倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
はじめに:消費はなぜ楽しいのか?
お買い物は楽しい。なぜか。それは、何かを手に入れる楽しみと何かを失う喪失感のマリアージュであるがゆえに、他にはない独特な美的経験をもたらすからだ。ものを買う瞬間、私たちは、お金を使うという能力を発揮している。そのお金といえば、自分の手で稼いだり、誰かからもらったり、少なくとも簡単に手に入ったものではないことの方が多い、労苦にまみれたものだ。そのお金を失うことで、つまり、労苦と引き換えにして、何かを手にする。それは例えばきれいな石を道端で拾い上げて家に持ち帰る喜びとは異なる喜びである。どこかギラギラしていて、怪しく、決断的な、そういう魔性の経験である。
私がこれから考えたいのは「消費」がどのようにして私たちの生活の中で美的に経験されるのか、「消費の美学」である。もちろん、消費については様々な思想家、研究者たちが魅力的な議論を繰り広げてきた。ソースタイン・ヴェブレン『有閑階級の理論』、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』、最近ではジェフリー・ミラーの『消費資本主義』や、ダニエル・ミラーの『消費は何を変えるのか』があり、それらは楽しい読書経験を与えてくれる(ヴェブレン 2016; ボードリヤール 2015; 山崎 2023; ミラー 2017; ミラー 2022)[1]。
しかし、私はこれらの議論にいまいちピンとこない。というのも、私が関心があるのは、消費の美学、すなわち、消費において、人びとはどのような美的な経験をしているのか、であったり、人びとがどのような美的経験をしていないのか、なのだが、そうした議論は以上の論者の文章にはあまりみられないからだ。私が考えたいのは、消費すること、その経験自体が持つ美的特質なのだ。それはお買い物の瞬間に味わわれる美的経験である。私は、消費という行為をすることで、私たちがどのような能力(とりわけ美徳)を発揮しているのかという視点から、消費の美的経験を考えたい[2]。
こうした分析は、たんに興味深いだけではなく、複数の価値を持つ。その大きな一つは、消費行為に対する批判や、よりよい消費を考える際の手がかりになるということだ。私たちは消費について、全面肯定ではなく、ときには批判的なまなざしを向けることもある。「消費はほんとうに私たちの人生を豊かにしてくれるのか」「こんなに消費ばかりして、少し虚しい気がする」。そう思ったことが一度もない人も珍しいだろう。そうした消費の批判の際に、美的側面を考慮に入れることで、より実質的な批判ができるようになるだろう[3]。
本稿の構成は以下の通り。
第一に、消費を美的側面から分析する。複数の意味が消費行為にありうる中で、とりわけ私が注目するのは「みせかけ美徳の発揮」としての消費である。私は、現代の消費文化の多くは、人びとが「みせかけ美徳」を発揮する機会をプロダクトやサービスとして提供している、と考える。ここで「みせかけ美徳」という聞き慣れない概念が登場する。現代の消費文化において「みせかけ美徳消費」とは、消費者が商品・サービスを通して、あたかも自分が「美的徳」や「ケア」、「創造性」などの何らかの美徳を発揮しているかのように感じるが、実際にはその徳が十分に発揮されていない、あるいはその発揮が恣意的な市場環境によって阻害されている状態を指している。言い換えれば、「みせかけ美徳消費」は、「真正な美徳発揮」を伴わない、あるいはその追求が絶えず先延ばしされる一種の代理的・疑似的な美徳とその発揮である。最近の倫理学・認識論・美学では、「徳(virtue)」をめぐる議論が盛んに行われている。その興味深い議論を踏まえながら、美徳から考える消費論を展開する。この切り口はあまりないだろうが、私は、消費に対する不満や苛立ちの多くを説明できるアプローチだと考えている。本稿では、とりわけ、ファッション文化実践を批判する。ファッションとは、私のみるところ「みせかけ美徳の発揮」を提供する「みせかけ美徳ビジネス」の王である。
第二に、みせかけ美徳ビジネスのオルタナティブを検討する。私は、美徳の発揮を持続可能で自律的で誰にでもアクセスできるようなものにすべきだ、と主張し、美徳発揮の公正な分配として、美学と政治哲学の交差点を考える可能性を提案する。次回予告として、無批判に美的流行を受け入れることと、ルッキズム(外見差別)の関係について触れる。消費の美学を始めよう(なお、本稿における消費とは何か、その定義については注の方で詳しく(詳しすぎるかもしれない)論じておいた)[4]。
1 消費の美的快楽の分析
消費は気持ちいいい。ものを買った瞬間の気持ちよさとはなんだろうか。それは一つの美的経験をもたらすものであるようにも思われる。まずは、消費のスケッチをより豊かなものにしてみよう。
消費の美的特徴
(1)所有し始める喜び
(2)お金を失う喜び
(3)生活が向上する期待の成就
(4)お金を使うことが楽しい
まず、(1)私たちが何かを手に入れることそれ自体に喜びがある。それは、道端できれいな石を拾って自分のものにするときと同じ種類の喜びだ。誰のものでもなかったものが自分のものになるとき、心が暖かくなるような、自分が増えたような、そういう色調の明るい喜びがある。もしかすると、食事の際の喜びに近いかもしれない。何かが口に入り、咀嚼し、飲み込むときのような、自分のものになる感覚。触覚的な美的快がある。
しかし、(2)何かを失うことで何かを手に入れることにも喜びがある。何かを失うことは、単純に悲しみだと思われている。しかし、失うことは、喪失と可能性の広がりでもある。お金を失うことも、悲しいが、気持ちがいい。なぜならそれは、自分が溜め込んだ何かを解放することであるからだ。とりわけ、自分の労働や努力の対価であるお金を失うというのは、その労苦を解き放つようで、他にはない独自の美的な喜びがあろう。石を拾うだけでは得られなかった、ある意味で祝祭的な喜びがここにある。
加えて、(3)自分の暮らしや日々が向上するという期待がその瞬間だけは叶えられたと信じられる喜びがある。多くの製品やサービスは、後で論じるように、それほど暮らしや日々を向上させなかったり、向上にすぐに慣れてしまうだろうが、それでも、製品の取得の瞬間、パッケージを撫でさする瞬間だけは夢が叶う。
そして、(4)お金を使うのは楽しい。なぜか、お金を使うという能力を自分が発揮しているから楽しいのだ。サッカーでうまいパスをする楽しみ、いい演奏をする楽しみ、良い料理をつくる楽しみといった行為の楽しさとパラレルである。行為そのものが美的に味わわれる「美的行為(aesthetic action)」の一種なのである。消費という美的行為のユニークさ、それは、それ自体にはさしたるテクニックも修練もいらない、ということである。なぜなら、消費するのに必要なのはお金だけであり、お金さえあれば買うことができるものは買うことができるからである(もちろん、お得意先にしか買えないハイブランドのカバンもあるだろうが、お得意先になるのに必要なのはまあお金だけだろう)。それに対して、うまいパスをするためには練習と才能が必要であり、演奏も料理も同じだ。これらの実質的な技能が必要な行為に比べて、消費するという行為は、ある意味ではとても平等である。なんらの技能も才能も必要ない。金さえあればよい。あればあるほどよい。
この4つが合わさり、消費のタイミングには、ギラッとした感覚が私たちに生じる。所有開始、お金の失い、期待の成就、お金を使うこと。重ね合わさった独特の怪しい魅力が消費にはある。
とはいえ、伝統的に消費論で論じられてきたのは、ステータスアピール、差異の表示、応援、献身といった消費という行為をするときに同時に成立する別の行為であった。これは、ちょうど、言語哲学者であるJ・L・オースティンが『言語と行為:いかにして言葉でものごとを行うか』(1962)で分析したように、「発語内行為」によく似ている。食卓で「そこの塩ってとれる?」という「質問」行為が同時に「塩をとって欲しい」という「依頼」行為にもなる。これが発語の「内」で行われる行為、すなわち、発語内行為なのだ。これがオースティンの興味深い発見だった。
つまり、消費は、何かをお金を引き換えに買うという取得の行為であるが、同時に、「ステータスアピールする」「差異を表示する」という行為が可能であるし、「応援する」という行為も可能である。つまり、これまでの消費論は「消費の語用論(pragmatics of consumption)」を論じてきたと言えるだろう。
さて、消費における「消費内行為」とも言える行為には、ものすごい種類のものがあるだろう。消費を介して「命令」することもできるかもしれないし、「軽蔑」することもできるだろうし、「暴力を振るう」こともできるだろう。その網羅的分析もおもしろそうだが、ここでは、そのルートを採らず、ある一つの消費内行為を分析したい。
本稿で私が注目したいのは、「みせかけ美徳の発揮」という行為である。私は、ある種の消費において、人びとは「消費を介して自分たちの美徳を発揮できている」と感じているし、彼らは、美徳を発揮するために消費していると思っている。しかし、そこでは十分には美徳は発揮されないし、しばしばみせかけ美徳の発揮が販売されている、という主張をしたいのだ。どういうことか。
例えば、私たちが衣服を選び購入するとき、私たちは、自分たちの「美的判断能力を働かせている」と思っているはずだ。あるいは、私たちがアイドルを推して応援するとき、グッズを買ったり、YouTube配信にスーパーチャットを投げたりするのは、そのアイドルへの「ケア」という美徳を発揮している、と感じているだろう。
このように、サービスやプロダクトは、私たちにたんに心地いい経験を与えたり、美的経験を与える、というよりも、消費という行為において、美徳を発揮する機会を提供することで美的な快楽を与えているのだ[5]。
本稿では、第一に、ファッションをめぐる議論を詳しく論じたい。そして、その議論の応用として、ガジェット文化、ケア、ソシャゲをめぐる美徳の問題をコンパクトに論じたい。
2 ファッションと「みせかけ美徳消費」
ファッションと消費について考えたい。なぜファッションか。ファッションをめぐる実践は、美徳の発揮のなかでも、美的徳の発揮を消費者に夢見させるからだ。
そもそも美徳とはなんだろうか。美徳とは、望ましい結果を達成するための動機付けと確実な成功を伴う、深く、永続的な優れた能力であり、しばしば、美徳の発揮は幸福そのものであり、あるいは、幸福をもたらすとされている(Zagzebski 1996, 135; アナス 2019; cf. 菅 2016)。
美徳には、道徳的な徳(勇敢さ、慈愛)や知的徳(オープンマインド、注意深さ)などがある(Turri et al. 2022; 植原 2019; 植原 2020; 植原 2022)。とりわけ、ファッションに関わるのは、美的徳(aesthetic virtue)だ。美的徳とは、美的判断力や審美眼を持っていること、あるいは、よい表現ができる力を持っていること、自分なりのスタイルを作り出す能力、さらには、創造力などを意味する(Goldie 2007; Goldie 2008; Goldie 2010; Hills 2018; Johnson 2023; Kieran 2010; Kieran 2013; Lopes 2008; Roberts 2018; Snow 2023; Patridge 2023; Woodruff 2001)。
美的徳の概念をもう少し具体化してみよう。美的徳とは、広く言えば、美的対象や経験に対して適切な評価・反応・行為を取るための、深い内面化された性向である。それは、美的価値に対する理解や洞察(たとえば、スタイルや色彩、構成やリズム、素材や背景文脈に関する識見)を備え、そうした価値を適切に尊重・享受し、さらには、自律的な美的判断に基づいて応答・行動することを含む。
例えば、おしゃれ実践における美的徳としては、自分自身や自分の属する文化的背景に応じて、流行にただ従うだけではなく、独自の審美的判断を下せる能力、あるいは様々なスタイルを吟味し、より自分らしい装いに落とし込む創造的な美的判断力や表現力が挙げられる。こうした徳は単なる技能以上に、自分の美的センスを過大評価も過小評価もせずに選び取り、他のセンスに開かれている「謙虚さ」(Matherne 2023)、失敗をおそれずに自分のありたい姿を追い求める「勇気」(Wilson 2020: Tullmann 2021)など、複合的な要素を含んでいる。
本稿では、おしゃれ実践というよりも、時々の流行が激しく入れ替わるファッション文化にフォーカスしたい。ここで明確にしておきたいのは、両者の区別である。おしゃれ実践とは、個人が自らのパーソナリティや身体的特徴を踏まえ、自らの美的判断により装いを創造的に形成し、他者に呈示する行為を指す(難波 2019)。これは必ずしも流行に従わずとも可能である。一方、ファッション文化は、急激な流行サイクルが市場やメディアを通じて作り出され、消費者がその都度変わるファッションの正解を追い求める実践を指す。例えば、江戸時代の着物の着こなしをこよなく愛していて、実際にその人に似合っている人は、おしゃれ実践をしているが、しかし「ファッショナブル」ではない。つまり、ファッション文化には参加していないのだ。
おしゃれ実践はファッション文化の一部として行われることもある。しかし、しばしば、ファッション文化が提供する流行に巻き込まれている場合が多い。したがって、おしゃれ実践=ファッション文化ではない。
それゆえ、ファッション文化は美的徳の発揮の場所としては苛烈な環境であるように思われる。なぜなら、ファッション文化内では、意図的に流行が作り出され、多くの人はそれに乗り遅れまいと必死で追いついていくことになる。一見醜くても、不格好でも、機能性に劣っていても、ブランドやデザイナーや批評家や雑誌、ライターたちによって「ファッショナブルさ」という美的価値が制作される(Farennikova & Prinz 2011)。YouTubeを眺めていると、「2年前の服は形が古くなっているからもう着れない」とあるインフルエンサーが愚痴っている。クローゼットに服はたくさんあるのに着ていく服がない、と感じる人は少なくないだろう。ファッション文化において、人びとは、自分のスタイルを吟味してそれを自分の美的趣味との対話のなかで練り上げていくような時間のかかる作業をする前に次の流行に移っていってしまう。いや、移らなければ、時代遅れでダサいという評価をなされてしまう。ファッション文化の多くにおいて評価されるタイプの能力は、時期に応じた機敏さと、つねに流行に遅れまいとリサーチし、どんどんと新しい服を消費していく経済投資力だ。ファッションの多くは、時期に敏感であり、お金を使うことができる者に勝利が訪れるようなゲームであるのだ。環境を変化させ続けることで、美徳の発揮をゲーム的なものにしていく。それはそれで一つの遊び方ではあるし、何らかの美徳の発揮につながるかもしれない(たとえば、俊敏さ?)。だが、そうしたゲームの中でうまく美的徳を発揮させられる人は少ない。確かに、流行に追いついている人は賞賛されるかもしれないが、その賞賛は儚く、流行を追い続けることに幸せを見いだせる人はそう多くはないだろう。美徳は幸福とどこかでつながっているものである。それゆえこれらは美的徳というには心もとないように思われる。
ファッションは、「流行に乗れている」程度の能力を美徳に見せかけて、その「みせかけ美徳」を追い求めるように消費者に要求する悪徳文化なのである。ファッションは、消費者の美的徳を毀損し、「あたかも自分は美的徳を発揮できている」と思わせ、「美的徳を発揮するためには流行に乗り遅れてはならない」と思わせることで、新たな商品を買わせる。この文化における流行は、美的徳の発達を妨げるようにデザインされている。そのためファッション批評が芽吹く兆しもない。なぜなら、美的徳を発達させるような仕方でのコンセンサスを破壊しようとする方向で実践が促されるようにされているからだ。批評とは、美的徳を涵養するための豊かな土壌となるが、あいにくのところ、流行はそもそも批評を必要としないのだから。ある徳が発揮されるためには、その徳が発揮できるような環境やコミュニティがなければならない。だが、ファッションにはそうしたコミュニティが存在しない。
いや、と反論があるかもしれない。「ファッション文化には、確かに流行は存在する。しかし、流行に合わせて新しい自分なりのスタイルを発見する営みにおいて発揮される「機敏さ」はとても魅力的で独自の美徳なのである」と。なるほど。では、人びとが本当に「機敏さ」のような美的徳を楽しんでいるのかどうか、それを身に着けようとしているのだろうか。人びとは選んでファッション文化における美的徳の瞬発力を鍛えるようなゲームに参入しているのではなく、参入を余儀なくされているだけであるように思われる。そういうわけで、流行を追うタイプのファッション文化は、美的徳の発揮の場としては崩壊しているように思われる。それゆえ、ファッション文化は美的徳を発揮する場所ではない。
むしろ、人びとは、「流行に遅れている」とみられないために様々なアドバイスを必要としている。美学においては、そうしたアドバイスは美的証言(aesthetic testimony)と呼ばれる(Robson 2012; Hills 2019)。美的証言は、「これが美的に優れている」「これが美しい」「これが抜け感がある」といった美的な事柄に関する証言である。美的証言の発信は、ファッション雑誌がこれまで担ってきたし、最近では様々なSNS、とりわけYouTubeやTikTokがその役割を担っている。
それらの美的証言は、人びとが自分ではしきれない美的判断を肩代わりしてもらうために行われているのだ。美学者のマデライン・ランソムは、美的証言の問題は、人びとが自らの美的判断能力を使うことなく、誰かの証言に頼って美的判断をすることで、美的自律性を放棄しているのであり、それは、徳認識論的な枠組みから言って、自ら行う美的判断を放棄し、その美的判断の達成を誰かに移譲してしまっている点にある、と指摘している(Ransom 2019)。
この指摘を応用することで、私たちはファッション文化のパラドクスに気づくことができる。すなわち、ファッションにおいては、いっけん、おしゃれであることが賞賛され、おしゃれな人はおしゃれ判断を行い、美的徳を発揮しているようにみえて、人びとはそれを美的徳の高い人として模範的に理想とすべきだとされているかもしれないが、しかし、人びとが実際に求めているのは、美的徳の発揮ではなく、ダサいと思われないため、流行に乗り遅れてはいないと思われるための効率的な選択である。人びとは自らの美的徳を発揮できる環境にはない。
ふつう徳の発揮と涵養には一定の修養が必要だが、時間やコミットメントがない場合、それをイージーに叶えたいと人は思う。それゆえ、人びとは「いま何が流行っているのか」をリサーチして、その正解に向かって自分の可能な資金や時間を使って近づこうとする。なるほど、人びとが自分で自分の美的徳を働かせてその正解に向かうことができれば、確かに理想的だが、実態はそうなっていない。
実際のところ、この構造はファッションの批評が盛んではない理由そのものである[6]。ファッションの服装の何がよくて何がよくないのかは、私たちがファッションの衣服やアクセサリをじっくり眺めていても分からない。既にこれが流行である、流行ではない、という美的流行の視点が入りこまざるを得ない。それゆえ、私たちは、自分たちのセンスで考えることが難しい。いや、そもそもそのようなことができないようなジャミングがつねになされていると言ってよいだろう。それゆえ、ファッションの場合は、衣服をみても分からない。それが流行なのかどうかを誰かエキスパートの証言を聞いてからではないと判断できなくなってしまっているのだ。これは美的徳の発揮とは程遠い文化である。ファッションにおける純粋な美的判断はそもそものところ存在しないように思われる。
つまり、ファッションの消費者は、つねにファッションの美的判断から疎外されている。美学者のニック・ザングヴィルは、こうしたファッションの疎外を一人称的な視点と三人称的な視点のずれから説明している(Zangwill 2011)。流行のファッションアイテムたちは一人称的な視点からみれば、とても自然に「ファッショナブル」にみえる。あたかも夕日が美しいのと同じように、流行のアイテムは太古の昔から「ファッショナブル」であったかのようにみえる。しかし、私たちは同時に、三人称的な視点からみれば、その「ファッショナブル」なアイテムが人為的に、専門家たちによってデザインされていることに気づいていないわけではない。「一人称の経験を三人称の視点から考えるだけで、その経験から疎外されてしまう」。つまり、私たちはファッショナブルなアイテムが人為的なものであることを薄々分かっているのに、それがファッショナブルにみえる、という自分の美的判断からの疎外を経験しているのである。
哲学者のティン・チョー・ラウが提示する「美的ノーミー(aesthetic normie)」概念は、みせかけ美徳消費の問題をより一般的な観点から理解する手助けになる(Lau 2024)。美的ノーミーとは、深い美的探究や批評を経ず、流行のアイテムに飛びつく振る舞いをする消費者である。彼らは美的により意義深いアイテムを探索するというよりも、時間やコストの関係上、他人とのつながりを求めるために、流行の人気の美的アイテムを鑑賞することを選択する。あるいは、挑戦することを恐れて、馴染のない美的アイテムには近づかない[7]。ラウの指摘は、ファッション文化にこそもっともクリティカルに当てはまるだろう。より挑戦的なファッションでさえも、流行のなかで演出されているのだとしたら、私たちには何をしようもない。ファッションは美的徳の観点から言えば、美的徳を涵養することを妨害することで消費を生み出すという、美的徳の視点からいって堕落した文化なのである。
なので、美的ノーミー本人たちは美的徳がなく、美的悪徳を身に着けているという点で悪い。しかし、彼らだけにその責任をとらせるのも考えものだ。認識論においても、本人にだけ知的悪徳の責任を押し付けるのではなく、社会全体が知的悪徳を生み出している点に注目し、認識的環境に対する改善の必要が議論されている(cf. Levy 2023)。同様に、美的環境に対する批判を怠ってはならない。ファッション文化というものが、美的悪徳を生み出す仕組みを備えているのだ。それがファッションノーミーたちを生み出すことで利益を得ている[8]。以上のアンチ・ファッション論から、私は自分を「アンチ・ファッショニスタ」だとみなしている。仕掛けられた流行が嫌いであり、人工的な流行には美徳を腐らせる作用があると考えている[9]。
その他の美徳消費:ガジェットとケアとガチャ
以上の議論を踏まえて、3つの消費文化について、美徳消費の観点から分析を加えてみよう。
第一に、ガジェット文化もファッション文化に似て、流行の激しい消費文化のように思われる。私が興味深く注目しているのは、使いづらい楽器である。OP-1(field)(Teenage Engineering)と呼ばれるシンセは大変高価である。見た目はとてもおしゃれで可愛らしい。しかし、その機能は非常に貧弱である、とDTMユーザーのマイケルはYouTubeで指摘する。さらには、マイケルは、無料であったり、とてもチープなソフトでOP−1よりも便利で高機能な機材を揃えることができる、と事細かに説明してくれているのだ(Michael 2022)。チープであったり無料のソフトウェアで音楽をつくるオルタナティブな方法を提案するマイケルこそが、美的な「創造性」の美徳を発揮していると言える。彼は、私たちに高価なものなしで表現をする可能性を与えてくれる。
先程も指摘したように、美徳とは学ばなければならないスキルである。よい演奏ができる、という美的徳は、様々な修練を経てのみ身につけられる。そして、それを身に付けるためには、「堅実さ」「粘り強さ」といった認識的徳が必要になる。だが、人びとはそうした修練を行うことをスキップしたいと思う。なんとなくよい音楽をしているかのようにみせたい。もちろんそれはそれで「開放性」の徳と結びつくかも知れない。OP-1の悪さとは、それが、高価であることによって「何かができるんじゃないか」という期待を抱かせるところにある。Teenage Engineeringの作り出す製品は、音楽をしてる感を出したいけど地道に手を動かして練習したくはないが小金はある、見た目はおしゃれ好きな人々からはした金を巻き上げているのだ。
加えて、ケアをめぐる議論をみてみよう。私が別の場所で論じたように、アイドルの応援もまた「ケア消費」と呼ぶべき、ケアの美徳の発揮を約束するものの、そして、実践者はできていると感じているものの、実際は非常に問題のあるケアの発揮にとどまるか、そもそもケア的ではないような消費しか見当たらないという意味で、この文化もみせかけ美徳の発揮の場なのである(難波 2024)。どういうことか。人間として、私たちは誰かをケアしたい、という根本的なニーズがある。人はケアせざるを得ない生き物なのだ。そして、ケアすることで自分自身も開花する依存的な生き物なのだ。だが、現在の社会はケアする機会を私たちからどんどんと奪っているのかもしれない。それゆえに、ケアする機会を販売するビジネスがここまで広がってきたのではないか——と考えている。すなわち、アイドル文化やVTuber文化とは、私たちにお金を払わせることで彼らをケアする機会を与える「ケア誘いビジネス」なのである。こうしたケア誘いビジネスはこれからもどんどんと拡大していくと私は予想する。私たちはますます「ケア労働者=消費者」であるような消費労働者としてケア誘いビジネスの中に参入していく(cf. 大塚 2021)。ここでケアとは、間違いなく、私たちの倫理的徳の一つであり、アイドルビジネスとは、ファンがケアという美徳を発揮する場を提供することで消費を生み出す文化なのである。
最後に、ソーシャルゲームにおける強さをめぐる問題は消費と美徳の関係からうまく整理できる。近年、多くのソーシャルゲームがガチャ機能を搭載している。プレイヤーは仮想通貨や現実のお金を使ってランダムにアイテムやキャラクターを入手できる。このシステムは、好きなキャラクターを手に入れるために何度もガチャを回すことを促し、結果的にゲームの収益を支える仕組みとなっている。あるいは、ゲームにログインした初回のみ、レアなアイテムが出やすかったり、無料で何度もガチャにトライできるがゆえに、人びとは望みのレアアイテムが出るまで何度もゲームをリセットして最初から始める「リセマラ」に勤しんだりする。ガチャ機能は、たんにアイテムへの射幸心を煽るだけではなく、プレイヤーとしての「強さ」への憧れを生み出す。それらの(偽の)美徳の発揮をゲーム内で行わせるある意味で「美徳機械(virtuous machine)」として機能している。このシステムはプレイヤーの美徳を利用し、過度な消費を促す。ガチャの確率は低く設定されており、望む結果を得るためには多額の出費が必要となることもある。これは経済的な負担を増大させ、依存症を引き起こすリスクも伴う。
3 みせかけから実質的な美徳の発揮へ
私が本稿で考えたかったのは、みせかけ美徳消費の悪さだ。みせかけ美徳消費を批判する意義は、個人の美的徳の成長の阻害にある。以上で指摘したような消費文化は、そこに美徳がないのに美徳があるようにみせかける実践であり、当人も美徳を発揮していると騙されている。確かに当人たちが気持ちよくなっているのなら外野のとやかく言うことではない、という言い方もできるかもしれない。しかし、実際には発揮できていない美徳を発揮できたと勘違いすることで、人びとが得られたであろう美的徳の発達と発揮によって幸福を得る機会が奪われている。これは批判に値するだろう。美的徳が私たちの幸福を構成する重要な一部だとすれば、それを模造品をすり替えることで利益を得ようとする消費文化は人びとの幸福を搾取していると言える。まとめるなら、みせかけ美徳消費は以下の3つの点で問題がある。
(1)消費で美的徳を発揮するためには、費用や時間がかかるように仕組まれている。もしくは、費用をかければかけるほどに美徳を発揮できる仕組みになっている(リセマラ、ガチャ、課金、ファッション、投げ銭、トップオタ)、
(2)しばしば美徳の発揮できる場所が持続的ではない(サービス終了、解散、卒業)、
(3)美的徳の基準が恣意的にスライドさせられる(「環境」の変更、流行)。
消費文化の少なくない部分は、美徳の発揮を約束しながらも、その約束を永遠に先延ばしし続けることで消費者の消費行動を促し続けることができるのだ。
みせかけ美徳消費と、実際に美徳を伴う消費はどう区別可能だろうか。目安となる指標として以下が挙げられる:
(A)自律性:消費者が流行や他者の証言に追従せず、自らの判断で美的価値に応答できているか。
(B)持続性:一過性の流行に踊らされるのでなく、長期的な美的判断力や技能の発揮につながるか。
(C)相互批判性:消費者同士が批評的対話を行い、価値観を多面的に検討し合えるようなコミュニティがあるか。
これらの要素が欠如している場合、そこにはみせかけ美徳消費が横行している可能性が高い。
では、どのようにしてこの美徳消費の問題を解決することができるのだろうか。以下ではスケッチを示してみたい。美徳消費の健全化に取り組むためのアプローチとして、以下の2つが考えられる。
(α)美徳消費をより実質化する:より実質的な美徳消費を可能にするようなプロダクトやサービスを提供する。
(β)消費なしの美徳を構想する:消費を必要としないタイプの美徳の発揮を構想する。
(α)は、ある程度有望なアプローチに思える。美徳消費は引き続き行われるとしても、より中身のあり、持続可能な仕方で美徳が発揮できるようなサービスやプロダクトを作ることで、人びとの幸福に寄与する。とはいえ、持続可能な美徳の発揮という現象と、より多く購入され、消費され、企業に収益をもたらしてくれるプロダクトやサービスの相性は一見したところ悪いように思われるため、美徳発揮のための仕組みやシステムのデザインのセンスが大いに求められるだろう。
(β)は、ラディカルなアプローチである。消費は、その本性からして、美的徳をはじめとする美徳の発揮を妨害するのであり、消費以外の場での美徳を構想すべきだ、とするものだ。それは具体的には、例えば友人関係であったり、何かを考えることであったり、子どもや親をケアすることであったりするかもしれない。しかし、いまのところ、消費を介さない美徳の発揮というものを少なくとも私はまだうまくイメージすることができていない。私は、この最後のアプローチに魅力を感じているが、しかし、その内実をまだ掴めていない[10]。
ともあれ、いずれの道を取るにせよ、消費がいかに美徳と絡まり合っているのかを考えることからしか美徳消費批判は始まらないだろう。本稿に続いて、あなたがファッションについての批判を推し進めたり、あるいは別の美徳消費文化について論じてくれることを期待する。
さて、次回は、美的徳が美的悪徳の発揮に変質する別の文化として「清潔感」であったり「整形は努力」という言葉に代表されるような、見た目と性格・美徳を結びつける実践に対する批判を行うつもりだ。分かりやすい言葉で言えば、ルッキズム批判ということになろうか。しかし、問題は見た目で人を差別しているだけではないかもしれない。見た目から人の「性格」を差別している、すなわち、「性格差別」の問題があるのかもしれない。いまだ十分に掘り下げられていないこの差別について向き合ってみよう。新たな視点から美的徳と差別の問題に迫りたい。
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注
[1] さらに、近年の消費論の見取り図を得られる『ロスト欲望社会』もおすすめしたい(橋本 2021)。関連して、『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』も興味深い著作である(橋本2021)。
[2] 美学者のサイトウ・ユリコもまた、消費者美学を論じているが、私の関心とはかなり異なっている(Saito 2022; Shapshay, Tenen, Saito 2018)。
[3] 私の関心から言っても、私はポスト消費の世界をみてみたいと思っている。いま私たちがしているような消費行為をしなくなった未来はどんなふうな未来なのかを考えているのだ。というのも、この連載の第一回では、労働廃絶論について書いたのだが、労働のない世界では消費のありようもかなり変わりそうに思うし、もしかすると、ポスト労働のシナリオの一つは消費のない世界かもしれない、と思うからだ。もちろん、労働のない世界でも消費はありえるだろうが(消費のない世界で労働はディストピア以外ではありえなさそうだが)。ともかく、消費について考えると、いろいろな反省に役立つだろう。とりわけ、消費について回る美的な側面を考えることには価値がある。
[4] そもそも、「消費」とは何だろうか。アナキスト、アクティヴィストのデイヴィッド・グレーバーは「消費について書く人々は、ほとんどの場合、その用語を定義していない」(Graeber 2011, 491)と言う。その通り。大量消費、性的消費、応援消費、人びとが使う「消費」はいろいろあれど、その内実はよくわからない。それだけではなく、研究者たちが「消費」と書くときも、消費についての定義はない。もちろん、一般に定義がないことに問題がないことも多いが、こと消費となると、消費を批判したり分析したりする以上、どのようなタイプの消費を扱っているのか、一つの考察でぶれないことが重要だろう。
というのも、例えば、「ブランド消費は悪いけれど、カヌーやハイキングのような体験は消費じゃない。だから、後者は消費を加速する資本主義を批判する可能性があるのだよね」と言っている文章があるとしよう。しかし、カヌーにせよハイキングにせよ、やっぱり道具を借りるか買わないといけないし(消費だ!)、交通機関や車を使うし(消費だ!)、その場のレストランかどこかでご飯を食べるわけだし(消費だ!)、どうも消費とは無縁というわけにはいかなさそうだ。というわけで、(1)あるものが消費である。(2)別のものは消費ではない。(3)消費は悪い、非消費は悪くない。それゆえ、非消費はえらい、といった(よくある)論法は、消費概念を縦横無尽に伸縮させているからこそできる芸当なのだ。なので、少なくとも何かを論じようとするとき、意識的に定義をしておいた方が、論者本人にとっても混同的な議論を進めないで済むという意味でフレンドリーだろう。
ここで参照できるのは、近年の消費研究における実践的転回である。これまでさきほどいろいろな思想家を挙げてきたように、消費というのはとにかく文化的な意味にばかりフォーカスした、ともすれば机上の空論的な分析に偏っていた。そうではなく、人びとが実際のところ「消費」と呼ばれる過程で何をしているのか、その実践の総体をもってみていこう、という態度が消費の実践への注目として共有されている。そこで、エヴァンスは、消費のプロセスを3つのAと3つのDから分析している(Evans 2019; cf. Warde 2005; Warde 2010; Warde 2014)。みてみよう。
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取得(Acquisition):交換のプロセスと、人々が消費する商品、サービス、経験にアクセスする方法。
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流用(Appropriation):人々が商品、サービス、経験を手に入れた後にそれらをどうするか。「たとえば、ある商品が誰かにとって特別な意味を持つようになる場合、つまり、自分のスタイルを際立たせるために大切にされる衣服や、大切な人と共有した経験を思い出させてくれるものとして役立つ場合、その商品は「流用された」と言える」(Evans 2019)
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鑑賞(Appreciation):消費から喜びや満足を得る方法。
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処分(Disposal):商品、サービス、経験が政治、技術、経済の異なる仕組みを通じて取得されるのと同様に、それらは無数の方法で処分される、取得の対極にあるもの。
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剥奪(Divestment):商品やサービス、経験がパーソナライズされ、馴染んでいくように、これらの愛着もまた失われていきうる。流用の対極にある。
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価値低下(Devaluation):鑑賞と対をなす。消費によって欲求やニーズが満たされ、喜びや満足が得られるように、商品やサービス、経験もまた、その効果を失う。「経済的価値は時間の経過や消耗によって失われることがあるが、文化的意味の喪失もまた象徴的な失敗につながる可能性がある。例えば、アクセスが困難な旅行先を頻繁に訪れる経験は、より広く、より簡単にアクセスできるようになれば、価値が低下する可能性がある」(Evans 2019)