第6回 フェミニズムは「男性問題」を語れるか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

マンスプレイニング、有害な男らしさ、家父長制

最近のフェミニズムの特徴のひとつは、男性に関する問題が取り上げられるようになっていることだ。

たとえば、「マンスプレイニング」という言葉がある。この言葉は「男(man)」と「説明(explain)」を合わせた造語であり、フェミニストであるレベッカ・ソルニットの著作『説教したがる男たち』によって広められた。「男性が、目の前の女性は自分よりも無知であると決めつけて、横柄で偉そうな態度で物事について解説する」といった行為を指す言葉である。マンスプレイニングという単語が流行することになったのは、ソルニットをはじめとする多くの女性たちに、「偉そうな男に、上から目線で説教された」という経験があるからだろう。

また、フェミニズムではこれまでにも「女性同士の連帯」や「シスターフッド」が重視されてきて、男性を介在させずに女性同士で支え合うことが理想化されてきた。それに伴い、最近では「男性同士のケア」の必要性も唱えられるようになっている。これまでの社会では男性が女性にケア役割を押し付けてきたが、女性たちが男性の元を去ってシスターフッドを育むのだとすれば、男性たちは自分たち同士でケアをしなければならない、ということだ。また、「男性同士のケア」は、自分に異性の恋人がいないことに孤独を感じて嘆き苦しむ男性への処方箋として提示されることもある。「親密に慈しみ合う関係は異性としか築けない」という発想は「異性愛規範的」だから捨ててしまい、男性は同性の友人と相互に配慮しあう関係を築いたり悩みや苦しみを打ち明けあったりする男性同士のコミュニティに参加することで、恋人がいないことによる孤独や苦しみから解放されるはずだ、と論じられているのだ。

そして、男性が女性に上から目線で説教したり、男性同士のケア関係を築けなかったりする理由として持ち出されるのが、「有害な男らしさ」である。フェミニズムによると、男性たちが女性に対して横柄な態度をとったり他人への配慮ができなかったりすることの原因は、社会がそのような振る舞いを「男らしさ」という美徳であると定義していることにある。男性たちは社会の規範にしたがって男らしい人間であろうとするが、その「男らしさ」とは、実際には本人に対しても周囲に対しても害をまき散らすものだ。そのため、男性は既存の「男らしさ」の呪縛から逃れて、他人に対して丁重に接したり他人をケアしたりするなど、これまでの「男らしさ」の定義からは外れた振る舞いをできるようにならなければいけない、とされるのである。

具体的な社会問題に関する議論でも、「有害な男らしさ」論が持ち出されることがある。たとえば、日本のみならず世界中の国々の大半では、自殺者の割合は女性よりも男性のほうが高い。原則として女性を被害者の側に位置付けて男性を加害者の側に位置付けるフェミニズムにおいては、女性よりも男性のほうが多くの被害を受けているように見える自殺の問題を説明することは難しい。しかし、「有害な男らしさ」論を持ち出せば、自殺の問題も説明してしまうことができる。「男性は一家の長として家族を養うべきだ」とか「男性は他人に対して泣き言を言ったり弱音を見せたりするべきではない」とかいった「男らしさ」規範が社会によって男性に押し付けられることで、男性は「高い社会的地位を維持しなければならない」というプレッシャーを常に感じ、つらい時にも友人や家族に相談したりカウンセリングを受けたりするという発想も持てなくなってしまうので、辛さに耐えきれなくなって、やがて自殺してしまう……という風に論じられるのだ。

社会によって女性たちに「女らしさ」が押し付けられて、彼女たちの振る舞いが抑圧されたりキャリアが制限されたりすることは、フェミニズムがずっと問題視してきたことである。「有害な男らしさ」論は、「女らしさ」論を男性の問題に転用した考え方だと言えるであろう。男女のいずれの問題にせよ、その原因は「らしさ」という規範を押し付ける社会にある、というのがフェミニズムの基本的な発想だ。

ただし、フェミニズムが想定する「社会」とは、男性たちが権益を独占して女性たちを搾取する「家父長制」のことである。男らしさにせよ女らしさにせよ、それらの規範は家父長制社会を効率的に機能させるために構築されるものであると見なされる。この議論においては、女性は一方的な被害者であるのに対し、男性は社会と共犯関係にあり、不当な特権を得ている加害者の側にいるとされる。そのため、たとえ「有害な男らしさ」が男性自身を苦しめていて自殺などの深刻な問題を引き起こしているとしても、男性の「被害者性」が手放しで認められることはない。一部の男性たちが「男らしさ」によって苦しめられているとしても、それは、女性たちに「女らしさ」を押し付けてケア役割などを担わせることでキャリアの自由などの利益を享受している男性たちが多くいるなかでの副作用に過ぎない、と考えられるのである。

「男性問題」に関するフェミニズムの議論は社会構築論を前提としているために、提案される解決策は、「男性は男らしさを自ら放棄すべきだ」というものであったり「女性が担わされているケア役割を男性が引き受けるべきものだ」というものであったりする。問題の原因が「らしさ」や「役割」という社会規範であるとすれば、そこから脱却すれば問題は解決するということだ。そして、ただ自分が社会規範から解放されるだけでなく、男性以上に社会規範に拘束されて苦しむ女性のことを助けられるような人間になれたほうが、より望ましいとされるだろう。

社会規範だけでは説明がつかない

現代では、「性別」が関わる問題といえばジェンダー論やフェミニズムの枠組みで語られることは、もはや当たり前になっている。

しかし、そもそも、男性問題はほんとうに「男らしさ」の規範によって引き起こされているのだろうか?

フェミニストの大半は、男らしさや女らしさには「自然」な要素があるかもしれない、という考え方を否定する。

だが、「役割」や「らしさ」が社会的に構築されるものであるとして、それらが具体的にはどのようなプロセスを経て内面化されるか、ということが説得的に示されることはあまりない。「学校や家庭における教育や、メディアやフィクションにおける表現などによって、性別に関する役割や規範が子どもの頃から刷り込まれて再生産される」と論じられることが多く、だからこそ、「ひとりひとりの個性を尊重する教育を行ったり、性役割に縛られない表現を増やしたりすること」などが解決策として提示されることになる。しかし、教育や表現を通じて個々人のなかで「役割」や「らしさ」はどのように構築されていくか、という過程についての具体的な説明には欠けているのである。

ひとりの男性としての自分の経験をふまえても、フェミニズムにおける「男性問題」論には、納得のいかないところが多い。「男性とは実際にはどのような存在であるか」ということに関する関心も分析も足りていない、地に足の着いていない議論であるように思えるのだ。

わたしはティーンエイジャーの頃からジェンダー論に興味を抱いており、文学や社会についてジェンダーやフェミニズムの枠組みで分析する書物をいくつも読んできた。漫画や映画などで描かれているステレオタイプ的な性別表現の問題点を指摘する議論にも触れてきたし、マッチョイズムを批判する「男性学」の議論にも目を通してきた。だから、わたしは人生の早い段階から、「男性役割」や「男らしさ」といった規範を相対化する視点を身に付けて、それにプレッシャーを感じたり呪縛されたりしないように生きていたつもりである。
また、1989年生まれであるわたしの周りの男性たちのことを考えてみても(20代後半から30代前半の人たちが多い)、社会規範としての「男らしさ」に縛られている人は少ないようだ。

そもそも昨今では社会の価値観が多様化しており、旧来の規範の影響力が減じているということがあるだろう。また、ジェンダー論の考え方が学校などで教えられるようになり、雑誌やテレビなどのメディアでも取り上げられる程度に普及したことで、すこし意識の高い人であれば、性役割を相対化する視点を多かれ少なかれ身に付けているものだ。

しかし、「男性役割」や「男らしさ」を相対化する視点を得て、その呪縛から解き放たれるようになっているはずの男性たちであっても、よくよく彼らを観察してみると、男性に特有の欠点や問題をやはり抱えているようなのである。

彼らは苦悩やつらさを他人に打ち明けることが苦手であるし、他人から悩みを打ち明けられたときにそれに共感して対応することも、多くの女性に比べると不得手だ。セルフケアを怠って、自分の身体や精神の健康にも気を遣わない人も多い。一見すると口調や物腰は柔らかであっても内心は競争的でプライドが高く、自分の地位や能力が他人に劣ってしまうことに我慢がならない人もいる。
フェミニストたちに言わせれば、「彼らは表面的には男らしさや男性役割から解放されているように見えるが、実際には、まだ、男らしさにとらわれたまま。性役割や性的規範とは、それだけ根深いものであり、知識を身に付けた程度で脱出できるものではない。必要なのは、家父長的な社会の仕組みそのものを変えることだ」ということにでもなるかもしれない。
だが、答えはもっと本質的なものかもしれない。男性たちが抱えている問題は、男らしさや男性役割のせいではなく、男性であることそのものから生じている。男性たちに一般的に備わっている生物学的な傾向こそが、「男性問題」のそもそもの原因であるかもしれないのだ。

 男女における生物学的な違いの傾向

フェミニズムからいちど離れて、発達心理学や進化心理学に目を向けてみると、男女の傾向に関する生物学的な説明を参照することができる。

男女の傾向の基本的な違いとは、男性は「モノ」に対する興味が強い一方で、女性は「ヒト」に対する興味が強いことだ。

たとえば、おもちゃ箱のなかに複数の種類のおもちゃが入っているとき、女性の赤ちゃんは人形やぬいぐるみなどの「人格」が関わるおもちゃを選ぶことが多く、男性の赤ちゃんはミニカーやボールなどの「物」らしいおもちゃを選ぶのが多いことは、よく知られている。普段は女性の赤ちゃんにミニカーを与え続けたり男性の赤ちゃんにぬいぐるみを与え続けたりしていても、両方のおもちゃからひとつを選ぶとなると、赤ちゃんたちは自分の性別に典型的なおもちゃを選ぶことが多いのである。

この傾向は、大人になってからも持続する。男性は抽象的な物事に関する関心が高い一方で、女性は具体的な物事に対する関心が強い。たとえば、大学に進学するときに専攻を決める際には、哲学や数学などの特に抽象的な学問では男性の比率が高くなる一方で、看護学や心理学などの人間が関わる学問では女性の比率が高くなるのだ。

男性の「対物志向」と女性の「対人志向」の背景には、男性の「システム化思考」と女性の「共感思考」との違いが存在する。発達心理学者のサイモン・バロン=コーエンの著書、『共感する女脳、システム化する男脳』における整理を見てみよう。

女性の脳は共感する傾向が優位になるようにできている。男性型の脳はシステムを理解し、構築する傾向が優位になるようにできている。(バロン=コーエン、p.10)

 「共感」とはほかの誰かが何を感じ、何を考えているのかを知り、さらにそれに反応して適切な感情を催す傾向である。相手が考えていることや感じていることをただ機械的に推測すること(これはマインドリーディングと呼ばれることがある)を共感とはいわない。推測するだけの能力ならサイコパス(反社会的な人格障害)と呼ばれる人々にもある。他人の感情が引き金になって自分の中にも何らかの感情が生じたとき、初めて共感するに至ったといえる。そしてそれは他人を理解したい、その行動を予測したい、相手と感情的な結びつきを持ちたいという動機で起きる感情的な反応である。(同上、p.11)

「システム化」とはシステムを分析、検討し、システムのパターンを支配する隠れた規則を探り出そうとする衝動や、システムを構築しようとする傾向を指す。システム化がよくできる人は物事がどのように機能しているのか、どのような規則に従ってシステムが動いているのかを直感的に見抜くことができる。そしてそれによってシステムに対する理解を深め、次の展開を予測し、あるいは新しいシステムを作り出す。(同上、p.13) 

また、男性は女性に比べて社会的地位に対する執着が強く、他人を支配しようと振る舞うことは、フェミニストもよく指摘することだ。この特徴の背景にもシステム化思考があり、さらには進化の歴史における男女間の繁殖戦略の違いが存在するのである。

ある行動を取れば地位を失い、別の行動を取れば地位が上がる。システム化にすぐれた者はその動きをつぶさに見て学ぶ。これは政治といってよいだろう。個人のレベルでいえば巧妙に立ち回って同僚より目立ち、競争に勝って昇進する(地位を上げる)ための駆け引きである。集団のレベルでは、部族内の力関係も政治なら、集団として領土を拡張することも、資源を巡って戦うことも政治といえる。

(……中略……)

人が常に社会的地位を気にするのは、それがダーウィンのいう「性選択」に結びついているためである。多くの種に共通することだが、特に霊長類ではメスが相手を選択することが多い(つまり、メスが選択の主導権を握っている)。子孫を生み、育てるのにメスが費やす時間と労力を考えればそれも当然だろう。男性は一度の性行為で数秒から数分かければすむかもしれないが、女性は妊娠期間だけでも九か月を要する。それでは女性はどのように相手を選ぶのだろうか。手がかりのひとつになるのが、社会的地位である。

その結果、男性にとっては高い地位に就くことが女性に近づく機会を増やすことになる。高い地位にあるということは健康な遺伝子を持ち、家族を養い、保護する能力も高いと考えられる。これまで述べてきたように、システム化にすぐれていれば高い社会的地位を得る可能性が高い。(バロン=コーエン、p.214-215)

 

男性は威嚇するだけでなく、力や地位を誇示することでライバルを圧倒し、女性を引きつけようとする。単なる腕力ではなく、社会的集団の頂点に登る能力が女性を引きつけるといえるかもしれない。この場合、共感傾向が強くないほうが誰かを殴ったり傷つけたりしやすい。そこまでいかなくても、競争で打ち負かしたり、自分にとって役に立たなくなった相手を見捨てたりするには、共感をあまりしないほうが都合がよい。

第4章で見てきたように、他者の感情を見分ける能力を調べると、たいてい男性は女性ほど成績がよくない。しかし、まっすぐ目を見てくる相手からの威嚇──社会的地位を奪われることを恐れている者にとっては重大な意味を持つ──を読み取ることや支配関係(男性どうしの争いの焦点)を読み取る感覚の鋭さでは男性は女性より成績がよい。これは、共感ではなくシステム化にすぐれていることを示すものだ。(バロン=コーエン、p.216)

男性の対物志向やシステム化思考に、女性の対人志向や共感思考という特徴は、バロン=コーエンのみならず、多くの心理学者が発見して論じていることだ。ただし、これらの議論 はあくまでも男女それぞれについての統計上の平均値に関するものであり、「すべての男性はシステム化思考をしており、すべての女性は共感思考をしている」ということが主張されているわけではない。また、システム化思考のほうが共感思考よりも優れている、という議論がされているわけでもないのである。

しかし、フェミニストたちは、「男女の心理や脳に関する特徴の違い」という議論と聞くと、「男性は優れていて女性は劣っている、と決めつけるための疑似科学に違いない」と頭ごなしに否定して、取り合おうとしないことが多い。バロン=コーエンは、フェミニストたちからの批判を意識しながら、以下のように書いている。

数十年前なら、男性と女性の間に心理学的な違いがあると言っただけで非難の的になっていただろう。六〇年代や七〇年代に広まっていたイデオロギーによれば、心理学的な性差など幻想に過ぎない、実際にあるとしても本質的なものではない、とされていた。つまり、性差とは男性と女性に根本的な違いがあるために生じるのではなく、文化的な力が働いて生み出されたものだという。しかし、その後数十年の間にさまざまな研究室で積み上げられてきた多くの研究の結果から、私は世に問うだけの本質的な違いが確かにあると考えるようになった。今日の知識から見ると、すべての性差が文化的な要因から生じるという旧来の考え方は現実を単純化しすぎている。(バロン=コーエン、p.25-26)

 男性同士のケアが難しい理由

さて、フェミニズムが指摘する「男性問題 」の多くは、男性の共感能力の低さや人に対する興味のなさ、権力や支配に対する執着などによって説明することが可能だ。

たとえば、自殺について研究しており自殺予防のためのカウンセリングなども行っている心理学者、トマス・ジョイナーの著書である、『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんひとりぼっち:男性の成功の高い代償)』では、「男性の自殺」という問題が一冊にわたって取り上げられている。ジョイナーは、「孤独」は人を自殺に至らしめる重大な要因であることを説明したうえで、男性の自殺率の高さの原因を男性は女性よりも孤独になりやすいという統計的な傾向に見出す。そして、ジョイナーの分析によると、男性が孤独になりやすい理由にはシステム化思考が関わっているのである。

人とのコミュニケーションに若い頃から関心を抱くことが多い女性たちとは違い、男性たちは対人スキルを訓練する機会を持たないために、学校を卒業した後になって新たに友人を作ることが不得手である。また、学生時代からの友人についても、女性は「友人との関係を維持しよう」と努力することが多い一方で、男性は連絡をしたり同窓会に出席したりすることを億劫に思うために、昔からの友人ともいつの間にか疎遠になってしまいがちだ。そして、仕事で活躍できる年齢になった男性は、 キャリアを追求するがあまりに友人や家族との関係を犠牲にしてしまう。これらの要素が重なることで、中年や壮年になった男性は、社会的地位を得た代わりに家族との関係が悪化してしまい、昔からの友人も誰も残っていない、「てっぺんでひとりぼっち」の状態になる。こうして孤独になる男性が多いという事実が、男性の自殺率の高さを説明する……というのが、ジョイナーの議論のあらましだ。

そして、ジョイナーは、男性は共感能力が低いために他人に対する配慮ができない、とも論じている。たとえば、姉や妹がいる人は、当人が男性であっても女性であっても、「自分は不幸である」「自分には頼れる相手がいない」という感情を抱くことが他の人たちより少なくなる。しかし、兄や弟は、妹や姉のようにはきょうだいの心の支えとならない。同じことは友人関係にも当てはまり、友人が離婚や病気などつらい目にあったときの対応をみると、 相手の感情を考慮しながら適切に慰めたり励ましたりできる女性が多いのに比べて、男性は友人がつらい目にあっていてもどう対応すればいいかわからずに戸惑ってしまうことが多いのだ。

この現象は、「男性同士のケア」が難しい理由の説明にもなるだろう。フェミニストが指摘するように、 男性たちは、同性の友人にではなく家族や恋人の女性に対してケア役割を期待することが多いようである。しかし、その理由は、「ケア役割は女性がするものだ」という規範が社会によって構築されているから、とは限らない。おそらく、多くの男性は同性の友人たちと普段から関わっているからこそ、「周りの男たちには、自分が苦しんでいるときや傷付いているときに配慮をしたり慰めたりしてくれることは期待できない」と考えているのであろう。

 マンスプレイニングと「共感の障害」

「マンスプレイニング」という現象について考えるうえでも、バロン=コーエンの議論は参考になる。

バロン=コーエンによると、自閉症の人やアスペルガー症候群の人は、「システム化」思考が平均的な男性よりもさらに顕著である、「極端な男性型の脳」の人である。彼らの思考の特徴とは、以下のようなものだ。

このような人びとはまず、どんな問題でも自分で解決しようとする。いつも頭の中は目の前にある物やシステムでいっぱいで、ほかの人が何か知っているかもしれないと考えてみるようなことはない。これが極端な男性型の脳を持った人びとである。

(……中略……)

この人びとに、誰かがあることを考えているかもしれない、感じているかもしれない、という推測や客観的事実とはいえない話題を持ち出しても、何の興味も示さない。それどころか避けようとする。そのようなことを事実として知ることは不可能で、確実に予測することはできないからだ。(バロン=コーエン、p.233)

 

自閉症は共感の障害といえる。自閉症の人は「マインドリーディング」を行うことが著しく困難である。つまり、他人の立場に身を置いて、その人の目には世界がどう見えているかを想像することができず、相手の感情に対して適切な反応をすることもできない。私は以前書いた本の中で、自閉症の人を「マインド・ブラインドネス(心が見えない)」状態にあると表現した。(バロン=コーエン、p.239)

これらの特徴は、システム化思考が極端になった場合に生じるものではある。だが、自閉症やアスペルガー症候群と診断されるほど極端でない場合にしても、システム化思考が顕著な人たちは目の前の人に対して共感をはたらかせることが苦手である、ということを示してもいるのだ。

「自分がこんなこと言ったら、相手はどう思うか」「今から自分がはじめようと思っている話題については、相手にも考えや意見があり、不用意に自分の意見を開陳してしまうと相手に不快感を抱かせてしまうかもしれない」などといった配慮をはたらかせるためには、共感的な思考をおこなうことが必要となる。そして、それができない人の言葉は、相手からはハラスメントや「上から目線の説教」であると感じられてしまう可能性が高いのだ。

フェミニズムによれば、男性がマンスプレイニングを行うことは、彼らが「女性は男性よりも無知で劣った存在だ」という偏見を抱いていたり「男性が女性に対して下手にでることはみっともないことである」という社会規範を内面化していたりすることが原因である、とされる。しかし、実際には、マンスプレイニングを行う男性はただ単にマインドリーディングができておらず、「自分が説明しようとする知識を、相手が知っているかどうか」ということに考えをめぐらしたり「自分がいまから発しようとしている言葉で、相手はどんな感情を抱くであろうか」ということを予測して察したりすることができないだけ、であるかもしれない。

「有害な男らしさ」への新たな視座

現代の欧米諸国では、フェミニズムの主張は社会に浸透しており、制度における性差別は過去に比べると大幅に改善されて、法律や各種の規約などにおいても男女平等の理念が明示されるようになった。だからこそ、近年では、メディアにおける表現や日常的なコミュニケーションなどの曖昧な領域に存在する男女差別が注目されるようになっている。同様の傾向は、男女差別に限らず人種差別などの問題についても存在している。その結果、差別的な用語を使っていない発言や表現であっても、文脈や社会的な事情をふまえると特定の属性の人々の尊厳を傷付けたり不愉快にさせたりするようなものである場合には差別的であるとみなす、「スピーチ・コード(会話に関する規範)」が発展したのだ。最近になってマンスプレイニングが取り沙汰されるようになったことも、この傾向の一環であろう。

しかし、システム化思考を行う人にとっては、自分のどのような発言や振る舞いが相手を傷付けるかを予測することは難しい。差別とされる用語や表現があらかじめ明示されている場合には、それらを用いないようにすることはできるが、文脈や社会的な事情などの「空気」を読むためには、共感的な思考が必要とされるのだ。このことをふまえると、自身がアスペルガー症候群である進化心理学者のジェフリー・ミラーが発表した「ニューロダイバーシティと言論の自由」という論考には一読の価値がある。性や人種の「多様性」を考慮するために発言や振る舞い方などに関するルールが複雑で曖昧になっていくことは、アスペルガー症候群や自閉症を持つ人たちを排除する結果をもたらすために「脳神経特性の多様性」に反している、とミラーは主張するのだ。

先述したように、男性の思考がシステム化に偏っており女性の思考が共感に偏っているということは、あくまでも統計的な平均値の話に過ぎない。他人に対して共感することが得意な男性もいれば、物事をシステム化して考えることが得意な女性もいる。そして、マンスプレイニングはシステム化思考が要因となっていると考えれば、男性に比べると少数であるが「上から目線の説教」を行う女性がいることについても、容易に説明が付く。

マンスプレイニングという言葉は、男性たちからの説教を受けた側である女性たちが考案したものだ。「上から目線の説教」は女性よりも男性のほうに顕著である、という点では、彼女たちの考えも正しいだろう。しかし、「男性に顕著である」ことは「男性に特有である」ことを意味しない。また、マンスプレイニングという現象についての議論は、説教を受けた側からの視点によって語られることが多いために、「マンスプレイニングを行う側である人は、実際のところ、どのような理由でそのような行為をしたのか」ということについての検討がなおざりになってしまいがちなのだ。

