モヤモヤの日々

第73回 人生で最高に幸福な時間

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

社会人になって出会ったある先輩が言っていたことで、深く記憶に刻まれている言葉がある。「人生で最高に幸福な時間とは、キャンプや家での飲み会で俺が眠ったあと、みんなが俺のことについて話しているのを、実は起きている俺が聴く時間だ」。なるほど。奥深い。

もちろん、自分について好意的に語ってくれている場合のみである。たとえば、「◯◯って不真面目なようで、いつも周りに気を遣ってくれるよな」とか、「実は私、高校生のとき、◯◯君のことが好きだったんだ」とか。だが、そこまでいかなくても、自分のいないところで自分が話題になっているのは素直にうれしい。居場所がそこにあるような気がする。自分の話題が普通にのぼるコミュニティーがあるのは、寄るべない人生を歩む足掛かりとなる。

しかし、そんな僥倖はめったに起こらない。というか、そもそも「自分がいないところで」が条件であり、仮にそこで自分のことが話題になっていたとしても、自分ではそれを知る由がないのだ。もちろん、親切な誰かが「この前、△△さんが、◯◯さんのこと褒めていたよ」と知らせてくれるかもしれない。だけど現実的には、なぜかその逆の情報を知らせてくれる人はたくさんいるのに、褒めてくれている情報を知らせてくれる人格者は決して多くない。

そんなこと百も承知で、先輩はあえて「キャンプや家での飲み会で俺が眠ったあと、みんなが俺のことについて話しているのを、実は起きている俺が聴く時間」と限定したのだろう。「人生で最高に幸福な時間」は、待っているだけでは訪れない。自分で手繰り寄せるものなのである、と。僕は、そんな立派な信念を抱き、飲み会のたびに実行している先輩を尊敬している。

だが、僕は元来、とても疑い深い人間なのである。だから、「『キャンプや家での飲み会で俺が眠ったあと、みんなが俺のことについて話しているのを、実は起きている俺が聞く時間』と思っているのは◯◯さんだけであり、本当は◯◯さんが起きているのを知っていているんだけど、慈悲の心から褒めてくれているみんな」になっていないか不安で仕方ないのである。これから先、偶然にも自分にそういう「人生で最高に幸福な時間」が訪れたとしても、どうしても不安になり疑ってしまう。先輩はどうなのだろうか。不安とかないのだろうか。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid