日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?
大学に入学してからすぐ、私は都内でアルバイトを探した。東京で学生生活を送ることになり、私は「東京の女」になった実感が欲しかった。高校生だった頃は、みなとみらいの焼き鳥ダイニングバーでバイトをしていた。そこは高校生のバイト先にしては洒落たバイト先だったし、比較的時給も良かったけれど、せっかく東京で大学生活を送るからには、高校生ではできなかったことがしたいと思っていた。この1か月ほど後に私とパパ、今なお因縁を残す大喧嘩をすることになるのだが、私の中では、この頃からすでに「パパから自由になりたい」という欲求が芽生えていたのかもしれない。パパの目の届かないこの地で、私は新しい自分を手にいれたかったのである。
思い返せば、高校での3年間は地獄だった。地獄と聞いて想像するのは、煮えたぎった窯に放り投げられもがくようすか、業火に激しく体をあぶられて苦しむ姿かもしれないが、私にとってこの3年の地獄は、真っ暗闇のなにもない空間に、たったひとりで閉じ込められているようなものだった。誰とも心を通わすことも触れ合うこともできず、闇の中でジッとうずくまっているような日々。私は陰気で卑屈で、誰とも交流を築こうとはしなかった。キラキラと輝いている同級生たちを心の中で冷笑し、羨ましい気持ちを打ち明ける勇気もなかった。せっかく話しかけられても気の利いたことが言えず、相手が気にもしていないであろうことをいつまでも悔やんでウジウジと悩んでいた。高校時代の記憶は全く残っていない。もっと積極的に心を開いて、青春というものを謳歌することができていたら、といまだに悔やんでいる。
悔やんでいたのは卒業した直後の私も同じだった。大学では過去の私を知っていた人は誰もいない。ひとり、同級生の男子が同じ大学に進学していたが、学部が違うからもう接することはないだろう。私は大学入学を期に生まれ変わると決意していた。中学の同級生だった引っ込み思案の女の子が、同じ高校に進学してダンス部に入部したとたん、花が咲くように明るくなったのを見ていた。私もここでそうなると決めていた。人と話そう。人と会話をする練習をするのだ。人と会話する練習ができるアルバイトはなにか。水商売である。
早速私はラウンジやクラブの求人を見漁った。5千、6千、高校生の頃では想像できないような高額な自給設定が踊っている。きらびやかな店内の写真が次々と表示されて、まだ私が足を踏み入れたことのないテーマパークのような世界がこんなにもあったのだと興奮した。相変わらず自分の容姿に自信はなかったが、東京のこんな場所に来るような高貴な大人の中には、私のような人間に興味を示してくれる物好きもいるのではないかと希望が湧いた。夜の世界で自分にどのくらいの価値があるか見当もついていなかった私は、今考えれば恥ずかしくなるほどの高級店に面接希望の連絡を送った。奇跡的に返信が来て、後日その店で面接を受けることになった。
六本木駅に着いて大通りに沿って歩き、しばらく進んだ後にちいさな脇道に逸れた。ひっそりとした路地に芸術家が控えめに建てた邸宅のような美しい建物があり、インターホンを押すと目の前の門がひとりでにガチャリと開いた。建物の中には小さな階段だけの薄暗い空間があって、階段を上がった先には白い壁があった。ただの変哲もない壁ではなく、ローマにある真実の口のような、コインのような大きな円がかたどられていたような気がする。戸惑いながら壁とにらめっこしていると、壁だと思っていたものが厳かに横に動き始め、突然目の前にシンデレラ城のダンスホールのような空間が現れた。これが会員制クラブ。天井から地上を覆うような巨大なシャンデリアがぶら下がっていて、私は空間を包むように曲線を伸ばした大きな石造りの階段の上に立っていた。フロアを覆うガラスに自分の姿が映る。一張羅を着てきたはずの自分が一気に野暮ったく見えて、恥ずかしくて帰りたくなった。私を迎えてくれた黒服の男の人は終始感じの良い人で、私にオレンジジュースを出して丁寧に面接してくれた。あまりにも和やかに面接が進んだので、なにも知らない私は帰路につきながら「合格したに違いないと」浮かれていた。当然だが、その後合格の連絡が来ることはなかった。未成年で語学力も教養もない芋娘がいきなり働ける場所ではないのだ。それでも私は身の程を弁えず、同じような高級店に何度か面接に行った。結果はやはり、全て不合格だった。
