モヤモヤの日々

第165回 凪を生きる

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

文筆家の吉田健一は、我々の眼を新しい世界に対して開かせる言葉に共通する要素は、人目を惹こうとしないということだと、「何も言ふことがないこと」(筑摩書房『言葉といふもの』収録)という奇妙な題名の随筆に記している。いわく、「(…)我我が眼を開かれて知るのは、我々が前から知つてゐたことであり、ただそれまではさうであることだつたことがそれからはさうでなければならなくなる」。僕は吉田のこの考え方が好きだ。なにかが“そうでなければならなくなる”瞬間とは、つまりそれに対して親しみを覚える瞬間であり、そのぶん世界が広がる。

亡くなった父の出身は愛媛県だった。子どもの頃、夏になると毎年、祖父母に会いに父の実家に帰った。父が一人っ子だったこともあり、唯一の孫である姉と僕を、祖父母はとても可愛がってくれた。

愛媛に行くと、必ず家族で滞在する民宿があった。海の前にある、小さな町の民宿だ。そこで父や祖父母はよく「凪(なぎ)」という言葉を口にした。凪とは、瀬戸内海などの内海でたびたび発生する自然現象のことである。凪がくるとあたりは無風状態となる。僕は凪という言葉の意味を、大人になってから知った。しかし、凪がきたときの、あの穏やかで静まりかえった町の情景を、僕は今でも忘れることができない。セミの鳴き声や子どもたちの笑い声、高校野球の声援。静寂のなかで、初めからずっとそこにあったものたちが正確に、より細部までくっきり姿を現す。そして、“そうでなければならなくなる”ものに、そこになければならないものに変わっていく。

幼い頃、海辺の町で僕は、そんな感覚を覚えていた。

凪には、朝凪と夕凪がある。発生する時間帯が異なっているだけではなく、陸風から海風、海風から陸風と、それぞれその前後で切り替わる風が違うという特徴がある。つまり、凪とはただの無風状態ではなく、風が切り替わる瞬間に訪れる束の間の静寂でもあるのだ。目まぐるしく変化する日常を強いられている今だからこそ、しばし凪のなかで考える必要性を、僕は強く感じている。凪のなかに身を置き、目の前にあるものをしっかりと見る。より感じ、より考え、それを自分の言葉にして伝える。そして、風の切り替わる瞬間をとらえていく。

凪を生きる。それは、ボタンの掛け違いをどこかでしていないか、点検する時間を確保しながら進んでいくような生き方である。無風状態の凪は退屈な現象などではない。創造的な無風を感じる営みなのだ。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid