モヤモヤの日々

第121回 マリトッツォ

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

急に甘いものが食べたくなった。酒をやめて以来、甘党になったのだ。酒をやめて、元の甘党に戻ったと言ったほうが正確かもしれない。しかし、仕事に没頭しているうちに食生活が乱れ、ついついパソコンの前にへばりつきながら甘い菓子を食べて済ましていた日々を少し前に過ごしていたため、最近では甘いものを封印して、1日3食きちんと食べることを心がけていた。

その日は妻も赤子も犬もいなかった。間食するのはよくないが、昼食の1食分を甘いものに変えるのならそこまで悪くはないのではないか。自分に甘い僕は、ほかにも甘いものを食べていい理由を5、6個ほどこしらえた。さらにとことん自分に甘い僕は、外に出るのを億劫に思い、Uber Eats(ウーバーイーツ)を使って甘いものを宅配してもらうことにした。「甘い」ばっかりでなんだかよくわからない文章になってきたが、それくらいの贅沢はたまには許されるはずだ。

アプリを開くと、カフェやケーキ屋など、家の近くにある店が表示された。世の中にはいろいろな洋菓子があるものである。スマートフォンの画面をスクロールしながらそう感心していたその時、なんともインパクトある、今だかつて見たことがない洋菓子が目に飛び込んできた。シュークリーム? に似ているのだけど、生地が口をぱかっと大きく開いたような形をしていて、そこから溢れんばかりの生クリームが顔を出している。その生クリームの表面にイチゴやバナナ、オレンジピールなどがくっついているではないか。なんと愚かな食べ物だろう。しかし、愚かしい食べ物ほど美味しいことを、僕は知っている。しかも店が家から近く、20分ほどで届くという。もうこれしかない。今、これを頼まなければ、僕は一生後悔するだろう。

問題は、値段が1100円もすることだった。サービス料、配送手数料を加えると1410円。というのも、この食べ物は2つ単位でしか頼めないのだ。つまり、商品は1つ550円である。たまの贅沢だと思えば許容できる範囲ではあるものの、もうひとつの問題として、これだけ胃に溜まりそうなものを2つも食べられるだろうか、という懸念があった。まあ、無理だったら冷蔵庫に保管しておいて、古くなる前に食べればいいか。そう考え、僕はホワイトチョコがまぶしてある商品を1セット(2つ)注文した。ほぼ時間通りに、その食べ物は家の玄関前に届いた。

実際に見ると、さらに愚かしい食べ物であることが、びんびんと伝わってくる見た目をしていた。しかし、人も食べ物も見た目で判断するのはよくない。僕は恐る恐るその食べ物を口にした。豪快に開けた口の中に、生地と生クリームを放り込んで噛み締めた。美味しい。そして思ったより甘くない。僕は人より少食なほうだが、それでも胃への負担はそれほど感じなかった。ホワイトチョコの食感も見事だった。気づいたら2つとも完食していた。値段も妥当だと思った。

だがしかし。僕は思った。この食べ物は、とても危険である、と。ただでさえ快楽に弱い僕に、こんな愚かしい食べ物をコントロールできるはずがない。僕は僕の愚かさを誰よりも知っている。深入りは禁物だ。愚かさにだけは自信がある賢明な僕はそう思い、その日のことを忘れようと努めた。

数日後、休暇を兼ねて親戚の家に行っていた、妻と赤子と犬が帰ってきた。僕は「仕事をして、部屋を散らかして、部屋を片付けた」と、妻に留守番中の報告を端的、かつ正確に行った。しかし、どうしても我慢できなくなり、Uber Eatsの画面を見せて妻にあの食べ物の存在を教えた。

「マリトッツォ」という名前を、その時はじめて知った。妻によると、イタリアはローマから上陸した洋菓子で、コンビニでもオリジナル商品が発売されるなど、今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの人気を博しているのだという。そうだったのか。僕は知らぬ間に、流行に乗っていたのだ。そうと思うとうれしくなり、ちょっとした満足感を覚えながら仕事部屋に向かった。原稿に集中し始めてしばらく経った頃、玄関前に人の気配がした。もしかしたら、妻がマリトッツォを頼んだのかもしれない。コロナ以後は、なるべく届け物は玄関前に置いてもらうことにしているのだった。仕事部屋からすぐに出て、玄関のドアを開けた。そこにはマリトッツォがあった。

包装を開けて中身を確認した瞬間、「しまった!」と思った。1セットしか買っていなかったのである。1セットで2つを2人で食べるのだから妻の判断は正しいのだが、「意外と2つ食べられるよ」と説明しておけばよかった。妻も美味しいと言いながら、少し物足りなそうな顔をしていた。しかし、それを口に出すと僕が、「もう1セット頼もう」と言い出しかねないと思ったのか、妻は黙ったままだった。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid