何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
セクシュアル・ポジティブという理念はすべての性欲を肯定するわけではない
セクシュアルポジティブとは何なのかをもう一歩深めてみたい。
性を否定的に捉えることをやめ、性に対する肯定的な態度を増やしていこうというのが、現在も進行中の性革命(日本では「性解放」と言われることが多かったもの)の潮流である。
ただし、このセクシュアル・ポジティブとは全ての性的欲望をそれ自体で無条件に肯定しようということではない。他者を傷つけたり、他者の自由を侵害しない限りで、あらゆるセクシュアリティは社会的に承認されるべきというリベラリズムの原則(ミルの他者危害原則)を性の領域にもきちんと適用していこうというものだ。プライベートなこととして社会的にうやむやにされてきた性の領域にも正義の原理の適用を!という動きである。
このリベラリズムの原則は、他者を傷つけない限りでどんなセクシュアリティも肯定するというものなので、小児性愛は子どもの権利を深刻に侵害するがゆえに不可である。一定の年齢以下の子どもは性的同意を形成できないと考えられているからである。
動物性愛はセックスの相手となっている動物にとってもまた「良い」ということが科学的に認められるのであれば(性愛対象となっている動物のストレス緩和作用が測定でき、動物行動学等に基づいてもそう判断できるのであれば)可だ。むしろ、そのような「良い」形での動物との性愛関係を築いている人を差別することの方が問題となってくるだろう(濱野ちひろ, 2019,『聖なるズー』集英社)。
このように、当事者間の「同意」が形成できている性行動であれば、あらゆる性行為は「可」であり差別されるべきでない、というのが現在の原則となっている。
第四波フェミニズムは性的な傷つきについて問い直す運動だった
2010年代中盤からの第四波フェミニズムは、性的な傷つきについて問い直す議論を社会に引き起こした。2017年の世界的な#MeToo運動をはじめとして、日本でも2019年頃から「萌え絵広告」に対する「フェミニスト」の問題告発と、「アンチフェミ」を名乗る人々や2次元文化を愛好する「オタク」と名乗る人々からの反発によって、連日萌え絵広告に関して炎上しまくった。これを受けて、日本女性学会は2022年大会シンポジウム「 ジェンダー化された表象とフェミニズム」を開催した(☆1)。
このような性的暴力に関する問い直しの中で、「愛のあるセックス」に新たな光があたってきている。考えてみれば、持続的なパートナー間などでの「愛」のあるセックスは性暴力にあうリスクが少ない(☆2)。また、自分や相手が性的に何をして欲しくて何をして欲しくないのかに関する蓄積された情報量の多さからなる性的クオリティの高さが期待できる。さらに、愛のあるセックス特有の安心感や愛着からくる情緒的満足は、期間が長くなるほど上がることが見込める。お互いの性的ファンタジーを共有し発展させていく性的コミュニケーションができればという条件付きだが、持続的なパートナーとの「愛」のあるセックスは関係満足度の高い幸福なセックスが安定して持続的にもたらされるという利点がある。つまり、傷つきや人格への暴力が発生しやすい「性」における安全性を高め、そこでの性的満足を上げていくことでセクシュアル・ポジティビティを増やしていこう方向性の一つとして、愛のあるセックスの(再)評価があると捉えられるのだ。
これは、愛のあるセックスが「最も」価値があるといった価値序列を伴っていない点が、性革命以前までの恋愛結婚内でのセックスのみを道徳的に正しいとする社会規範とは明瞭に異なる点である。
不倫こそが社会への抵抗であり、社会的な規範に抵抗していくことが性解放だと思っていた人にとって、「愛のあるセックス」の見直しが「フェミニズム」の中から出てくることに、困惑する人もいるかもしれない。だが、現代社会と第四波フェミニズム運動の動きを誠実に分析してみた結果(☆3)、私の場合はこのような解釈(理解)に至った次第である。皆様の色々なご感想・ご意見をお聞かせいただきたい。
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性欲を駆動する「刺激」についての固定観念を見直し、議論を深めていこう
「ちょっと待って。性的情熱というのは、つねに新奇なものやより刺激の強いものを求めるという性質があるのでは?」と思っている人がいるかもしれない。これは、言い直すと、性的情熱というのは「新しい」刺激によって活性化されるので、それがなければ日常的な惰性になってしまう。そのため、同じセックスパートナーでは「飽きて」しまい、性的満足度は下がるのではないかという考え方だ。
しかし、「人」を変えれば「新しさ」を経験できるとも限らない。毎日違う人とセックスしていても、結局同じような経験になってしまい充実感が得られないというのも、他方でよく聞く話だ。たくさんの人とセックスしている人を、はたから見る分には性生活が充実しているようにも見えるが、本人はひどい虚無感に陥っており、もう自分がどうしたいのかも、どうしたらいいのかも分からないというケースは、小説や映画などで繰り返し描かれてきたテーマの一つだ。「性的アノミー状態」とでも名づけられるものである(アノミーとは近代社会で発生する無秩序状態を意味する社会学者デュルケムの概念)。
結局のところ、何が性的情熱を活性化する「刺激」になりうるかは、その人のセクシュアリティ(性的欲望)のあり方によって異なる。異なる人と性行為をすることが「刺激」になる人もいれば、ならない人もいる。そもそも「新奇さ」はその「刺激」になることが多いかもしれないが、その刺激は必ずしも「新しさ」である必要はないかもしれない。過去の幸福な記憶を再上映する脳内スイッチを押すことが性的情熱をかき立てる「刺激」になるということもあるだろう。性的ファンタジーのスイッチは多様だ。そしてそれをどう分析していくかが、いま社会学的なセクシュアリティ研究の一つの前線である。
だから、人はなるべく多くの人とセックスしたいはずだと一般化することはできないし、逆に、安定的なパートナー関係の中の性行為が一番満足度が高いだろうという一般化もできない。
私たちができることは、自分の情熱が掻き立てられるような自分にとってグッとくる「刺激」はどんなものなのかという性的ファンタジーの自己探求を深めること。そして、性的情熱における「刺激」の多様性を考えることである。
☆1:拙論「二〇一〇年代ファッショナブル・フェミニズムの到達点と今後の展望――ポストフェミニストと新しいフェミニストの対立を越えて 」『現代思想 総特集=フェミニズムの現在』, 48(4), pp.209-217では、ナンパがストリートハラスメントとして問題になっていることを論じている。『恋愛社会学』第12章では、#MeToo後の欧米企業ではセクハラ規定やコンプライアンスが改訂され、ジェンダーベースドバイオレンスに関する社員研修が広がったといったことを論じた。
☆2:DVやデートDVの問題は今でも深刻なので、持続的なパートナーや「愛」があれば絶対安心ということはないということは、ここで明記しておきたい。
☆3:この方向性の議論は、『フェミニズムはもういらない、と彼女はいうけれど』(高橋幸、2020)の第6章でも論じている。そこでは、データに基づいて、後期近代においてロマンティックラブからコンフルエントラブへと愛の形が変化したことで、性が愛に囲い込まれたという解釈を行なった。第四波フェミニズムの動向―すなわち第四波フェミニズムとは個人的な関係である恋愛や性において社会的権力が濫用されることへの怒りであり、既存の法規制からこぼれ落ちてきた領域での性暴力や性被害への異議申し立てであるーを踏まえてみても、やはり「愛のあるセックス」がセックスポジティブという流れの中で新たに注目を浴びていると捉えることができると考えている。
【謝辞】
セクシュアルポジティブについては、科研「性に関する若者のインタビュー調査ー人権とジェンダー平等の観点から」(21K12511)でご一緒しているアリス・パッハーさんとの議論の中で多くを学んだ。また、同研究会のメンバーである平山満紀さん、木村絵里子さん、大倉韻さんらとの議論からも学びが多かった。ここに記して感謝したい。アリスさんのご著書『したいけど、めんどくさい』(晃洋書房、2022)も勉強になるので、おすすめ。この本については、回をあらためて再度取り上げる予定である。
【おすすめ文献】
▪︎濱野ちひろ, 2019,『聖なるズー』集英社.
▪︎高橋幸・永田夏来, 2024,『恋愛社会学』ナカニシヤ出版.
▪︎高橋幸, 2020, 「二〇一〇年代ファッショナブル・フェミニズムの到達点と今後の展望――ポストフェミニストと新しいフェミニストの対立を越えて 」『現代思想 総特集=フェミニズムの現在』, 48(4), pp.209-217.
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- 第6回 セクシュアルポジティブとは何か──第四波フェミニズムを踏まえて
- 第5回 性革命は何を目指してきたのか──脱恋愛ではなくセクシュアルポジティブであるという話
- 第4回 性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何なのか──美と恋愛について
- 第3回 「愛」はどのくらい必要なのか──愛着から考える
- 第2回 現代人にとって「人とのつながり」はどの程度必要なのか——「孤独」から考える
フェミニズム恋愛論
高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。