モヤモヤの日々

第115回 弱音

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

普段から自分は弱いだとか、愚鈍だとか散々言っておいてなんだが、もしかしたら僕は「弱音」を吐くのが苦手なのではないかと、ふと思った。というか、そういう仮説を立ててみたところ、そうなのではないかと思うようになった。それは昨日、ウェブで公開された長井短さんのエッセイ「完璧ではない自分とタイマン張るの辛い」を読んだことがきっかけで、そこにはこう書かれていた。

「ちょっと疲れたからもう全部やめて寝てたい」とかすぐにでも大きな声で言いたいのに

「いやでも、今の私の状況は誰かにとってはとても羨ましいことであって、つまり、私が今の自分を放棄したがるのは良くないですね」

頭の中にいる良識を司る自分が早口で捲し立ててくる。こいつは誰だ。どうして、適当に何の気なしに弱音を吐かせてくれないんだ。

これを書いている今も私は「いや、言うてもそんなにしんどくないですってことをきちんと書かないと誤解されるぞ」って警報を感じている。そして、その警報は正しい。

頷きすぎて、首がもげそうになった。「わかる」と簡単に思ってはいけないことはわかっているけど、わかると何度も思っているうちに、もしかしたらこれは自分が書いた文章なのではないか? と錯覚してしまったほどだった。長井さんは、モデルや女優業をしていて、エッセイ集も出している。ほかの人からすると、羨ましい人生を歩んでいると思われているだろう。長井さんに憧れている人は多い。

そして僕も、弱いだ、愚鈍だと言っていて、本当にそうなのだが、相対的に考えれば恵まれているほうだという自覚は当然ある。僕より大変な思いをしている人が、世の中にたくさんいるのはわかっている。実際に、そうお叱りを受けたこともある。しかし、僕には僕しか知らない「僕だけの地獄」がある。いや、僕だけではなく誰もが「自分だけの地獄」を抱えて生きているのではないか。僕はそう考えている。

「人間の弱さ」について考える際には、社会的なレイヤーと、個人的なレイヤーをある程度わける必要があると思っている。弱さに限らず、悲しさ、寂しさ、つらさ、心許なさ、やるせなさといった感情を考えるうえでも、この発想は大切だ。それらすべては決して相対的には測れない絶対的なものなのだから。

僕が日常的になにかを失敗するときは、だいたい弱音を吐くのに失敗したときである。自分を強く見せようとして弱音を吐かない場合もあるし、これは僕によくありがちな弱点として自覚があるのだが、「弱音を吐いて誰かに助けを求めるより、自分の力でやってしまったほうがはやい」と思ってしまう癖がある。人とコミュニケーションを取ると不確定要素が増えてしまい、「自分の力」という確定要素(と思っているだけのもの)を頼るほうがラクだと判断してしまうのだ。

極私的なことを公の場で書いて申し訳ないのだけど、妻と喧嘩になるときは、僕が弱音を吐くのを嫌がった挙句、自分の力だけでは解決し難い事態に陥って、妻に多大な迷惑をかけてしまうケースが大半である。さらにあろうことか、追い込まれた僕はそれに気づかない。本当に迷惑な人間である。

とはいえ、そんな僕でもいつもつらいわけではない。「今日は大丈夫だよ!」と思う日もあるし、それこそ相対的に考えて、明らかに僕のほうが相手よりラクだろうと思う瞬間もある。そんなときは、出来るだけ優しい人でありたい。せめて手の届く範囲にいる困っている人たちに、声を掛けられる人でありたい。

だからこそ、辛いときは堂々と弱音を吐こうと思う。弱音をもっと躊躇なく吐けるようになれたなら、余裕があるときに「今日は大丈夫だよ!」と手を挙げられる人になれるのではないか。今より優しい人になれるのではないか。弱さを持ち寄りながら生きていけるようになれるのではないか。そんなふうに思っている。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid