モヤモヤの日々

第101回 怪談タクシー

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

つい先日、渋谷の美容室に行った。タクシーで帰った。原稿の提出が遅れていたし、忙しい日々が続いていて疲れていたのである。徒歩でも帰れる距離だったので節約したかったのだが仕方ない。混雑していたため、迂回路を使ってくれた。料金はやや掛かったが、スムーズに帰宅できた。

自宅マンション前にタクシーは止まった。1060円だった。僕はカバンから財布を取り出し、1110円をキャッシュトレイに置いた。すると初老の男性運転手は100円を指差して、「お客さん、これ100円ですよ」と言った。確かに100円である。どう返事したらいいかわからず黙っていると、「これ100円ですよ」とまた言ってきた。知っている。そして、それのなにがいけないのだろう。

「そうですね」。僕は少し不安げに答えた。だが、運転手は「100円ですけど、いいんですか?」と同じ言葉を繰り返した。そこですぐに「はい」と言えればよかったのだが、そのときの僕は疲れていたし、原稿が遅れていて焦っていたのだ。自分の思考能力に自信がなかった。どうすればいいのか。僕は試しに100円を取り、財布に戻してみた。キャッシュトレイには1010円が載っていた。なにも反応がない。たまりかねた僕は、「これでは足りませんよね?」と尋ねた。「そうですね」と運転手は答えた。僕もそう思った。いったいなにが正解なのだろうか。外出を控えているうちに世の中があまりにも複雑になりすぎて、僕の手には負えない状態になってしまったのかもしれない。

僕はトレイに100円を戻した。するとまた運転手は、「100円ですけど」と言った。僕の混乱は頂点に達していた。もう限界だった。僕は意を決して、「あの、100円ではなぜいけないのでしょうか」と訊いてみた。懇願するように訊いてみたのだが、運転手は「わたしは大丈夫ですが、お客様は100円でいいんですね?」と逆に質問してきたのだった。もう逃げられない。疲れた頭を高速でフル回転させ、さまざまな角度からその後に起こる事態を想定してみたが、やっぱり僕も100円で大丈夫だった。「はい。100円で大丈夫です」と、僕は自分を信じて決断した。自分を信じたのは久しぶりだった。

運転手は、ようやく納得してくれたようだった。よかった。僕の苦労が実を結んだのだ。運転手はトレイから1110円を取り、お釣りを用意しながら「レシートはいりますか?」と訊いてきたので、これには即断で「はい」と答えた。運転手は頷き、お釣りの50円を渡してくれた。しばしの沈黙が車内に流れた。10秒が永遠の時間に感じられた。僕は消え入りそうな力のない声で、「あの、レシートは?」と訊ねた。運転手は「レシートは必要なんですね?」と僕に確認し、渡してくれた。

すべて、実際に起こった出来事である。不思議だったのは、運転手の一連の対応がクレームを入れたくなる不遜なものではなかったことだ。あくまで客である僕の立場を尊重し、なにからの強制も受けない自由な意思で「100円で後悔しないのか」「レシートは本当に必要なのか」という判断を下してほしいと思っているような、真摯さがあった。僕になにか大切なことを伝えたがっているようにも見えた。

あれは夢だったのではないか、と帰宅してから思った。時間は昼間だったけど、白昼夢を見ていた可能性もある。しかし、財布の中には1060円を支払ったレシートが残っていた。あっ! そのとき、僕の背中に冷たいものが走った。もしかしたら、あのタクシーは……。

どう考えても普通のタクシーで、どこにでもいる初老の運転手だった。なおさら恐ろしい。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid