第12回 母の舌

誰でも「できる」ことと「できない」ことがある。「できる/できない」の間で迷ったり、不安を感じたり、無力感を持ったりしながら生きている。レビー小体病という「誤作動する脳」を抱え、できなくなったことと工夫によってできるようになったことを自己観察してきた著者が、「できる/できない」の間を自在に旅するエッセイ。

最近、夫と話していると、ふっと郷里のイントネーションや言葉がこぼれ出てくることがある。夫とは、東京で最初に出会ってから40年近く、ずっと標準語で話してきた。

どうも私の脳のなかの「言語スイッチ」に緩みが出てきているようだ。知らない間にスーっと勝手に切り替わっている。それとも、私は、時間を遡っているのだろうか?

生まれ育った地に別れを告げて、18で上京したとき、自分の話す言葉が、標準語でないことに、私は初めて気付いた。私は、自分の話す言葉を正しく認識していなかったのだ。ちょっと気をつけて話せば、なんの問題もないと、能天気に考えていた私は、井の中の蛙だった。

上京した日から、東京で聞く言葉は、妙に冷たく、よそよそしいと感じた。なにかが違う。嫌な予感がした。

人が歩く速度は見たこともない速さだし、みんな無表情だ。「なにかに怒っているんだろうか?」最初は本気でそう考えた。新生活は、数え切れない違和感と共に始まっていた。

関西や九州の言葉なら、すぐにわかるが、当時、私の言葉は、周囲から方言と認識されなかった。郷里はテレビドラマの舞台になることもなく、聞いたこともない言葉だったからだろう。

「どうしてわざわざ『まことちゃん』の真似するの?」

知り合って間もない同級生から言われたときは、気を失うかと思った。自分では颯爽と標準語を話しているつもりで、あのギャグ漫画の主人公だと思われていたなんて……。

単語でも動詞でも、私には、なにが標準語でなにが方言なのか、さっぱりわからなかった。イントネーションも微妙に違う。「なに、それ」と人から大笑いされるたびに、「これは方言だったのか…」と学習し、1つひとつ頭のなかの禁句辞書に書き込んでいった。

あのころ、生まれて初めての満員電車(初回を含め、高頻度で痴漢付き)は、なにかの懲罰かと思ったし、寮での生活様式にも慣れず、何度も夕食を食べ損なった。疲れ切って帰り着くと、バタリと寝床に倒れこんで寝入ってしまい、目覚めると夕食の時間は終了していた。夜間の外出も禁止されていて、空腹を抱えて眠った。コンビニもない時代だった。

緊張を解く時間のない新生活のなかで、話す一言一言にまで神経を使う毎日は消耗した。はち切れそうだったジーンズは、ゴールデンウィークが来るころにはガバガバになり、歩くと腰からずり落ちるので、慌てて一番安いベルトを買った。

今、コロナ禍の新入生は、本当に気の毒だと思うし、当時も今も、地方出身の学生は大変だろうと思う。私もそのなかの一人でしかないが、40年前の私は、無知で要領が悪く、色々と運がなかったと思う。(でもそのことが、その後の道を開くことにはなった)

1年ほど経って、意識しなくても標準語で話せるようになったと確信したとき、「自分はバイリンガルになった!」と誇らしかった。気楽さとか遊びとは無縁のしんどい1年だった。

80年代が始まるころで、インターネットも携帯電話もこの世になく、固定電話(家電)も学生には手の届かない高価な代物だった。通信手段は、郵便か公衆電話の二択だったが、公衆電話も10円玉が大量に必要なので、実家とのやりとりは、手紙だった。

帰省するために電車に乗り、東京のビル群が後ろに流れ去っていく景色を見ていると、自分のなかの言語スイッチが、ガチャンと大きな音を立てて方言モードに切り替わるのを感じた。力がすーっと抜けていく。そうか、私は、こんなにも肩に力が入っていたのかと気付く。

自分は、いったい何者なんだろう……なんでこんな生活を選んだんだろう……いや! 私は、自分で自分の未来を切り開いていくんだ……。そんなことを電車のなかでうだうだと考えなくなるまでに、何年かかったのか、もう覚えていない。

故郷の駅に降り立てば、私は、100%生粋のネイティブ・スピーカーだ。ネイティブ言語で家族と話し、親戚と話し、友達と話すだけで、なんだか全身がポカポカとしてくる。

そしてまた東京に向かう電車のなかで、言語スイッチは、ガチャンと切り替わる。私は、戦場に向かう兵士のようにキリリとした。

 

結婚したばかりのころは、夫を連れて帰省すると、親と方言で話すのが恥ずかしかった。当時は、田舎の言葉で話すことは、みっともないという雰囲気が、社会にあった。地方を舞台にしたテレビドラマでも、主人公とその家族だけは、ほぼ標準語で話すような時代だった。

「八重の桜」(福島)とか「あまちゃん」(岩手)とか、美しいヒロインがその土地の言葉をそのまま話すドラマは、私にはとても新鮮だった。

初めて親になったとき、赤ちゃんに標準語で話しかけている自分に違和感を覚えた。自分の子どもとは、血がつながっていると実感できるのに、同じ血縁である両親と話すのとは違う言葉で語りかけることが、なんだか不自然に感じたのだ。

でも私の子どもが、生まれ、育ち、生きていく場所は、私の故郷ではない。私が生きていく場所もだ。

英語では、母国語のことを口語で「母の舌」という。母親が毎日語りかける言葉が、そのまま子どもの母国語になる。私が子どもに手渡す言葉は、標準語でなければいけない。そう思ったとき、故郷を離れたときの寂しさが蘇った。自分ではどうすることもできない根の深い寂しさだ。

違う言語を話す国の人と結婚し、日本を離れ、その国の言葉で子育てをする人たちは、どんな気持ちを抱きながら我が子に語りかけるのだろう?

 

あるときに、こんな話を聞いた。

「私の親は、米国人と結婚して米国に移り住み、以来40年以上英語を使って生活してきた。今は、認知症のために米国の介護施設で生活している。最近、英語を忘れ、コミュニケーションが難しくなり困っている。日本語でなら会話できるが、英語での会話ができなくなってしまった。介護施設に日本語を話せるスタッフはいないので、言葉も通じず、孤独だと思う」

初めて聞く介護問題にびっくりしたが、介護関係の人に聞くと、同じようなケースを知っているという。日本人と結婚して、長年日本語だけで生活してきた外国生まれの人が、日本の介護施設で日本語が通じなくなり困っているという。

認知症の状態になると、新しい記憶から失われていくと言われている。

「5分前のことも忘れるのに、大昔のことは、びっくりするほどよく覚えている」というのは、介護家族からよく聞く話だ。

「家に帰る」と言い続ける人の「家」が、50年間住み慣れた自分の家ではなく、子どものころに住んでいた郷里の木造の家だったという話も聞いた。家族には、つらいことだが、それは、50年間の家族の歴史を否定するものではない。記憶の消える順番が、ただそう決まっているだけだ。

新しい記憶ほど消えていくことを、私は、学んだ外国語から実感している。

若い頃から異文化に憧れて、いろいろな言語をかじった。ほとんどは、初心者止まりだったが、言葉を通して知らない文化を知るのは面白いし、その国の人とその国の言葉で会話ができると、片言だって断然楽しい。

言葉は、使わなければどんどん忘れていくものだが、確かに、新しく覚えた順からきれいに忘れている。そのくせ20代で覚えた単語は、長年使っていなくてもぽっと出てきたりする。古い記憶ほど、残っていると感じるのだ。

そんな記憶のからくりは、昔は想像もできなかった。それなら10代20代の頃にもっといろいろ仕込んでおけばよかったと、新しいカタカナ言葉1つ覚えられなくなった今、思う。「なんでわざわざ変な外来語をつくる?日本語にしようよ、日本語に」という私のぼやきは、20代のころの私には決して理解できないだろう。

衰え始めた脳は、新しいことを次々と取りこぼすのだ。受け止めようと両手のひらを揃えても、水のようにこぼれ落ちてしまい、自分ではどうすることもできない。誰の脳にも耐久年があるから、今は笑っている人も、やがてそうなる。

記憶を手放し、ゆっくりと時間を遡っていく小舟に、誰もがいつか乗るのだろう。小舟に揺られながら、社会に合わせて身に付けてきた衣が、1枚また1枚と剥がれて、元の自分に還っていくのかもしれない。

私の時間も少しずつ巻き戻されて、いつか、方言と標準語の区別のつかなかった、あの18歳の日にまで還っていくんだろうか? あの日からまとい続けてきたたくさんのものを外し、すっかり身軽になった私は、脳の一番奥に残る母の言葉だけを生き生きと話すのだろうか?

それはそれで、懐かしい、穏やかな生活にも思える。その言葉でも、きっと通じ合えることだろう。

 

 

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間があった。
多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状などもあるが、思考力は保たれ執筆活動を続けている。
『私の脳で起こったこと』(ブックマン社。2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞受賞)。最新刊『誤作動する脳』(医学書院 シリーズケアをひらく)。