第4回 訃報をこなす感じ

「『空気』が支配する国」だった日本の病状がさらに進み、いまや誰もが「気配」を率先して察することで自縛・自爆する時代に? 「事のまずさを感知しない『空気』」を悪用して突き進む政治家たちと、そのメッセージを先取りした「気配」に身をゆだねることに違和感を覚えなくなってしまった私たち。「日本の心情」を“なんとなく”稼働させてしまう「気配」の危うさをめぐる、『紋切型社会』の著者・武田砂鉄さんによるフィールドワーク、その第4回は、人の死さえも「ルーティーン」でこなしてしまいがちないまの風潮について。

「そしてここからは悲しすぎる訃報です」

別に名前を隠す必要もないのだが、いたずらに晒す意図もないので匿名にしてみるが、メディアに頻出していた元・バドミントン選手のブログが、いわゆる「炎上」した。そのブログのエントリーのタイトルは「訃報と朗報」。彼女と同じ事務所に所属していた若きアナウンサーが闘病かなわず癌で亡くなったことと、ラグビーW杯で日本代表が南アフリカに歴史的勝利を収めたことを同列に並べたブログを記したのだ。

文章自体、あまりにもポップで、ヘラヘラしている佇まいを隠すことができていない。訃報を伝えるのにもっともそぐわない文体であるとの自覚が芽生えそうにもないほどに弛緩している。ラグビーの勝利を喜んだ後で、「そしてここからは悲しすぎる訃報です」と切り替えて、アナウンサーが亡くなった一件を語り始める。自分の両親も同時期にガンを患っていたから「人ごととは思えず」、マネージャーさんに状況を尋ねていたという。自分の両親は「再発はなく元気に過ごしています」が、その一方でアナウンサーが亡くなられてしまったという報を聞いて、「ショックで言葉が出なくなりました」と書く。

出産を控えていた彼女は、その死を受け止めた後、生まれてくる命を守っていかなければいけない、スポーツができるのも、出産できるのも、「すべて生があるからこそ! 日々感謝する気持ちを忘れてはいけませんね」と締めくくった。このブログがアップされるや否や、なんて非人道的で無神経な人なのだと、彼女へのバッシングが積み重なった。一つのエントリーに「朗報」を書き、次のエントリーに「訃報」を書いていればあらゆる騒ぎから逃れられたわけだが、彼女は「そしてここからは……」と切り替えることで済ませるとの判断をし、朗報の後に訃報を続けた。

お通夜で食べるお寿司がおいしい

「嬉しいことがありました」「悲しいことがありました」、私たちはこれらを接続して毎日をこなしているわけだが、対外的には接続した状態で披露してはいけない組み合わせがある。おいしいアイスクリームを食べました、でも、その後にお腹を壊しました、というように、明らかな関連性が認められる場合には、その接続が許容される。しかし、とりわけ人の死を眼前にした場合、あらゆる事象を接続不能な状態にしなければ、炎上した彼女がそう認定されたように、非人道的な存在となる。その手の取り締まりで使われる「不謹慎」、という言葉は、このところ、汎用性をどこまでも高めている。

お通夜に行って悲しかったけど、その場で食べたお寿司がおいしかった、という接続は許されないし、お通夜で久しぶりに会った同級生との「20年振りの再会!!」という写真をアップすることは許されない。しかし、人は、その人が亡くなったことをしっかりと悼みながらも、この寿司はそこそこいけるとも思えるし、離れたテーブルに座っていた同級生の姿を見つけて、腹の内で喜びながら「こんなところでってのは残念だけどさ」と静かに語りかけることができる。マナーというのは、人それぞれでスケール感が異なる場面でも一つの指針を優先しなければならないという顔立ちで迫ってくるから、ただただ苦手。マナーとは、自分の中に生まれた、その時々の感情の階層を明らかにしてはならない、と強いる働きかけでもある。

それなりに消化されない死

そう考えると、彼女が記した「そしてここからは悲しすぎる訃報です」は、感情の階層を整理せずに、そのままに流してみた行為にすぎないのではないか。テクニックがない、といえばそれまでなのだが、彼女に向かうバッシングは押し並べて、テクニック不足ではなく、「人として」方面に集約され膨らんでいた。

テレビをつければ、さっきまで行列の出来るパンケーキ屋のパンケーキをだらしなくほうばっていたというのに、瞬間的に「訃報です」と張り詰めた空気に切り替えるワイドショー。でも、人が亡くなったというのに、あなたたちったらパンケーキをほうばっていたのね、信じられない、と電話がなりやまないことはない。それは、番組を作る彼らが「死をまたぐ」「死をこなす」技術を持っているからである。しかしながら、技術でまたぐ、こなす死とは、一体なんなのだろう。いたずらに消化される死よりも、それなりに向き合って消化されない死が尊いはずで、ラグビーで日本が勝ったことと事務所のアナウンサーが死んだことをいたずらに混在させてしまう技術の無さのほうが、死への尊さを維持しているとは言えないのだろうか。彼女自身はあまりに無邪気に訃報と朗報をない交ぜにしてしまったが、これを非人道的だと詰問するのは、そここそ人の死を簡素に咀嚼しすぎではないか。

死亡記事の狙い

偉人が死した途端に、その功績が絶対化される。小説ならば小説が、楽曲ならば楽曲が、取り急ぎ不朽の名作と化す。死を合図に生の記憶が呼び起こされるのは確かに有意義だけれども、それは、キャリアをこぢんまりと確定させてしまう行為でもある。大物が死すと、翌日の朝刊一面コラムは、誰それの死と取り急ぎ対峙した書き手による、「うまいこと言う」合戦になる。

愛読してきた野坂昭如が死んだ。その翌日の紙面を覗くと、「八五歳で逝った作家が言葉にし尽くせなかった『思い』を、思う」(東京新聞『筆洗』)、「世界の今を憂いながらの、旅立ちだったに違いない」(朝日新聞『天声人語』)と憂いている。死を合図に、生の記憶が呼び起こされる。確かに建設的な作業ではあるけれど、こういった文章は、付け焼き刃の感傷にも思え、「死をまたぐ」「死をこなす」という読後感に到る。

新聞は、著名人の死亡をどのような基準で取り扱っているのだろう。共同通信社の『記者ハンドブック』を開くと「記事フォーム」という項目があり、そこには死亡記事を載せる基準や書式について、詳細に記されている。出稿となる対象は「社会的地位、知名度、業績を基に、できるだけ幅広く積極的に出す。有名人、企業関係者だけではなく、学生時代に講義を受けた人が全国に散らばっている大学教授、社会的に話題になった住民運動のリーダーなども死亡記事の対象」だという。

通常の訃報欄ではなく、1面や社会面で扱う場合もある。そういった話題性がある場合においては「一般記事で出稿する。有名人でなくても、話題性があると判断したら、一般記事スタイルのヒューマンストーリーに仕立てる工夫が必要だ」という。

死から起動するヒューマンストーリー

訃報記事を一般記事スタイルのヒューマンストーリーに仕立てる工夫、という表現にはいくつもの論点が含まれていまいか。まず、ヒューマンストーリーとは何か。ストーリーには辞書を開けば「物語。筋書き。」と出てくるように、創作性が少なからず付着している。あらゆる記事には主観が介在する以上、全ての記事がストーリーとも言えるわけだが、「ストーリーに仕立てる工夫」とはなかなか丁寧に創作性を伝える書き口である。新聞が「社会の公器」だとするならば、「事実を伝える誠実さ」と「ストーリーを仕立てる工夫」は、単語のそれぞれがすっかり対照的になってしまう。

『記者ハンドブック』はなかなか一般人が手にする本でもないので、死亡記事が「ストーリーを仕立てる工夫」のもとに出来上っているとは考えないだろう。記事のフォームとして、エモーショナルに盛られることが推奨されている事実は、なかなか意外に思えるはず。私たちは暮れを迎える度に、今年はあの人もこの人も亡くなってしまったと著名な物故者の多さを嘆くが、私たちはただひたすらにエモーショナルな死亡記事を読まされ続ける。

誰かの死は、誰かにとってはこの上ない喪失である。しかし、その他の多くの人にとって、死はその人の存在をコーティングするタイミングになってしまう。エモーショナルなストーリーを前にして、惜しい人を失ったことを確認する。死から起動するヒューマンストーリーに、その人の存在をあずけてしまう。模範解答から学ぶように、その人の死を体感することになる。

ストーリーの付着と剥奪

斎藤美奈子の時事評論集『ニッポン沈没』のなかに、ひと頃はやったキーワード「無縁社会」を生み出したNHKスペシャルを書籍化した本に対して、手厳しい指摘がある。身元不明の遺体「行旅死亡人」について、「『行旅死亡人』の人生を何とか取材で明らかにしたい。そして、その無念を晴らしてあげたい。それがせめてもの供養になるのではないか」と断定した書籍に対して、斎藤は「行旅死亡人が必ず『無念』だと、だれが決めたのか。まして当人の了解も得ず、その人生の軌跡を辿ることを彼や彼女は本当に望んでいるのか」と記す。その当たり前の想像を欠いていたことを恥じながら唸る。

人の死に対して、物語を投与してしまう身勝手さを、私たちはすっかり忘れてしまう。行旅死亡人が「無念の死」であるという推察はおおよそ当たっているのだろうけれど、人様のストーリーを、無念という頭で固めた上でまさぐろうとしてはいけない。その行為は、取り組み自体が善意的である以上、野放しにされる。著名な物故者の死にはいつの間にかストーリーが付着し、名もなき物故者はいつの間にかストーリーを剥奪される。私たちは、直接的に知らない人の死を、フォームでこなしているのである。考えもせずに、ルーティーンで慣らす。

人の死を体感する、程の良さ

様々な年齢や職業の63人に死について問うたスタッズ・ターケルのインタビュー集『死について!』。その中で、死について「だれかが死んだとしても、それはちっとも驚くべきことじゃなくて、そういうものなんだ。人が死ぬということほど、自然なことはないからね」とインタビューを締めくくった小説家のカート・ヴォネガットは、インタビューの半ばで「わたしにいわせれば、迷惑とは他人のことであり、迷惑はときには地獄にもなり得る。他人というのはしょっちゅう人生の邪魔をしてくるもので、それだけでも十分地獄といえるからね」と語っている。他人の死を「そういうもの」としか漏らしようがない、とする彼の考え方は、このご時世ではおおよそ利己的と済ませられるだろう。だがしかし本当は、利己的の真逆にある、利他的な態度なのではないか。他人の物語に乗り移ることをなかなか簡単に許しすぎている今、他人への冷たさが生み出す誠実さを見つめてみるべきではないのか。

先のバドミントン選手は、感情の階層を少しだけ整理して、少しだけそのままにしていた。結果、整理がまだまだ足りず「訃報と朗報」を同じ箱に入れてしまった。しかし、自分の中で芽生えるいくつもの感情というのは、基本的に同じ箱の中におさめられているものである。インターチェンジで地方の名産饅頭を大量購入したときには小分けする紙袋をもらうわけだが、ああやって感情を小分けして適切な場所に渡していかなければ不謹慎と査定される社会がどこまでも広がっていく。死を扱う人も受け取る人も、「感情は小分けしようぜ!」とばかりにストーリーの共有をはかろうとする、でもそれは、物故者をコーティングするスピードだけがいたずらに早くなっていくだけにすぎない。

うっかり小分けすることを忘れてしまった「訃報と朗報」の記事を、バッシング後にたちまち消してしまった彼女だが、今、私たちが見つめ直す生と死は、もしかして彼女のうっかりブログにあるのではないか。「そしてここからは悲しすぎる訃報です」という大胆な展開は、人の死を体感する、程の良さを持ってはいなかったか。なかなか危ういブログだが、澄まし顔のルーティーンよりはマシに思えた。

SIGN_06TAKEDA1982年生。ライター/編集。2014年9月、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!個人」「ハフィントン・ポスト」「LITERA」「マイナビ」などで連載。雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」「TRASH UP!!」などで執筆中。インタヴュー・書籍構成も手掛ける。2015年4月に刊行した『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)で、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。http://www.t-satetsu.com/