ようやく冷静になり始めた私は、高級店以外の求人も探し始めた。バイトルを上から下まで延々と掘り続け、ふと私の指は「バニーガール」の文字の上で停止した。バニーガール。存在は知っているけど、実際に見たことはなかった。バニーガール。ピタッとしたボンテージみたいなものを着ていて、お尻が出ている格好なのはなんとなく想像できる。バニーガール。私がバニーガールの服を着たらどんな感じなんだろう。バニーガール、なってみたいかも。バニーガールのコスチュームにも興味があったし、お酒が豊富で知識が身に着くという謳い文句も魅力的だった。それに、冷え性の私には「暖房完備!露出が多くても寒くない!」という一文が決め手になり、数日後に面接を受けることにした。
恵比寿にあるその店はアブサンとウィスキーを専門にしたガールズバーだった。あとからなんとなくわかったことだが、店長はもともと普通のオーセンティックバーを作りたかったのだと思う。バニーは集客のために存在しているに過ぎず、ここで働くバニーたちはそれも理解したうえで「私たちは上等な酒を扱っている」という自負を持っていた。ドリンクを貰った女子のほとんどが爽やかにラフロイグソーダを飲み干すガールズバーが、ここ以外いったいどこにあるだろうか。20歳になるまで、私はそんな先輩バニーたちを横目に見ながらオレンジジュースを啜っていた。面接に行ったとき、店長は私の顔をまじまじと見てから、感心するように「いやぁ、良いとこ取りですねぇ」と言ったのを憶えている。私が探していた高貴な物好きは、ウサギ小屋の主人をしている190センチほどもあるソフトモヒカンの大男だった。縦にもデカいが横にもデカく、丸眼鏡にエプロンをしていてキャラクターとして、あまりにも完成度が高かった。私はその場でスケジュールを聞かれ、バニーガールとして働くことになった。初出勤の日を5月10日に決めたことを今も憶えている。なぜなら、私はその5月10日には出勤することができなかったからだ。私はその日の昼間、パパと警察沙汰の大喧嘩をして顔にいくつもケガをしてしまった。鼻血がついたシャツを着たまま店長に電話をし、泣きながら「ごめんなさい。今日はいけません。でも後日必ず行きます」と言った。なんとなく約束を破るような人間だと思われたくなくて、一生懸命説明した。泣きじゃくる私に電話越しの店長は明らかに困惑していたが、私のケガが治って出勤できるまで待っていると言ってくれた。
はじめてバニーを着た日、更衣室で鏡を見て浮かんだ言葉は「パパママごめんなさい」だった。想像していたよりもハイレグの角度が鋭くて、こんなきわどい衣装を人前で着ると思うと育ててくれた両親へのうしろめたさを感じずにはいられなかった。はじめてお客さんの前に立ったときは、あまりの恥ずかしさに汗が止まらず、話している間ずっと手で股間の部分を隠していた。不思議なことに、そんなことをしていたのは初日だけで、2日目には恥ずかしさはほとんどなくなっていた。
大人の隠れ家「シェルター恵比寿」は、恵比寿駅の西口からしばらく歩いたところにあるビルの地下にある。地下にあるからシェルターという名前なのか。たぶんそうなのだと思う。本当のシェルターとして使えるのではと思えるほどの分厚くて重い扉。力いっぱい引かないと開かないので、営業していないと勘違いして、踵を返してしまうお客さんも多い。店内には20席ほどのL字型のカウンターが、狭くて薄暗い店の中の大部分を占拠するように横たわっている。バニーたちが立つカウンターの後ろには、店長こだわりのウィスキーがびっちりとディスプレイされている。アブサンが並んでいる一角には、真鍮とガラスで作られた高価なアブサンタワーが芸術品のように置かれていた。これらのコレクションを、バニーたちは店長の目が光る中で、最新の注意を払って丁重に扱わなければならなかった。うっかりウィスキーをシングルより多く注いでしまったりすると、店長は低い声で「ふざけんなてめぇ。一杯いくらだと思ってる。」と私たちを叱った。店長はとても口が悪かった。先輩のバニーから「店長の『ふざけんな』と『馬鹿野郎』は、ラッパーの”Hey “とか”Yo”だと思って気にしないこと」と教わった。それでも、叱られることに免疫がなかった私は怒られるたびにメソメソ泣いた。入って早々耐えられずに辞めていく子も多かった。店長は私たちにだけでなく、やってくるお客さんにも厳しかった。ある程度のバカ騒ぎは許す(ガールズバーだから当然だ)が、高い酒を味がわからないくせに大量に飲んだり、常軌を逸した無礼な客がいると、店長は平気で「帰れ」と怒鳴って追い出した。客を選んで育てていく。商売全てに通ずることを、店長から教わった気がする。それにしても言い方がひどすぎるので、ときどき気の強いバニーに叱られたりもしていた。
私がいた約6年間のあいだに、シェルターは3店舗に増えた。店長の肩書はオーナーに変わって、オーナーは新店舗ができるたびにそこへ移動した。私はオーナーの性格をよく理解しているバニーのひとりとして、オーナーと一緒に店舗を渡り歩いた。オーナーを叱れるような屈強な先輩たちは結婚や子育てで次々と卒業していき、いよいよ私が最古参になった。その頃には厳しくしすぎると女の子が定着しないのを察してか、オーナーは本当に少しだけ優しくなったような気がする。3店舗目が軌道に乗り始めた頃には、オーナーは店の日替わりメニューとして手作りのキューバサンドや本格カレーを出し始めた。これが今までに食べたことがないくらいの絶品で、私たちは店締めの作業が終わった明け方、オーナーが山盛り作ったチキンビリヤニをたらふく食べたりした。「おかわりあるぞ。どんどん食え」とぶっきらぼうに言うオーナーも、顔は少しほころんでいるように見えた。
コロナによる非常事態宣言が発表されて、飲食店の自粛が始まった。政府がいうことであっても自分が納得しなければ絶対に従わない、という性格のオーナーは、私たちの生活のために、限界まで店を開けてくれていた。それでも、街に人がいないのだから、店は悲しいくらい静かになった。そんななか、私はコロナに感染してしまった。一緒に暮らしていた祖父母には運良く感染しなかったが、家族から「もう夜の店は辞めろ」と念を押され、私はシェルターを辞める決心をした。
最後の日には、先に卒業していった友達のバニーや、仲良くしてくれた常連のお客さんが来てくれた。嬉しくて早々に酔っぱらって、設置されているカラオケで椎名林檎の「旬」を歌おうとしたけれど、最初の「誰もがわたしを化石にしても 貴方に生かして貰いたい」という一行も歌いきれずに、私はカウンターに突っ伏して大泣きした。マイクを持ったまま「えーん」と大泣きしたせいで、私の泣き声はスピーカーから店内に響き渡った。友達は「人って本当にえーんて泣くんだね」と笑っていた。オーナーは苦笑いしながら「もういいお前は。使い物にならん。着替えて他の店周ってこい。」と言った。私はそのまま酔った勢いで、オーナーに抱きついて、「やだよー、さみしいよー、うえぇーん。」と大声で泣いた。さっきまで「またどうせ出勤するんだろ」と言っていたオーナーも、私が泣きじゃくっているのを見て「本当に辞めるんだな」と理解したようだった。
最後は私の肩を抱いて、「もう帰ってくんじゃねぇぞ」と寂しそうに笑った。
涙が止まらないまま中目黒の街へ飛び出す。餞別に貰ったバニーのカチューシャを頭に乗せたまま、人目も気にせずしゃくりあげながら大通りを走る。どこに行くのかわからない。けれど、なんでもできる気がした。私は東京で自由になった。泣いて走って、そして朝まで飲んで笑っていた。
オーナー、私をバニーにしてくれてありがとう。健康に気をつけて、長生きしてください。お父さん。
「バニーになって人と話せるようになった?」
「バニーを着ているときだけね。」
(了)
伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。