モヤモヤの日々

第45回 受験シーズン

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

受験シーズンもすでに終盤に入っているのだろうか。コロナ禍で試験に臨む受験生、準備、運営する教職員など関係者の努力を想像するに、並々ならぬストレスやプレッシャーに晒されているはずだ。僕にできることは少ないだろうが、無事に実施できることを祈っている。

受験といえば、高校、大学受験を経験した。どちらもドタバタと詰め込んで、どちらもギリギリで滑り込んだ。そしてドタバタとし過ぎて、どちらもその後、体調を崩した。なので、受験を語る資格があるのか甚だ疑問であるものの、僕は受験を通してごく自然に感じられた「自分は特別な人間ではない」「上には上がいる」という感覚を、今でも忘れないでいる。

人間は学歴ではない。いろいろな環境の人がいる。受験勉強は、人生のある時期に、あるひとつの能力をはかるものである。それらすべてを理解したうえで、僕がある時期に、あるひとつの能力において、「自分は特別な人間ではない」「上には上がいる」という感覚を抱いた事実は、意外と重要なことなのではないかと思う。自分より優秀な人がいて、自分が大したことないやつなんて当たり前なのだ。しかし、大人になるとそこらへんの感覚が、なぜかボンヤリしてくる。「自分は特別な人間」「自分の視点や能力は高い」などと、たくさんの複雑な基準があるだけに思ってしまう瞬間がある。また逆に、能力の低さを極端に嘆いたりもする。

しかし、ある基準においてだとしてもそんなこと「当たり前」なんだという姿勢で臨めば、極端に独りよがりになったり、自信を喪失したりする機会が減るのではないか。そんなこと当たり前なんだから、目の前にいるすべての人に尊敬しながら、自分のできることを精一杯やっていこうと思えるのではないか。そして、今いる場所や環境の基準だって、ひとつの基準に過ぎないのであると、客観性を持てるようになるのではないか。ひとつの「当たり前」を忘れずにいることは、大切なことなのである。だからこそ、その「基準」はフェアでなければならない。環境もフェアにする必要がある。今まさに、大切な当たり前を守るため働いている人がいると思うと頭が下がる。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid