレーはいつでも辛い。種類によって多少の差はあるものの、カレーは基本的に辛い。この事実が人々の日常に確かな杭を打ち、支えていることに気づいてほしいのだ。もちろん、食べたことのない食材を口にし、新しい味覚に挑戦したい人もいるだろう。しかし、たいていの人はそうではないのではないか。僕のように、カレーは常に辛くあってほしいと願っている人が多いのではないか。

人はしばしば「曖昧さ」や「不確かさ」にストレスを感じる。だが、残念ながら人も世もどうしようもなく曖昧で不確かである。そんな不確かさの中から、少しでも確かなものを掴みたいと考えるのは、人の性であろう。先人たちはそういった苦労を何度も繰り返すことにより、「カレーは辛え」という確かさを掴みとった。そして、人が食べられる食材を探す過程においては、おそらくたくさんの命が失われていったはずなのだ。だから、僕はこれからも「カレーは辛え」を大切にしていきたいと思っている。

昼食をなににするか考えていただけなのに、果てまで来てしまった。僕は辛えカレーが食べたい。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid