モヤモヤの日々

第213回 千葉の沼

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

最近はありがたいことに仕事のご用命が多く、資料の本と原稿に集中する日々を送っている。その合間に赤子(1歳5か月)の世話をして、犬の散歩をする。もう少し家族との時間を増やしたい。妻に負担をかけてしまっている。速さだけには自信があった筆も、加齢とともに遅くなり、今では普通になってしまった。赤子が寝静まってからが執筆に集中できるコアタイムなので、深夜にうんうんと頭を悩ませながら、早く仕事から解放されたいと嘆く日もある。

しかし、本を読んだり、文章を書いたりして生計立てているなんて、昔の自分からしてみれば夢のような状況である。昔の自分に教えてあげたら飛び上がるほどよろこび、不満を言っている今の自分を、「この贅沢もの!」と一喝することだろう。なんて恵まれた環境なのだ、と。

「本に携わる仕事をしたい」。そう考え就職活動をしたものの、受けた出版社や書店は全滅だった。それでも働かないわけにはいかず、新卒である会社に入った。本とはあまり関係がないが、知ることに携わる教育業界だったため、仕事に不満はなく、充実した毎日だったと記憶している。

それでも、心の中には空洞があった。何かをしたい。でも、その何かがわからない。たぶん、「表現」と呼ばれるものなのだと思う。そこまではわかっていたのだけど、なにせまだ新卒だったので、覚えなければいけない仕事がたくさんあり、「休日を使って小説を書こう」などという気力はわいてこなかった。しかし、何かはしたい。僕の創作欲求は行き場を失い、ある日、爆発した。

平日に休みをもらった僕は、写真を撮りにいくことにした。とはいっても、一眼レフカメラやフィルムカメラなんていう気の利いたものは持っておらず、買うお金もなかった。すでに爆発してしまっていた僕には、貯金をして立派なカメラを買うまでの時間を待つことができなかった。今すぐ何かがしたい。僕は学生の頃に使っていたコンパクトデジカメを持って、近くにあった沼に向かった。

当時、千葉県に住んでいた。生まれて初めて自活し、慣れ親しんだ東京ではない場所に住んでいたことが、僕の焦燥感と孤独感に拍車をかけていたのかもしれない。まったく土地勘がなかった僕は、撮影に適した場所を見つけることができなかった。日々の業務で疲れていて、そんな余裕もなかった。

そこで選ばれたのが、近所の沼である。平日だったからか、沼のほとりに寝転がって本を読んでいる高齢の男性と僕しかいなかった。男性に怪訝な顔をされながら、僕はコンパクトデジカメで写真を撮りまくった。昼過ぎに出掛けたのに、気づいたら日が暮れそうになっていた。夕焼けが綺麗だった。

家に帰ってデジカメをパソコンにつなぎ、撮影した写真をチェックした。その数、300枚ほど。何の変哲もない沼が、いろいろな角度で写っていた。高齢の男性も、しばしば写り込んでいた。夕焼けは逆光になって綺麗に撮れていなかった。それでも僕は満足し、その日は久しぶりにぐっすりと眠れた。

残念ながら、その時の沼の写真はもう残っていない。しかし、沼のほとりで懸命に写真を撮ったあの日を思い返すたびに、仕事を頑張らなければいけないなと僕は思い直す。実際に、趣味だった本を読むことでお金をもらえる事実に対し、いまだに震える思いを抱く瞬間がある。これといって綺麗でも汚くもない沼と高齢男性の写真を撮っていた頃の、突き動かされるような純粋な気持ちを忘れてはいけない。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid