いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。
ドーヴァーの崖は、その真っ白な輪郭をもって海峡の縁で無言の存在感を示していた。視線の先にあるはずのフランスは見えない。空と海は境目を失ったように淡い青が広がり、太陽の光が海面に反射して柔らかな光の層を作り出していた。崖の上には、風を受ける短い草がところどころに揺れている。その揺らぎは、穏やかでありながらどこか不安を掻き立てる。
There are no birds singing
The white cliffs of Dover
ドーヴァーのホワイトクリフを題材にしたPJ Harveyの曲「Hanging in the Wire」が頭の中で流れる。「僕が死んだときにはこの曲を流してほしい」と妻にも話したことがあるほど気に入っている曲。ホワイトクリフはイギリスの玄関口に位置しており、伝統的に帰郷や安全地帯の象徴とされてきたが、この曲ではその荒涼とした景色が、むしろ「無人地帯(no-man’s-land)」の記憶を呼び起こす。
Walker sees the mist rise
Over a no-man’s-land
「無人地帯」とは、対立する敵軍の塹壕(トレンチ)の間に位置する地帯を指している。特に第一次世界大戦では「無人地帯」が凄惨な戦場の象徴として語られることが多い。そこは両軍の中間地帯であり、常に狙撃兵、機関銃、砲撃による危険に曝されていた。砲撃が無数のクレーターを作り出し、地面には瓦礫、倒木、鉄条網、そして死体が散乱していた。鉄条網に絡まった死体は長い期間放置され、強い腐臭を放っていた。
Just unburied ghosts
Hanging in the wire
ホワイトクリフには、この曲が炙り出す戦争の記憶と欺瞞、その残響が刻まれていると思う。今日も鳥の声は聞こえない。
僕はホワイトクリフのツアリストセンターで事前にネイチャーガイドを依頼しており、ミーティングポイントで会った年配の男性がシュルツだった。彼は白のTシャツに紺のジャケットを羽織って、人の好さそうな笑みを浮かべていたが、この人は気難しそうだという感触も同時に得た。初めはドーヴァーの地質や植生、そして気候の話に終始していたが、僕が海峡を挟んで大陸と接するこの土地の歴史的な意味について問いを発するとシュルツの声色が変わった。ドーヴァーがナポレオン戦争、第一世界大戦、第二次世界大戦において極めて重要な防衛拠点であったことを話してくれたが、説明の最後の方に「この国では、ホワイトクリフを平和な未来の象徴とみなした時代もあったけど、この地で生まれ育った私は、そんな悪い冗談はやめてほしいとずっと思っていたよ」と吐き捨てるように言ったのが印象的だった。そして、ひと通りガイドが終わって、そろそろ別れる時間に差し掛かったときに、シュルツは何かを確かめるように僕の目を見た後、彼の「友人の父親」のことを話し始めた。
「その友人の父親は、戦争から戻ってきた後も、ずっとある幻影を引きずっていたらしいんです」と、シュルツは軽く視線を落としていた。その話は、初めはためらいがちに語られた。「その父親が何を見たのか、どんな日々を過ごしたのか、断片的にしか語らなかったそうです。だから私も詳しくは知らない。ただ、夜になると何度も家を巡回し、誰もいないはずの影に話しかけることがあったとか。」
僕はその言葉に、ドーヴァーの白い崖に伝わる幽霊の話を思い出した。この地では、戦争で命を落とした兵士たちが夜になると崖の上に立ち、海を見つめているという話があるそうだ。
「1950年代、60年代の映画は、戦争の現実を描いていなかった。父は『戦場にかける橋』のシアーズほど勇敢でも強運でもなかった。それらの物語は、耐えられないほどに楽観的で、戦争の悲惨を何も描いていなかった。ビルマ戦での父は、中隊長が蛆虫にたかられながら目の前で亡くなるのを前に、必死にロザリオを唱えて祈った。子どものような風貌の日本人兵の首が飛び、最後の瞬間に目がぎょろりと動くのを見た。」
「友人は、アルコールに依存する父親の奇妙な行動に怯えながら、自分もまた、父親と同じ経験をしたと思わずにいられないときもあった。それくらい、父親から与えられた戦争のイメージは強烈だった。母親が亡くなると同時に、父親の妄想は酷くなった。夜中に叫びながら父親が目覚めると、シーツだけでなくマットレスも汗でびっしょり濡れていた。父が重度な精神疾患を抱えていたことについて、息子であるその友人が正面から考えられるようになったのは、父が亡くなった後のことだった。そして、友人自身がその深刻な影響を受けていたことについて向き合うには、さらに時間がかかったんだ……。」
驚くべきことに、シュルツはこの話を泣きながら話してくれた。こんなに心を使ってこの人は大丈夫だろうかと思うほどに身を投げうつように話してくれたので、僕にとってシュルツは大切な人になった。
僕はその翌日、同じく白亜の崖で知られる、イースト・サセックスのセブンシスターズに向かうことにした。セブンシスターズの名は、その景観に由来している。海岸には白亜の断崖が7つ横に並んでいて、その姿がギリシャ神話のプレイアデス七姉妹を髣髴させることから、そのように名づけられた。
宿泊先のブライトンからビジターセンター行きのバスに乗って30分ほど。ビジターセンターからは複数のトレッキングコースが伸びていて、セブンシスターズの白い崖の上を歩いたり、その下の海岸まで下ったりすることができる。
この日は空が澄みきっていて、見る景色のすべてが輝いていた。9月の南イングランドの気候は理想的だ。涼やかで軽やかな風が、歩みを進めるたびに肌の上を滑るように過ぎていく。汗ばむことはあっても、立ち止まればすぐにその風が心地よく体を冷ましてくれた。昨日のホワイトクリフとは違って、いまの輝きに満ちた場所。徒歩の人だけでなく、自転車で崖に向かう人、河口や海側から崖を見ようとカヤックを漕ぐ人が見える。セブンシスターズの楽しみ方は人それぞれ無数にある。
海岸まではおよそ30分。足元の砂利の感触が変わると、目の前には白亜の断崖が現れた。想像以上の迫力に思わず息を飲む。白くそそり立つ壁と、深さをたたえた紺青の海。その静けさの中で、人々の存在もまた風景の一部となっていた。
ただ、一つだけ問題があった。ここはトレッキングコースの最終地点だというのに、七姉妹と呼ばれる白亜の断崖の全容を見ることができない。かろうじて2つの崖の輪郭が覗いているだけで、残りの姉妹たちは視界から外れていた。どうしても全体像を見たいという衝動に駆られた僕は、目前にそそり立つ崖を登ることを決めた。しかし、正規ルートでは、もう一度30分近く元のルートを戻って「崖上コース」を選び直さなければならず、まどろっこしい。できれば目の前のこの崖を直接登りたい。「Danger!」とその危険性を警告する看板が目に入ったが、ちょうど崖をマウンテンバイクでよじ登る人が目に入ったので、バイクで行けるなら、この身ひとつで行けないわけがないと思って目の前の崖をよじ登ることにした。
崖登りは苛烈だった。何度も滑っては後退し、全身に白い石灰の粉末がこびりついて巨大な砂糖菓子のようになったが、どうにかてっぺんにたどり着くことができた。振り返ると、5つ、いや6つの崖の輪郭をどうにか確認できる。足元はいかにも崩れやすい石灰岩で、その足元の脆さと高度感に身がすくむ。白と青のコントラストが織りなす絶景が広がる一方、わずかに足を踏み外せば即座に命を失うだろうという予見が背筋を凍らせる。
結局、死闘の甲斐なく7つの崖を一望することはできなかったわけだ。ビジターセンターで手に入れた地図を改めて広げてみる。角度的にここならば全容が見えるだろうと思われる岬に目星をつけ、ビジターセンターからタクシーでそこを目指すことにした。
タクシーを運転していたのは、サイモンという名の陽気な中年男性だった。さっき目星をつけた地図を指差してサイモンに「ホープ・ガープって書いてあるこの岬に行きたい」と伝えたが、彼は僕が伝えたのとまったく逆の方向へと車を走らせた。僕は焦って「逆方向じゃないか?」と尋ねたが、彼は余裕の笑みで「ノー・プロブレム」と答える。僕はやれやれと思うものの、彼が間違っていて、僕が正しいという100%の自信はない。90%の自信はあっても、10%の自信のなさが僕をこうやって尻込みさせるのだと思った。
僕は、昨日ドーヴァーでシュルツから聞いた話をあまり重たくならないように話してみた。話した後も、サイモンはしばらく車内で流れるThe Kinks のWaterloo Sunsetを陽気に口ずさんでいたが、信号待ちのときに一瞬だけ静かになってこう言った。「それってシュルツさん自身の話じゃないかと思うよ。シュルツさんはきっとその父親の息子だよ。」
僕は思わず息を詰めた。どこかでそうかもしれないと感じていたことを、明確に言葉にされると、不意に重みが増した。僕はまともに返事をすることができず、仕方なしに窓の外を見ながら目的地の手がかりを探すことに集中した。
しばらくしてサイモンが車を止めた場所は、バーリング・ギャップというやはり別の場所。彼は到着してすぐに自らの間違いに気づいたようで「アイム・ソーリー。ここは違う場所だった」と慌てた様子で謝る。しかし、僕の方は、この場所からは別のとんでもない景色が見えるかもしれないとすっかり別の期待が頭を支配していたので、「気にしないで、ノー・プロブレム!」と勢いよく車を飛び出した。そして見えた景色がこれ。
時はすでに夕刻で、白亜の崖が琥珀色に染まっていた。「ありがとう、サイモン。君のおかげで、この景色に出会えた。」僕がそう言うと、彼は笑いながらこう返した。「人生は時々、間違った道に迷い込むものさ。でも、そのおかげで素晴らしいものに出会えることもあるんだ。」キザなことを言う人だと思った。
今度こそとホープ・ガープを目指す。途中でビジターセンターが見えて、僕は今日この建物を何度も見ていると思う。岬に近づくと住宅街に入り込み、ふたりで「どこだ?どこだ?」と言いながらたどり着いた「Hope Gape」の標識。このときちょうど日没時間を迎えた。
僕は車を飛び降りて足場の悪い草地をぐんぐんと海の方に進んでいく。そして徐々に見えてきた燃え立つ帆のようなセブンシスターズの崖。すでに6姉妹がその顔を顕わにしている。
まもなく闇を迎える海が大きく広がっている。目を凝らしても対岸のフランスはやはり見えない。風がさっきよりぐんと冷たくなってきた。あそこにポツンと見える岬の先のベンチまでいけば、7姉妹に会えるはず。そう確信を持って足早に進む。
そして、とうとうたどり着いた岬の先。たしかに7姉妹、7つの断崖が並んでいる。ターユゲテー、エレクトラ、アルキュオネー、ケライノー、マイア、メロペー、アステロペー。豪胆で雄々しさに満ちた英雄オリオンさえも思い通りにならなかったプレアデスの七姉妹。ギリシャ神話の中の彼女たちは、オリオンに追い詰められてついには星になったが、この崖が、何か逃れるべきものから身を隠した人々の姿のように思えた。一日が終わるその直前に見たその美しさは生涯の記憶になった。が、同時に、身を隠している彼女たちを見ることに執心した自分に、どこか後ろめたい気持ちを覚えた。
タクシーは夜のブライトン駅に向かって滑るように進んでいく。車窓から見える街の明かりは、霧の中に浮かぶ灯籠のように柔らかに揺れている。運転席のサイモンは相変わらず陽気で、その声は流れる車内ラジオの音楽よりも軽快に響いていた。
「ブライトンに滞在してるそうだけど、ここはよい街だと思わない?」
ハンドルを握った彼は前方を見つめたまま言う。
「確かに、活気があるし、開放的で独特な雰囲気がありますね。そして、ロンドンより空もずっと広く感じられる。」
「若い頃はね、こんな街なんて嫌いだったんだよ。」彼は笑いながら続けた。「パブで酔っ払った連中が騒いで、観光客がカモメの写真を撮ってさ。それがブライトンだ。でも、いまはこれ以上の街はないと思ってる。」
彼の口調には、思い出を味わうような静けさがあった。「それでも若い頃は、こんなふうに思えなかった。俺はもっと大きなことをしたかったんだ。民主主義をもっと理想的なものに変えてやろうと思ってね。」
「政治に興味があったんですか?」と僕が尋ねると、彼は頷いた。
「政治だけじゃないよ。当時は絵や詩作にも夢中だった。自分の理想を表現する手段だと思ってたし、それが将来の自分を育ててくれると思ってたんだ。自己表現と民主主義が双生児のような時代があったのさ。」彼はそう言うと、短く笑った。「理想を叶えるためにできることは何でも試してみた。でも、結局、それはただの若気の至りさ。」
「でも、それが今のあなたを作っているんだから、無駄ではなかったですよね。」
「そうだよ、無駄じゃない。ただ、ある時気づいたんだ。何かを「残す」ことに執着し始めると、それが逆に足枷になるってね。」
彼の言葉には独特の味わいがあった。その内容の真面目さとは裏腹に、彼の軽妙な口調がその重みを打ち消しているようでもあった。僕は何かを返そうとしたが、先を越された。「ほら、街路灯が踊ってるみたいだな、そう思わない?」彼が笑って言うから、僕は窓の外を見る。街路灯が一定のリズムで流れ去る様子は、確かに踊っているようにも見えた。彼のあまりに自然な明るさに、僕は胸を締め付けられる。
「ところで、君は何をしてる人なんだい?」
「自分で作った子どものための教育支援の場を運営しながら、同時に作家をしています」と答えると、サイモンの顔がぱっと明るくなった。「おお、それは面白い!作家か!」
彼のエンジンが一気に上がったようだった。「いいね、作家って響きがカッコいいじゃないか。俺も若い頃は詩を書いてたんだ。自分で言うのも何だけど、あれは中々のもんだった!」
「でもな…」サイモンはしばらく考え込んだ後に話し始める。
「今の俺はね、つくること、そして何かのアクションを起こすこと、そのどちらにも興味がない。どれも結局、人間を縛りつけるものになる。」彼は手を片方のハンドルから離して宙にかざし、何かを掴もうとするような仕草を見せた。「労働は人間をもののように扱う。だから、つくることがそれに対する抵抗になるのもわかる。でもさ、人間的価値をそういったつくることやアクションを起こすことに置き続ける限り、俺たちは何も変わらないんだ。「人間としての価値」とやらを真顔で言う奴らのことは疑った方がいい。」
駅に近づくと、サイモンが軽く口笛を吹きながら車を停めた。やっぱりThe Kinks のWaterloo Sunsetだ。「あの逆方向に行った分はチャージしないよ。ご迷惑をおかけしたからね。」
「いや、あの景色を見られたんだから、むしろ感謝したいくらいですよ。」
サイモンは大きく笑いながら、「人生ってさ、間違った道に迷い込むこともあるだろう。でも、そういうときに思いがけないものに出会えるんだ。」と言った。2度目に聞いたその言葉は、1度目とは違う響きで僕を揺さぶる。
僕はサイモンが明るい笑顔を見せるたびに、シュルツとその父親のことを思い出さずにはいられなかった。彼らの人生が、戦争によってすっかり変えられてしまったこと。サイモンは彼らの人生の別の可能性だ。彼らが戦争に出会わなかったら……。そんなことを考えるのは不遜だろうか。
タクシーを降りると、ブライトン駅のホームに明かりが灯っていた。その光は遠くから見ると星雲の一部のように見えたが、近づくと駅特有の雑多な音とともに現実に引き戻された。僕はサイモンに笑顔だけの別れを告げて、駅のホームへと向かう。振り返れば、サイモンが窓越しに手を振っている。そのさっぱりした笑顔は、泣きながら語ってくれたシュルツとは対照的だ。それなのに2人は似ている気がした。
ガタガタと揺れながら電車が走り出す。喧騒の街、ロンドンに向かう最終電車だ。
Back Number
- 第9回 イングランドの白い崖
- 第8回 オルセー美術館のサイ
- 第7回 受難のメキシコと今村
- 第6回 ジャワ島のミコの家で
- 第5回 アシジと僕の不完全さ
- 第4回 ハバナのアルセニオス
- 第3回 スリランカの教会にて
- 第2回 クレタ島のメネラオス
- 第1回 バリ島のゲストハウス