第7回 「われわれ」とは誰なのですか

「『空気』が支配する国」だった日本の病状がさらに進み、いまや誰もが「気配」を率先して察することで自縛・自爆する時代に? 「事のまずさを感知しない『空気』」を悪用して突き進む政治家たちと、そのメッセージを先取りした「気配」に身をゆだねることに違和感を覚えなくなってしまった私たち。「日本の心情」を“なんとなく”稼働させてしまう「気配」の危うさをめぐる、『紋切型社会』の著者・武田砂鉄さんによるフィールドワーク、その第7回は、98%の人が「よかった」と答えたオバマ大統領の広島演説に対する違和感から、「We」を「自分たち」にすり替えてしまえる「私たち」の問題について考える。

核のボタンを携えて

あと半年で一線を退くと決まっている社長がスケールの大きい所信表明を行なえば、社員の大半は上の空で聞くはずだが、あと8ヵ月で任期を終えるオバマ大統領の演説を含む広島訪問について、共同通信社が行った全国電話世論調査によると、98.0%が「よかった」と回答している。他媒体が行なったアンケートでも軒並み9割を超える人が賛同を示している。本当にそんなに「よかった」のだろうか。

アメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪れたオバマは、核攻撃の承認に使われる「核のボタン」を被爆地に初めて持ち込んだ大統領にもなった。核のボタンを携えて核廃絶を訴えるという強烈な皮肉を知れば98%という数値は出ないだろうが、日頃から圧倒的多数を代弁することばかりに腐心するメディアは、98%を作り上げた様子を一切悩まずに心地良く伝えた。残りの2%の意見に出合えたのはメディアの言葉ではなく、投書欄で見かけた80歳男性(三重県・無職)の言葉だった。どの媒体よりも端的で手厳しい見解を投じている。

「彼の格調高い演説の中には『核兵器なき世界を追求する勇気』の具体策を聞くことはできなかった。それどころか大統領は常に『核のボタン』のカバンと一緒に移動するという現実を我々は目の当たりにした。核兵器断絶という主張との矛盾を感じた」(朝日新聞・6月4日)

広島平和記念公園の原爆慰霊碑に刻まれている言葉「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」には主語がない。兼ねてから言われてきたことだ。誰が過ちを犯したのか。今回、先方から、謝罪はしません、謝罪と思われる所作や表現を極力避けます、との情報が事前に伝えられ、その印象が崩れないようにカメラ位置のみならず植木鉢の位置まで確認され、あちらは望む通りにこなしていった。画期的な一歩に違いないけれど、98%という異様なまでの肯定には受け止める側の鈍感さが表出してはいまいか。

仲介したのは自分である

ジャーナリストの堀川惠子は、「溜息が混じる感動」と題し、「戦後の広島は、折にふれ政治的パフォーマンスの場として使われてきた。毎年8月6日には政治家らが壇上に立ち、その日限りの平和と反核を訴える。今回の大統領の広島訪問は、日本の選挙を前にしたタイミングとも重なった。日米同盟の強化を訴えるには絶好の機会だ。『未来志向』を掲げオバマ大統領を歓迎する政治家たちの姿に、平和や反核とは異なる理屈が透けて見えるのは私だけか」(東京新聞夕刊・5月25日)と、訪問の数日前に書いた。

演説を終えたオバマは、列席していた被爆者のもとへ向かう。安倍首相は当初、オバマの横に寄り添った。オバマと被爆者が握手を交わしながら話し始めると、安倍首相は、その間に入り込むようにして、仲介をしたのは自分であると思わせる構図に体をゆっくりと動かしていく。1993年、オスロ合意に調印した後、握手をするイスラエル・ラビン首相とPLO・アラファト議長の間に入ったビル・クリントン大統領のように。対話の最中、安倍首相は2歩ほど真ん中に体を動かしている。取材陣のカメラを見やり、仲介しているとの印象を強めるための選択をしたのだろう。ちっとも非道ではない。むしろ、政治家として優秀な判断だろう。堀川が書くように、政治的パフォーマンスの場なのだから、最適なパフォーマンスを模索するのは当然のことである。ただ、それを「パフォーマンスではないか」としっかりと指摘しないのは怠惰ではないのか。

「われわれ」と「私」と「普通の人々」

オバマの演説は「過ちは繰返しませぬから」に主語を与えるものではなかった。主語を確定させないために用いられたレトリックを浴びて「上手い!」と感嘆し、「日本の政治家もこれくらいのスピーチ力がないと」と国際派を気取る付け焼き刃のツイートがいくつも流れてきたのにはいささか呆れたが、さほど理知的なレトリックだったとは思えない。物事を断言するのではなく、いくつものレトリックをまぶすことで、文章として繋げた時に常に輪郭がぼやけるテキスト作りを心がけていた。

演説で最も頻繁に使われたのが「われわれ」という言葉。翌日掲載された全文をもとにカウントしてみると、実に39回も「We」が使われている。漏れなく「We=われわれ」が用いられているならば、その「われわれ」には「私」が色濃く含有されているとする見方もあるだろうが、「われわれ」とは別に「私」と訳される箇所が4回ほどある(訳は共同通信)。となれば、「われわれ」と「私」は異なる意図を持つ。

「私の国のように核を貯蔵している国々は、」(Among those nations like my own that hold nuclear stockpiles)

「私が生きているうちにこの目標は達成できないかもしれないが」(We may not realize this goal in my lifetime,)

「私の国は単純な言葉で始まった」(My own nation's story began with simple words)

「普通の人々はこれを理解すると私は思う」(Ordinary people understand this, I think.)

幾度の推敲が重ねられたスピーチは、複数と単数の使い分けをした上で、ごく限られた箇所だけ、自分自身であることが強調された。とりわけ、4番目の事例、「普通の人々はこれを理解すると私は思う」は不可思議な話法に思える。この前の部分ではとにかく「われわれ」が連呼されていた。

「だからこそ、われわれは広島に来たのだ。われわれが愛する人々のことを考えられるように。子どもたちの朝一番の笑顔のことを考えられるように。台所のテーブル越しに、妻や夫と優しく触れ合うことを考えられるように。父や母が心地よく抱き締めてくれることを考えられるように。われわれがこうしたことを考えるとき71年前にもここで同じように貴重な時間があったことを思い起こすことができる。亡くなった人々はわれわれと同じだ」

この後に「普通の人々はこれを理解すると私は思う」と続く。「われわれ」とは誰なのだ。何かと「われわれ」としておき、「私」が理解するのではなく、「普通の人々」は理解してくれると「私」は思っていますよ、とする。クドい。「われわれ」とは「私」ではないようなのだが、迂回なのか周回なのか、とにかく曖昧にするなかで、「われわれ」と「私」を混ぜこぜにして近しいものにする。

「われわれ」の範囲をその都度動かす。アメリカになったり、世界になったり、今を生きる人たちであったり、自由に変転する。スローガンの強度を作り出すのは述語にあり、と教えてくれたのは、「Change」の連呼で大統領の座を得たオバマだったが、皮肉を込めるならば、今回は、述語の強度ではなく主語のはぐらかしが「名スピーチ」を生むことを教えてくれた。

責任を背負うときだけ「私たち」

主語のはぐらかしによる「レガシーづくり」(前出・堀川氏)が98%という数値を作り上げたならば、それに続いた安倍首相の所感はどうだったか。

こちらもまた、「私」「私たち」「全ての人々」「全ての日本国民」と、その都度、最適な主語が駆使されている。今回の訪問については「広島の人々のみならず、全ての日本国民が待ち望んだ」とし、その機会を生み出したのは、「私」が昨年、アメリカの上下両院の合同会議でスピーチを行ない、「米国の全ての人々の魂に常しえの哀悼をささげ」、「日米両国、全ての人々に感謝と尊敬の念を表した」からなのだと、「私」の功績を強調する。その上で、「私」と「全て」の間ともいえる「私たち」を2回ばかし使った。

「この痛切な思いをしっかりと受け継いでいくことが、今を生きる私たちの責任だ」

「世界の平和と繁栄に力を尽くす。それが今を生きる私たちの責任だ」

責任を背負うときだけ「私たち」だ。昨年のアメリカ議会での演説は、国会での議論が始まる前だというのに「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。(中略)戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます」と誓ってしまう国会軽視っぷりを問題視されたが、もう既にあそこで誓って喝采を浴びてきたんで、という既成事実は、政権運営の拠り所にもなった。

広島では責任を共にする以外には使わなかった「私たち」だが、アメリカのスピーチでは「we」「us」「our」を頻繁に使っていた。

「米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、『希望の同盟』と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。希望の同盟。一緒でなら、きっとできます。」(Let the two of us, America and Japan, join our hands together and do our best to make the world a better, a much better, place to live.Alliance of hope.... Together, we can make a difference.)

「私たち」で近寄ったのが昨年の演説ならば、「私」の功績を訴えたのが今回の演説である。極めて上手くできている。「われわれ」と「私」と「全ての人々」は、どれも自分の主語として使えるけれど、使い分けることで、意図や責任を操縦することができる。

「We」を「自分たち」に変換できてしまう私たち

オバマの広島訪問が画期的であったことは間違いないけれど、98%が褒め称えるほど、実直な言動だったとは思えない。推敲を重ねた、あるいは重ねすぎた両者の演説は、「アメリカが広島に原爆を投下しました」という最たる事実を迂回しながら、受け止める側にエモーショナルに訴えかける方法が考え抜かれていた。その少し前に発覚した、沖縄で発生した元米兵の軍属による遺棄事件や、その後に起きた米軍兵による飲酒運転事故は、お得意の「遺憾」の表明で済ませ、大波をさざ波に変えてしまった。

一体、「われわれ」とは誰なのであろうか。そう無理やりにでも考え込まなければ、セレモニーが巧妙に作り出した「情」が、素直に稼働してしまう。綿密に練られた演説をもうちょっと懐疑的に見つめることも必要だろう。原爆資料館に10分間だけ立ち寄り、折り紙で鶴を折る。カメラを入れずに「実はオバマ大統領は鶴を折ったのです」と後々示されることについて、あらかじめ用意されたストーリーに従ってはいまいかと、当たり前の疑いを打ち出してみてもいいだろう。画期的な訪問に「画期的!」との叫びだけが聞こえる。アンケートをとって98%という数値が叩き出されるのは極めて珍しいこと。ならば、これほどの成功もないのだろうけれど、実は、2人の「私」は何も誓っていない。約束をしていない。意気込みのアクセルだけがドラマチックにふかされている。

「過ちは繰り返しませぬから」の主語は、依然としてあやふやなままだ。今回使われた「われわれ」という主語は、回避に使われている。迎え入れる側は、そうやって主語をぼかしてくることを認知していたし、理解していた。そんな「We」を、素直に「自分たち」に変換できてしまう私たちが、私は心地悪い。

SIGN_06TAKEDA1982年生。ライター/編集。2014年9月、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!個人」「ハフィントン・ポスト」「LITERA」「マイナビ」などで連載。雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」「TRASH UP!!」などで執筆中。インタヴュー・書籍構成も手掛ける。2015年4月に刊行した『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)で、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。http://www.t-satetsu.com/