第3回 「ヘイト」の萌芽

「『空気』が支配する国」だった日本の病状がさらに進み、いまや誰もが「気配」を率先して察することで自縛・自爆する時代に? 「事のまずさを感知しない『空気』」を悪用して突き進む政治家たちと、そのメッセージを先取りした「気配」に身をゆだねることに違和感を覚えなくなってしまった私たち。「日本の心情」を“なんとなく”稼働させてしまう「気配」の危うさをめぐる、『紋切型社会』の著者・武田砂鉄さんによるフィールドワーク、その第3回。 公共の場でなされるヘイト言動には「NO」を言えても、プライベートに近い場ではつい気配を読んでしまいがちな私たち。しかしそこにこそヘイトの萌芽があるのだとしたら……。

なぜ私は職務質問されるのか

妻と自転車を共有しているので自分が使用するときには駐輪場でサドルを上げる。こちらが自転車を使うのは深夜にレンタルビデオを返却しに行く時くらいのものだから、夜更けに錆びたサドルを鈍い音を出さぬように慎重に上げる姿は、当然、パトロール中の警官の餌食になる。決して人を安心させる風体でもないので職務質問を受けるのは慣れたものだ。声をかけられた瞬間こそ極めて不快に感じるが、確かにそのシチュエーションは、これを素通りするようなら警官失格という場面ではある。

深夜にパトロールする警官が2人組で移動するようになったのはいつ頃のことだろう。これにて自分たちの安全は倍になるけれど、街の安全は半減しますね、と皮肉を垂れる余裕などなく、囲い込まれるように防犯登録シールを確認、氏名を確認される。「はい、じゃあ気をつけて」と送り出されながら、彼らが職務質問を判断する条件とは何なんだろうと考え込んでしまう。警察OBが自分の捜査術を偉そうに垂れる番組は改編期の穴埋めとして散見されるが、彼らが常に、犯人や犯罪の「傾向」をスキャンダラスに提示することに、バラエティ番組とはいえ抵抗感がある。しかし、「傾向」を察知してからでないと踏み込めないのだろうと、「傾向」で踏み込まれたこちらは渋々理解してみる。

「子供がいるんだぞ。少しは我慢しろ」

近くに住む知人の3階建てマンションはコの字型で、その「コ」の真ん中に駐輪場があり、顔を上げれば全ての部屋の出入りを見渡すことができる。休日の昼間、その駐輪場に自転車を止めていると、とある2階の玄関から「なんなんですか」と、男性のやや強めの声が聞こえてきた。家政婦は見た、ならぬ、駐輪場は見た。ご近所トラブルをしばし観察することにした。2階の玄関にやって来たのは、その上の3階に住む男性。どうやら子供の歩く足音がうるさいと、階下の男性から棒のようなもので天井をコツコツ突つかれたようだ。

双方の怒りが一気にブツかり合う構図だが、幸いにも両者とも語り口調は冷静である。「小さな子供が歩き回るのはしかたないでしょう」「あれが『歩き回る』レベルですか」「そりゃあ多少は足音が大きくなることもあるでしょう。申し訳ないとは思っています」「あなたたちは一度もこの件を挨拶しに来ていませんね。さすがに礼儀に欠けるのではないですか」。ここまで3階の男性はすっかりおとなしかったが、「礼儀に欠ける」との一言を受けて、態度が一変する。「礼儀に欠けるとは何だ。仕方ないじゃないか。子供がいるんだぞ。少しは我慢しろ」。2階の男性も応戦する。「子供を盾にするな。あなたたちから一言あれば、こんなことはしないんだよ」。

パパは、いつもの休日を楽しむ

3階の男性が意を決したように言う。「……お前、中国人だろう?」。「中国人だからなんだっていうんだ!」、コの字型のマンションに怒声が響き渡る。「文句があんなら中国に帰れよ」「ふざけるんじゃない、おまえ、もう一度言ってみろ」「だ、か、ら、中国に帰れよ」「警察呼ぶぞ」「あぁ、呼べよ、呼べよ」。当初の冷静さは無くなり、3階の男性も2階の男性も殺気立っている。コの字のマンションの、いくつかの玄関が静かに開く音がする。2人の怒声が反響しているからだろう。そこへ、おもむろに「パパ〜」と3階の子供が階段を降りてやってきた。妻も一緒だ。どこかへ出かけるようだ。出し合った怒声を抑えた2人、ドアが閉まる。エレベーターへと向かう道すがら、「てゆうかあいつ、中国人なんだよ」と夫。「へぇー、そうなんだぁ」と妻。

「てゆうかあいつ、中国人なんだよ」は、この夫と妻の会話において、納得できる「オチ」として使われている。駐輪場のこちらやマンションの居住者は、「キサマ、今の発言はないだろう」と、その平和そうなファミリーに噛みつくことはしない。人様のルーツを深く傷つける言葉を繰り返しておきながら、子供の姿を見た途端、すっかりお父さんの姿を取り戻した彼を咎める人はいない。「中国に帰れよ」と叫んだパパは、いつもの休日を楽しもうとしている。

見送られた「人種差別撤廃施策推進法」

街を練り歩きながら「朝鮮人は死ね!」などと叫ぶヘイトスピーチは社会問題化したが、今年、通常国会に「人種差別撤廃施策推進法」が提出されたものの、継続審議となった。提出された「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律案」を今さら通読する。「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策を総合的かつ一体的に推進することを目的」とするとした上で、「第3条 何人も、次に掲げる行為その他人種等を理由とする不当な差別的行為により、他人の権利利益を侵害してはならない」とした。第3条はこのように続く。

一 特定の者に対し、その者の人種等を理由とする不当な差別的取扱いをすること。

二 特定の者について、その者の人種等を理由とする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動をすること。

2 何人も、人種等の共通の属性を有する不特定の者について、それらの者に著しく不安若しくは迷惑を覚えさせる目的又はそれらの者に対する当該属性を理由とする不当な差別的取扱いをすることを助長し若しくは誘発する目的で、公然と、当該属性を理由とする不当な差別的言動をしてはならない。

続く第4条は「人種等を理由とする差別は、職域、学校、地域その他の社会のあらゆる分野において、確実に防止されなければならない」である。あらゆる分野において、確実に防止されなければならないのだ。納得である。国連の人種差別撤廃委員会は昨年8月に日本政府に対して、ヘイトスピーチに毅然と対処し、法規制するよう求める「最終見解」を示している。「ネット」で増殖する罵詈雑言への懸念も表明、提案された法案には「国及び地方公共団体は、インターネットを通じて行われる人種等を理由とする差別を防止するため、人種等を理由として侮辱する表現、人種等を理由とする不当な差別的取扱いを助長し又は誘発する表現その他の人種等を理由とする不当な差別的表現の制限等に関する事業者の自主的な取組を支援するために必要な措置を講ずるものとする」と踏み込んだ文言もある。「助長」や「誘発」という曖昧な表現も目立つ、この度合は精査する必要があるだろう。

あちらはこちらに偏見を持っていないのに、こちらはあちらに偏見を持っている

知人宅からの帰り道、「中国に帰れよ」というヘイトスピーチを公然と行なった3階のパパを、なぜ自分はそのまま放っておいたのだろうかとひとまず考えてみる。頭に早速「公共のマナー」などという言葉が浮かんで情けなくなるが、マンションの中で彼に掴みかかる自分は、突出したトラブルメーカーになるだろう。そうっと玄関を開けて様子見するマンション住民からしてみれば、言い争いの中に出てくる「中国に帰れよ」よりも、こちらの行為に怪訝な目を向けるだろう。街を練り歩き特定の民族を排他しようとする連中が鬼畜であることは私たちの多くが認識しているが、マンションで叫ばれるヘイトスピーチでは、「公共のマナー」を優先させてしまう。差別感情が恒常的に剥き出しになっているものはさすがに嫌悪するが、固有の空間で突発的に露出した差別感情にはなぜだか寛大になってしまう。この差異を放ってはいけない。むしろ、差別感情の萌芽はこちらではないか。こちらを摘み取らなければ、毒花のように咲いた後でしか「ヘイト」を摘むことができなくなる。

ふと、かつて北朝鮮に取材へ出向いた際のエピソードを思い出した。もう3年も前になるが、取材で一週間ほど平壌に滞在した。滞在も終盤になった夜、大衆食堂のトイレに向かった。トイレに入ろうとすると、日本の居酒屋で頻繁に聞かれる吐瀉音が、その中から聞こえてきた。おそるおそる開けると、彼は、便器に向かって吐瀉したのではなく、こらえきれなかったのか、床に広がるようにして撒き散らしてしまっていた。ったく困ったな、と小便器に向かいながら、彼らも日頃の鬱憤を晴らすように酒を飲み、自分の体の異変に気付かぬほどに飲み過ぎてトイレにかけこむのだな、と当たり前の感想を頭に蓄えた。トイレを出ると、テレビモニターに日本選手と北朝鮮選手が戦う柔道の試合が映し出されていた。サッカーの試合などでは、生放送ではなく、負けなかった時だけ放送されるなんて話も聞いたから、生放送だったか、録画だったかは分からない。

モニターの前では、新橋駅前のように、泥酔した男性たちが何人かで肩を組んでいる。こちらが日本人だと分かったのか、手招きされる。言葉は分からないが、ジェスチャーから予想するに、俺たちとお前たちの国が勝負してるんだから、一緒に見ようぜと、誘い出すような仕草を見せた。こちらはとっさにそれを拒み、両手を前に出してイヤイヤイヤ、と何歩か後ろに下がってしまう。シンプルに言えば、あちらはこちらに偏見を持っていないのに、こちらはあちらに偏見を持っている。もう間もなく帰国する日だってのに、偏見を持ったまま、ホロ酔いの北朝鮮人を避けたのである。

人種差別を熟成させるしたり顔

提案された法案にあったように、誰しも「属性を理由とする不当な差別的言動をしてはならない」はずだ。繰り広げられるヘイトを許さない。でも、個々人では、属性を平然と、或いはうっかりと区分けしてしまう。それは確実にヘイトの萌芽なのだと思うけれど、こちらに手招きしてきた北朝鮮人を避けたことを伝えても、おそらくはおおよその人たちが「私でもそうする」と賛同してくれるだろう。

では、この賛同とは一体何なのだろう。日本人と日本国は一緒ではない。北朝鮮人と北朝鮮という国は一緒ではない。あらゆる国家と比較すれば、北朝鮮はそれが極めてイコールになりやすい国家体制であるけれど、彼らだって、酔っぱらってトイレで嘔吐する。スポーツの試合を観て、歓喜する。相手の国と睨み合って、負けてたまるかと意気込む。あの場で特別な感情を抱いてしまっているのはこちらだけだった。まさしくそこには「属性を理由とする」心情が生まれている。マンションで、とても温厚そうなパパが「お前、中国人だろう?」と吐けてしまうのは、そこに加害性があるとは分かっていても、これが一般論として通じるという予測が彼にあったからだし、実際に、その放言に物申す人は、自分も含めて誰もいなかったわけだ。

「ヘイト」という言動が問われる機会が増え、決して許してはならないと多くの人が共有しているが、その憎悪が切り刻まれて個人レベルに落とし込まれると、人はそれよりも「通例」や「傾向」を優先して処理しようとする。マンションで「お前、中国人だろう?」と叫ぶパパ、北朝鮮人に呼び寄せられて後ずさりしてしまう自分、この手の萌芽はこうやって点在する。私たちの多くは、当然ネトウヨを叱咤する。しかし、その叱咤が、自分の所作といたずらに分離している可能性はないか。「とはいえ、やっぱりそこはねぇ」というしたり顔が充満していないか。この手のしたり顔が、「人種」という区分けを今さらながら熟成させているのではないか。マンションに響く「中国に帰れ」を誰も叱責しなかった。「社会」問題は常に「自分」問題だと思っているが、そういう能書きを垂れている自分こそ黙認しちゃったのだから情けない。

SIGN_06TAKEDA1982年生。ライター/編集。2014年9月、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!個人」「ハフィントン・ポスト」「LITERA」「マイナビ」などで連載。雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」「TRASH UP!!」などで執筆中。インタヴュー・書籍構成も手掛ける。2015年4月に刊行した『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)で、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。http://www.t-satetsu.com/