第1回 労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論

倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。

はじめに

あなたは、賃金をもらわなくても、今やっている賃労働を続けるだろうか?

あなたはどう答えただろう。おそらくほとんどの人が、「NO」と答える。なぜなら、賃労働はそもそも賃金をもらうためにしているのだから。いまの仕事が嫌いな人は言うまでもなく、いまの仕事が好きな人も、賃労働をお金を貰わずともしたくてしているわけではない。様々な必要に迫られて仕方なくやっているのだから。自分の従事している賃労働が好きな人はもちろんいる。私も比較的好きである。だが、それは、賃労働をお金を貰わなくてもやるくらい好きだ、ということを意味しない。貰えないなら私はやらない(もちろん、お金を貰わなくても賃労働を続ける人もいるかもしれない)。

では、なぜ私たちは賃労働をせねばならないのか。私たちに賃労働を迫る代表的な2つの要請がある。第一に、生活の必要、すなわち賃金を稼がなければならない(なぜなら生活が立ち行かない)からである。そして、第二に、承認の必要、すなわち「一人前」の「社会人」にならなければならない(親に扶養されているあいだは「一人前ではない」)からである。人々は、ほとんどの場合、このいずれかの外的要請によって労働の開始を余儀なくされる。

前者はとてつもなく分かりやすい。働かなければ食べていけない。なぜなら、衣食住すべてにお金がかかるから。そして、お金を稼ぐには働かなければならないからである。

後者も少し考えれば、誰しも多かれ少なかれ思い当たる節があろう。たとえ親の扶養によって働かなくとも食べていけるとしても、働いていない人は社会的には軽んじられる。考えてみれば不思議なことに、働いていない、というだけで、その人は他人から馬鹿にされたり、「大した人間ではない」と判断されるのである。別に何も悪いことはしていないのに。賃労働というかたちで働いていなくても、社会にとってよいこと(介護・育児・コミュニティのケア)はたくさんあるのに。そして、社会と関係なく、別に何もせず生きていていいのに。

このように、私たちは労働に駆り立てられる。これは現状回避不能である。だとしても、労働に駆り立てられている現状は私たちが望める最高のものなのだろうか。

私はあなたにこう問いかけたい。「人類はこれから先もずっと強いられた労働をしなければならないのか?」。

私はこう答える。「人類が労働をする必要はない。労働を終わらせた方が人類にとって善い」と。

私は「労働廃絶主義者(labor abolitionist)」である。私は、すべての賃労働を終了させるべきである、と主張する。出来るだけ早く。速やかに。なぜなら、賃労働は、私たちから人生の可能性を奪い、喜びを奪い、世界から富を奪うからだ[1]

労働はいろんな約束をする、と哲学者のマイケル・チョルビは言う(Cholbi 2023)。第一に、労働はやりがいを提供するという。でもやりがいのある、真に意義深い仕事はごく一部だ。哲学者のジョン・ダナハーは労働が幸福を作り出す可能性を認めつつも、次のように批判する。

ほとんどの先進国の労働市場は、多くの人々にとって仕事を非常に悪いものにする均衡パターンに落ち着いており、技術的・制度的な変化の結果として悪化しており、その悪いものを生み出す性質を取り除くような改革や改善は非常に困難である。(Danaher 2019, 54)

多くの労働は長時間労働、労働によるスケジュールの支配、楽しみのためではなく、労働の疲れを癒やすための余暇の必要(月曜日からはじまる労働を忘れるための痛飲のように)などによってしばしば社会的疎外を作り出す(Bousquet 2023)。あるいは、やりがいのあるとされる労働(教育、カウンセリング、病人、若者、障害者のケアなど)の多くは、最も賃金の低い職業のひとつである(Cholbi 2023)。

第二に、労働は価値を生み出すという。しかし、そもそも労働が邪魔さえしなければ私たちが享受することのできた無数の価値が見逃されている。フルタイム労働が年間1,500~2,500時間奪っていく。余暇、睡眠、運動、家族生活、市民活動、地域社会への参加などに充てることができた(Rose 2016; 2024)。労働時間が私たちから奪う機会として、とりわけ、私たちにとってとても重要なはずの「民主主義を営む機会」も含まれる。新自由主義資本主義下の現在の労働中心社会が、民主的な参加と市民権に制約を課しているのだ(Crandall et al. 2024)。当たり前のことだが、忙しく働いていればいるほど、デモに参加する機会も、選挙について学ぶ時間も、社会の未来について誰かと話し合う時間もなくなってしまう。さらに、やればやるほど世界を悪くする労働もごまんとあることも付け加えておこう。間違いなく、労働は環境破壊の最も優れた手段である。わざわざ家から移動してモビリティを稼働させ、オフィスに大量の電力を供給させることで、労働は地球規模の気候変動の原因となる炭素排出量への貢献をしてしまっている(James 2018)。労働はネガティブな価値を生み出しうるし、ポジティブな価値を作り出すとしても、労働が引き起こすネガティブな帰結と釣り合っているか怪しい。

労働は空手形ばかりをちぎって寄越すけれど、そのどれもがゴミ屑なのだ。わたしはそんな詐欺そのものである労働という現象が嫌いである。憎んでいる。弑するべきだと思う。

本稿は、労働廃絶に向けた美学的取り組みである。以下、次の順番で論じる。第一に、賃労働そのものは無価値であること、そして、無価値だからこそ、他の様々な価値に「寄生」することで賃労働へと人々を駆り立てようとすることを指摘する。第二に、わけても「美的なもの」に寄生することで、賃労働は自らの価値を正当化していることに注目する。この美的正当化の実践を「使命美」と「勤勉美」の概念から分析することで批判する。第三に、労働を廃絶するために、私たちができることを提案する。私たちは、労働を不必要とする制度的な仕組みをデザインすることに加えて、労働を美的に正当化する実践を分析し批判することでも労働廃絶へと近づくことができる。最後に労働廃絶は消費批判ともリンクしていることを指摘して次回予告とする。

1 労働の無価値さと寄生するまなざし

労働[2]はそれ自体の内在的価値をもたない。社会学者のリュック・ボルタンスキーと、エヴァ・シャペロはこう言う。「資本主義は、多くの点で不合理なシステムである」。

賃金労働者は、自らの労働の成果に対する所有権を失い、他人の部下として働く以外の選択肢はもはやないと希望を失ってもいる。資本家は、終わりのない飽くなきプロセスに自らが縛り付けられていることに気づいている。この両者にとって、資本主義のプロセスに関わることには、正当性が著しく欠如している。資本主義的蓄積には多くの人々の献身が必要だが、実質的な利益を得るチャンスがある人はほとんどいない。このシステムに関わりたいと思う人はほとんどおらず、むしろ明確な反感を抱く人もいるだろう。(Boltanski & Chiapello 2005)

そのため、「人々が資本主義にコミットすることを正当化し、そのコミットメントを魅力的なものにするイデオロギー」が必要になる(Boltanski & Chiapello 2005)。これを彼らは「資本主義の精神」と呼ぶ。言い換えれば、私たちに労働を必要だと思わせ、労働に取り組むことを動機付けるような価値を外部から「取り込む」必要があるのだ。取り込みには歴史的な流行り廃りがある。マックス・ヴェーバーによる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(ヴェーバー 1989)で描かれたような特定のキリスト教的宗教的価値を一因として加速した資本主義は、やがてそれ自身の制度と環境を構築し、19世紀末の西洋では、進歩や地域社会からの解放という価値をアピールしたり、フランスの事例においては、1940年から1970年にかけてキャリア形成と成長の魅力、1980年以降は自己啓発的の価値(Boltanski & Chiapello 2005)などを取り込んできた[3]。取り込まれたいずれの価値も流行や濃淡、地域差はあれども現在に至るまで採用され続けているものも少なくない(cf. Hunnicutt 2024)。

本稿で私が注目したい価値の取り込みの種類は「美的なもの(the aesthetic)」の取り込みである。とりわけ、個人の人々が労働に価値を見出すために、どのように美的性質や美的価値を取り込み、自分の趣味判断能力を変形させているのか、その実態とヴァリエーションに焦点を当てることである。

まずは、労働の中で動く私たちの心のゆらぎをモデル的に記述してみよう。私たちのほとんどにとって、労働はつらい。ならば、なぜ人は適当に働けないのか。ワークライフバランスを保ち、賃金分の労働はしながら、成果をほどほどに出しつつ、きっちりと仕事をしながらも、自分の仕事以外の時間がもっとも重要である、という適当な、いい塩梅の態度で働けないのか。たとえば、夜にメールが来たら無視したりする。そうすることはなぜできないのか。かんたんなはずだ。よし、適当に働こう、と思えばよい。適当に働ければいいのに、なぜ人は適当に働くことが難しいのだろうか。

それは、「ちゃんとしていない」と判断されることに私たちが耐えられないからだ。私たちは、ちゃんとしなければならない、という美的規範を内面化している。適当に働くことは、必然的に「ちゃんとしていない」という評価を与えられることを意味する。しかし、ちゃんとする、とはなんだろうか。ちゃんとすること、それは一つの態度であるが、なぜ労働においてちゃんとしていないといけないのだろうか。

確かに、雑な仕事をされると、同僚やクライアント、消費者として困る。ある人が適当に働いてそのしわ寄せが来たとしよう。それに怒りを覚えるのはごく自然だ。これを「労働の成果において問題がある」と整理しておこう。成果における適当さは問題である。なぜなら、労働はその成果を生み出すことを目的とする活動だからだ。目的を果たせていないことは非難可能だろう。

他方で、その人が仕事をきっちりとやっていても、身が入っていないように見えたとしたらどうだろうか。私たちは不満を覚えるだろうか。きっと、そうだろう。きっちりしていても、適当に働く人を目の当たりにしたとき、おそらく、私たちはその人を馬鹿にする。軽蔑する。大人としてしっかりしていないし未成熟だと非難する。心のなかで。あるいは、仕事おわりに同僚とこっそり。

なぜだろうか。なぜ、私たちは、実質的な仕事の成果ではなく、見せかけかもしれない仕事の態度を評価することになるのか。一つには、労働の成果が簡単には測れなくなっていることに由来する。ホックシールドによる著名な「感情労働」をめぐる研究(ホックシールド 2000)で指摘された以上に、現代では「特にサービス業務や感情やコミュニケーションを伴う業務においては、個人の態度や感情の状態は、共感力や社交性と並んで重要なスキルであると考えられている。実際、従業員のスキルと態度の区別は難しくなっている」(Weeks 2011, 70)。哲学者のカティ・ウィークスが続けて引用しているように、ロビン・レイドナーは、いまや「 労働者が組織の利益のために自らの態度を操作し表明する意欲と能力は、職務遂行能力の中心である」(Leidner 1996, 46)と指摘する。加えて、ダグ・ヘンウォードによれば「雇用主の調査によると、上司は、従業員の能力ではなく、自己規律、熱意、責任感といった従業員の『性格(character)』について、注意を払っていること明らかになっている」のであり、「労働者は、自分自身のよりよい搾取の設計者となることが期待されている」(Henwod 1997, 22)。

その人がどれだけ働いたからあるプロダクトやプロジェクトがうまくいったかどうかが明確に分かる労働は案外と少ない。しかし、態度ならば目に見えて分かる。例えば、私はリサーチを仕事にしていて、リサーチの出来不出来は私にとっては明確だが、しかし、それがどのくらい使えるかどうかというのは、私たちの予測能力を遥かに超えている。それゆえ、労働の多くは、明確な成果というよりも、他の説得力、すなわち態度が重要になってくる。これは、他の職業でも多かれ少なかれ共通だろう。その態度とは「ちゃんとしている」かどうかになってくるのだ。どう成果を出すか、というアウトプットだけではなく、その過程に私たちは焦点を当てる。勤勉にやっていればたとえ成果が微妙でも私たちは許してしまう。逆に、成果が出ていても勤勉でないようにみえると、私たちは不満を覚える。「行動評価の代理指標のひとつとして性格テストが増加」しているのもこの傾向の現れだとみなせる(Weeks 2011, 71)。

それゆえ、極端に言って、私たちは、仕事の成果よりも、仕事振りにおいて同僚や仕事相手を評価している。そして、その評価は自分自身にも跳ね返る。いくら適当に働けばいい、と言ってみても、適当に働いている、と思われることを私たちは極度に恐れる。労働に対して身を入れることこそが、大人としての美学を遂行できていることになるからだ。逆に、仕事に身が入っていない人を私たちは軽んじる。

今まで私がしてきた話は労働の論理の話だろうか。そうでもあり、そうではない。もしビジネスの論理の話で終わるのだとしたら、私たちは、仕事の態度ではなく、その成果や影響などに基づいて労働の目的を達成していない、と正当に批判されるだろう。ビジネスが成果を生み出すことを目的としているのならごく自然なことだ。ビジネスの目的は何らかの効果をもたらすことであり、その効果をもたらせていないことは、内的に批判される。それは合理的である。対して、仕事振りを私たちが評価している。それは、ビジネスの論理の話からはみ出している。いかに効率的に、効果を生み出すか、というビジネスの論理の話ではなく、独特な美的な論理の話になってくる。美的なものの問題ということになる。

ここで私の議論の助けとなる概念ツールとして、適応的選好(adaptive preference)という概念を用いたい。これは、不公平な状況下で限られた選択肢の中から形成された選好を意味する。なぜそのような選好になるのか。個人が特定の状態を好むのは、代替案が達成不可能または考えられないと認識しているためである(選好とは、その人の欲求の好みである)。私たちは、自分たちで何かを選ぶ。しかし、限られた選択肢の中から、しかも、自分が望んでいないような状況下で選ばされることもしばしばある。自殺の哲学や哀しみの哲学、そして、労働の哲学を牽引するユニークな哲学者、マイケル・チョルビは、「労働の欲求は適応的選好である」と主張する(Cholbi 2018a)。

なぜそう言えるのか。第一に、現代社会では、労働が個人のアイデンティティと社会的地位の中心的な役割を担うようになり、労働以外の選択肢は文化的に汚名を着せられるようになった。第二に、経済構造は、物質的および倫理的なニーズを満たすために、事実上、個人を雇用に追い込み、真の自由を制限している。第三に、文化や政策による圧力により、労働以外の選択肢(例えば、労働時間の短縮や非雇用)は実現不可能または望ましくないものとされてしまっている。第四に、多くの労働者は賃金が不十分であり、フルタイムで働いても基本的なニーズを満たすことができない「ワーキングプア」が蔓延している。第五に、長時間労働、高額な通勤費、労働関連の出費、個人の自由時間の減少により、雇用による純利益が減少する。第六に、雇用主は、監視、制限的な方針、従業員の私生活への干渉などを通じて、個人の自由を侵害することが多い。第七に、労働に否定的な側面があることを認識しているにもかかわらず、個人は依然として就業を望む。この矛盾は、労働に対する欲求が、労働の本質的な価値ではなく、社会的な条件付けによって維持されていることを示唆している。このように、人々は、強いられた不公平な状況下で限定された選択肢のなかで「働きたい」と思わされているに過ぎないのだ(Cholbi 2018a)。

さて、チョルビの分析を発想の元として、私は特定のタイプの適応的選好に注目したい。それは、「適応的美的選好(adaptive aesthetic preference)」である。私たちの美的な好みが労働の論理のために奉仕させられ、歪ませられているという事態に着目する。

このとき、適応的美的選好という概念が思考の手助けとなる。私たちは「ちゃんとする」という美的価値を内面化してしまっている。そのために、「適当に働きたい」という自分の欲求を自己検閲してしまい、それを退ける。なぜなら、「適当に働く」ことは「ちゃんとしていない」ため、美的に醜い、と美的判断するような、美的選好が内面化されてしまっているからだ。つまり、私たちの美的判断には、外から何かが寄生しているのだ。あたかもエイリアンのように。私たちのまなざしが、侵食され、資本主義の精神を支えるようなタイプの規範にそぐわない労働態度を批判的なまなざしでみるようになってしまう。

「奴隷の鎖自慢」という発祥地不明のミームがある。素晴らしい概念だ。どういうことか。労働を強いられた私達は、確かに、選好の変形によって私たちは労働から得る苦痛を部分的に減らせるかもしれない。ときには、意義深さを与えてくれることもあるだろう。しかし、同時に、そうした新たに取り込まれた規範をクリアできなかったり、その規範を疑ったり、その規範と実際の仕事のギャップに悩むとき、人は苦痛を感じるだろうし、もしかすると、そうした規範を自分の物語に内在化しているがゆえに、余計に実存的に傷つくかもしれない(cf. Thompson 2019)。さらに、そうした、その変形してしまった選好に基づいて、新たに労働をし始める人々に対するアドバイスをすることで、害悪を再生産していく。「仕事ってのは……」と説教することで、人々に奴隷の美学が叩き込まれていく。奴隷としての喜びを見つけるように、私たちの選好が歪められていく。そして人々は本当に、部分的にせよ、労働に喜びを感じるようになる。

労働は無数の価値をにんじんのようにぶら下げる。しかし、「労働で幸せが訪れる」はすべて詐欺である。労働を終わらせるためには、この寄生するまなざしを解剖し、摘出しなければならない。解毒剤を開発する必要がある。そのために、私はまず、労働の美学の分析に向かう。

2 2つの適応的美的選好

労働における適応的美的選好の代表的サンプルとして、本稿では、使命感と勤勉さに注目する。使命美は、職業上の義務を押し付けられた人々(医療従事者や原発作業員)に対する道徳的要請が行われ(Herzog & Frauke 2022)、極端なケースでは自殺的な行為にまで人々を追い立て、それを称賛する態度とリンクする(津上 2019)。対して、勤勉さはプロテスタンティズムの倫理を代表にするような、しばしば、自己創造やスタイル生成の側面が強調される美的なものである(Malpas 2005)。

使命美

使命美とは、特定の職業、立場に基づいて、困難な状況や報酬を超えた労働を行うことを美的に優れている、という判断によって帰属される美的性質のまとまりである。

たとえば、2011年の福島第一原子力発電所の事故を扱ったドラマ作品(例えば、NETFLIXで配信された『THE DAYS』(2023年))においては、どのような状態になっているか定かではない原子炉に近づかなければならない危険な状況において、志願してバルブを止めに行く作業員たちの姿が描かれた。それらは「勇敢な」姿として鑑賞されてきたことだろう。彼らの行動を美しいものとして味わわない人間が存在するということを多くの人は認識できないだろう。あるいは、2018年来のコロナウィルスの大流行のなかで、医療関係者を「医療従事者」と呼び、彼らを褒め称え、感謝する言説、彼らを美談化する言説が大量に出現した。これらは、人々が彼らの「プロフェッショナルさ」を称揚し、危険な状況で働く人々の姿を「勇敢さ」「奉仕」「責任感」といった語彙を用いて美化する営みである。

使命美の概念分析を行ってみよう。これらは概念的に区分されるが実践上は混じり合う。

(1)危険を顧みない(例えば、英雄的な態度)

(2)他の価値の無視(例えば、家族の制止を振り切る)

(3)大義との接続(例えば、職業上の使命など、より大きなものと自分を接続させる)

原発事故で英雄視された人々は(1)危険を顧みない。どのような状況になっているのか分からなくとも、その場に踏みとどまる。(2)自分が死ぬことで家族がどんな暮らしをすることになるのか想像しない。家族が自分を案ずる不安を想像しない。(3)プロフェッショナルとしての使命と接続して、「雄々しくも」危険に立ち向かう。

この美化のメカニズムは考察する意義がある。美学者の津上英輔は、『危険な「美学」』において、美化が様々な悪を覆い隠す働きを考察している。その中で、特攻と散華の美についての分析が重要になる(津上 2019)。津上は、死という悪と死が反転し、桜の散るさまというポジティブな価値と連結することで、非常に魅力的な美に変わるという動きを分析する。この分析が参考になるのは、労働における労苦もまた同様のメカニズムを持っていることだ。労働において、死に近かったり、非常な骨折りが、反転させられることで美化され、使命美の美しい活動だとみなされるようになる。それは、基本的には、悪を良きものに反転させることで魅力的にする、という特攻と散華のメカニズムと同一のものだろう。

使命美は、危険時に際して、人々をスケープゴート的に称賛する社会のうねりのなかで際立ってみられるが、日常的な場面でもしばしば発生する。職場で、誰かが報酬を超えた責任を負ったり、誰かがシステムの不都合を個人の努力で補填しなければならない場面や、業務の義務を超えて最小限の意味でも英雄的と呼べるような労苦を強いられる場面がある。その際に、そうした行為を遂行する者には使命美があると判断される。

もし、その労苦を避け、やらない、と宣言したとしたら、それは異常事態となる。人格さえ疑われる。なぜなら、特定の職業に就いている限りは一定の使命を果たさなければならないとみなされているからであり、そうしないことは異常であり、美しくなく、吐き気さえ催させるからだ。

では、読者が嫌悪感を覚えるかテストしてみよう。ある原子力発電所の職員を想像しよう。彼は、原子炉の危機的状況を理解するやいなや、家族を連れて逃げ出す。なぜなら、彼は使命美をあまり内面化しておらず、彼の命を危険に曝すような使命を果たしていない、という理由で他人からどう言われようと構わないからだ。彼にとっては、彼の生命と彼の家族の生命が使命などより大切である。そして、原発事故の責任を引き受けるのは、彼だけではなく、日本において電力を用いてきた人々であろうと考える。そういうわけで、彼は彼の引き受ける責任を適切に計算し、その場から一刻も早く離脱する。

こう聞いて、読者のかなりの部分は「彼」に吐き気を覚えるだろうか。彼のことを美的に悪しき人間だと思う可能性は高い。そうした人々は現時点の労働の美的選好においては正しい。現在の労働の美的選好においては、使命を果たしている姿は美しくみえる。人々は、使命を果たしている人を美的に評価する。読者に吐き気を覚えさせるのは、彼が自分たちも守っているはずの美的選好に盛大に違反するからである。それは、部分的にはそうかもしれないが、大部分は道徳的な怒りではないように思われる。

日常生活では確かに特攻させられた人々ほどの苦しみや壮絶さはないかもしれない。しかし、依然として同じ働きが労働における美として蠢いていることに私たちは十分に気づけていない。

私たちの多くは、使命美を自らの適応的美的選好として内面化し、寄生させていく。そうすることで困難な状況にも大した報奨なしに突入していくことができる。確かに、人々から称賛を得るかもしれない(残念ながら、そうした称賛がいかほどの価値を持っているのか私にはさっぱり理解できないのだが)。

神学者であるジョナサン・マレシックの『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』には興味深い議論がある。マレシックが燃え尽きてしまったのは、教師として、そして神学者としての使命美に駆られて、神学に関心のない学生たちに一生懸命に授業を行っていたのがマレシックにむなしさを感じさせ、燃え尽きてしまったのだ(マレシック 2023)。これはまさに使命美が底をついた体験であり、おそらく、燃え尽き体験をする人の多くは、この使命美の適応的美的選好が心身に無理をさせた結果、耐えられなくなったのだろう。それは確かに不幸である。しかし同時に幸いでもあるかもしれない。なぜなら、燃え尽きることで、もはや使命美と縁を切ることができるようになり始めるからだ。マレシックは、大学院生時代に、駐車場でバイトをしていた。そこでは誰も高い理想を持たなかったが、適切な労働環境で、ユーザーである駐車場利用者と挨拶を交わしたりして仕事ができていた。そのときがもっとも幸せだった、とマレシックは言う。駐車場のバイトには燃え尽きる要因は一つもない。この労働には使命美の入り込む隙間がないからだろう。

勤勉美

もう一つの労働の美的選好として光を当てたいのは、「勤勉美(industrial beauty)」である。汗水垂らして働くイメージに代表されるように、倦まず弛まずひたすらやる、という態度の美である。こうした態度は、その態度自体が適切で尊敬すべきものとされる。頑張っている姿がかっこいい、という言葉で代表されるように。奇しくも役所広司主演の『PERFECT DAYS』(2023)評をみると、清掃員の主人公が日々を丁寧に生き、勤勉に仕事をする様に人々は心を打たれているのを観測できる。

先ほどと同様、勤勉さを構成する7つの要素が特定できる。これらは概念的に区分されるが実践上は混じり合う。

(1)継続性:毎日やる。休みなくやる。親が死んでもやる。雨が降ってもやる。こつこつやる (2)ラクしない:地道にやる。プログラムを組んだりしない。手を動かす。大変そうにやる。 (3)黙々とする:真剣である。楽しそうにしない。苦しそうにやる。
(4)些細さ:大きなことをやらない。ちまちまやる。できるだけ一人でやる。
(5)仕事以外のところでも仕事のための準備をする。休みの日に遊びに行ったりしない。
(6)時間をかけてやる:短い時間だとだめである。
(7)健気さ:純粋であり、邪なところがないさま。

(1)つねにやらなければ勤勉ではない。やったりやらなかったりしてはいけない。(2)効率化を目指してはならない。苦労をすることに価値がある。(3)楽しみを人に見せつけてはならない。(4)重大なことをしてはならない。(5)労働以外の時間も労働に向けた態度を取らねばならない。(6)じっくりとやらなければ評価されない。(7)他のことを考えたり脇目も振ってはならない。こうした条件は勤勉美の必要条件か十分条件かは定かではないが、特徴を捉えているといえるだろう。

労働における美的選好一般と同様、これらの要素は、労働の成果やクオリティとはかなりの程度独立している。例えば、ラクしないという要素は、成果とはまったく独立である。ほんとうはいったん手を止めてシステムを再構築したほうが労働の成果を出すかも知れないのに、ラクしないで手を動かしてプロジェクトを進めるように圧力があるように思われる。つまり、実際に勤勉かどうかはまったく独立している人は勤勉ではなくとも、勤勉であるようにみせることができるし、そうすることで高い評価を得ることもできるのだ(cf. ヴェーバー 1989, 47)。なぜなら、人々が評価しているのは実際に勤勉であるかどうかではなく、しばしば勤勉美を判断できるかどうかであるからだ。ちょうど高機能にみえる車が実際に高機能である必要がないように。私たちは、その実質的な機能や性能と見た目の乖離をしばしば経験するし、デザインとはそういうものなのである。

例えば、私もまた、勤勉さの美的選好の圧力を自らの内面に見出すことがある。例えば、査読依頼を頼まれたとき、その文献がおもしろく考えていたテーマとつながっていたのもあり、依頼された当日に査読コメントが完成した。だいたい査読コメントは1ヶ月強の締め切りが設定されるので、かなり早めの返送だった。そのときに私は「こんなに早く返送してしまったら適当だと思われるのではないか」と感じた。

この適当さとはまさしく、(6)「時間をかける」に抵触する。じっくりとすることそのものが価値づけられているのだろう。とはいえ、この規範を感じた瞬間、どうでもいいな、と思い、私は査読コメントを返送した。当該の査読コメントは自分では高いクオリティで、論文の課題を明確に整理できたと考えているし、これまで受けてきたハイレベルな査読コメントに匹敵するだろうと自分で判断している。当然、私のこの行為は「勤勉ではない」と美的判断が下されるだろう。それに対して、少なくない人はかなりの抵抗感を感じるに違いない。そのとき、人は、労働の成果ではなく、労働の態度の方を重視している自分に気づき、驚くかもしれない。それこそがまさしく労働規範が私たちにインストールさせる適応的美的選好であり、奴隷の鎖なのである。

以上のような、特定の価値、勤勉美や使命美についての分析と並行して、価値の流用が起こるメカニズムや他の流用のあり様を考えることも必要だ。労働に意味を与えるために、様々なジャンルや実践の美的価値や規範をどのように変形して、流用し、適応的選好を可能にするのか。美的選好のデザイン批判である(例えば、ビジネスの自己啓発ものというのは、適応的選好の発見の物語で満ちていることを指摘しておこう)。美的選好の適応のメカニズムや実践を明らかにすることで、労働の論理を支える選好の働きを批判できるようになる。以上の議論は、その語彙と概念と枠組みのスケッチであり、私たちのやるべきことは無数にある[4]

3 労働が終わった後の世界へ

しかし、私たちは、いまだ働かないで済む未来を想像できない。それは絵空事だと思われているし実際現時点では絵空事である。それゆえ、私たちは労働の論理そのものを疑うことはない。資本主義の精神はどこまでもリアリスティックに体感される。そこで、そのリアリズムをわずかでも耐えうるものにするために様々な適応的美的選好を作り上げる努力をしてしまう。そして、親切心からか、人々はこれから労働をする人や、労働から排除されている人々に対して、選好のデザインの仕方を教えたりする。

労働を疑うことは不可能なのだろうか。そんなことはない。私たちは、労働そのものを廃絶することができる。私たちは、労働美を分析していくことで、資本主義の精神を崩壊させていくこともできるはずだ。労働をする義務は私たちにはない(Cholbi 2018b)。労働は不正義だ。だから、私たちは、別の感性を育み、発見していくことで、労働以後の世界を想像すべきだ(Frayne 2024)。これを「労働廃絶の美学」の営みと呼ぼう。

こうした試みは「ユートピア的実践」と呼ぶことができる。本稿が強く影響を受けている哲学者、マルクス主義フェミニストであるカティ・ウィークスがエルンスト・ブロッホの議論をまとめるように、私たちは、未だ存在しないユートピア的世界を表現することで、別の世界のあり様を欲望する力を研ぎ澄ませる必要がある(Weeks 2011, ch.5)。遊ぶことで生きる生活は可能だろうか(Danaher 2019)。本腰を入れない労働やそれぞれの人々にとって価値のある生活を労働よりも重視する生き方は可能だろうか(マレシック 2023)。これらはユートピアの可能性のほんの一部であり、私たちは未来を開いておくことができる。

私たちが労働の美的選好から距離を置いて、適当な労働で済む世界、あるいは、労働を廃絶するために、大きく3つのアプローチをとることができる。これらは、ある程度独立している。(1)態度で労働を評価する実践をなくすこと。(2)労働に対抗できるような美的選好を創造する。(3)内面化している評価基準を距離をとって分析するために、概念化していくこと。

本稿では(3)のアプローチを実行した。(3)から始めることで、(1)の変更や(2)の改訂が可能になると考えている。ちなみに、(1)のアプローチをとるとどうだろうか。それは、たんに働くことを重視することになる。効率を重視するとはどういうことか。労働において必要なことをする。しかし、相手に合わせる、しかし、それは労働美というよりも実質的な価値を生み出すことを目的とすると、いささか安楽になるかもしれない。対して、そうした労働美がまったく重視されない分野もありうるかもしれない。それはそれで別の問題があることははっきりしているだろう。今回、私が焦点を当てたのは、労働において、労働美が実のところ存在感をもっていることを論じることで、労働一般にある美的側面を探り出そうとする作業であった。使命美と勤勉美は、労働美の主軸であろう。しかし他にも様々な労働美が指摘されうるし、これらの混合体もありうる。そうした労働美を指摘し、分析し、批判していくことで、労働美を達成しなければならないというプレッシャーを解体したり、そうした労働美に囚われない労働が可能になるかもしれない。そのときにこそ、労働はよりましなものになると私は考えている。これはある意味で、マルクス主義的な労働観にいきつくかもしれない。つまり、資本主義において苦役であった労働を、より充実したコミュニティのための労働に置き換える、という方向へ。だが、私はあまりこのアプローチに魅力を感じはしない。加えて、(2)をとるとどうなるか。適切にサボれている人を評価したり、息抜きできている人を称賛したり、仕事に本気ではない人をかっこいいとしたりするような態度を形成する、美的な趣味形成のアプローチである。これを達成するには、アーティストや表現者たちの力を必要とすることだろう。

いずれにせよ、私は、あなたがたに、さらなる労働美学の研究を推奨する。そうすることで、ユートピアを想像し、世界を変えることを期待する。

なお、もし労働の美学を批判するのならば、ヴェーバーが指摘したように、生産主義と消費主義の奇妙な結合についても論じる必要があるだろう。次回は、消費について考えていきたい。なぜ「経済を回す」ことが良いことなのか。応援消費の意味とはなんだろうか。つまり、「消費の美学(aesthetics of comsumption)」について考察を深めていくことになる。そうすることで、労働の美学についての理解も同時に深まることになるだろう。


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[1] もちろん、労働廃絶主義に対する批判もある。労働には内在的な価値があり、労働は個人と社会の幸福にとって依然として不可欠であると主張したり(Noonan 2020; Breen & Deranty 2024)、問題はあるがポジティブな側面を強化すべきだとされたり(Deranty 2022)、労働を介した承認の必要性が主張されたりしている(Turner 2024)。なお、賃金労働に限られない、社会的な目的に役立つ活動を指す意味での労働の価値を擁護する立場に私は反対しない(cf. Kandiyali & Gomberg 2024)。むろん、労働以後の世界の実現可能性についても丁寧な議論が必要であるが、本稿ではその議論を行わない。例えば、資本主義との両立不可能性については、Stubbs(2024)を、民主主義との関係については、Crandall et al.(2024)を参照のこと。とはいえ、本稿で行う労働の美学的分析は、そもそも労働に見出されているポジティブな価値の素性を明らかにするために必須の作業であり、批判的な議論と協働して進められる価値があると考えている。
[2] 以下、「労働」は「賃労働」を指す。
[3] 日本においては、ヨーロッパとは独立した形で、議論の余地はあるが、浄土宗における勤勉さ(cf. 飯沼 2024)がある種の資本主義の精神になぞらえられるような商売・労働規範の一つの源であるかもしれない。
[4] 私は別の場所で、労働の論理を支える美的論理の一つとしてのゲーム的主体のありようについてニーチェの力への意志と絡めた発表を行った。こちらも参照のこと(難波 2023)。