第12回 こうふくの明滅

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

久しぶりに自転車に乗って、ひとりの午後をコメダ珈琲で過ごした。夫が春から半年の育休を取り、晴れた日の今日、こうして町に出ることが叶った。久しぶりであれば自転車を走らせながら映る一つひとつが目にあたらしい。焼き鳥屋の前でしゃがみこんで煙の出るコンロに割り箸を折り入れながらたぶん、炭を作っているひと。向かいの民家には前後に並んだ軽とその兄弟みたいな黒くて四角い車が止まっている。

すこし走ればすぐになめらかに舗装された広い歩道に出て、とおくに判子屋ののぼり。「実印」「ゴム印」がいま、その文字を反転させながらはためいている。

そしてちょうど咲きごろの、木香薔薇はやっぱりスクランブルエッグなのだと毎年確信をあらたにする。

ぼくたちがスクランブルエッグと呼んでいる木香薔薇がなだれるところ

こんな短歌をすこし前に作ったのだった。ずっと咲いていたはずなのに、存在を知ったのはこの数年のことのように思う。角の家の屋根のあたりから吹きだすようになだれている。ほんとうに、フライパンからお皿に流れるとろとろの、スクランブルエッグのようだ。

そんなふうにたっぷりとひとりの時間を過ごして帰って、夫に裸のまま両脇から抱かれてやってきた子を湯舟に浸からせて身体を洗ってやる。「あったかいねー、気持ちいいねー」と声をかけながら、ときおり目を閉じてほんとうに気持ちよさそうにしている。おーい、と夫を呼び、湯舟から取りあげる子の身体はほかほかだ。

わたしも急いでお風呂からあがって、そのままベランダにバスタオルを干す。と、真っ暗ななかに民家の明かり。レースのカーテン越しだから台所がぼんやり見える。台所かどうかわからないけれど、それは子どもの頃の自分の家の台所に重なっていく。

母の手のひらに載った豆腐の一丁、そこに真っ直ぐすっすと下される包丁の切れ目、なぜそんなことをして手が切れてしまわないのか不思議だったこと。なんで? と聞いて母はどう答えたのだろう。一緒に厨に立っていたなあと、そういえば一時期家事の一助として味噌汁を作る係りを担っていたことがあった。ステンレスの小鍋に煮干しを手づかみで浮かべ、沸かして穴あきお玉で掬いあげ、野菜室の半端ものを切って投入し、覚えているのがじゃがいもと、ワカメの味噌汁。玉ねぎは、母が得意とせずに登場させなかったこと。煮すぎればいつも口のなかでつぶ状にほどけたじゃがいも。

 

近ごろずっと煙草の匂いがするのは、やっぱり間違いじゃないみたいだ。

こうしてベランダに出ているときや、窓のそばのソファに腰かけているとふと漂ってくる。てっきり隣の部屋のベランダから来るものなんだと思っていたけれど、どうやら違うらしかった。というのもたびたび夫にいま煙草臭い? と聞いてもううん、と言われ、しかしそのときはまだそれでも、自分にだけわかるんだと思っていた。

けれど今日、久しぶりに自転車で町に出て、すると信号待ちに車の往来を眺めているときにまた匂ってくるのだった。自転車を走らせても匂っている、となればこの町全体がタバコ臭、なのかわたしの幻臭? なのかどうなのか。そもそもすべてわたしの気のせいなのかもしれない。けれどそういう心事のもとに、気のせいだとしても匂いがつねにまとわりついているのは不愉快で、そしてこれは遡ればおそらく妊娠中から気になりだしたことだった。

赤ちゃんが原因もわからず亡くなってしまう「乳幼児突然死症候群(SIDS)を防ぐために」、というページにはうつぶせの状態にはなるべくしないこと、母乳をあげること、煙草を吸わないこと、と書いてある。このことを気にしていることと、このかた煙草の匂いがついて離れないことは繋がっているのかどうか、わからない。

現にいまわたしの子はこんなに元気で、大きな声をあげたり果敢に寝返りを繰り返したりしている。もしもこの子が。

夜、寝室に寝かせたあとも気になって三十分に一度はそっとお腹に手を当てて、その穏やかな呼吸の上下を確かめないと気が休まらないでいる。たとえゆっくり湯舟に浸かっているときでも、はっとしてバスタオルで適当に水を落としてそのまま寝室に行って、ちいさな、けれどたしかな呼吸を手のひらで感じてそのたび、一瞬の安心をやっと手にすることができるのだった。

そんなのは気にしすぎで、自分の心身にとっても負担だろうと言われればそうかもしれない。けれど生まれてまだ半年も経たないこんなに柔らかい生きものなのだから、誰になんと言われようともわたしはやっぱりこわいのだ。

生きていることを告げるためだけに薄闇に小さくただ光ってみせる喉の石のいとおしさ。まだ言葉をもたない生き物がこんなふうにただ呼吸をしていることの、言い様のないほどのいとおしさ。息苦しくなるほどのそんないくつものいとおしさで充満してふくらんだ彼女の目からはときおり涙が流れでた。ずるずると、そんなふうに泣きながら、彼女は赤ん坊の頭の歯に息を吹きかけてレモンの種で毎日必ず7分は磨きをかけて、抱きしめることも忘れなかった。(「わたしの赤ちゃん」川上未映子『水瓶』)

溢れてもなお湧きあがりつづけるいとおしさをとくとくと注がれた、頭に銀色の鋭い歯をもつ彼女の不思議な赤ちゃんは、けれどそのちいさな喉の石を狙う「ミース」という謎の存在に食べられてしまう。恐れながらも、彼女は命を燃やして赤ん坊を守っていたはずなのに、簡単に攫われてしまう。

わたしはこの詩を思うときにいつも、どうすれば彼女はミースから赤ん坊を守ることができたのだろうと考える。ミース対策になるという専用の柵のついたベッドに寝かせ、ミース除けの小麦を握らせ、できる限りを尽くしても、ちいさく灯る喉の赤い石を、なぜその子は奪われないといけなかったのだろう。そしてそれは、どうしようにもなかったことなのだろうかと、そこで思考が塞がってしまう。

だからやわらかくあたたかな、それをわたしが手にしたところで、ほんとうはそんなものはじめから存在しなかったのだよ、と知らないひとが微笑むような恐ろしさがずっとある。こんこん、といまドアはやさしく叩かれて、開けたつもりもないのに戸はまぶしく開き、知らない人が「ありがとう」と言って子を引きとっていく。わたしは涙目になりながら、掴めるものはすでになく、ただ空中で犬かきのようなジェスチャーがかなしい。そうしてなにもほんとうにはなかったかのように、いつのまにやら霧散する。

もとより、無から有への転換はあざやかなものではけっしてなく、それはいつからそこにあったのか、ほんとうにはその瞬間を、実感することも知ることもできない。だからまだ生まれたばかりの存在は、またすぐにひっくり返って無へと還ってしまうのではないか。

わたしたちはいつも肩にやわらかなカーディガンをそれぞれ羽織って、それは外が肌寒いから。家に帰って脱衣所の鏡の前で服を脱いで裸になるとき、どきっとする。そこに映るのはただのわたしの裸の胸だろうか。なぜこんなにも、目の奥がよりまた奥へと引かれるような痛みがやって来るのだろう。わたしが見えていないだけ。そこにはほんとうにはなにが、映っているだろう。

とどまることのない不安の日々に、いつだって自分の命はほんとうには剥きだしのまま、わたしたちはそれぞれの喉元に赤くひかるうつくしい石をもっている。そしてそのことを、だいたいは忘れるように努めている。喉の石を狙うミースは死神なのだろうか。いずれ、だれのもとにもやってくる、わたしたちはいつ、そんな約束をだれと、したのだっただろう。だからずっと、知らないふりをして、毎日カーディガンを羽織って、外に出る。夜、わずかな痛みとともに裸になることを除いて、毎日を、すこしの浮き沈みとあかるさで、こうしてやり過ごしている。

「ぼくたちが、特別に勇敢なのじゃないと思うよ。ただ、あの彗星になれてしまっただけなんだ。彗星と、なじみになってるくらいだもん。あれを知ったのは、ぼくたちがさいしょなんだ。しかも、あれがどんどん大きくなるのを見てきたんだ。彗星って、ほんとにひとりぼっちで、さびしいだろうなあ…」(『ムーミン谷の彗星』ヤンソン 下村隆一訳)

「それで結局彗星は、ムーミン谷に落っこちたの?」

「ええ。でもたいしたことにはならなかったのです。地球をしっぽでかすっただけで」そういってムーミンは、見るともなしに斜めうえの時計のほうに目線をやった。

「そろそろおやつの時刻ではないですか?」

晴れのベランダ向かいに本を読んでいると、紙がその明るさを吸収してまぶしい。その明るさから紙越しに想像する青空が好きだ。今日は風が強いから、煽られて洗濯物がよく乾くだろう。こうして背後の気配として感じる、ベランダの洗濯物のはためき。

いつかわたしが死ぬということは、なにもかもを感じられなくなることだ。それはひとつ、平たい小箱からゆっくり引き出すアーモンドチョコのつやつやが見られなくなること、ミスドの分厚い六角形のグラスに注がれた緑のうつくしいソーダの泡を受けられなくなること。好きだった人の声を思い出せなくなること、そしてなによりもわたしの子どもに会えなくなることだ。

この世のうつくしいものすべてを目に焼きつけるために、ゆっくりと自転しながら反射する、今日見た町のなかの風景。床屋の前の三色のポールは、こんなに速く回転するのだったっけ。交番のとなりの小学校の校庭にはメタセコイアの大きな木があって、木の下には、子どもたちが散らばってしゃがんでいた。ここからだとミニチュアで、話し声ももちろん聞こえない。ボールがどこからか転がって、もつれるように遅れて子どもがそれを追いかける。意識しない、全速力の、遅れてやってくるあの日のわたしの息切れの呼吸。

羽織っていたカーディガンが風で翻って、抱きしめれば子の頭は乾いていてあたたかい。ゆっくりとする深呼吸のように、赤ん坊を育てるこうふくは、あざやかに隠蔽された死がこちらを覗く一瞬と交換に、いまもこうして明滅している。

死はずっと遠くわたしはマヨネーズが星形に出る国に生まれた  工藤玲音