モヤモヤの日々

第120回 朝顔観察日記(3)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

朝顔の芽が出た。新しく買った3つの白い鉢に、それぞれ3本、3本、2本の計8本。どれも葉は2枚で、やや黄色がかった緑色をしている。元気がなく見えるのは、日照時間が少ないせいだろうか。しかし、今年もきちんと朝顔の種を撒き、まずは発芽を迎えることができたのだ。

それにしても今さらながら、自然とは不思議なものである。ただの小さい黒い粒だった種を土に植え、日光に晒し、水を与えていると、勝手に生命力を発揮して発芽してくれる。黒い粒だったときと、どう違うのだろうか。土と日光と水が、種になにかを吹き込むのだと思う。おそらく義務教育で習ったそれらの知識を、いまだ正確に把握できずにいる。だが、知識のあるなしにかかわらず、種は発芽し、そのうち蔓が伸びて花を咲かせるだろう。人間が、社会がどのような状況であろうと、その基本的な自然界の摂理は変わることがない。なにか特別な人為的操作を加えない限り、当たり前だが、朝顔の種からは朝顔の芽が出る。人間のままならなさに比べれば、なんと心強い存在なのか。朝顔の芽を見ていたら、不安定な心が少し安らいできた。

さて、2021年の朝顔観察日記も、今回で3回目である。前回までのエピソードを簡単に振り返ると、万葉集の和歌を読んで以来、朝顔が好きになった僕は、ほぼ毎年、朝顔を育てている。ずっと使っていた青いプラスチック製の、小学校の頃を思い出すような郷愁を誘う鉢が古くなったので、今年はちょっとお洒落な白い鉢を注文したのだが、その鉢があまりに大きすぎて(30型)、ベランダに保存していた培養土では1つの鉢の6割程度しか埋まらなかった。なので、これも無計画の目分量で、とりあえず14リットルの土を注文した、ところまでが前回までのお話。

そこから先、どうなったのか。ほどなくして14リットルの土が届いた。かなり大きい袋に入っていて、ずっしり重い。これなら大丈夫だろうと鉢に入れたところ、なんと1鉢ぶんほとんど空っぽのまま土がなくなってしまった。また追加で注文しなければならない。僕はノートパソコンを開き、ネットショップを眺めた。5リットルの土がある。これでおそらくは大丈夫だろう。5リットルといったら大した量である。よく妻に頼まれて2リットルのミネラルウォーターを2つ買って来るが、たいそうな重さだ。それよりも1リットルも多い。よしこれにしよう。

待てよ、と僕は思った。多めに買っても別にいいのではないか。家まで配達してくれるのだし、たとえ余ったとしても保存しておくか、ほかの植物を育てるのに使えばいい。値段だって高額ではないではないか。直前でそう思い直した僕は、「1」となっていた注文の数量を、おもむろに「2」に変えた。計10リットルである。結果的に、この判断が功を奏した。僕にしては珍しく、適切な判断をしたのである。追加の10リットルで30型の鉢3つがぴったり埋まった。

ちなみに、妙なところだけ律儀な僕は、きちんと3つの鉢の用意が終わるまで種を植えなかった。だから、3つともスタートラインは同じである。この連載における「朝顔観察日記」では、朝顔にかんする小説や随筆、詩歌などをあわせて紹介しようと思っているのだが、すでに長文になってしまっている。取ってつけたように紹介するのも作品に失礼なので、今日はここらへんで筆を置くことにする。

かわりといってはなんだが、断捨離中の実家の母が見つけ出し、ノートごと送りつけてきた僕の詩を載せたいと思う。小学2年生のときの作品(1990年)だ。亡くなった父の教育方針で、僕は「朝日小学生新聞」に詩を投稿していたのだった。掲載紙の切り抜きがないところから推測するに、不採用になったか、出来が悪くて父が応募しなかったかのどちらかだろうが、くしくも僕の今の心境を的確に言い表している。

2021年の朝顔観察日記が、今ようやく始まったのだ。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid