第7回 赦しを語ることができない

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

罪を赦す。キリスト教では、このことが重要なテーマとして語られてきた。神が人として受肉しキリストとなったこと。死から復活したキリストが昇天したこと。これらとともに、十字架のキリストによる人間の贖罪が、その教えの中心となってきた。キリストが十字架で自ら犠牲となって我々の罪を贖ったという信仰は、そのルーツの一つを、キリスト教以前からすでにイスラエルの教えであった、ヘブライ語聖書のレビ記にみることができる。(旧約聖書という呼称はイエス・キリストの出来事を神の新しい約束として、そこから遡って「旧い」約束という意味を付したキリスト教側による呼び方なので、聖書学の世界などにおいて、キリスト教から価値独立的に、ヘブライ語聖書と呼ぶことが増えてきた。)

‟アロンは生かしておいた雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの人々のすべての過ちと、罪となるあらゆる背きをすべて告白し、それらを雄山羊の頭へ移してから、担当の者の手によって荒れ野へ放つ。民のあらゆる過ちを負って、雄山羊は不毛の地、荒れ野へ放たれる。“(レビ記16章21-22節 聖書協会共同訳)

スケープゴート(贖罪の山羊。ゴートは英語で山羊のこと)の由来である。山羊の頭に手を置くことで、共同体全体の罪が山羊に憑依する。呪術に見えるかもしれない。じっさい、宗教学者から見れば呪術的なのだろう。そしてイエス・キリストが贖罪の山羊のように人間の罪を一身に背負い、犠牲となる構造も、現代の倫理観には馴染まないかもしれない。というのも、そもそもスケープゴートという語からよいイメージを抱く人間が、こんにちいるだろうか。「イエスは我々のスケープゴートとなった」、そう表現するやイエスはたちまち、いじめで自殺する子どもや、過酷な労働で労災死する大人と同じ表情になる。キリスト教徒がイエス・キリストをいじめや企業の犠牲者としてイメージすることは、あまりないとは思う。しかし、じっさいプロテスタントのキリスト教徒は「イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために、十字架で死んでくださった」と語るのである。

呪術的か否かはともかくとして、そのようなしかたで自分の罪を赦されたと信じた信仰者は、自分も神から赦されたのだから他人のことも赦さなければならないという仕方で、その信仰を実践することが望ましいとされる。それが現実的にどれほど実践可能なのかは別として、少なくとも教会では赦しを、もう少し柔らかい言葉で表現するなら寛容を説くようになる。じっさい、イエス自身が聖書のなかで、赦しについて印象的なエピソードを語っている。彼は赦しを、分かりやすい金額に譬えるのだ。

‟その時、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。清算が始まると、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、百デナリオン貸している仲間の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。しかし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」“(マタイによる福音書18章21~35節 同訳)

ペトロは誰かとトラブルになり、どうしても赦せないことがあって、怒っていたのかもしれない。しかし彼なりに「赦さなければならない」という思いとのあいだで葛藤していたのではないか。それで、どうしたらよいのかをイエスに相談したのだろう。するとイエスは借金の譬えで答えたのだ。タラントンというのは英語のタレント、すなわち才能の語源である。とても高価な単位だ。一方で1デナリオンは労働者の一日の賃金である。東京都の現在の最低賃金は1,041円(令和3年10月1日現在)であるから、残業がない8時間労働だとして(実際には残業がない仕事は少ないだろうが)8,328円である。そして1タラントンはなんと6,000デナリオンである。ということは49,968,000円。5千万円近い。タレントつまり才能という言葉が、驚嘆するような能力を持った人物に対して使われる語であることがよく分かる。イエスが借金の話で出している金額をみてみよう。1万タラントンの借金を上記の最低賃金を手掛かりに換算すると499,680,000,000円。5千億円近い、気の遠くなるような負債である。そんな巨額の負債を帳消しにしてもらった男が、こんどは100デナリオン、つまりたったの83万円ちょっとの借金を、容赦なく取り立てる構図になっているのだ。5千億赦してもらった男が83万を赦さないという戯画になっている。

ここで重要なのは、譬え話冒頭の一言「天の国は~に似ている」である。イエスは天の国という、いわば宇宙から地球を眺めるような巨視的なまなざしをペトロにもたらしている。宇宙飛行士が地球を見たときに「国境などなかった」と詠嘆したというが、それと同様のパラダイム変換をペトロに促しているのだ。お前の目の前には赦せない誰かがいるのかもしれないが、神の国からお前たち全体を見おろしてみろ。お前自身もまた、赦されないはずのものを赦してもらっているのが見えるだろう?だったら、お前の目の前の誰かのことも赦してやれ────天の国すなわち神という視点を持ち出さなければ、とうてい受け入れ難い話なのである。自分もまた赦された者なのだという気づきは、地上においてローカルな国家対国家を見るのではなく宇宙から地球全体を見るような、超越論的なまなざしがなければ成り立たないのである。

しかし、ここでわたしは戸惑う。わたしは宇宙飛行士ではない。国境がない地球というものを、宇宙空間なり月面なりから見たことは一度もない。わたしは地上、この地球の渦中にいるので、地球の全体像は他人(それこそ宇宙飛行士)から伝え聞いた話や映像から想像するほかない。赦しもそうである。わたしは超越的な視座から「わたしもあなたも赦された人間」と実感することが、未だ実感できないでいる。それでも社会について、あるいはわたし個人の話についてなら、わたしは「寛容であるべきだ、まさに赦せないときにこそ赦しについて考えてみるべきなのだ」と、かろうじて語ることができる。なぜなら寛容な社会を望むことは政治的におそらく正しいであろうし、わたし個人のありようとしても、そのように語ることは、どこか高潔な響きがあって気持ちもよいからである。だが、自分以外の人間に、同じように赦しや寛容を語ることが出来るのか?それも、実際に赦せぬ思いを抱えた人間を前にして?

 

礼拝に、ふだん見かけない女性がやってきた。礼拝が終わったあと、彼女はうつむきながら「お話を聞いてもらいたいのですが」と、消えいるような声で意思表示した。ただごとではないと思ったが、こういうとき別室のない小さな礼拝堂はもどかしい。他の人たちがまだ歓談しているなかで、微妙な話はしづらい。わたしは「表に出ましょう」と、扉を開けて彼女と外に出る。目の前は閑静な住宅街の路地。ときおり歩行者が通り過ぎ、車が徐行する。わたしたちは扉の前に立ちつくし、じっとそれらを見る。彼女は黙ったままだ。

「・・・やっぱりこんなのじゃ話せませんよね?」

彼女は小さくうなずく。

礼拝堂の二階にわたしは妻と住んでいるが、今日は散らかっている。でもいいや。わたしたちは再度礼拝堂に入った。

「ちょっと待っててくださいね!」

わたしは大急ぎで二階に上がると、布団やらなんやらをめちゃくちゃに畳み込み、開いた空間に座布団を敷くと、彼女をそこへ案内した。二人向きあって座る。彼女はとたんに号泣し始めた。

今、彼女のことを振り返って、考える。彼女が将来落ち着いたとして、わたしはたとえば「あのつらい出来事はあなたのすべてではない。あなたの一部でしかない。とらわれてはいけない。もしもネガティヴな感情がまだあるなら、少しずつ手放していきましょう」などと言い得るだろうか?そんなことを問うまでもなく、問いそのものへの拒絶がわたしの内に湧きだしてくる。「手放す」などと言っているが、ようはあの出来事を、あの加害者を許容せよ、赦せと語っているのと同じではないか。あるいは百歩譲って、彼女が自分から加害者を赦す気になったとする。わたしはそのような彼女を信仰の名のもとに祝福してもよいのか。これも危険なことである。なぜならもしも彼女が「わたしが悪かったんだ。わたしに隙があったから、あんなことになったんだ」と納得しようとしている、そういう意味で加害者を「赦す」のであれば、それは彼女をますます傷つける「赦し」なのであり、そんな「赦し」は赦しでもなんでもない、彼女への二次暴力でしかないのである。そしてもしもわたしが、彼女が楽になることを企図して、「そうでしたか。赦せてよかったですね」とか「憎しみから自由になりましょう。そうすれば楽になれますよ」などと語るのであれば、────彼女がその言いぶんに従い、かりそめに楽になったとして────そんな宗教はマルクスに言われるまでもなくアヘンである。

わたしは精神科病院に入院した折に、精神科医と対話を重ねた。医師はわたしの被害者意識を問題視した。たとえばわたしが幼稚園の職員室で副園長に激昂した理由について、わたしは当初、副園長のわたしへの不当な扱いを強く訴えていた。だが医師はわたしの話を聞くうちに、わたしがキレたのはそれだけが理由だったのかについて、疑いを持ち始めたのである。医師との対話の結果わたしがたどり着いたものは、激昂した事件よりもずっと昔、子ども時代から連続している、癇癪の蓄積であった。つまりわたしはなにか自分の思い通りにいかないことがあると、自分が不当に扱われていると感じて癇癪を起こし、その怒りの爆発でもって周囲に言うことを聞かせてきたのである。なまじ周囲の人々が(呆れたり諦めたりして)わたしの言うことを聞いてくれたという成功体験があったものだから、わたしの被害者意識は強化されてしまった。複雑な人間関係において、どちらか一方だけが100パーセント悪いということはそれほど多くない。わたしが癇癪を起こしたとき、たしかにきっかけとして相手にもなんらかの非はあったのかもしれないが、たいていの場合、わたしにも落ち度はあったのである。わたしが学んだことは「相手の立場も考えてみる」とか「自分の怒りを相対化して観る」とった、しごく初歩的なことであった。そのことを日常生活から距離をおいた精神科病院のなかで実感して以来、わたしは以前ほど怒らなくなり、生きづらさも減った。「沼田先生はおおらかですよね」と言う若者に「被害者ポジションから降りることがいちばんだよ」と語ったこともある。

だが、わたしのこの個人的体験を「自分も赦されているのだから相手をも赦そう」という、聖書の金言と同一視してもよいものだろうか。たしかに、わたしはそれで納得できた。だが上記の女性のように、一方的な暴力の犠牲となった人も教会には来るのだ。そういう出遭いを実際に経た後となっては、もはや赦しについての聖書の言葉を語るのが恐くなってくる。あなたは神から、そして周りの人たちから、たくさん赦されていますよ。だったら、あなたが赦せないと思うその人のことも、赦したらいいじゃないですか────そんなお気楽なことを礼拝で語ることが、それこそ「赦される」のだろうか。

書店に行けば、高名な宗教家が「手放すこと」や「赦すこと」について語っている書物を手にとることができる。逆に「怒ること」「赦さないこと」を勧める宗教書というものを、わたしは見かけたことがない。当然である。人々が宗教家や宗教書に求めているのは癒しや救いなのであって、怒りの火に油を注ぐことではないからである。とはいえ、なぜあの人、一方的に傷を負わされたあの人が、自分でその傷を癒さなければならないのだろう。わたしは彼女をはじめ、不正義によって受けた傷から血を流す、幾人かの顔を思い浮かべずにはいられない。そう、わたしは「手放すこと」や「赦すこと」を、彼ら彼女らに対して、決して語れないのである。宗教家であるにもかかわらず、わたしは赦しを語ることができない。

わたしは極端なことを言っているのだろうか。だが、「これだけは赦せない」という思いを、誰もが一つぐらいは胸の内に秘めているのだとしたら。手放しや赦しを語ることによって、胸の内の聖域を、わたしは踏みにじるのではないか。赦しを語ろうとすると、スケープゴートとなった彼ら彼女らの顔がどうにもちらついてくるのである。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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