 社会規範だけでなく生物学的な議論も

男性が引き起こす個別の問題についてフェミニズム的な問題意識や社会構築論を前提にせずに具体的に検討していくと、社会の構造や規範のみならず男性の心理や思考に関する生物学的な特徴も問題の一因となっていることは、否定できないように思える。

そうなると、「有害な男らしさ」についても、これまでとは違った視点から考えることが可能だ。フェミニズムやジェンダー論では「男らしさ」とは社会的に構築される規範とされるが、システム化思考の特徴と「男らしさ」の具体例は、かなりの部分が重なっている。そして、「有害な男らしさ」とはシステム化思考の特徴のうち本人や他人に対して害を与えたり迷惑をかけたりするもののことである、と見なすこともできるだろう。

「男性問題」に目を向けるようになったフェミニズムでは、母親としての立場から、「男の子が有害な男らしさを身に付けないようにするためには、どう教育すればいいか」ということについても議論されるようになった。そのなかでも代表的な著作が、レイチェル・ギーザの『ボーイズ  男の子はなぜ「男らしく」育つのか』である。しかし、フェミニズムの通例にしたがって、この本のなかでも男女の特徴に関する生物学的な議論は「無視されるべきもの」であるかのように扱われていた。

マンスプレイニングに関する議論を展開したソルニットにせよ、有害な男らしさに関する議論を展開したギーザにせよ、彼女たちは男性問題について語りながらも、「実際には、男性とはどのような存在であるか」ということに対する関心は希薄であるようだ。フェミニズムおける「男性問題」論は、男性に向けてではなく、フェミニストとして問題意識を共有する女性に向けて語られている側面が強いようなのである。

どうやら、フェミニズムが「男性問題」について論じているからといって、その議論が参考になるものであるとは限らないようだ。生物学的な要素を無視して社会構築的な要素を強調するという偏向や、女性の立場からの問題意識が議論に混入しているために、問題の原因に関する冷静で正確な分析が行われているとは期待しがたいのである。そして、原因に関する分析に間違いがあれば、提案される対処法も自ずと的外れなものになる。

ただし、「男性問題」が存在すること自体を指摘して、問題が解決される必要性を論じたという点では、フェミニズムにもたしかな功績があるかもしれない。男性のなかには、マンスプレイニング的な行為をした経験があって反省していたり、自分が思わぬところで女性を傷付けたり不愉快にさせたりすることを避けたいと思っていたりする人もいるだろう。また、自分が他人に対して十分な配慮や気配りができていないことや、女性の恋人や家族にケアを一方的にしてもらっていることを自覚していて、居心地の悪い思いをしている男性もいるかもしれない。フェミニズムの議論に触れることで自分のなかの「有害な男らしさ」を発見して、なんとか対処したいと考える男性もいるだろう。

だが、男性が自分の問題に本気で対処するためには、フェミニズムやジェンダー論とは異なる視点も必要となるかもしれない。社会的な規範や家父長制が自分の言動に与える影響について考慮するのもいいだろうが、それと同時に、「自分はシステム化思考に偏っており、共感思考に欠如しているのではないか」という可能性についても考えてみるべきなのだ。 規範や制度などの「外」にある問題だけでなく、思考の傾向やパーソナリティなどの「内」にある問題にも目を向けたほうが、有意義で実践的な結論を得られやすいはずである。

 

〈参考文献〉

サイモン・バロン=コーエン(著)、三宅真砂子(訳)、『共感する女脳、システム化する男脳』、NHK出版、2005年。
レベッカ・ソルニット(著)、ハーン小路恭子(訳)、『説教したがる男たち』、左右社、2018年。
レイチェル・ギーザ(著)、冨田直子(訳)、『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』、DU BOOKS、2019年。
Joiner, Thomas. Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success. Palgrave Macmillan.2011.
Miller, Geoffrey. Virtue Signaling: Essays on Darwinian Politics & Free Speech. Cambrian Moon.2019.

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記