モヤモヤの日々

第103回 最高の海外旅行

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

海外旅行があまり得意ではない。異文化に触れるのは刺激的だし、海外に行くこと自体は好きなのだが、体が環境変化に弱いため体調を崩す可能性が高いのだ。実際に数えるほどしか渡航しておらず、そのほとんどで何らかの体調不良を起こした。どうしても腰が重くなる。

一方、留学経験がある妻は、海外旅行が大好きだ。僕も得意ではないだけで嫌いなわけではないため、妻と付き合ってからは、強く誘われれば行くことにしていた。現在の情勢ではとても海外旅行どころではないので、もっといろいろな国に行っておけばよかったと後悔している。

数年前、妻とタイに行った。旅行前に友人から、「現地の水があわない場合があるから、不安ならなるべくペットボトルか瓶の飲料水かソフトドリンクを飲んだほうがいいよ」と助言された。また、飲食店などで提供される飲み物の氷も水道水が使われている場合があるため、できるなら避けたほうがいいという。なるほど。タイに限らず水があうか、あわないかの問題は海外旅行につきものだし、なによりも体調を崩しやすい僕である。実際は大丈夫なのかもしれないが、せっかくの海外なのだから楽しみたい。用心するにこしたことはないと、友人の助言を守ることにした。

さて、タイに到着してまず思ったのは、当たり前のことだが、とにかく暑いという事実である。気温が暑いだけではなく、日差しが日本(東京)と比べて桁外れに強い。日光に弱い僕は少し不安を覚えた。しかし、旅行自体はとても楽しくて、首都のバンコクだけではなく、リゾート地であるサメット島にも行き、ビーチでのリラックスタイムを満喫した。ちょうど旧暦の新年を祝う水掛け祭り「ソンクラーン」が行われている時期だった。現地の子どもたちから、バケツや水鉄砲で水をかけられまくった。灼熱の太陽に照らされながら浴びせられる冷たい水。僕はなぜだかテンションが高まって積極的に参加し、びしょびしょになるまで遊んだ。当時からすでにアルコール依存症による断酒を始めていたため、あそこまで気持ちが昂ぶったのは久しぶりだった。妻は、「あんなに元気な姿ははじめてみた」と言ってよろこんでいた。

自ら水を大量に浴びに行っておいといてなんだが、友人の助言どおり飲料水には注意していた。ペットボトルのドリンクを飲み、飲食店では氷を抜いてもらっていた。あるレストランでランチを食べたあと、僕は無性にコーヒーが飲みたくなった。しかし、ここは南国のタイである。さすがにホットコーヒーを飲む気にはなれなかった。僕は店員さんを呼んでアイスコーヒーを頼むことにした。もちろん氷抜きである。僕はつたない英語でこう言った。

「Ice coffee without ice」

沈黙と奇妙な空気がその場を覆った。しかし、店員さんはすぐに気を取り直して、「OK! Ice coffee without ice」と、チャーミングな笑顔を見せてくれた。そして数分後、「Ice coffee without ice」が僕の元に届いた。普通のコーヒーだった。ぬるくて普通の味がするコーヒーだった。

結果的にタイ旅行は大成功で、帰国してからも体調を崩すことは一切なく、むしろいつもより元気だった。とくに水祭りは楽しかった。それからというもの、僕は風呂に入ったあと必ず冷水シャワーを浴びてテンションを高めるようになった。しかし、冷水シャワーを浴びるたびに、「うっひょー! うっひょー!」と奇声をあげるため、近所迷惑だからと妻にやめさせられた。

新型コロナウィルスの感染拡大が収束したら、またタイに行って目一杯、水を浴びながら叫びたい。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid