やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。
こんな真夜中に外を歩くのは久しぶり、と言いたくなるけれど、ほんとうにはたった数か月ぶりくらいのことだった。しかも以前と同じように、保育園のママ友と一緒に歩いている。クラスのお母さんたちの飲み会で、最後まで残った三人で飲んでいたらこんな時間になってしまった(前回もそうだった)。それでも真夜中に誰かと並んで歩いているこの状況は特別で、だから何度でも新鮮にうれしく感じる。
さっきまで真っ暗だったのに、なんかうっすら明るくなってきてますね、と話しながらお互いの家を目指す。夏至間近の午前4時、朝でも夜でもないふしぎな時間をこうして歩いている。途中、立ち止まってやけに街灯が明るいことを言うと、ママ友は笑う。「ほんとに、そういうことよく気づきますよねー」という声が歌声みたいでいいな、と思う。思うだけで、そのことはなんとなく言わずにおいた。
大きな交差点で別れ、細い住宅街の道をひとりで歩く。こんな人も車も通らない明け方にも、案外家に明かりはついていて、防犯なのかほんとうに起きているのか、たしかにそれはそこに住む人が灯した明かりで、だからこうして外に光が洩れている。
東京で毎日のように見ていた、車窓を過ぎる集合住宅のたくさんの窓、ベランダ、一つひとつにそれぞれの暮らしがあることを、わたしはずっと「背負えない」と思っていた。背負う必要なんてはじめからないのに。それは神さまのすることで、わたしは神ではないのだから。わかっていても、どうしてもそう思ってしまう。
窓の明かり一つひとつにそれぞれの暮らしがある、ということはつまりそこに暮らす一人に感情の嵐があるということだ。つらい、かなしい、死にたいと塞ぐ人がいまこの瞬間にもいるのだと思うたびに、思ってしまっては勝手に落ち込んだ。それぞれが、ほんとうには思ったよりもしたたかで、同時に打たれ弱く、くたびれて、譲れないことがあり、気分があり、体調があり、大切なひとも、嫌いなひともいる。つまり、わたしにはやっぱり背負えない。言い聞かせなくても知っていることを、わたしはなぜこんなにも拘るのだろう。
他人のことを、それも知りもしない人のことまで、わたしは勝手に想像しすぎるのだと思う。
たとえば、駅のホームで喪服姿の人を見る。ものすごいかなしみの渦中にあるのかもしれない、と勝手に想像する。どんなにつらい葬儀にも、みな喪服を着る。憔悴していようが、けれど着の身着のままぼろぼろの姿でやってくる人はいないはずだ。かなしみのなかで、その人は黒いストッキングを穿き、電車に乗ってそこへやってくる。夏であれば、汗ばんでストッキングはつま先でひっかかる。そのストッキングの、穿きづらさを想像する。ホームに真っ直ぐに立つその人の、きちんとした装いの裏には、穿きづらいストッキングがあったのだ。そういうことを、飽きずに考えてしまう。
どうにも、想像力の及ばせ方がおかしいのかもしれない。
想像したってそれはわたしの想像にすぎず、何も変わらないし、何も起こらない。それでいて、遠くの国が戦下にあることを、うまく想像できない。いや、目を背けているだけなのかもしれない。ほんとうの想像力とは、目の前にいるひとへ働かせるそれと同じか、それ以上の飛距離をもって、ここにはいない誰かに遠くとおく、飛ばせるものであるはずなのに。あなたが何を感じて眠りにつくのか、知らずにいる。あなたはどこにいるのか。あなたっていったい誰なのか。
さっきまでわたしたちは、ひたすら酒を飲みながら、色んな話をした。保育園の新しいクラスの担任を囲んだ飲み会。一次会ですでにみんな出来あがっていたのに、やっぱりいつもの三人で、「まだまだ飲み足りないよね」と二軒目を目指した。たどり着いた駅前のチェーンの居酒屋で、三人ともほとんど目の据わったまま色んなことを話した。いや、話したはず、というくらい何も覚えていない。もちろんまったく記憶がないわけではない。どういう文脈だったか、わたしはふたりに「自分の生活は自分で守ればいいんですよ、守っていいんですよ」と言った。後ろめたく思うことなんてないんですよ。そう、何度も繰り返した。ふたりは黙って頷いていた。それからまた、笑い話をした。
「恵まれてる」と、自分の今の生活についてよく思う。恵まれてる。家もあるし、夫も子供もいるし、仕事もあるし……。
(『続きと始まり』柴崎友香)
自分は「恵まれている」と内省するときの後ろめたさ。三人で話していたときも、たしかそういう話が出たのだと思う。震災もコロナも戦争も、いつの間にか世界は大きく変わって、いったい子どもたちが大人になる頃にはどうなっているんだろう。こんな状況で子育てするのって不安。でもわたしたちなんてこうして夜中まで飲めて、話せる友だちがいて。仕事もあって。
なぜ、そう思うことが後ろめたいのだろう。家があることも、家族がいることも。直接震災や戦争を経験していないことも。恵まれていると思うことを、誰にも言ってはいけない気がする。
いま自分とその周りが目下大きな困りごともなく元気でいられることは、単なる運に過ぎないからだとわかっているからなのかもしれない。そこに理由はない。たまたま、いまはこの生活が脅かされていないだけ。ただ、運がいいだけ。そう言い聞かせるときにどうしても残る後ろ暗さと、どう折り合いをつけたらいいのだろう。
恵まれてるよね、と誰かに決めつけられるわけではない。ただ勝手に思う。思いながら、それでも、それなのに日々はままならないし、やり切れない。でもほんとうには誰かに思われているのではないか。でもあなたは恵まれているでしょう、と。そんなふうに勝手に、聞こえるはずのない他人の声を聞こうとしてしまう。
「ラッキー」
河田さんの言葉を、優子は繰り返した。そして、東京での職場の光景を思い浮かべた。「そうか。ラッキーじゃなかったっていうだけなんや」
「石原さんが?」
「そうですね。なんか、アンラッキー、ぐらいの言葉が日本語であったらいいですね、不幸とか不運とかやともうちょっと悲しい感じするじゃないですか」
(同書)
たとえば何かの行列や、目当ての商品を売り切れ直前で手にしたときの、「ラッキー」という言葉にずっと違和感、いや嫌悪感がある。なんてことはない、たしかにそれは「ラッキー」だった。欲しいものを、滑り込みで手にできたのだから。けれど、自分がそれを手に入れた分、手にできない人もいる。そりゃしょうがないよ。もっと早く来ればよかったのにね。残念だったね。そう片づけられてしまうのだろう。
手にできなかったものが、たとえばプリンであればそれで済む。でも、そうでないことだとしたら。もっと、それが生活や人生にかかわるような抜き差しならぬ出来事だとしたら。それでも残念だったね、と微笑めるだろうか。いや、むしろちいさなプリンひとつだからこそ、そこに凝縮された卑しさを見てしまうのかもしれない。ラッキー、と言って後ろを決して振り向かないひとのことを、したたかだと思う。そして同じだけ、卑しいと思う。
あるいはスーパーで、一番奥の牛乳に手を伸ばす人を見るたびに同じことを思う。「手前取りにご協力ください」という注意書きが見えないのだろうか。見えていても気にしないのかもしれない。自分だってたいがい吝嗇のくせに。でもそう思う。自分さえよければいい、という無神経さがどうしようもなく、苦しい。大仰かもしれない。だから思っても、誰にも話さない。
小説の終盤にあった言葉を思い出す。「なんとなく世の中は少しずつよくなっていくのだと思っていた。より正確に言えば、自分がなにもしなくても、なにも言わなくても、よくなっていくと思っていた。誰かがちゃんとやってくれると思っていた。」
何かこの世に信じられないようなことが現実に起きて、なのにわたしたちは時が経てば忘れてしまう。自分の身に起きたことでなければ、ほんとうにあっさりと忘れてしまう。そのおそろしさと、同じだけある強さ、したたかさ。忘れられるから、こうして生きていられる。だって自分には自分の暮らしがあって、それはそれとしてままならず、慌ただしく、わたしやあなたの感情を交換するだけでこんなにも忙しいんです。誰に話すでもなく、すぐに言い訳めいてしまう。
ラッキーはずるい、でもアンラッキーもいやだ。わたしはただ、たまたまここにあるいまを、ちゃんとたまたまのことなのだと思いたいのかもしれない。
恵まれていることを後ろめたく思う。それでいて、いっそ開きなおるようでもある。わたしたちは、自分の暮らしを守りながら、社会の理不尽なことにはもっと、怒っていいんだと思います。そして、いまたまたま健康で、しあわせであることをこころから喜んでいいんじゃないかな。いいんだよ、だっていまこうして一緒に飲めることが、わたしはほんとうにうれしいんです。
さっきふたりに言ったことは、ほんとうに自分の言葉だったのだろうか。ものすごく酔っていたのだと思う。そんなこと、ほんとうに言ったのだろうか。自分の言葉よりも、唾を飛ばしながら話すわたしを見つめていたふたりの顔が、いまも離れずにある。
気づけばさっきまで奥の座敷で騒いでいた大学生たちもいなくなり、店員に「すみません、閉店です」と言われてえっうそ、もう三時だ! と笑いながら店を出た。
この居酒屋に来るまでの道すがら、わたしはふたりに「手つなぎません?」と言った。いや、言ったかどうか、覚えていない。両手を差しだしたら、ふたりとも当たり前のように手をつないでくれた。
はじめてつないだのに、いつも、ずっとそうしてきたみたいに手をつないでくれるひとがいる。なんなんだ、そのおかしさ。みんな酔っているから。でもうれしい。夫と、子ども以外にもわたしにはいま、手をつなげるひとがいる。手をつなぎたいだなんて自分が言い出したことに驚きながら、でもたまらなくうれしいのだった。
わたしたちはつないだ両手をぶんぶん振って、この夜の繁華街とも言えないささやかな並びを歩いて、笑っている。踊るように、もつれるようにステップを踏む。誰かが笑えばまた誰かがつられて笑う。何かを振り切るみたいに、虚勢のように、けれどただうれしいのだ。ほんのいっときでいいから、いまうれしいことを、もうほんの少しだけこのまま、感じていたい。
(了)
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- 14回目 旅ではないわたしたちの
- 第13回 踊るように
- 第12回 わたしの青空
- 第11回 なめらかな過去
- 第10回 ちぐはぐな部屋
- 第9回 この世の影を
- 第8回 映したりしない
- 第7回 とばされそうな
- 第6回 はらはら落ちる
- 第5回 もしもぶつかれば
- 第4回 つややかな舌
- 第3回 鴨になりたい
- 第2回 かがやくばかり
- 第1回 いまこのからだで目に映るもの