ニュースを見て「わかる」こととアートを「わかる」ことには違いがある。この連載では、社会問題を扱った現代アートの批評を軸としながら、「なぜアートを介する必要があるのか?」「他者の問題をわかるとはどういうことか?」を考えていきます。
この連載のサブタイトルには、「反差別の手立てとしてのアート鑑賞」とあります。個々のアーティストの作品について見ていく前にまず、「なぜアートを見ることが反差別になるのか?」ということについて、お話しできればと思います。
先日、東京都知事選が行われました。その候補者の一人であった石丸伸二氏が、安芸高田市の市長時代に同市内八千代町にある八千代の丘美術館の休館をめぐって、地元の中学生から休館しない可能性はないのかという趣旨の質問を受け、「美術館の二千万円の運営費は中学校と小学校の給食費の無償化を取りやめにすれば捻出することができるから、どちらをとるか君たちが今決めていい、どちらを選ぶか?」といった回答をしたことが話題になりました(2024年7月現在、すでに八千代の丘美術館は休館となっています)。
質問に質問で返すところにすでにちょっとした抵抗感を覚えますが、年間の利用者数が少なかったことはおそらく事実だったのでしょう。美術館があればそこで働く人がいるし、その設備を維持していくのにもお金がかかるわけで、すべての美術館が予算度外視で無条件になんとしてでも守られるべきとは言えません。
ただ、個人的には美術大学の教員として、そして、アートに関する文章を書く人間として、あるいはひとりのアートファンとして、美術館をはじめとする「アートを見せる場所」がなくなってしまうことについて、大きな危惧を抱いています。
この危惧の内実については後ほど詳しくお話しすることとして、せっかくなので、「なぜアートを見ることが反差別になるのか?」の前段階として、この石丸氏の発言についてもう少し考えてみたいと思います。
まず、さきほどの石丸氏の発言内容をあらためて見てみると、美術館か、給食費無償化かどちらかを選べという二項対立は、現実には存在しない問題設定です。であるにもかかわらず、こうした問いを提示され選択肢を示されると、ついついどちらかを選ばなくてはいけないような気になってしまいます。この点で石丸氏の「質問返し」は巧みです。お客さんの少ない美術館と小中学校の給食費の無償化のどちらかを選べと言われたら当然、給食費の無償化をとる人が多くなるはずだからです。物価高と少子化の現代において、生存に直接関わる給食費の無償化のほうを優先するべきだという考えが、当然、現実に即した判断となるでしょう。このようにして、休館を進めたことについて批判を受けたくないと考える石丸氏に有利な考え方に多くの人が導かれ、同時に、アートは食べることよりも社会的な必要性がないものであるという認識が形成されます。これはつまり、美術館の、あるいはアートの、社会における必要性を「コスト」の面からのみ判断せざるを得ないように仕向ける二者択一の問いの立て方なのです。
でも、先ほども書いた通り、これらは本来的にはどちらか一方を捨てなくてはどちらかが得られないという対象ではないはずです。もし美術館に関連する予算となにか別の予算の二者択一という状況があったとしてももっと比較対象として適当なものがあるはずで、これらは比較対象にするべきものではないのです。
それでも、ここではあえて考えてみたいと思います。食べることほどには重要でない、生きるためには役に立たないアートが、(そしてそれを収蔵し保存し展示する美術館が)、なぜこの社会に必要なのか。生存には不必要なアート、社会の必需品ではない、不要不急のアートを、どうして社会としてありがたがって、残すように努力しないといけないのか。あるいは、この社会からアートがなくなることは、どう悪いのか。
という問いを立ててみたものの、こうしてアートの存在の意義を問われたとき、実はアート界はこれにズバリ答えるのが非常に苦手であることを否定できません。そもそも、アートとはなにかという定義についてもアートに関わる人たちのなかで一致した見解があるわけではなく、美術批評家、美学者、アーティストたちは、それぞれ異なる意見を持っています。例えば「癒し」、「心を豊かにする」、「感性のトレーニング」、「美の具現化」、「コミュニケーション手段のひとつ」あるいは「社会における『炭鉱のカナリア』の役割」……などと、アートはさまざまに説明されてきました。このようにアートの意味や意義についての見解すら異なっていることをこそ、アートは美徳としている部分があります。考えをひとつにまとめるつもりがなく、唯一の答えがないことをアートらしい態度として、多様なまま、まとまらないままにしておく。こうした理念に立って答えるならば「なぜアートが社会に必要なのかという問いに対して、唯一の回答を示さないということがアートの存在意義である」となるでしょうか。
これは「なぜアートが社会に必要なのか?」といった問いに対しての誠実な回答というよりは、むしろ屁理屈のように感じられるかもしれません。例えば「エログロ」や「迷惑系」的なアート作品が、SNS等で議論になったとき、「アート無罪」という言葉が使われることがあります(実際には無罪なんてことはないのですが)。この言葉が示すのは、アートが「これはアートである」と言えばどんなものでも肯定され、罪を問われず、なぜか許されてしまうちょっとうさんくさい分野であるという印象を持っている人が少なくないということを示しています。そうした印象がある人にとっては石丸氏のように、アートの存在を、「食べること(=生きるために不可欠なこと)」と比較させる二者択一の選択肢のほうが、ずいぶんスッキリとしていて好ましく感じられるかもしれないし、そんな屁理屈で維持されるアートなんて不要であると考えられてしまうのも全くわからないというわけではありません。
実際、アートは玉石混交です。見た目がよくて、宝物のように思われるものもあれば、なかには評価のしようのないガラクタのように思われるようなものあります。そして一見するだけでは単なるガラクタのようなものが高額であったり、超絶技巧で描かれた精巧に見える絵画が実はあまり評価が高くないということもあったりします。他方で、扱うモチーフやアーティストの「過激」ともとれる制作行為によって世間一般には白い目で見られる作品や、「けしからん」と炎上するものもあります。これらのことが、アートそのものを理解することをより難しくしているのは確かです。
ではそんな、わかりにくく、役に立たないものであるアートはなぜこの社会に必要なのか。
ここで改めてこの問いに私なりに答えるとするならば、「わかりにくく、役に立たないものたちのための領域をこの社会に確保しておくため」ということになると思います。というのは、役に立たないものの多様さを守ろうとするアートの理念は、社会における人権の概念と重ねて考えることができるからです。
アートが、社会のなかで「よくわからない」「役に立たない」と思われていて、それによって不信に思われたりするのは、社会のなかで、ある属性を持つ人たちが「よくわからない」「役に立たない」とされることに似ています。現実には、そういうふんわりとした「わからなさ」や「役に立たない」というレッテルが、社会的な排除や、厳しい差別、そして暴力につながっていくこともあります。もちろん、それをアートの状況と全く同じだということはできませんが、わかりにくく役に立たないアートの領域をこの社会に確保することはわかりにくいとか役に立たないとされる人が、安心して生きていける社会を守ることにつながっています。
というのは、アートを生存に不可欠なものと比較して遠回しに社会の役に立たない不要なものとレッテルを貼るコスパ重視の考え方は、「役に立つ」ものや人だけが存在を許される社会を、導きうるからです。だからこそ、わたしは、このようにアートやアートを見せることができる場所が狭められたり、奪われたりすることをとても、とても危惧しています。
ですから、この連載では、アートの存在意義を「わかりにくく、役に立たないものたちの領域を守ること」としつつも、その領域と、断絶しつつある社会の間を取り持ちたいと考えています。そしてそのためには、結果として、アートをわかるという経験と、アートが何らかの役に立たせることも、必要ではないかと思うのです。
ここで、「ちょっと待って!これまでの話と、大きく矛盾しているじゃん!」と思った方もいることでしょう。結局、アートを「わかる」「役立てる」に帰結させるのか、と。
というのはさっき「アートの存在」の意義を問われたとき、実はアート界はこれにズバリ答えるのが非常に苦手であると述べました。苦手と言えばまだマイルドで、実際には答えること、この社会にどのように必要であるかをアピールすることを、アートはちょっとサボっていたのではないかと、個人的には考えています。そのうえ「わかりにくく、役に立たないものたち」であることが存在の意義なのだというと、ますますアートへの興味を失うという人もいると思います。
というわけで、次回以降は、「わからない」、「役に立たない」アートを「わかる」、「役立てる」というこの連載の位置付けについて、改めてお話ししていきます。
1991年埼玉県出身。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教。専門は写真の美学。『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書、2023年)、The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、POPEYE Web連載「おとといまでのわたしのための写真論」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。