第10回 ごきげんよう(後編)

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

大学2年生になったばかりの春。私は五月病をこじらせて鬱状態になった。その前と後では世界の見え方があまりにも違っていたので、私は自分が何月何日におかしくなってしまったのか、今でも正確に答えることができる。

5月10日、朝目を覚ますと、毎日見ているはずの自室の天井が、まるで初めて訪れたビジネスホテルの天井のように、無機質で親しみのない光景になっていた。昨日までとはなにも変わっていないはずなのに、世界と私は突然透明な膜によって隔てられ、私は一切のものの手触りを感じることができなくなってしまった。私は普段、傍から見るとやたら周りを見回しながら歩いているらしい。毎日通る代わり映えのしない道を歩くときでさえ、私の挙動不審な様子を見た人からは「まるで迷子のようだ」と笑われる。鳩がトコトコと歩いていたり、風に乗ってビニール袋が飛んでいったり、散った花びらが渦をつくって踊っていたり、駅の壁の汚れが人の顔のように見えたり、そういうことから私は目が離せないのだ。そういう小さなことにいちいち感想を抱いて、人知れずニヤリとしたり、感傷的な気分になるのがいつもの私である。5月10日の私からは、その機能が明確に失われていた。なにを見ても心が動かなくなり、心が動かなくなったことに絶望して泣いてばかりいるようになった。家から抱えて部室に持ちこんだゲーム機で遊んでいるときも、楽しそうな後輩たちの真ん中で、私はコントローラーを握ったまま涙を浮かべていた。涙で視界がぼやけて、画面の向こうのコースが良く見えない。いつもぶっちぎりの一位だった私のキノピオは道を逸れて停止したまま、他のカートに次々と追い越されていく。楽しくも悔しくもない。それが悲しい。

カフカが言うところの「虫」のようにになった私は、虫になりながらも、なんとか大学に通い続けた。実際のところ大学に行っただけで、たいていは授業にも出られず汚い部室で寝込んでいたのだが、部室にいれば誰かが来て、弱音を聞いてくれたり、くだらない話をしてくれる。最初は「またバッケが変なことを言っている」とちゃかしていたサークルメンバーたちも、無表情のままボロボロと涙を流す私を見て「こりゃほんとに様子がおかしい」と、ほんの少し気にしてくれるようになった。過剰に心配するということでもなく、扱いづらくなった私を腫物のように扱うでもなく、ほとんどいつも通りにからかったり喫煙所に誘ったりしてくれた。彼らは気にしたうえで、気にしないようにしてくれたのだ。それは私にとって本当にありがたいことだった。私がふさぎ込んでしまったせいで、彼らが私への態度や言動を反省し、丁重なものに改めるというのは、私にとっては最悪の展開だった。私は人にやさしく接するのが苦手ゆえに、人にやさしくされるのも苦手だ。やさしくされると“やさしくされる用の私”が出てきてしまう。こいつは何の役にも立たないし、面白いことも言わないから嫌いだ。夏が本格的に始まるまでに、私の精神状態はゆっくりと膜が解けるように回復していったように思う。始まりははっきりとしているのに、終わりはいつだったかよくわからない。もしかしたら今も現実感は喪失したままなのかもしれないが、そうだとしても身体がそれに適応したのだろう。あれ以来、同じようなことは今日までない。私は運よく戻ってくることができたに過ぎないのだろう。

OB会の席に座りながら、私はそんなことを考えていた。席がなく、会場の後ろに突っ立っていたYが、私の背中が大きく開いたワンピースをからかう。

「バッケ、なんでそんなエロい服来てんの?」

「会費がタダになるかなと思って」

「お前なめんなよほんと」

私は心配だった。卒業から5年。彼らが5年間の社会生活でコンプライアンスという濁流にもまれ、一切濁りのない、洗いすぎた白米のような人間になってしまっているのではないかということが。もちろん、集団で働いていくうえでは、不快を感じる人間をひとりでも少なくするために振舞うことが大切だ。世の中にはさまざまな事情を抱えている人がいることを知り、それぞれが快適に過ごせるように自分を作り変える必要がある。それでも、その作り変えられた“正しい”人格で彼らが私に接するようなことがあれば、私は言いようのない寂しさを感じるに違いない。正しい世の中では、私はどうしても優しくされなければならない立場にある。女性であるとか、マイノリティであるとか、そういうのを盾にも矛にもしなくて良い場所というのは、そう見つかるものではないのだ。何の心配もない。相変わらず私たちのあいだには、温かいセクハラとパワハラと差別が横行している。長らくどこかに消えていた、図々しくて自意識の高いバッケという存在は、懐かしい暴言でたちまち息を吹き返した。

みんな行くだろうと高を括って参加の返事をした二次会には、私と、同じくなんとなく参加の返事をしてしまったKとJしか参加しないらしかった。「裏切りだ」と喚く我々3人を愉快そうに憐れみながら、YとSは後輩たちを引き連れて別の飲み屋へ消えて行った。私たちは二次会で先輩たちのありがたいお言葉を熱心に2時間ほど聞いたあと、先発隊と池袋で合流した。先発隊は安い居酒屋ですっかり出来上がっており、後輩たちに囲まれて上機嫌になったYの赤い顔とポマードで撫でつけられた髪が、照明に照らされてテカテカと光り輝いている。在学当時から団塊の世代のようなオヤジ臭さで満ち満ちていたYは、なんだかんだで後輩女子たちにも好かれている。リーダーシップがあり、なにより話が面白い。冗談か本気なのか分からない、時代と逆行する隔たった思想を雄弁に語る姿は、まさに演説を披露する三島由紀夫だった。みんながキャラクターとして彼を愛しているが、彼の思想を真に受けて影響される人間は誰もいない。

本人が憶えているかどうかはわからないが、Yと私はいちど大きな喧嘩をしたことがある。私たちのサークルでは週にいちど、学校の会議室を借りての定例会を行っていた。運営している文化祭でのミスコンテストが近づいていて、さまざまな準備に追われるなかでの定例会は、いつもとは打って変わってぴりついた空気が漂っていた。とくにぴりついていたのはスポンサー企業との窓口係を務めていたYである。私のようにお気楽にポスターなどの掲示物を作っていた班と違って、切実な金策に走らなければいけなかったYは誰に相談するでもなく、この世の全てを背負っているような深刻な顔をしていた。そんなに辛いなら他に仕事を分配すればいいのに。私はYの「お前らにはわかるまい」と言わんばかりの表情に苛立った。与えられた仕事はやっているし、そっちは具体的になにをやっているのか教えてもくれないじゃないか。そんな辛気臭い顔で睨まれても困る。私もむきになって、Yをおちょくるように、周囲とくだらない雑談をしてヘラヘラと笑っていた。怒りが頂点に達したらしいYが会議室の椅子をバンと蹴り上げ、扉を乱暴に開けて出て行った。事情も知らないメンバーに何の説明もなく八つ当たりするなんて何事だ。私はただ冷静にそう言えばよかったものを、あけ放たれたドアの向こうにプリプリと去っていく背中に向かって、なおもヘラヘラと笑い声を含んだ調子で「おい、ドア閉めてけよ」と叫んだ。すると、Yは顔を真っ赤にして振り返り、イノシシのような突進で私に殴りかかってきた。

避けたこぶしが後ろの窓ガラスにぶつかってゴンと音が鳴り、私も近くにあった椅子をYに向かって蹴り飛ばす。怒鳴り合いながらつかみ合う私たちを避けて会議室はめちゃくちゃになった。私にとっては、父と喧嘩をした以来、2年ぶり2度目の大暴れである。カッとなったらどうにもならないあたり、つくづく父親譲りの呪われた気質だ。会議室には悲鳴が飛び交い、後輩の女子はおびえて泣いていた。悪いことをした。見かねたSに「お前ら表出ろ」と怒鳴られ、私たちは興奮しきったままバルコニーへ飛び出した。なだめる同期たちをよそに怒鳴り合い続ける私たち。Yに真正面から「おめぇやめちまえよ」と言われて「やめてやるよ」と返しそうになったが、どうして私がやめなきゃならないんだと瞬時に思い直して「おめぇがやめろや」と言い返した。Yの後ろに立っていたSが心の底から呆れたような表情をしていたのを憶えている。それから私たちは引きはがされてそれぞれ同期になだめられたような気がするが、頭に血が上っていてよく憶えていない。そのまま定例会はお開きになった。

それから一時間もしないうちにYが私のところへ戻ってきて、穏やかな顔で「バッケ、タバコいこ」と言った。外は日が沈んですっかり暗くなっている。ふたりとも無言で階段を下りて、大きな木の下の喫煙所で静かに煙を吸い込んだ。半分ほどが燃えカスになったところで、Yが煙と一緒に「ごめんな」と吐き出した。私も一息吸って「ごめん」と言った。ふたりともタバコを持つ手が震えていた。

そのあとは示し合わせるでもなく同期たちと近くの居酒屋に行った。Sの「おまえらマジで」から始まるお説教で反省した私とYは、続けて仲直りのしるしとしてチューでもしろと命令された。死んでも嫌だと私たちは抗議をしたが、大切な定例会をめちゃくちゃにしてしまった罪悪感もあってか断り切れず、最終的にはYが口にくわえた梅干を私が口で取る、という方式を取ることになった。Yが今にも泣きだしそうな顔で梅干をくわえて目を閉じる。泣きたいのはこっちだよ、と思いながら唇に触れないよう、最新の注意を払って顔を近づける。Yのテカテカした顔が迫る。梅干しの感触と一緒に、Yのひんやりとした分厚い唇の感触を感知してしまい、私とYは同時に「ヴェッ!!!」と叫び、手元にあったおしぼりで口をゴシゴシと拭いた。周りが歓声に包まれ、Sは満面の笑みで「はい! 仲直りね!!」と笑った。それから卒業するまで、Yは会話の中でときどき「バッケはね、盟友だから」と言っていた。どうやら彼は「盟友」という言葉が気に入ったらしい。私も気に入って、そう言われるたび「まあね」と返した。馬鹿らしくて大げさでヤニ臭い、実に大学生らしい大学生活だった。

そんな話を3軒目の居酒屋でYに話すと、Yはすっとぼけた顔で「そんなことあったっけ?」と言った。

よし、ここのお代は全部こいつに払わせよう。そろそろ終電、ごきげんよう。

(了)

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。

第9回 ごきげんよう(前編)

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

目白駅で電車を降りたのは何年ぶりだろうか。構内にあったミネストローネが美味しいパン屋はすでになく、女子大生が好みそうな品々が並ぶ雑貨店になっていた。凍えるよう3月が過ぎたかと思えば、4月の今は真夏の真似事のような暑さである。12時に会場の前で集合しようとメッセージを書いていたYは、あまりの暑さにいったん家に着替えに戻ったようだ。私以外、誰も時間通りに着きそうにない。約束の時間に必ず遅れると評判の私が、珍しく20分も早く着いたのは、ここが自宅から2時間近くもかかる小旅行地であるからだった。久しぶり過ぎて時間を見誤ってしまった。こんなところまで毎日辞書を2冊担いで通っていたなんて、今ではとても信じられない。駅を出てすぐの広場には人が集まっていた。警察がイベントのようなものをしていて、親に連れられた子供たちが、おっかなびっくり白バイにまたがったり、ぬいぐるみと戯れたりして、休日の昼下がりを楽しんでいる。相変わらず品の良さそうな親子連ればかりだ。そこから横断歩道を渡ってすぐの「西門」から大学内に入ろうとしたが、なぜか閉まっていた。駅から徒歩30秒の駅近大学と謳っているクセに、肝心のときには正門まで歩かせる。こんな暑い日になんと意地悪なのか。敷地に沿って続いている脇の細い道路を、私はフラフラと歩き始めた。

桜は2週間以上前に満開したと知らされていた。ほとんど葉桜になりつつある桜の木から、今日の強風に乗った花びらが惜しみなく飛んでくる。日差しと比べ、まだいくらかひんやりとしている風の匂い。大学内のホールから、オーケストラが演奏するハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」が聞こえてくる。ちなみに、この曲が「仮面舞踏会」ということなど、このときの私は当然知らない。迫力のある演奏にポカンと口を開けて「この曲なんだっけ? トゥーランドット?」などとしばし考えただけである。私は、タイトルをわからないクラシック曲をすべて「トゥーランドットだ」と思ってしまうクセがあるらしい。本物のトゥーランドットがどんな曲なのか、実際は誰かに聞かれたって口ずさむこともできない。曲に限ったことではない。私にとってトゥーランドットという言葉を思い浮かべることは、読みもしない参考書を小脇に抱えて歩くことに似ている。なにか小難しいことを思い出そうとしてそれがかなわなかったとき、私はとりあえずそこに「トゥーランドット」という言葉を嵌めておく。そう考えると、仮歯のようなものだとも言える。本当の情報が手に入ったら、トゥーランドットを取り除いて差し替える。今、本当に正しくトゥーランドットが正解である部分にも、この仮歯のようなトゥーランドットが刺さっているはずなのだが、本物のトゥーランドットを当てはめるべき場所が一体どこなのか、私はもはや分からなくなってしまっている。とにかく、ホールから聞こえる美しい演奏は私の心を浮足立たせた。誰に聞かれたわけでもないのに、自分の“トゥーランドット思考”について書き始めてしまったのも、私はかつて仏文科の生徒で、毎日役に立つかもわからない小難しいテクストを読み込んでいたことを思い出したからだろう。今日は大学を挙げたお祭りの日で、大学の現役生や卒業生、それに付属する初等科の子供たちや中等科の学生たちもやってくる。この広大な敷地の森林が豊島区にある緑の3分の1を占めているという話を、学生だった時代に聞いたことがある。そういえば、古い校舎の裏側に大きなキノコを見つけて驚いたこともあった。

3分ほどノロノロと道を歩いて正門にたどり着いた。現役生だった頃は、たいがい西門から登校していたので、正門までやってくるのはそれこそ入学式か卒業式くらいだった。大きな門が聳え立っている様子はやはり立派で、かつてこの学校に通っていたことを少し誇らしく感じる。なんでもない顔でさらりと門をくぐりたかったが、高鳴った気持ちが抑えられずに、大きく大学名が刻まれた柱の写真を一枚だけ撮って中へ進んだ。敷地内に入ったところで、サークルのグループLINEの通知音が鳴る。

「もうちょいで着く。バッケ駅前きといて」

「やっと正門着いたから無理」

「キモすぎ」

「喫煙所見てくるわ」

サークルの仲間たちは、私のことをバッケと呼んでいる。これは私の名前にくっついている父の一族の名字で、正式な書類でないかぎり表に出すことはない。だが、サークルのメンバーは私を「伊藤」とも「亜和」とも呼ばない。もはや大学の仲間内でしか使われることのないこの呼び名は、私にこの環境でしか現れないひとつの人格を作り出したようだった。男でも女でもないような、学内でときどき目撃される、奇妙なキャラクターのような存在。私が所属していたサークルには男子学生も女子学生も同じようにいたが、私が行動を共にしていたのは主に男子学生たちだった。ややお嬢様気質が多い女子学生のグループと、若干思いやりに欠ける私の相性はあまり良いものではなかったのかもしれない。授業の合間に楽しくおしゃべりすることはあったものの、休日に一緒に出掛けたりすることはほとんどなかった。「男子といたほうが心地が良い」と書くと、自分が男勝りだと思い込んでいる痛々しい女と思われても仕方がない。それでもやはり、私にはそのほうが気楽だった。彼女たちの心を無意識に傷つけてしまわないためにも、私は容赦なく暴言をぶつけ合う男子たちと喫煙所にたむろすることを選んでいた。そこでも、男子同士の付き合いにあまりずうずうしく入っていくべきではない、と気を遣っていたつもりだが、実際、私はかなり図々しかったと思う。あのヤニ臭くて汚い部室に誰よりも長く居座っていたのは、他でもなく私だったのだから。

部室棟の目の前にあったはずの喫煙所はなくなっていた。真っ先に向かったそこがただの広場になっているのを見て、私はまさか学内で煙草が吸えなくなったのではないかと不安になったが、すこし歩いて部室棟の裏へ回ってみると、新たにパーテーションが立てられた喫煙所がきちんと残されていた。ホッとしながら赤いレンガで作られた低い囲いに腰を下ろしていると、向こう側から先ほど私に「駅前にきて」と連絡してきたSがスタスタと歩いてきた。背が高く瘦せ型で、堀の深い目元には、相変わらず太陽の光でできた濃い影が乗っている。この暑さでも一応、サークルのOB会であることを意識してきたのか、かっちりとしたジャケットを羽織っていた。そろってパーテーションの中に入り、アイコスのスイッチを押す。

「そういえばあれ、見たよ、テレビ」

「あぁ、ありがとう」

「一緒に出てた人、あれ誰だっけ」

「紗倉まな?」

「あれ? 紗倉まなだっけ? 紗倉まなってあれじゃん、演歌歌う子」

「それ、さくらまやでしょ」

「あは、まやか」

くだらないことを話しながら、Sは「そういえば」と言って働いている会社の名刺を渡してきた。一応、私も「頂戴します」と言って両手で受け取る。

「バッケお前名刺ないの?」

「作ったんだけど、忘れた」

「こういう時こそ持っておかなきゃだろ。いろんな人来るんだから」

卒業から5年が経ち、会社に就職した同級生たちはみんな順調にキャリアを進めていた。一方で私は、いろんな道を進んでみては後戻りを繰り返すような、責任のないフラフラとした生活を続けている。物書きとして少々軌道に乗ってきた今だから、こうして多少得意げに大学に顔を出せたものの、去年の今頃のままだったらきっと、ほとんどフリーターの自分が恥ずかしくて参加を断っていたはずである。仲間が“社会人”としてまっとうな大人になっていく姿を見るのは、やはりまだこそばゆい。Sから大人のまっとうなアドバイスを受けて、私は苦し紛れにふんと鼻を鳴らした。

パーテーションを出て再びレンガの上へ座り、他のメンバーの到着を待つ。目の前を、上品なフォーマルのワンピースを身にまとった女性と、その子供が通り過ぎた。子供のほうは、汚いレンガの上で、暑さに項垂れながら座る私たちを不思議そうに見ていた。私はSに聞く。

「初等科の親ってさぁ、毎日あんな恰好しなきゃいけないのかね」

「そうだろ。さすがにTシャツにジーパンってわけにはいかねぇんじゃねえの」

「大変だなぁ」

初等科から大学まで、エスカレータ式に登ってくる「内部生」と違い、私たちは大学から入ってきた「外部生」である。家柄の良い内部生たちに比べたら、私たちはガラの悪い庶民だった。大学を聞かれて答えると、たいてい「あそこは“ごきげんよう”と挨拶するんでしょう」と言われるが、少なくとも外部生にそんな習慣はない。4年間通っていたにも関わらず、私たちは校歌もロクに歌えないのだ。

ふたりで新校舎を見学しに行ったり、懐かしい部室棟の中をうろついてそれぞれの部室をのぞき込んだりしているうち、家に着替えに戻ったYと、とくに理由もなく遅れてきたJとKがフラフラとやってきた。結局全員が集まったのはOB会が始まる10分前で、私たちは「北棟ってどこだっけ」などと言いながら指定された教室へと向かった。

演習の授業で使われている少人数用の305号室には、他の教室の何倍もの人間たちがひしめき合っていた。入り口で名札を貰って首から下げる。参加の返信をするまで、自分が55期のメンバーであることも知らなかった。私とSとYが55期、ひとつ上の学年のJとKが54期というわけだ。この会場にいるそれより上は、なぜか唐突に17期とか、14期とか、中年以上の紳士淑女たちばかり(もっとも歳が上だったのは、3期生だという矍鑠とした老紳士!)が集まっていた。OBのなかでもひよっこの我々は、余った椅子にお行儀よく座り、現役生による活動の報告と、次回の記念パーティーの予定について聞いた。横にいるKは、四角いフレームの眼鏡をかけ、真面目そうな顔で書類に目を落としていたが、ときどき何かが面白くなったようにニヤニヤと笑っていた。緊張感のある空気の中、交互にニヤついている不届き物はKと私だけだった。みんなが真剣な顔をしている状況に耐えられないから、私たちは個人事業主なのだろうか。

(続く)

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。