第8回 「ありがとうございました」と言ってくれるかもしれない

「『空気』が支配する国」だった日本の病状がさらに進み、いまや誰もが「気配」を率先して察することで自縛・自爆する時代に? 「事のまずさを感知しない『空気』」を悪用して突き進む政治家たちと、そのメッセージを先取りした「気配」に身をゆだねることに違和感を覚えなくなってしまった私たち。「日本の心情」を“なんとなく”稼働させてしまう「気配」の危うさをめぐる、『紋切型社会』の著者・武田砂鉄さんによるフィールドワーク、その第8回は、コンビニのレジでの定型的なコミュニケーションから引き出せる微かな可能性について。

信号待ちの時間に雑誌を立ち読みするだけのアイツ

自宅から最寄り駅までの道中、幹線道路をまたぐ。計4車線の道路だから、またぐ側に与えられる時間はどうしたって短い。幹線道路がさかんに走りまくった後で、ようやくまたぐ側の時間が用意されるのだが、まずは車両のみの青信号、その後でやっとこさ徒歩でまたぐ人々の通行が許される。時間の配分にして7:1.5:1.5くらいだろうか。タイミングが悪く、またぐ側の通行がちょうど終わった頃合いにその場に辿り着いてしまうと、数分間はそのまま大きな幹線道路に立ち尽くすことになるので、漏れなく角にあるコンビニに入る。信号待ちに合わせて、週刊誌からいくつかの記事を拾い読みする。またぐ側の青信号になりそう、というタイミングで、週刊誌を閉じ、外へ出る。あと10秒で記事を読み終わるとなれば、10秒で読み、青信号に間に合わせるように店内から小走り。もうかれこれ2年はこの小走りを続けている。店員は、こいつ、また、青信号に合わせて出ていくんだな、と気付いている。こちらの体の動かし方は明らかに信号のタイミングに準じている。入店から退店まで、ココで物を買う可能性を示唆していない。時間を潰しに来ました、という顔をしているし、あちらは時間を潰しに来たな、という顔をしている。双方が露骨な顔を向け合っている。

入店時には、押し並べて「いらっしゃいませ」の掛け声が、レジやその周辺から聞こえてくる。それは彼らが、入って来た誰かには漏れなく挨拶をするように教えこまれているから。「うわ、信号待ちの時間に雑誌を立ち読みするだけのアイツだ」という把握が瞬時にできたとしても、それは挨拶の有無の判断基準を揺るがすものではない。むしろ、コンビニで店員ごとの差が生じるのは、お店を出る時だ。ちっとも買う素振りを見せないコイツにも、ある人は「ありがとうございました」と言う。しかし、ある人は絶対に何も言わない。毎日のように同じ動作を繰り返していると、店員ごとの言う・言わないがあらかじめ判別できるようになる。この人は言わない人、あの人は嫌々言う人、あの人は区別せずにハツラツと言う人、というように。

レシートを挟み、お釣りを掌に

店を出ていく背中で声の有無を判別していると、時に、これまで言わなかった人が突如言い始めるようになったり、繰り返し言ってくれていた人が言わなくなったりするタイミングが生じる。「いらっしゃいませ」にはマニュアルがあっても、「ありがとうございました」にはおそらくマニュアルがない。信号待ち立ち読み男に、送り出す言葉を出すか出さないか、これは個々人の自由裁量に違いない。そもそも店にとって自分はまったくありがたくない存在で、いちいち応対を見直す必要などない存在のはずだが、応対が徐々に変化していく。こちらはその変化を楽しみながら受け止める。オーナーと名札に記されている中年男性はある日から言わなくなったし、高校生バイトと思しき女性は突如言うようになった。きっかけは分からないけれど、一度変わると、変わったままだ。そもそも自覚があるかどうかすら分からないけれど、接触せずともコミュニケーションが変化していくのが興味深い。媒介しないまま、変化が生まれるのだ。

介護について、言語ではなく仕草を凝視しながら、そこに生まれる緻密な相互作用や意思疎通を探求した細馬宏道『介護するからだ』(医学書院)を読んでいたら、コンビニのおつりの受け渡しでは「想像以上に繊細な出来事」が行なわれている、との指摘に出合った。店員が右手でお釣りをさらいつつ、左手でレシートをちぎる、その間、「客のほとんどはまるで何か別のことに気でもとられているように、財布の中身を確かめたり斜めを向いたりしている」。しかし、店員がお釣りとレシートを整えてこちらを向いた途端に、客は手を差し出す。客が指でレシートをつかむ仕草をみせると、店員はレシートを丸めてその指に挟み、掌にお釣りを入れる。相撲の立ち合いのように、それが初めて相対するケースでも、何度目かであっても、タイミングがばっちり合う。合う、というか、互いに合わせていく。よほどの新米でないかぎり、合わせようとするこちらにあちらが合わせられないことはない。

コミュニケーションの軽量化

この時、高度なコミュニケーションをこなしているという実感はない。むしろ、いずれかがもたついている場面を列の後ろから確認すると、なぜこんなことくらいで慌てふためくのかと苛立つほどに、いつも通りのやり取り、との把握だ。「滞りなく」が唯一の選択肢なのだ。それを難なく成り立たせるのがいわゆる「マニュアル」だと思われがちだが、果たしてそうだろうか。例えば釣り銭の受け渡しを、こちらとあちらで、その都度成立させてきた交歓なのだと考えてみる時、コンビニという空間は、マニュアルなんてものを悠然と踏み越えた繊細な出来事が連鎖している場所と捉えることができる。「いらっしゃいませ」はさておき、「ありがとうございました」は自由裁量なのだし、釣り銭の受け渡しには、いくつものコミュニケーションが折り重なっている。

袋は要らないので、「そのままで結構です」と言い出すタイミングは、あちらのマニュアル依存度の高さがいかほどかを、こちらが瞬時に察知できるかどうかにかかっている。あらかじめ策定された通りに動いている人に対しては、「袋にお入れしますか?」を申し出ようと息を吸うタイミングで「そのままで」と伝える。これがもっとも店員にとってストレスがかからない。マニュアルが定まっていない人は、唐突に袋の有無を尋ねてくるから、もう最初の時点で伝えておく。あちらから言われる前に言う。できれば、言おうと思っていた直前に言う。先方の気分を少しも乱さない方法で伝達することを心がける。それが達成されると、つまり、いかに無難にこなすかというメソッドが達成されると、心地良い気分になる。マニュアルでコミュニケーションを遮断しているのではなく、研ぎ澄まして軽量化している、と考えることもできる。

自然とサンタになれる

長年コンビニエンスストアで働き、未だに働き続けている小説家・村田沙耶香がコンビニを舞台にした小説「コンビニ人間」で芥川賞を受賞したが、彼女自身は「コンビニで働いていると人間が好きになる」(「文學界」2016年9月号)と素直な言葉を並べて語っているのだが、選評に目を向けると、コンビニなどの客商売が挨拶を徹底して規律を設けていることを「高度成長の時代にはまだ存在していた『世間』というコミュニティの代替と見ることもできる」(村上龍)とやや大仰な捉え方がどうしたって目立ってしまう。マニュアルの浸透が作り出す「会社への同化・帰属意識の醸成」は、「外部から見ると宗教的でもあり、昔の寺、海外の教会やモスクの役割を果たしているのかもしれないと思うこともある」とするが、むしろ、村田との対談(前出「文學界」)で、自身もコンビニでの勤務経験のある中村文則が、クリスマスになると否応無しにサンタクロースの恰好をさせられる場所なのに、いざ自分が着ても全く違和感が生じない場所だ、という捉え方をしていて、こうやって静かに馴染んでしまう空間なのだとの指摘が腑に落ちた。同化や帰属で一律となるのではなく、個々人の仄かな能動性がマニュアルへの依拠とバランスを保っている場所なのか。

「コンビニ人間」では、万事を当たり前にこなす店員が、その当たり前を堪能することをどこまでも嬉々としながら身体に取り込んでいく様を、それって異様ではないかと内外から諭されていく。でもその突っ込みは、「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ」との言葉からも分かるように、普通以外を探し当てることで普通を保つ人にとっての安堵の代替でしかない。普通を普通に堪能してはいけない。コンビニという存在が身体に忍び込んでいく様を指差して、普通じゃない、気持ち悪い、という声が飛ぶ。それが「コンビニというマニュアルの集積のような職場であっても、そこもまた血の通った人間の体温によって成り立っていることを独特のユーモアと描写力で読ませていく佳品である」(宮本輝)という理解にも落ち着いていくのだが、それよりも、コンビニとは難なくサンタの恰好になれてしまう場所である、という特性に向き合ったのがこの作品である。あのサンタに血は通っていないのである。血は通っていないのに、自然とサンタになれるのである。

内閣府の「終わりなき挑戦」

この6月に、政府は、商店の建築が原則禁止されている「第1種低層住居専用地域」、簡略化すれば住宅地だらけの土地においても、コンビニの出店が条件付きでできるように、事実上の規制緩和を行うことに決めた。内閣府の規制改革会議の資料「規制改革に関する第4次答申 ~終わりなき挑戦~」、その軽薄なサブタイトルに閉口しつつも読み進めると、このようにある。

「コンビニエンスストアは、第一種低層住居専用地域においては建築することができず、第二種低層住居専用地域においては床面積が150㎡以内のもののみ建築することができるが、『買い物難民』への対応やバリアフリーへの対応等の観点から、第一種低層住居専用地域における建築及び第二種低層住居専用地域における床面積制限の緩和を可能とすべきとの指摘がある。

したがって、コンビニエンスストアについて、低層住宅に係る良好な住居の環境を害しない場合には、地域の実情やニーズに応じて、第一種低層住居専用地域における建築及び第二種低層住居専用地域における床面積制限を超えての建築ができるよう、建築基準法第48条の規定に基づく許可に係る技術的助言を発出し、その内容を周知徹底する」

難しい言葉が並んでいるけれど、整理すれば、コンビニ業界からの強い要請に基づいてコンビニ建設要件を特別に緩和してもらい、商機の拡大を狙うというもの。政府にしてみれば、経済活性化の一環として訴えることもできれば、「『買い物難民』への対応やバリアフリーへの対応」とすることもできる。5万店舗、年間10兆円を超えるコンビニ売り上げの更なる拡大が見込まれているわけだが、国土交通省はなし崩し的に許容するのではなく、「地域住民の実情やニーズに応じて許可を出す」(日テレNEWS24)としている。先述のテキストから引用するならば「良好な住居の環境を害しない場合には」が鍵となるが、この基準、一体どのように定めるのだろう。若者がたむろする、といった実に古めかしい懸念が浮上するだろうし、そこからは地域コミュニティが崩壊するとの意見がいくらでも芽生えるはず。商機があると踏んだので適用、という一致団結は、「一定の懸念はあるけど便利になりますから」を強めることで作り上げられるのだろうが、この時に「コンビニというマニュアルの集積」が賛否双方でネガティブに起動する心地悪さを先んじて味わってしまう。

ありきたりなままの「世間」

コンビニという「箱」の圴一性。そして、そこで働く「個」の圴一性。「箱」を作る側は均一を目指しているけれど、そこにいる「個」は均一に身を委ねているだけで、決して均一であるわけではない。唐突に話を大幅に逸らすが、先日、「情熱大陸」に大竹しのぶが出演しており、彼女の舞台での演じ方が回ごとに異なることを知らせるために、別日の同じシーンを一つの画面に二つ並べて流していた。その日ごとに演技が異なることを、この番組では「さすが大女優」との文脈で紹介していた。さすがに驚いてしまう。人は、舞台上に限らず、同じ動きをせよと要請されても、同じ動きをしない。できない。「画一性の気持ち悪さ」ではなく、「いつもの“画一性の気持ち悪さ”に回収しようとする力の強さに気付けない」制作者の存在を知る。もしかして、彼らは大女優でもなければその都度の動きができない、と思っているのだろうか。

「いらっしゃいませ」は画一でも、「ありがとうございました」は人それぞれ。その「ありがとうございました」は一回きりかもしれないし、継続性を持つかもしれない。いくらでも違いが生まれる。そこにあるものを、いたずらにノッペリとしたものだと咀嚼する働きかけをもう少し疑いたい。遂に今日こそ「ありがとうございました」が投じられるかもしれない、この可能性をあまり早急に放り捨てるべきではない。このあたりを蔑ろにして動きをひとつに絞ろうとする態度が、結局のところ、あらゆる「『世間』というコミュニティ」の空気をありきたりのまま更新させる。それは間違い、というより、つまらないと思う。

SIGN_06TAKEDA1982年生。ライター/編集。2014年9月、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!個人」「ハフィントン・ポスト」「LITERA」「マイナビ」などで連載。雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」「TRASH UP!!」などで執筆中。インタヴュー・書籍構成も手掛ける。2015年4月に刊行した『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)で、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。http://www.t-satetsu.com/