第8回 彼女の最期の仕事

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

伝道者として初めて葬儀に立ちあったのは、まだ上司のもとで鞄持ちをしていたときであった。当時わたしは30代前半、上司はわたしよりちょうど半世紀長く生きている女性だった。彼女の世代で女性の牧師は珍しかったこともあり、彼女は自分を厳しく律して生きてきたし、見習いのわたしにも厳しく指導をした。

幼稚園で子どもたちと遊んでいると、部屋に駆け込んできた上司がわたしに叫んだ。

「亡くなったよ!」

この仕事に就いたときから、誰かの死に遭遇することは覚悟していた。ついにきたか。わたしは自分のなかでなにかが切り替わり、闘う構えになるのを感じた。わたしは上司と、教会役員の女性が出してくれた車に乗りこみ、現場へ駆けつけた。

そこはおもに高齢者や生活保護の人へ貸し出されている、家賃の安いアパートだった。教会役員は訃報の直後にいちど現場に行ってくれていたため、ドアは開いていた。わたしは緊張しながら靴を脱ぎ、六畳二間の部屋にあがった。冷蔵庫のような空気。外よりも寒い。まるで演出された舞台のように暗い部屋。そのいちばん奥の隅にある小さなテレビのそばに、亡くなった彼と同棲していた女性が体操座りでうずくまり、落ちくぼんだ目だけを光らせてこちらを見ている。そしてわたしたちのすぐそばの足元には、枯れ木のように痩せた、全裸の男性の遺体が横たわっていた。奥に体操座りしていた女性が口を開いた。

「医者が検視しに来て。服も着せないで帰っちゃったんです」

女性は動く気力もないようだ。とりあえず上司とわたし、それに教会役員は遺体の前にしゃがみこみ、まずは服を着せることから始めた。身体にさわると氷のように冷たい。かつて生きた人間であったとは思えない、蝋のような感触。遺体の顔を覗き込むと、口にはよだれのあとが乾いていた。

「『疲れた、疲れた』って言って。眠剤とビールばかり飲んで。それで気がついたら死んでて。心不全を起こしたらしいんです」

じっと座ったままの女性の声を聴きながら、わたしはかじかむ手でパンツをはかせる。なんでこんなに寒いんだろう。遺体はすっかり固まっており、シャツを通そうにも腕が曲がらない。これにはわたしたちも困り果てた。パンツだけを履かせた遺体の前で、とにもかくにも上司は祈祷書を開き、祈りをささげる。しばらくのち、市から派遣された職員が二人やってきた。慣れた足どりで上がり込んできた彼らは遺体を見てすぐ

「ああ、服を着せるのはコツがいるんですよ。代わってください」

二人はあっという間に、遺体の上半身にTシャツを着せた。関節を無理やり曲げる様子もなかった。どうやって袖をとおしたのかまったく分からない。なんとか格好のついた遺体はストレッチャーに載せられ、市の車で教会まで運ばれていった。わたしたちは女性を促し、教会役員の車に同乗してもらって、同じく教会へと向かった。

女性は亡くなった彼と同居し、生活保護を受けながら、二人で精神科のデイケアに通う日々を過ごしていた。彼は調子がいいときは威勢がよく、そのいかつさが怖いときもあった。けれども彼はわたしに親しく話しかけてくれるし、上司のことは「おふくろ」と呼んで慕っていた。正直わたしは彼にどう接していいのか分からなかった。女性はいつも彼に、子どものようにくっついていた。二人は身を寄せあい、そっと生きていた。そんな二人のうちの一人がとつぜん亡くなり、彼女だけが遺った。若かったわたしは、死別というものを初めて目の当たりにした。上司のすることを逐一見逃すまいと、わたしはくっついてまわった。

デイケア仲間が女性を慰め、見守るなか、彼の葬儀はささやかに行われた。独りになった女性は精神科の入退院を繰り返し、ときにはわたしに数分に一度の頻度で「助けてください!」と電話をかけてきた。「携帯電話の番号、言わなきゃよかったのかな」と後悔しながら、わたしは病院へ見舞いに行ったものである。対面窓の向こうでしょんぼりしている彼女に、わたしは話しかけた。

「桜が咲くころには、退院できたらいいですね。そうしたら、教会のみんなとお花見に行きましょうね」

だが、彼女が桜を見ることはなかった。初夏になる頃、予想もしない方面から彼女の訃報がもたらされたのである。彼女が亡くなったのは訃報よりもずっと前、わたしが精神科病院へと見舞いに行った、その少し後のことらしい。わたしの帰りぎわ、対面窓越しに手を振りこちらを見る、彼女の寂しそうな顔が想いだされる。

 

わたしに仕事のやり方を徹底的に叩き込んだ上司は、ある出張の折、休憩のためわたしが車をとめると、降りて散策を始めた。わたしも同行した。彼女はにっこり笑い、わたしに告げた。

「あなたには教えることはみんな教えました。あなたには卒業証書をあげます。わたしはもう死ぬよ」

いつもの茶目っ気だろうと、わたしは軽く流した。

「先生、そんなことおっしゃらずに。せっかく今まで他人のために頑張ってきたんだから、これからは老後を楽しんでくださいよ」

いつもは厳しい上司だが、このときは終始満面の笑みであった。

「もうじゅうぶん、楽しんだよ。天国に、わたしのだいすきな人たちが待っているから。再会できるのが今から楽しみ」

上司は80歳を過ぎてなお背筋はまっすぐ、女性のなかでも背は低いほうであったが、歩く速度は50歳年下のわたしと同じか、むしろわたしよりも速かった。もう死ぬって?悪い冗談だな。だがそのあと、彼女は予言通りみるみる弱っていったのである。8月の第一日曜日、上司は最期の礼拝を務めあげると自宅にひきこもり、それからほぼ一か月で亡くなった。亡くなる二日前に、わたしは彼女に会いに行った。もちろん死ぬなんて思いもしていなかったときのことである。

「なんで来たんじゃ、このばかすけが!」

「いやあ、先生が寝込んでいるなんて知らなかったもので。まあ、そんな悪態をつけるんだから、まだまだお元気そうですな」

「もう来んでよろしい。わたしは死ぬよ。もうイエスさまにも会ったし、お母さんにも会ったよ」

それがわたしたちの交わした、最期の会話であった。上司は83歳で亡くなった。上司の葬儀が、わたしが主任として行う初めての葬儀となった。上司はわたしへの教えの総仕上げとして、葬儀という課題をわたしに遺してくれたのである。葬儀業者とのやりとりや弁当の手配まで、上司が生前にすべてやってくれていた。初心者のわたしが葬儀そのものに集中できるようにと、上司が最期の力を振り絞って配慮してくれたのであろう。

火葬の点火ボタンを押すとき、指が震えた。あの頑固な上司がこの窯のなかにいることを、まだ認められなかった。お骨上げの際、彼女の髑髏はそのままのかたちで横向けにころがり、二つの空洞は凝っとわたしを睨んだ。「おつかれさま」と、そのまま抱きかかえて持ち帰りたいほど真っ白で美しい髑髏だった。火葬場の職員は両手でうやうやしく髑髏を持ちあげると、骨壺のなかにぐしゃっと押し込んだ。ああ、彼女は死んだんだな。

わたしは上司の手帳を、その死後にご遺族からいただいた。彼女が最期の礼拝を務めた日曜日の日付のところには

「幸いな死に備える

とあり、訂正後には

「幸いな死を迎る日(「日」はとても小さく、句点ともとれた)」

と走り書かれていた。もはや死は備える必要のあることではなく、ただ迎えるのみの出来事───師はおのが人生の集大成において、そのような境涯に至ったのかもしれない。偶然か必然か、その日は教会で死者たちを記念する、召天者記念礼拝であった。すでに天に召された者たちのもとへと自身もまた仲間入りをする腹積もりで、彼女は最期の仕事に臨んだのであった。

彼女の手帳の絶筆には、こうあった。死のおよそ10日前のことである。

「久しぶりの雨。礼拝欠席

講壇を降りる感謝」

わたしに気取られぬよう苦しみに耐え、日曜日ごとに講壇に立ち続けてきた彼女が、ようやく重荷を下ろした瞬間であった。

死ぬことは、人がその生涯を閉じることである。ただ、わたしにとっては、「閉じる」ではなく「綴じる」である。わたしにとってその人が生きているあいだは、その人を物語のように扱うことはできない。その人は終わっていないからである。生きている人は今まさに変化の途上にあり、その変化はわたしの理解を超えており、ときには理解の試みを拒みさえする。わたしにとって不可解な振る舞いをすることもあれば、わたしが気にもとめない行為を積み重ねてもいる。日々刻々と過ぎ行くその人とのかかわりを自明のものとして、わたしは振り返ることもない。振り返るとしても、相手のあるときの言葉、その行為にのみ集中するのであり、そこからその人の全体を感じとることはできない。生きて延び広がりつつあるその人に、完成され閉じられた全体などないからである。

だが、その人が亡くなったときから、亡くなった彼あるいは彼女は、わたしにとって綴じられた一冊の書物となる。わたしは綴じられた書の頁を繰る。風に吹かれて思いがけない頁が開くこともある。開かれた頁の、そこにある物語を、わたしは読み直す。そして受け取り直す。あのときにはまったくどうでもよかった、気づきさえしなかった、あの人の振る舞い。今は鮮明な意味を放ちつつ迫ってくる。こんどは、そうやって頁を読み取る自分自身が自覚される。あの人は、今のわたしをどう見るだろう。あの人なら、わたしにどんな言葉をかけてくれるだろう。あの人がいない今、わたしはどうすべきなのだろう────わたしは別のページを開いたり、書物全体を眺め渡したりしながら、繰り返し考える。書物の頁にはところどころ印刷が滲んでいる箇所があり、そこははっきりと読めなかったり、まったく読むことができなかったりする。そうなると、よけいにその箇所が気になってくる。あのときの、あの人のほんとうの気持ちはどうだったのだろう。わたしにあんなことをされて平気な顔をしていたけれど、ほんとうはどんなに悲しかっただろう。なぜ、わたしはあのとき、気づくことができなかったのだろう。あの人はなぜ、ほんとうのことを言わず、ただ笑っていたのだろう。あの人の「ほんとう」が知りたい。わたしのどんな言葉も、あの人の「ほんとう」からずれてしまう。

 

キリスト教を探求する人には、大きく二つのタイプがあるような気がする。一つめのタイプとして、他人とのかかわりはむしろ煩わしいと感じ、独りで聖書や神学書を読み漁り、武道ならぬキリスト道を極めんとして、孤高の道を歩んでゆく人。そしてもう一つのタイプは、他人たちとのかかわりをとおしてこそキリストを感じ、体験していく人。わたしはたぶん後者だと思う。独りでキリストを信じ続けることは、わたしにはおそらく不可能であった。わたしはこの仕事に就き、幾人かの人々を天へと見送ってきた。一人一人の死がすべてちがう。葬儀もざっくりキリスト教式とは言うけれども、本人の遺志や家族の希望などさまざまな事情により、その形式はじつに多様である。わたしは今振り返ってみて、一人として同じ葬儀をしたことがないとさえ思う。一人の人間が生きて、生き抜いて、死んでいく。その生涯の歩みを振り返るとき、あとになって「そこに神がいた」と気づく。そういう仕方で、わたしは神を実感する。

あるおじさんがいた。わたしが生まれるずっと前から教会に通っていて、頑固一徹な信仰の持ち主だった。わたしも未熟ながら譲れないことがあり、彼に全力でぶつかったこともある。それでも翌日に謝りに行ったりすると、

「まあ飲みなはい」

と酒を注いでくれるのであった。

そんな彼が床に臥せるようになった。そして病院へ。わたしは彼のもとへ見舞いに行った。もう彼が病院から元気に還ってくることはないだろうと、寂しい思いを抱えながら。病室に入って、横たわる彼に近づいた。彼はもはや話すことができなくなっていたが、目は輝いていた。彼はまじまじとわたしの顔を見て、そして天井を指さした。つられてわたしも天井を見る。だが、白い合板の板が見えるだけである。それでも彼は「ほら、ほら、そこ」と言わんばかりに、わたしの顔を見ては天井を見上げ、指さし続けるのであった。彼には見えていたのだ。岡部健医師謂うところの、お迎えが。(奥野修司『看取り先生の遺言 がんで安らかな最期を迎えるために』)

彼のご家族から電話が鳴る。わたしは着替えるひまもなく、賛美歌集数冊と祈祷書をつかんで病室へ駆けつけた。ご家族に賛美歌集を手渡し、賛美歌を一曲だけ歌ったあと、わたしは祈祷書を開いて祈りをささげた。医師も看護師も待っていてくれた。わたしが祈り終えて「アーメン」と言ったそのとき、機械に表示される心拍が停止した。彼はわたしの祈りを最後まで聞いて、お迎えについていったのかもしれない。

彼の葬儀をしたあとの、最初の日曜日礼拝。わたしは講壇に立ち、十数人ほどの出席者を見渡した。ふと、彼がかつて座っていた場所に目が行った。彼がいつも座っていた席、そこは空席となっていた。空席が鮮明に、彼の不在を指し示す。それだけではない。不在というそのことが、むしろいっそう、彼の存在をありありと際立たせたのであった。そういえば喫茶店で友人と話していたとき、「先に帰るわ」と友人が席を立って、わたし一人が残ったことがある。目の前の空席を見るにつけ、友人との楽しい時間の余韻が響いてくる。目の前に彼がいるときは会話に夢中なので、それがどんな雰囲気で、どう楽しいのかなど俯瞰しているひまがない。だが彼が席を立っていなくなり、あらためて目の前の空席を眺めてみると、その会話がどれほどゆたかなものであったのかを味わうことができる。それと同じことが、死をもってわたしの前から去っていったあの人の、その空席において生じていた。

イエス・キリストの弟子たちも、そんな仕方でイエスのことを想いだしていたのかもしれない。イエスと共に過ごした日々、イエスは当たり前のようにそこにいた。それにイエスの手伝いはとても忙しかった。弟子たちはイエスの一挙手一投足について想いを馳せている余裕などなかっただろう。ときにはなぜイエスがそのような振る舞いをするのか分からないまま、いつのまにか忘れてしまうこともあったはずだ。そんなふうに忘れ去っていたあれこれのことを、イエスが目の前から姿を消した今、彼らはありありと想いだしたのだ。そしてそれらの記憶は、イエスが目の前にいたときとは、もはやぜんぜん違う意味を放つようになっていた。こうして福音書の成立を待つまでもなく、イエスは弟子たちによって綴じられた書物となったのである。わたしたちの教会の礼拝には、最期の晩餐を記念する聖餐式というものがある(残念ながら今はコロナ感染防止の観点から中断している)。イエスが逮捕される直前に弟子たちとそうしたように、パンとぶどう酒とを信徒ら皆で分かちあうのである。聖餐式という儀式の原型を始めたばかりの頃、おそらく弟子たちは、そこに不在のイエスをありありと感じていたことであろう。イエスがいたはずの場所、その空席に、弟子たちは鮮明にイエスを見いだしたであろう。葬儀で見送った死者の不在、その人がかつていた場所の空席をとおして、わたしがありありとその人の存在を感じ取るように。

わたしにとって、イエス・キリストが目の前にいないにもかかわらず、ありありといるはずだという想像をすることができるのは、この一点においてのみである。すなわち、今まで天へと見送ってきた死者たちが、今はたしかに目の前には存在していないのであるが、その「不在である」という事実を想うことをとおして、かえってありありと存在の気配を放つということである。その存在の気配とは、綴じられた死者の書物である。イエス・キリストについて書かれた福音書を繙くことはわたしにとって、綴じられた死者の生涯を繙くこととつながっている。あるいは、こうも言えるだろう。モノとしての聖書をじっさいに開いてみればよい。聖書のなかにはたくさんの書が収録されているが、そのどれでもよいから、結末の部分を開いてみる。すると、そこにはたいてい下段に余白がある。その余白にこそ、今は亡き者たちの物語が綴られているのだ。わたしは死者を想起するとき、その余白に綴られた、肉眼では見えない印刷がなされた文字を読んでいるのである。

わたしは一抹の不安を覚えつつも、心待ちにもしている。わたしもまたいつの日にか、この地上での生を終えたとき、聖書の余白に収まることになるだろう。わたしの生涯はかくして綴られ、綴じられたものとなるだろう。そして、そのときなお生ける誰者かが、わたしの物語を繙くだろう。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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