モヤモヤの日々

第174回 スティーヴ・アオキ

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

コロナ禍だからという理由だけではなく、引っ越して以来、ふらっと外出する頻度が減っていた。下北沢に住んできたときは、周囲が古着屋だらけだったので、原稿の執筆に詰まると気分転換に古着屋巡りをした。いつもだいたい同じルーティーンで回り、服を買ったり買わなかったり、原稿のアイディアが浮かんだり、浮かばなかったりしていた。今よりはだいぶ活発な日常だった。

お気に入りの店舗は、Instagramをフォローしていた。原稿に集中できていなかったある日の昼前、ふとInstagramを開くと、行きつけの古着屋のアカウントが新入荷商品としてブルーのブルゾンをアップしていた。カッコいい。しかもなぜか安い。僕はもともとブルーのブルゾンを探していたのである。その店は立地がよく、Instagramでアップされた後、店舗で即売れてしまうなんてこともある。急がねば。僕はまったく進んでいない原稿を一時中断し、その店に向かった。

僕が店に着いたとき、ブルゾンはまだあった。やっぱりカッコいい。生地もしっかりしているし、サイズも問題なさそうだ。よし買おう、と決断したところで、男性店員が近づき笑顔で声をかけてきた。「インスタ、見ましたか?」「はい」。僕は答えた。「スティーヴ・アオキでしょ?」。……スティーヴ?

何年前のことだったのか記憶が定かではないが、今でこそ僕はスティーヴ・アオキを日系アメリカ人の世界的DJとして認知し、尊敬もしているのだけど、当時の僕は無知だった。店員の話を断片的につなげることでスティーヴ・アオキがとても凄い人であること、そしてこのブルゾンは、そんなスティーヴ・アオキがデザインしたものだという事実がわかった。値段が安いのは店員の好きなスティーヴ・アオキを広めるための、赤字覚悟の値付けなのだという。

僕はまずいと思った。当時の僕はスティーヴ・アオキのことを一切知らなかったのだ。そんな僕が店員からスティーヴ・アオキのブルゾンを受け取っていいのだろうか。僕は正直に打ち明けた。スティーヴ・アオキのことを僕に教えてほしい、と。中途半端に知ったかぶりをしてしまうと、店員の気分を損ねて売ってくれないかもしれないとも思った。結果的にこの英断が功を奏し、僕は店員による熱い演説を20分ほど聴いて、スマートフォンでライブ動画も見せてもらった(「アオキ・ジャンプ」は、家に帰ってから、ノートパソコンの画面でしっかり目撃した)。無事、スティーヴ・アオキのブルゾンを購入することができたのである。

そろそろ衣替えの季節が近づいてきた。僕は今年もスティーヴ・アオキのブルゾンを着る。その日に会った人にスティーヴ・アオキの魅力を語る。そしていつか、そのブルゾンを着てスティーヴ・アオキに会いに行くのである。ステージの上にいるスティーヴ・アオキに。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid