モヤモヤの日々

第91回 赤いカーネーション

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

昨日5月9日は「母の日」だった。赤子(11か月、息子)にとって僕の妻は母であり、もちろん現時点では赤子に祝う意思があるかはわからないが、ただでさえコロナ禍で緊張やストレスに晒されているわけだし、妻にとっては初めての母の日である。「父さん、2021年の母の日は、きちんと祝ってくれたんだろうね」。将来、意思を持った赤子にそう言われるかもしれない。しかし、そのことに思い至ったのは、母の日の直前になってからであった。配送サービスを調べてみたものの、やはり遅すぎたのか、目ぼしい商品の配達日は母の日の翌日の5月10日になっていた。

ということで昨日、「赤子を連れて散歩してくる」と言って、花屋にカーネーションを買いに行った。サプライズするつもりはなかったのだけど、「今から母の日のプレゼントを買ってくる」とわざわざ伝えるのもしっくりこないため、何気なくマンションの部屋を出た。おそろしく暑い日だった。すでに10キロ以上ある赤子を前に吊るし、花屋までの道のりを歩いた。途中、このイベントに愛犬ニコルが参加できていないと気がつき、メッセージカードにニコルの名前も入れることにした。

花屋は、思った以上に混雑していた。父と子どもという組み合わせが意外と多く、なかには僕と同じように0歳児の赤子と一緒に来ている男性もいた。若い女性と50代くらいの男性、そして店内のレジの横に座っている年配の女性の3人で切り盛りしていた。ソーシャルディスタンスを守る工夫もされていて、この日に備えていたようだった。赤子は入り口付近にあった一輪挿しの赤いカーネーションを指差して、「あじゃ」と言った。「あじゃ」がなんなのかまったくわからないが、「赤いカーネーションがいい」という指示のような気がした。しかし、せっかく初めての母の日なのだから、一輪挿しではなくアレンジメントされた花鉢にしようと思った。

目の前を女性の店員さんが横切ろうとしたので、その旨を伝えてみた。ところが、赤いカーネーションを主体としたアレンジメントの商品は人気があり、数が少なくなっていた。そのなかでは「あじゃ」に叶いそうな商品はなかったため、予算を伝えてアレンジメントしてくれないかと頼んでみた。だが、母の日の花屋は混雑しているのだ。「少しお時間がかかってしまいますが……」と申し訳なさそうに言われたので、予約しなかったことを悔やみつつ、「それじゃあ、このお花でお願いします」と、すでにアレンジメントされている商品のなかから、ひとつ選んで指差した。

その時だった。レジの横に座っていた年配の女性がすくっと立ち上がり、「わたしがやります」と言った。インナーに入れた色が金髪になり、伸びに伸びきった髪を隠すように被ったキャップ、オーバーサイズのTシャツに、アウトドア用のロングパンツ、KEENの白いサンダルという、まるで野外フェスに行くような格好をし、ムチムチ真っ盛りの赤子を吊るして無計画に現れた僕を見るにみかねたのだろう。ベテランと思われる女性自らアレンジメントしてくれることになった。なんて素敵な花屋なんだろう。にもかかわらず、僕ときたら渡されたメッセージカードに「ママ、いつもありがとう」と大きく書きすぎて、赤子とニコルの名前を添えるスペースがなくなってしまい、若い女性の店員さんに声を掛け、もう一枚もらうという体たらくぶりだった。

それにしても暑い日だった。本当は別の場所にも寄ろうと思っていたのだけど、赤子はすでに疲れて寝ていたし、熱射病なども心配だったのですぐに帰った。マンションのエレベーターに乗っている途中で、ニコルの名前を書くのを忘れていたことに気がついた。僕は部屋に戻るなりそそくさと仕事部屋に入り、ボールペンで「ニコル」と狭いスペースになんとか書き足した。消せるボールペンしか見つからなかったが、焦っていたのでこの際、仕方ないと諦めた。妻は本当に意外だったようで喜んでくれた。贈り主である赤子と犬は、そのとき爆睡していた。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid