第1回 アイドルとキリスト

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

皆さんはなにかの宗教の信者だろうか。わたしはキリスト教徒である。そして、ある意味で信仰を仕事にしてもいる。つまり、教会で働く牧師という仕事をしているのだ。皆さんは、牧師を見たことがあるだろうか。結婚式場でアングロサクソン系の牧師が、新郎新婦に「デハ指輪交換ヲ、シテクダサイ」と語りかける場面などは、なじみがあるかもしれない。ところで、わたしは「神父さん」とよく言われるのだが、神父すなわち司祭ではなく牧師である。しかし多くの人にとって、そんなことはどうでもいいことだろう。牧師も司祭も日常からは遠い存在だろうから。

そもそもキリスト教を信じるとは、どんな営みを表すのだろう。信徒によってはこう答えるかもしれない。「わたしはキリスト『教』を信じているのではありません。イエス・キリストを信じているのです」。つまりキリスト教という呼称は、信仰的営みをその外部から観察し、仏教やイスラム教など、ほかの宗教と区別するための呼び方である。キリスト「教」の内部にいる人───わたしもそうであるが───は、いわばイエス・キリストとなんらかの仕方で遭遇し、そのイエスなる人物と向きあい、そういう仕方をとおして神との関係に巻き込まれている人なのである。(「イエス・キリスト」と「神」とはどう違うのかと読者の皆さんは疑問に思われるかもしれないが、キリスト教における三位一体の教義は説明しだすと長くなるので、どうかここでは「とにかくキリスト教徒はそんなふうに言うんだな」くらいに読み飛ばしていただきたい。)

中学時代から35年以上つきあいのある、気の置けない友人がいる。彼はいわゆる「ドルオタ」、つまりアイドルの追っかけをしている。コロナ禍になった今はどうしているのか、いちいち尋ねていないので分からないが、以前はメジャーなアイドルから地下アイドルまで、これと思ったグループの追っかけをしていた。ライブに足しげく出かけ、CDをたくさん買い、イベントではアイドルと並んで写真を撮る。彼は関西在住なのだが、上京した時には嬉しそうにそれらの写真を見せてくれる。ある上京の折、彼はわたしをとあるカフェに誘った。アイドルに注ぎこむ以外は節約家の彼らしくもないお洒落なカフェで、メニューも高い。店内に入ると、彼は迷わず一つのテーブルを目指し、そこに陣取った。そしてほとんどメニューも見ずにウェイトレスに、その店名物のかき氷を注文した。わたしもとりあえず同じものを頼んだ。

美しくレイアウトされたかき氷がテーブルに二つ。まわりを見渡せば、若いカップルばかりである。いい年をしたおじさん同士、顔を突き合わせて食べるのは気恥ずかしい。彼はかき氷にスプーンを突き刺す前に「この角度から写真を撮ってくれ」とわたしに頼むと、スマートフォンをわたしに手渡した。言われた通り写真を撮ると、彼はすべての事情を話してくれた。

「~ってアイドルグループの〇〇ちゃんが、この店でこれを食べているのをブログで見たんよ。だから、その同じ場所に座って、同じものを食べてみたかった」

「へえー、徹底してるね。ここには彼女の息遣いが残っているのか。まるで聖地巡礼みたいやな」

すると彼は目を見開き、横山やすしばりの巻き舌で息巻いた。

「そう!それや!」

彼に誘われて、あるアイドルグループのライブに連れて行ってもらったこともある。ライブが始まるまでのあいだ、ファンの人たちの表情には、楽しみに待っているというだけでなく、緊張や不安さえ見て取れる。「では予約番号順に入場してください」というスタッフの言葉と共に人々は会話をやめ、整然と動き始める。皆が会場に入り、ライブが始まった。アイドルたちが舞台の裾から飛び出してくるや、観衆は一気に爆発した。近くにいた体の大きな男性は、こちらが身の危険を感じるほどの迫力で跳ねていた。ライブの終盤、グループのメンバー一人一人が独り語りする場面。先ほどまで飛び跳ねていた男性は、一言一句、聴き洩らすまいと、固唾をのんで見守っている。その後最後の盛り上がりの歌と共に、ライブは終わった。三々五々帰ってゆくファンたちの表情は、ライブが始まる前とは異なり、じつに爽やかであった。「いやあよかった。お前もおもろかったやろ?」と語るわたしの友人も例外ではなかった。

彼の参与している「アイドルのファンであること」をわたしの信仰に置き換えて考えてみる。ライブは礼拝であり、アイドルが行ったカフェに、その足跡を辿ることは巡礼であり、CDを買うことは礼拝献金である。教会に通っているわけでもない友人の振る舞いのなかにキリスト教ときわめて似通った要素を見いだすことは、わたしが牧師であるがゆえの過剰な読み込みなのだろうか。

わたしの友人の営みを、たんなる趣味だと感じる人もいれば、たしかに宗教的だと思う人もいるだろう。宗教を自覚的に信仰している人の多くは、その宗教の価値体系に、いわば人生を賭けている。友人は暇つぶしや気分転換のためにアイドルを追いかけているようには見えなかった。また、友人のアイドルを見るまなざしには、もちろん性的な欲望もそこにはあるのかもしれないが、それよりはむしろ、聖なる存在を畏敬の念で見ているようにも感じられた。彼の長いドルオタ歴を観ている限り、それは労働の余暇、生活の暇つぶしではない。むしろ実態は逆であり、彼はアイドルのために労働し、アイドルのために生活しているようにさえ見える。つまり彼はアイドルを追いかけることに、自分の生涯を賭けている。少なくともそのように見えるという意味で、彼の営みはわたしにとって宗教的なのである。

彼は幸いにしてそういう経験をしたことがないようだが、アイドルを畏敬の念をもって追いかけることにはリスクもある。そのリスクとはスキャンダルである。あるアイドルにじつは恋人がおり、彼女あるいは彼はファンを思い情熱をかけてアイドルをしているのかと思いきや、ドライに仕事と割り切ってやっていることが分かった。そういう事実が露見したとき、ファンは深い幻滅を味わう。幻滅はときにアイドルへの怒りに変わる。このスキャンダルという言葉であるが、ギリシャ語のσκανδαλίζω (スカンダリゾー)からきている。意味は「つまずく」である。

こうして、人々はイエスにつまずいた。(マタイによる福音書13章57節 新共同訳)

イエスが思いがけず立派なことを言ったときに、人々は「あの大工の息子がこんなこと言うのか?我々はあいつの家族もみんな知ってるんだぞ」と、イエスの言葉と素性とのギャップにつまずいた。イエスの救い主デビュー前の出自がつまずき、すなわちスキャンダルになったわけである。現代のスキャンダルが、たいてい芸能人の私生活や素性が問題となったときに生じることを思えば、スキャンダルの遠いルーツはイエスにまで遡るといえる。

いいや、そんなことはない。アイドルはスキャンダルを起こすが、キリスト教の神は永遠不変の神なのだ。だからそんな心配は要らない────信仰者は、そう強弁することもできるのかもしれない。だが、ほんとうにそうだろうか。わたし自身の信仰の歩みについて振り返るなら、ぜんぜんそんなことはない。わたしは何度もキリスト教信仰に、というか神そのものに、つまずいている。なぜ自分はここまでして教会に繋がっていようとするのか、我ながら分からないこともある。牧師の仕事にしてもそうである。じつは生活のためにしがみついているだけなのではないか。ほかに同程度のしんどさでできる仕事があるのなら、あっさり乗り換えてしまうのではないか。そう自問することもある。

牧師の仕事は究極的な言い方をすれば、神に仕え、人に仕えることである。とはいえ、じっさいには人とふれあい、気持ちよく礼拝をしてもらえるように段取りすることが、教会で働く牧師の具体的な仕事である。(キリスト教系の学校や病院で働く牧師には、さらにそれぞれ固有の働きがある。)神はその姿が見えないが、人間は目の前にいる。だからいつも仕事がうまくいくわけではない。牧師も一人の未熟な人間である以上、信徒や来訪者を不用意に傷つけてしまうことがある。また、その逆もある。そういうことが一つ、二つと重なってくるとき、牧師はつまずく。少なくともわたしはつまずいた。なんどもつまずいてきたのだ。わたしにとって、それらのつまずきはキリストのスキャンダルであった。アイドルを追いかけている人がアイドルのスキャンダルに悲しみ、怒るように、わたしはつまずいたとき神に、あるいは教会という制度に苛立ちや怒りを、そして深い悲しみを覚えてきたのである。

それならばいっそ、キリスト教など棄教すればよいではないか。他人から言われるまでもなく、わたし自身、何度もそのように考えてきた。しかし、すんでのところでわたしの信仰は途切れずに、細々と繋がってきたのである。ドルオタの人々はどうやってスキャンダルのあとも(別の)アイドルのファンを続けていられるのか、わたしには分からない。今度友人に会ったら尋ねてみたいと思う。わたしがなぜ細々とであれ信仰を持続してきたのかについては、理由はあるていど分かっている。それは他人とのかかわりのおかげである。キリストにつまずくのが他人とのトラブルによるのであるなら、キリストに繋がるのもやはり、他人との出遭いなおしからなのである。自分でもなぜ牧師になったのか厳密には分からないところがあるが、もしも牧師になっていなかったら、すなわち礼拝に出たくなくても仕事だから仕方なく出るということをしていなかったなら、わたしは教会から去っていたかもしれない。人と出遭うのを避けることは、緊張を感じながらも出遭いなおしていくことよりも容易だからである。

わたしはキリスト教全般のことを語ることができる学者ではない。キリスト教の、ほんの小さな断片を知っているに過ぎない。わたしがこれから語ろうとしていることは、信仰や教義のあれこれというよりはむしろ、わたしという一人の人間がどのようにして他人たちと出遭ってきたのかである。わたしは出「遭」うと書く。映画『未知との遭遇』のような、あの遭遇の語感であると思っていただければよい。わたし独りでは決して想像することができない個性を持った、あの人、この人との出遭い。その人と決別したり、死別したりしたとしても、出遭ったという事実は消えない。出遭いはわたしの手持ちの信仰を揺さぶり、ときには亀裂を入れる。そうやって欠けてしまったところに、新しい感覚、新しい言葉が入り込んでくる。その人と出遭う前にはまったく考えもしなかった、感じたこともなかったような感覚や言葉が。そうした揺さぶりや亀裂、新たな感覚や言葉の吹込みや沁み込みと遭遇するのが、他人たちとの出遭いなのである。他人たちは出遭いをとおして、他人ではなくなる。

わたしは以前、「他者」という言葉を好んで使っていた。神学生時代に学友たちと読んだレヴィナスの影響がある。今でも他者という言葉が好きである。相手の顔へと強く惹かれるのだが、その顔を自分の一部へと取り込むことは決してできない。自己の外なる他者。けれども、最近は他者という言葉にこだわることもなくなってきつつある。たしかに、わたしは自分が出遭う他者を安易に理解したつもりになることはできないし、ましてや他者を自分の都合のいいように操ることなど許されない。他者という言葉には、そういう倫理的に毅然とした態度の響きが感じられ、襟を正す思いがする。けれどもじっさいには、その他者という言葉から感じられるような、截然とした自分と相手との埋められぬ距離を、わたしはさほど体験していないような気もするのである。いや、正直に言えば、わたしはレヴィナスに反して、他者をしたたかに自己へと取り込んでさえいる。意識して、計画的に他者を利用したり操ったりしているわけではないにせよ、わたしはいわば他者を食べて生きていると思う。また、自分のこともかなりあけっぴろげにして、他者に食べてもらっているような気もする。この文章からも、どうか皆さんにはわたしを食べてもらいたい。好き勝手にわたしを取り込んで、自由自在にわたしを操ってほしい。

これからの連載のなかで、わたしは自分が遭遇し、巻き込まれてしまったイエス・キリストの話を、しかもキリスト「教」という外側からの言葉で語っていくだろう。だが、それはキリスト教についての神学的な叙述にはならないだろう。なぜなら、わたしがこれから話すことは、そのほとんどすべてが、目の前に現れた他人たちとの出遭いについてになるはずだからである。わたしにとって神について語ることはすなわち、目の前の人との出遭い、その共感や対立、相互理解の深まりや決別、その喜びや怒り、悲しみ、それら諸々の生々しい出来事そのものを語ることだからである。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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