第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。

 1,本連載で展開しようと思っていること

  男は下駄を履かされているのか、弱者なのか

男とは、どういう生き物だろうか。

男には「特権」があるとも言われる。男女の賃金は女性の方が3割ほど低い(厚生労働省「令和4年賃金構造基本統計調査」)。国会議員の数は、女性が男性の16.1%(2024年2月時点、内閣府男女共同参画局「政治分野における男女共同参画の状況」)。プライム市場上場企業における女性役員の割合は13.4%(2023年、内閣府男女共同参画局『共同参画』2024年2月号)。明らかにカネと権力を持つのは男性に片寄っており、この点で一般的に「男性特権」と呼ばれるもの、女性に対する不平等が存在することは確かなようにも見える。

一方で、「男はつらい」「男の方が差別されている」という意見がある。令和四年における自殺者数は、男性は14746人、女性は7135人で、男性が約2倍(厚生労働省「令和4年の主要な自殺の状況」)。平均寿命は男性81.09歳に対し、女性は87.14歳で、6年ほど長い(厚生労働省「令和5年簡易生命表」)。ホームレスの数は、男性が2575人に対して、女性が172人(2024年、厚生労働省「ホームレスの実態に関する全国調査(概数調査)」)。幸福度は、女性が69.6%、男性が59.3%と、10%近く女性の方が高い(2023年、朝日広告社「第2回ウェルビーイング調査」)。生涯未婚率は2020年時点で、男性が28.3%、女性が17.8%(2023年、こども家庭庁「少子化の状況及び少子化への対処施策の概況」)。その他、殺人の被害者も男性が多く、低賃金で危険な労働なども男性に片寄っているという意見がある。「男のほうがつらい」というのも、また確かなようにも見える。

この、一見矛盾することを、どう説明したらいいのだろうか。

ネットで良く見る説明としては、「男性特権」「家父長制」があるからだ、男が競争社会を形成するからだ、というものや、男性は遺伝子的に女性よりも上も下も多様に分散しがちな特性を持っているのだ、という説明がある。そしてこれらを根拠にして、男性には原罪があるだとか、女性は楽をしているという、不毛な男女対立の議論が展開されるのは、お決まりの展開だ。

だが、果たして、本当はどういうことなのだろうか。

まずは、これら、「女が差別されている」「男の方がつらい」と、どちらの主張も可能になるような一見矛盾して見える統計的事実を直視するところから始め、「男」「男性性」を考えていくことで、ネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ねていくのが、本連載の趣旨となる。

 男性学2.0

方法論として採用するのは、男性学である。

男性学とは「男性が抱える問題や悩みを対象とする学問」(田中俊之『男がつらいよ』p6)である。それは「女性学の影響を受けて成立」したものであり、上野千鶴子曰く「男性学がフェミニズム以後の男性の自己省察であり、したがってフェミニズムの当の産物」である(「『オヤジ』になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」『男性学』p2)。男性が男性として、自己の経験や悩みを自己省察していく当事者研究的な学問としての「男性学」の手法を、本連載では採用するつもりだ。

とはいえ、「男性学」に反発する向きがあることも理解している。それ自体が、家父長制や女性差別の構造を温存するというフェミズムの観点からの批判もあれば(江原由美子「『男はつらいよ型男性学』の限界と可能性」、澁谷知美「ここが信用できない日本の男性学」)、あるいは逆に、フェミニズム寄りであるから男性たちにとって役に立つものになっていない、という批判がされることもある。たとえば、ベンジャミン・クリッツァーは『モヤモヤする正義』のなかで「男性学は『社会は女性差別的である』というフェミニズムの前提を共有しているため、女性の方の不利益を強調して、男性のほうの不利益を見過ごしたり過小評価したりしてしまいがちだ」「フェミニストのなかには、男性学が男性のつらさや不利益に焦点を当てることを批判する人も多い」(p346)と、男性学への不満を述べる(それでも男性が男性自身のことを語る言葉が必要だとクリッツァーは言っている)。後者に類する、男性学がフェミニズム寄りであるから信用できない、自分たちの苦境を救うものになっていない、という意見は、ネットでたくさん見かける。

本連載では、フェミニズムやその影響の強いタイプの男性学的な言説では救われないと感じている男性たちが救われるための男性学を手探りしてみたいと思っている。

たとえば、問題の解決に、「男は弱さを認めろ」とか「競争を好んでしまう男性性に問題がある」とか「そのつらさは強者男性のせいなので強者男性と戦うべきだ」、「家父長制を打倒せよ」などの意見が言われることがある。それらはマクロな分析としては正しい部分が多いと個人的にも感じる。しかし、たとえば「弱者男性」や「非モテ」の研究に頻出する、傷つき、学習性無力感に陥っていたり、気力がない状態になっている者たちにとって、「そうは言われてもできないし、それでは救われないよ」と感じてしまうことは事実だと思われる。本連載は、そのような男性たちが、それでも救われるような方法を模索する男性学でありたいと願っている。

 男性の問題を語ることが、反フェミニズムやミソジニーと誤解されやすい構造的問題

男性は特権がある権力者なのか、それとも被抑圧者なのか、という問題に戻ろう。実はこれも男性学の中で既に議論されてきたことであり、昨今のSNSでは、この議論と構造的に類似の図式が反復している。この議論を確認しておくことは、フェミニズムへの反発がなぜ一部の男性に生じるのか、というメカニズムの説明にもなっている。

一九八九年の『現代思想』「セックスの政治学――男のフェミニズム」特集では、上野千鶴子は『脱男性の時代』を書いた渡辺恒夫を批判し、男性の被抑圧性を主張する言説は男性の権力性を隠蔽するのだと主張した。

確かに、男性の「つらさ(被抑圧性)」を語る言説はバックラッシュや、「男性特権」の温存と見做されやすく、実際にそう機能しがちである。しかし男性の権力性や特権性への批判を一面的に行う議論では、男性の被抑圧性や複数性(男性の中にも、強弱や、様々な階層や属性があること)を上手く言語化や問題化ができなくなってしまうこともまた確かなのだ。

田中は、「こうして、『男性問題』をめぐる議論は行き詰まることになる」(『男性学の新展開』p35)のだと分析し、ここをこそ「適切に」語ることが必要なのだと言う。これは、クリッツァーの批判に反し、男性学が、フェミニズムの恩恵を受けて成立した学問でありながら、適切に距離を置いたり批判的な緊張感を持ちながら問題を言語化しようとする努力を行ってきた領域であることを示す。

男性の被抑圧性(つらさ)の語りにくさを、分かりやすくネットの例で言い換えよう。「男もつらい!」という発言が、フェミニズムや女性を攻撃し、居直るために使われる場面も多い。それに警戒する余り、男性の抱える問題を議論しようとすること自体が、ミソジニーや反フェミニズムだと早合点されてしまい、この問題が語りにくくなってしまうという構造的な問題も既に男性学の中で議論されてきた。私見では、フェミニズムへの反発の一部は、そのような「早合点」(もしくは妥当であれば過剰であることもある政治的な警戒心・危惧)によって生じている部分がある。だから、ここを丁寧に扱い、「早合点」を抑制することができ、男性のつらさなどの言語化が促進されれば、ミソジニーや反フェミニズムも減るはずなのだ。

本連載では、以上の理由から、男性学がフェミニズムの方法論の延長線上にあることを理解しつつも、フェミニズムにあるドグマや、単なる無知や無理解(一部の男性が生理などを理解していないことに男女逆で相当するもの)からは距離を起き、生物学も進化論も脳神経科学も統計も駆使しようと思うのだ。「救われる」ための具体的な解決法を模索し解決を志向するときに、生物学や脳神経科学を否定するのは、利が乏しいと思うからだ。だから、極端な論者のように性差の全てを社会構築主義だけで説明はしないし、男性が常に悪く原罪があるのだと結論を先取しないし、科学や統計やエビデンスそれ自体が男性中心主義的なバックラッシュだと断定し排除したりはしないつもりである。

本連載自体が、さまざまな構造的な困難の中で誤解をされる可能性を承知の上で、バックラッシュや男性の権力温存にも、フェミニズムによるドグマや男性性への無理解による言説にも陥らないような、「適切」な男性自身による男性についての言葉を紡ぎ、男性の問題性、愚かしさ、弱さだけでなく、「男性学」があまり論じようとしてこなかった栄光、魅力、強さなどについても、言語化していき、男性とはどんな生き物なのかを明らかにしたいのである。

そのために、今まさにジェンダーの対立の主戦場となっている現在のネットにおいて流通し影響力を持っている概念を俎上に上げ、それをひとつひとつ論じていきながら、フェミニズムでは救われない男たちのための男性学、いわば男性学2.0のようなものを作り上げていけたらと思う。2.0と付けたのは、ネットの状況、その普及による変化を意識しますよ、というニュアンスである。かつては一部のインテリだけの理論や議論だと思われていたものが、SNSなどによって大衆的に生きられてしまっている状況における男性学のアップデートと介入、というような狙いをこめたつもりだ。

具体的に扱う予定のものは、「女をあてがえ」論、「上昇婚批判」、「KKO」、「かわいそうランキング」、「ガラスの地下室」、「女だけの街」、「非モテ」、「暴力的な男の方がモテる」vs「男も弱さを認めろ」論争、「表現の自由」戦士、新自由主義vsケア、などである。

なお、本論で「男/女」と区分けして話すが、あくまでそれは統計的な傾向を意味しており、本質でもないし、そうあるべきという規範でもない。筆者自身は、理論的にも経験的にも、「男女」と単純に二項対立に出来ないほど現実の人間のあり方は多様であると認識している。これまで作品を論じてきた文章でも、クィア性やノンバイナリー性、あるいは生物学的な性質を超えようとするトランス的な側面に共感的な表現が多いと思う。とはいえ、あまり脱構築しすぎても具体的な課題解決に繋がらない部分もあると思うので、生物学的・進化論的な特性が統計的な傾向としてあることは認め、あまりにそれを無視しすぎるのも歪みが出るかもしれないという危惧を持ちつつも、それが自然であり規範であるとは主張しないという立場で論じていくことになる。

これらの議論で、男性が自分たち自身のことを考え言語化し主張し救われるようになる助けができたら嬉しい。また、女性の皆さんにも、男性という奇妙な生き物を知るための助けになってくれて、相互理解と対話が促進したら、とてもうれしい。そうすれば世界は平和に近づき、理解に基づいた信頼と愛が生まれやすくなると思うからだ。

 2,「弱者男性」とは何なのだろうか

 「弱者男性」とは何か

ここまで、方法論や連載の狙いについて書いてきた。ここからは、具体的な内容に入ろう。本連載は、ネットで流通している男女論におけるキーワードを採り上げ、論じていくと言った。その第一回として、「弱者男性」という言葉を扱ってみようと思う。フェミニズムに反発し、それでは救われないと感じている男性たちとも重なりがあるだろうと思うからだ。

では、「弱者男性」の定義を考えてみよう。ネットでは、理系・科学的であることを男性性のプライドにしている者が少なからずいるが、「弱者男性」という言葉はろくな定義もなく使われている。「弱者男性」とはネットスラングであり、様々な用語法でいい加減に使われている言葉であり、決定的な定義は存在しないというのが現状である。

よって、このような概念にアプローチするときに人文学が採る手法である「概念史」「言説史」的に、この言葉を考えてみよう。それは、「弱者男性」という言葉が実際にどのように使われてきたのかを辿ることで、その言葉・概念の使われ方や輪郭を知るアプローチである。

まずは、一番目に付く、SNSなどでの通俗的な用法を見てみよう。具体的な引用はしないが、それは、「男のほうがつらいんだ!」とフェミニストたちの訴えを相対化させるために使われることもあれば、障害や貧困などの弱者性を持つ男性の真摯な訴えの場合もあり、ナンパ師界隈では女にモテない男や女性に優しく媚びを売る男のことを指す。女性たちの一部には「チー牛」などと同じように単なる罵倒語として使う向きもある。女性への批判や攻撃を伴うことが多かったので、弱者男性について論じようとする言説は、ミソジニー扱いされてしまうことが多い。インフルエンサーや、情報商材を売る者がそれを煽ることも多いようだ。

 公的支援の対象としての「弱者男性」

トイアンナ『弱者男性1500万人時代』では、(どちらかといえば)客観的な属性による定義を試みている。

彼女は、「日本には最大1500万人の弱者男性」(男性の24%)がいると言う。彼女は、以下のカテゴリに当てはまる人を「弱者男性」と定義し推計する。そのカテゴリは、「障がい者、信者の家族、引きこもり、介護者、虐待サバイバー、犯罪被害サバイバー、多重債務者の家族、容姿にハンディのある人、貧困、性的マイノリティ、境界知能、非正規雇用・無職、コミュニケーション弱者、3K労働従事者、在日外国人、民族的マイノリティ、きょうだい児」であり、合計が推計して1500万人である。彼女の議論の特徴は、弱者男性論とミソジニーを切り離そうとする点であり、公的な対策を志向していることにある。

ベンジャミン・クリッツァーは、『モヤモヤする正義』の中で、「弱者男性」の問題として「経済、親密性の欠如という『二重苦』」(p411)を挙げている。親密性という観点を重視していること、それが公的支援の対象とするべきものであると主張する点が、彼の議論の特徴である。正義論や公共哲学を検討した上で、公的支援をすることは「正義」に適うと彼は結論付ける。

もうひとつ、クリッツァーの議論で重要なのは、「弱者男性」とネットの「弱者男性論」をわけて考えていることである。ネットでは有害な「弱者男性論」が、感情を煽り短期的な快楽を提供し、収益化する「論客」「インフルエンサー」によってまるで「陰謀論のような思考」として蔓延しているのだと非難している。それは恨み辛みやエコーチャンバー、揶揄などに終始し、自分たちの境遇を本気で改善する政策提言などはしない点を彼は強く批判する。

「弱者男性」と情報化時代・新自由主義

 確かに、ネットの弱者男性論は、ミラーリング、パロディ、からかいに終始する傾向がある。氷河期世代、2ちゃんねる世代のメンタリティに対応している。2ちゃんねるは、北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で論じたように、1980年代、90年代のバラエティ文化のノリの延長線上にあり、日本社会が不況に陥っているのにそれが例外的に延命していた場所だった。それは80年代の「繁栄と平和」の感覚ゆえに、政治的・社会的な問題を忌避する傾向があった。

このような性質について鋭い分析をしているのが伊藤昌亮の「『弱者男性論』の形成と変容」(『現代思想』2022年12月号)である。伊藤によれば、「弱者男性」論は2ちゃんねるにおけるミソジニーの系譜、反リベラル、反フェミニズムの流れを汲んでいる。2000年代の赤木智弘『若者を見殺しにする国』、本田透『電波男』の議論が先駆者として存在していた。

重要な指摘が、2ちゃんねるなどでの先行する議論の主体が「恋愛弱者」であるが「情報強者」であるという自意識をも持っていたという指摘である。「彼らの多くは確かに『恋愛弱者』や『経済弱者』だったが、しかし『コミュニケーション弱者』だったかというと、必ずしもそうではない。『対人関係』という意味でのコミュニケーションの点では確かに『弱者』だったが、一方で『情報通信』という意味でのそれの点ではむしろ『強者』であり、達人の集団だった」(p152)。

つまり、彼らは、80年代は90年代前半の新人類・ストリート的な、お洒落や恋愛を重視する価値観の中では「弱者」であるが、95年以降のインターネット・IT時代においては「勝者」的側面が強いのだ。筆者は東工大の大学院を出ているが、いわゆる恋愛弱者・コミュ症的な性質を持ちながら(だから東工大は合コンしたくない大学ランキングでよく上位に上がるが)就職などにおいては極めて高い評価を得て、収入と地位を手に入れている者が周囲には多い。いわゆる「オタク」もそうだろう。つまり背景には、IT・情報時代への産業構造の転換とそれに適合しているメンタリティーと、対人関係・恋愛における評価との乖離という問題があるのだと思われる。たとえばその典型が、実の娘から「インセル」呼ばわりされた、世界トップクラスの富豪であるイーロン・マスクである。この問題は、次回以降に、詳しく論じていくことになるので、今は置いておく。

そのような「強者」意識は、氷河期世代に多い「新自由主義の内面化」とも密接に結びつくだろう。伊藤は「弱者男性」論と「新自由主義の内面化」を関連付けてもいる。彼は、トイアンナとは異なり、弱者男性論とミソジニーの連続性を強調している。2ちゃんねる時代からネットを見ている筆者にとって、伊藤の議論には深く頷けるところがある。

ナンパ師と恋愛工学

ナンパ師や恋愛工学というのは、そのような情報化時代における、「恋愛弱者」と「情報強者」の間を架橋するニーズによって発生しているように思われる。

筆者はナンパ師や恋愛工学界隈の情報商材を売っているアカウントをたくさんフォローし、その書き込みを片っ端から読んでいたが、そこで「弱者男性」という言葉はほぼ煽りとして使われる。

ナンパ師たちの一部には、自己肯定感強く「格上」であるべし、そうでないとモテないという信念体系がある。そのような男性からの見下しに強く反応する男性をターゲットにしているとも思われる。

そこでは、女性に媚びたり、共感したりするアプローチを、「弱男(弱者男性)」認定するような言説がある。一般的な恋愛指南本では(人に拠るが)女性に対しては、共感や理解を提供することが恋愛における定石とされるのと、逆なのである。むしろ、内面に共感しないで、工学的に、相手の生物学的性質をハッキングして、「沼らせる」ことが目指される。この議論には、進化生物学の理論がよく引用される。

女性に愛されようと真摯なアプローチをすることは「非モテムーブ」などと呼ばれ、格下扱いされるので辞めるように指導される。それは女慣れしていない非モテであり、女性に搾取される対象=弱者男性になってしまうというのだ。頂き女子りりちゃんのカモにされていた男性などを見ていると、確かにそのような「弱者男性」はいるのだと思われる。だから、女性に共感したり、媚びたり、何かを提供したり、「フレンドシップ戦略」には出るべきではない、と彼らは指導する。男性のフェミニストも、女性に共感し同情し格下扱いされる「チン騎士」に過ぎないと、「弱者男性」と同じ扱いをされている。

既に述べたが、彼らは、女性は対等の存在ではなく、同じような内面を期待していないと割り切っており、進化論や脳神経科学の知見を駆使し、工学的な操作対象として女性を扱う。心の通い合いなどよりは「沼らせる」ことを重視しており、ホストや夜職界隈との親和性を感じさせる。

そこにあるのは、ミソジニー+「(有害な)男らしさ」による「弱さ」への嫌悪、自己責任と自助努力による成功、という新自由主義的なマッチョイズムと、相手の内面や感情を無視する工学的な思想に特徴があり、2ちゃんねる的な流れを汲んだ弱者男性論の裏表のようにも思われる。共感や心の通じ合いのような恋愛に必要とされるコミュニケーションに不得意さを感じている者の一部が、これに惹かれるのではないかとも思われる。おそらく、弱者男性と恋愛工学は、裏表にある。

不可視化された弱者」とアイデンティティ政治

 これらとはまた違い、客観的な属性や、公的支援の問題ではなく、情報社会の問題でもなく、現在主流になっている政治的議論や認識のカテゴリの問題であるとする議論がある。

「弱者男性」問題に対する著作を多く持つ批評家の杉田俊介は、現在主流の政治的議論のカテゴリから零れ落ちていることが、「弱者男性」のつらさの原因だと述べている。「『国民・市民(マジョリティ)VS被差別者・被排除者(マイノリティ)』という政治的対立のいずれにも入ってこないような存在」「社会的に差別されたり排除されたりしている、あるいは政治的な承認を得られない――というよりも、それらの二元論的な議論の枠組みそのものから取り残され、取りこぼされ、置き去りにされている」(『男がつらい!』p32)存在であり、だから、承認や再分配の対象にならなかったという問題があると言う。杉田は、弱者男性論とミソジニーの連続性を認めつつ、切断を志向しようとする。

余談だが、杉田がウェブに書いた、弱者男性は社会を恨まず穏やかに滅びようという記事を、安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也が引用し、反発していた。その山上は『ジョーカー』や「インセル」に繰り返し言及しながら、世間での主流の政治的なカテゴリに属せず見えなくなる存在についての警告と呪詛を繰り返していた。彼自身が、宗教二世という、不可視化された弱者であったのだ。彼は、杉田の議論に共鳴する部分があったのだろう。

政治的なカテゴリが取り残す者という問題は、アイデンティティを中心とした単純化した動員と対立が尖鋭化するSNS時代だからこそ、よりシビアに感じられるようになってきたように思われる。筆者自身は、「弱者男性」というカテゴリは、様々なネット文化の歴史的な流れや、実際の弱者性や苦しみを培地としつつ、あくまで「アイデンティティ政治」の中で生まれた政治的カテゴリだと理解するべきだろうと思っている。

女性、LGBT、障害者などの属性で人をまとめて集団行動に動員する「アイデンティティ・ポリティクス」が2010年代にSNSで主流化した。それは、SNSが、短文や画像中心になり、これまでよりも参入障壁が低くなったので、感情を動員する戦術が優位になり、感情を動員するためには「敵/味方」を単純化する本質主義的な物語が有効になったから採用された動員戦術である。

それに対応し、対抗するため、男性たちを、「被害者性」「弱者性」でまとめ、感情的に動員するのが「弱者男性」というカテゴリなのだと理解されるべきだろう。動員のためであり、多くの者を巻き込むことを目的として概念はデザインされているはずで、それは融通無碍に色々なものが入るように作られており、当然定義はない。金と権力を持った男性でも主観的につらければ入れるようなカテゴリなのだ。それは、「被害者性」「弱さ」を強調し、制度的支援や福祉や共感やケアを要求するという点で、フェミニズムなどが実現した新しい価値観のパラダイムの中にあるものであり、明らかにアイデンティティ・ポリティクス時代に共感と説得力を持つための概念として作られている。

つまり、「弱者男性」論は、SNSに適応しポピュリズムの戦略をとった、本質主義的なフェミニズムへの反動の側面が大きいのだ。

本質主義的なフェミニズムにも問題は確かにあった。「男/女」を単純化し、男はこう、女はこう(加害者・被害者など)と決めつけるのが「本質主義」である。これは、大衆レベルのSNSでは無視できない影響力を持っていた。

実際には「男」の中には力のある者もない者も、恵まれている者もそうでない者も、加害性の多い者も少ない者もいる。女性の中にも加害者がいる。だから、本質主義は事実ではない。本質主義的なドグマを「真理」のように振りかざせば、それに当てはまらない現実を生きている者に不満や敵意が蓄積する。「現実を分かっていない」と思われるようになる。前節で論じた通り、この「構図」は、90年代から2000年代の男性学とフェミニズムの中に既に存在していたものであり、その問題がSNSにおいて大衆的なレベルで反復しているのである。

反動がどのような政治的な現象を起こしているのかは、アメリカでの銃乱射事件や選挙、イギリスでのミソジニーの「過激思想」認定などを見ていれば、よく分かるだろう。それは、「真理」を「啓蒙」してやろうというアプローチでは、とても抑えきれるものではない。フロイトの「文化への不満」や、アドルノ=ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』のように、理性や啓蒙こそが逆説的に「死の欲動」を生んだり、虐殺につながっていくメカニズムの分析の影響を受けてきた筆者には、現状の社会の状況を見ていて、懸念が大きい。

言葉と概念を知ることにより、適切な解決へ向かうこと

さて、「弱者男性」について、それが一体何なのか、どうしたらいいのか、いきなり確たる結論は出ないが、問題と議論の輪郭ぐらいは見えてきたのではないか。

これらの議論を知ることで、「弱者男性」と自認し、苦しさを覚えている男たちが、具体的にどう救われるのか、と問われるかもしれない。

まず、腑分けし、理解の解像度を高くすることは、問題の所在地をはっきりさせ、解決法を実行しやすくさせる。人は怏々にして誤った原因を帰属させ、間違った解決法を実行しようとし、事態を悪化させてしまう。たとえばトイアンナの言うように、原因が客観的な属性であるならば、社会的な支援や制度的な解決を要求することがその解決になるだろう。杉田の言うように、議論の枠組みから取りこぼされていることが問題なら、議論し可視化し、承認やケアを与えていくことがその解決の一助となるだろう。2ちゃんねる的価値観の内面化が問題であれば、それを解除し、別の価値観や思想を学習すれば問題が改善する可能性が高まる。単なるネットで流通しやすい「物語」を使った情報工作や扇動に過ぎないのであれば、仕組みを知ることで距離を置くことができるはずである。

 「強者男性」と「弱者男性」

「弱者男性」という言葉は、「強者男性」と対になっている。「弱者男性」を批判する言説において、「強者男性こそが悪いのに、女にやつあたりしてミソジニーになっている」という批判がなされることもある。

では、「強者男性」と「弱者男性」とは、一体何なのか、どういう関係になっているのかを、次回に扱うことにしたい。

男性が一枚岩ではないことは、レイウィン・コンネル(出生名はロバート・ウィリアム・コンネル)が1980年代から90年代に、『マスキュリニティーズ──男性性の社会科学』などで議論していた。コンネルは、男性の中にも、「覇権的男性性」と「従属的男性性」、つまり、今の俗語で言う「強者男性」「弱者男性」と重なるような人たちがおり、男性性の複数性(本質主義的に一元化できないこと)を既に提示していた。田中俊之は「従属的男性性」と、オタクを結びつけ(『男性学の新展開』)、「オタク差別」の原因を見出している。

次回は、この「覇権的男性性」「従属的男性性」(≒「強者男性」「弱者男性」)の問題を扱っていくが、予告的に議論の内容を示しておくと、伊藤昌亮の「弱者男性」論に触れたところで書いた通り、「覇権」「従属」の関係も単純に二項対立的でもなく、「オタク」が必ずしも「従属的男性性」になるわけではない産業構造・社会環境になっているという問題が、田中の議論には(時期的な問題もあり)不足していると思われるのだ。西井開による、「非モテ」のミクロな傷つきの議論と合わせて、このことを検討してみたい。

 

フェミニズムでは救われない男たちのための男性学

藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。